8−5 雨と虹



 ポ。    ポ。   ポ。  ポ。  ポ。 ポッ。ポッ。ポッポッポッポッポッポッポッポッポッポッポッポッポッポッポッ。



 音がした。

 ガラスに水滴が張りついてきた。

 今井は窓を開けた、

 ぼくも席を立ち窓辺に寄った。




ザァァァァァァァァァァ─────

───────────────────────────────ッ 




 雨音が大気に響き渡っていた。

 5階の窓から見える風景が綺麗だった。

 みるみるとグラウンドの土が、

 褐色から濃茶に変色していく。

 雨と土の匂いがした。

 夕立ちだ。

 空一面、灰色の雨雲で埋め尽くされていた。

 頭上では雲が速く流れている。



 今井は力なげに、窓から手を伸ばした。

 落ちてくる雫を手のひらで受けとめていた。

 風が立ち、空色のスカーフがめくれた。

 ふわりと今井の黒髪が舞い踊り、

 風の行き先をしめしていく。

 


「上杉くん、

 雨って。なにで、できてるの?」


「は? 水だろ」


「知ってた。

 水って、なにで、できてるの?」


 となりに立つ、今井を見た。

 今井は、濡れた手のひらの上に、

 指先で文字を書いていた。


「酸素と水素。H2O」


 ぼくは普通に答えた。


「知ってた。

 H2Oって、なにで、できてるの?」


「どうせ、知ってた。

 だろ、答えなきゃダメか?」


「ダメ」


 間髪入れず一蹴してきた。

 君はわがままな幼子になった。

 鼻梁がきれいだった。


「はいはい。

 水素原子が2個、酸素原子が1個、

 で構成される分子です」


「知ってた。

 原子って、なにで、できてるの?」


「陽子と中性子と電子」


 君のしろい腕に雨が跳ねる。

 セーラーの袖口のカフス、

 空色が濡れて、青色に滲んでいく。


「知ってた。

 それって、なにで、できてるの?」


「素粒子」


 会議室、窓辺にならび、雨模様を眺めながら、

 ぼくは今井の会話に付き合った。



「知ってた。

 それって、オークなんだよね?」


「クォークな。

 オークは、架空の世界に住む

 邪悪な生き物だから」


 さらさらと君の前髪が、

 しろい額の上で踊っていた。


「知ってた。知ってた。

 クォークって、どれくらいの大きさ?」


「そうだな、1千京分の1メートル。

 あたりだったかな」


 あやふやだったけど、ぼくは答えた。


「わかんないけど、知ってた。

 小人が見ても

『ちっちぇーよ!』

 って叫び、腰をぬかしそう」


 今井が言った。

 小人が陰気なダミ声で気味悪かった。


「小人にも見えないぞ。

 電子顕微鏡じゃないと」


 風に吹かれて、

 君の長いまつ毛が細かく震えていた。

 ぼくは、

 君の瞳の複雑さを観察していた。


「知ってた。知ってた。

 すべての物は、

 いっぱいの素粒子で、

 できてるんだよね?」


 君は右に振りむき、

 ぼくたちは顔を突き合わせた。

 左、40センチ、

 距離の近さに反応して、

 ぼくの心臓が速く動きだす。


「そうだな」


「じゃあ。

 電子顕微鏡で作った、メガネをかけて、

 街を歩いたらどうなるの?」


 親指と人差し指を眼鏡の形にして、

 ちいさな顔にくっつけた。

 それから今井は、

 眼前の景色を右から左に一望していた。

 雨に濡れた街並みは

 彩度が上がり色濃く鮮やかだった。


「電子顕微鏡のメガネをかけて、

 街を歩く、と仮定する」


 ぼくは話し続けた。


「おそらく、

 粒が浮遊しているだけだから、

 空間として認知できない。

 だから、歩いたら、転ぶだろうな」


 パッとひらめいた顔になり、

 ゆめみるような瞳で、君は言った。



「みーんな、ただの、つぶつぶ。

 つぶつぶ、なんでしょう?」


「まあな。すべての物質は、素粒子だから」


「やっぱり、やっぱり、

 この世界も、ファンタジーだね」


 ワクワクした声色だった。

 今井は窓枠をつかみ、頭を外に出した。


「そうか?」


 言っている意味がわからず、ぼくは尋ねた。



「そうよ、だって不思議だもん。

 つぶつぶ世界が、

 こんなに、キレイだなんて」


 腕を外に伸ばして、今井は街の風景を眺めた。

 しろい手にはじけて飛散していく雫、

 ビーズになって、

 長い黒髪をきらびやかに飾っていた。

 君は、きらきらしていた。



「まあ、君の性格が、

 一番、ファンタジーだけど」


 ぼくがそう言うと、

 クスッと君は笑った。

 はじめてみせる、

 新しい笑顔におもえた。

 












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