11-4 氷塊




「今井……」


 枕に顔をうずめた。

 右手でベッドを軽く叩いた。

 今日も言葉を交わせなかった。

 2回だけだった。

 休み時間に、アイコンタクトができたのは。

 今井雪と、もう、

 話しかけるきっかけを見失ってしまった。

 

 好きで、好きで、好きで、

 どうしようもなく好きで。

 ぼくの心が、疼く。

 歓喜と焦燥の渦に飲み込まれていく。

 ぼくの胸の、奥深い中心が、疼く。

 今井雪への、募る想いがトリガーとなり、

 心が空虚な感情に支配されていた。

 そしてまた、

 塞いでいたはずの、暗い記憶が浮上してきた。


  あれは遠い日、暑い夏の出来事だった──……




 小学生の頃。

 ぼくには、好きな女の子がいた。

 しろくて、ちいさな女の子だった。

 教室で、その子は、ぼくの前の席に座っていた。

 その女の子の気をひきたくて、悪戯ばかりした。

 後ろから髪の毛を引っぱったり、

 消しゴムのカスを投げたりと。


 授業参観の日のことだった。

 いつものように悪戯をしていたら、

 女の子を本気で泣かせてしまった。

 そしたら授業中、

 教室の後ろにならぶ保護者のなかから、

 ぼくの父が、机の前にやって来た。

 ぼくは、いきなり拳で顔面を殴られた。

 鈍い音が教室に響いた。

 ぼくは鼻血がでて、

 口の中も切り出血が止まらず、

 ティッシュで顔をおさえ泣き続けた。


 辛かったのは痛みではない。

 好きな女の子のまえで、

 クラスのみんなのまえで、

 惨めな自分を晒されたことだった。

 口から滲みでた血の味が、今でも忘れられない。




「令也。

 女の子を守れる、強い男の子になりなさい」



 家に帰ると父から諭された。

 言うとおりだと反省した。

 だけど後に、

 父は外国に転勤して、母と離婚した。

 正確な原因は分からなかったけど、

 言っている事とやっている事がちがう。

 子どもながらに強い憤りを覚えた。


 それから、ぼくの苗字が変わった。


 さらにあの事件のあと、

 クラスでのぼくの立場は急変した。

 それまではリーダー的な存在だったのに、

 友だちも、女の子もはなれて、

 最終的には疎外され、一人ぼっちになった。

 先生も、

 だれも救いの手を差しのべてくれなかった。

 人はこうも豹変するものかと絶望した。

 自業自得の面もあったけど、

 それから本当に苦しい数年間が続いた。

 木造の教室の窓から見えた、

 とんがった屋根と、大きな鐘。

 神聖な物だと教えられてきた。

 けれど、ぼくは絶対に、

 神様を、信じないと胸に誓った。

 一連の出来事から、

 当時のぼくは二つのことを学んだ。

 

 ひとつめは、

 人は基本的に、

 一人ぼっちで、孤独であること。


 ふたつめは、

 力のない弱い者は、

 居場所がなくなるということ。


 氷のような微細な塊が、

 ぼくの胸の中心にうまれた。

 固く冷たい記憶が、

 歳をかさね経験を積むとともに肥大化した。

 胸に鎮座して動かない。


 ──ぼくの中心に氷塊がある。


 人は孤独、冷たく固い、空虚の世界を、

 一人ぼっちで、強く生きていくしかない。

 なにかの折に、

 胸の、見えない傷跡が疼く。












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