3時間と3000マイル
二六イサカ
3時間と3000マイル
受話器をつかんだ時、青年は脇腹に僅かばかりの痛みを覚えた。つかんだまま、痛みが引くまでしばらくそうしてから、受話器を取り上げた。こそばゆい振動と共に、嗄れた年配の女の声がした。
「
「ニューヨーク」
「少々お待ち下さい」
少しして、今度は若い女の声がした。
「代わりました、番号をどうぞ」
青年は片っ端から、思いつく限りの番号を言った。どれも繋がらなかった。
「どうして繋がらないんだい?」
「分かりません。番号に間違いはありませんか」
「間違いはないはずだよ。でもまあ、いいよ。きっと皆、バカンスなんだ。仕方ない」
「他に何もございませんでしたら」
「待ってよ、ねえ待って。そっちは今何時?」
「こちらは8時です」
「そうかい。こっちは今5時だよ。僕はカリフォルニアから電話をかけてるんだ。ねえ、知ってるかい?フレズノって街なんだけどさ」
「お客様、他に何もございませんでしたら、もう電話をお切りしますが」
「待ってくれ、頼む。ほんのちょっとでいいんだよ。ねえ、君の名前は何て言うんだい?」
「はい?」
「名前だよ。デボラとか、オリヴィアとか」
「あなた、酔ってるの?」
「酔ってるもんか。気休めで聞いてるんじゃないよ。ただ、君の名前が知りたいんだ」
「仕事中なの、やめて下さい」
「ねえ、頼むよ。お願いだ」
少しの間があって
「ベティよ」
「ベティ!」
青年は目を瞑り、この世で最も美しいと思われる響きに酔いしれた。
「とってもいい名前だよ。とっても」
「ありがとう」
「本当だよ。デボラとかオリヴィアよりもずっと良い」
「ありがとう、これで満足?」
「待ってよ。もうちょっとだけ頼むよ。ねえ、顔はどんな感じ?髪の色は?」
「ねえ、あなたやっぱり酔ってるんでしょう」
「頼む、電話を切らないでくれ。でも、確かに酔ってはいるよ。君に酔ってるんだ」
受話器の向こうから、魅力的な忍び笑いが聞こえてきた。青年は受話器を持っていない片方の手で額に浮かんだ汗を拭き取ると、3000マイルの彼方にいる電話口の相手に向かって微笑んだ。
「あなた、変態なの?そんなことを聞いてどうするのよ」
「やめてくれよ。僕はただ、己の欲望のために聞いてるんじゃないんだよ。もっと崇高な目的があるんだ」
「どういう意味?」
「なんて言えばいいか。僕は、君を道しるべにしたいんだ。道に迷わないための標識とか、港に着くための灯台の明かりみたいな」
「どういう意味?よく分からないわ」
「つまりだよ。僕はこれからそっちに行くんだ。気取った、東部にね。それで、その時に道に迷わないように、目印がいるんだよ」
「それが私なの?」
「そうだよ。僕は夜闇を手探りで歩く旅人で、君は太陽だよ。所で、君って赤毛かい?」
「残念ね、栗毛よ」
「残念なもんか!素敵だよ。それで、どんな髪型?長い、短い?毛先は真っ直ぐ、曲がってる?眼の色は?鼻は?口は?」
「髪は首元まで、毛先は嫌になるぐらい真っ直ぐよ。眼は青。鼻は、小さい頃に洗濯バサミで挟んだ甲斐あって、普通。口は、毎朝鏡を見る度に、もっと小さければいいと思うけど、まあ悪くないと思うわ」
「体型はどんな感じ?背は高い?」
「背はそこまで低くないわ。体型は、どうだろう、努力はしてるわ。根掘り葉掘り聞いて、満足?」
「ああ、ありがとう。瞼の裏に君の姿が浮かぶようだよ」
「もしかして、こっちに来た時、私に会いに来るつもり?」
「良いね。一緒にヴォードヴィルを観て、セントラルパークを歩いて、コニーアイランドでピクニックをしようよ」
「呆れた。やっぱり酔ってるんでしょう?」
「酔ってないよ。別に、住所や電話番号を教えてなんて野暮なことは言わない」
「じゃあ、どうやって会うのよ」
「会えるよ。必ず、僕が君を探し出して会うんだ」
「馬鹿みたい」
「マジだよ。そのために、君の事を色々と聞いたんだ」
「栗毛のベティなんて、ニューヨークにはごまんといるわよ」
「ただの栗毛のベティならね。でも、僕の栗毛のベティは違うよ」
不意に、女の声がしなくなった。青年は焦って電話機を叩いたが、それでも聞こえなかったので、諦めて受話器を置こうとした。そのとき、微かに女の声が聞こえたので、慌てて受話器を耳に当てた。
「どうしたんだい?切らないでくれ、頼むよ。気に触ったなら謝るよ、ごめん」
「そうじゃないの。上司が傍を通ったのよ。いけ好かないやつよ。仕事をサボってるのをバレたくなかったの」
「君は仕事をサボってなんかいないよ。そんな奴、君の意識を向けるのに値しないよ」
「ふふふ」と女の笑い声がしたので、青年も負けじと「あはは」と笑った。
「それで、あなたの名前は何て言うの」
「アーチー」
「アーチー?それ、本名なの?」
「そうだよ」
「それで、名前の他は?髪は何色?顔はハンサム?背は高いの?車は持ってる?」
「ベティ、僕はアーチーだよ。それが僕の全てだよ」
「名前の他は明かせないってこと?」
「うん」
「それじゃ、不公平じゃない。言っておくけど、私が言ったことは全て真実よ」
「知ってるよ、僕は君を信じてる」
「でも、あなたは嘘つきでしょ。きっと名前だって偽名よ」
「僕は、アーチーだよ。アーチー・アダムって言うんだ。嘘じゃないよ」
「じゃあ、名前以外も言えるはずでしょ。幽霊じゃあるまいし」
「ごめんよ、ベティ。でもこれだけは言えるよ。ねえベティ、僕は君を愛しているよ」
少しして、ベティは言った。
「やっぱり酔ってるわ」
「酔ってないよ。本気さ。僕は君を愛してる。誓って」
「もう切るわよ」
「待ってよ、お願い。ねえ、もう一度だけ、もう一度だけ、最初にいった電話番号に掛けてくれないかい。それが済んだら、もう電話を切るよ」
だがやはり、電話は繋がらなかった。
「アーチー、やっぱり駄目だわ」
「オーケー。やっぱり、皆バカンスだよ」
「じゃあ、もう切るわね」
「待って、最後に言わせてくれ。僕はきっとニューヨークに行くよ。そしたら、絶対に君を見つけて会いに行くよ」
「どうかしら。来週には髪を染めて、パーマを掛けようと思ってるの」
「構わないさ。それでも、僕は君を見つける。だって、もう僕は君を知ってしまったんだから。必ず、会いに行くよ。ねえベティ、愛してるよ。嘘じゃない」
青年は受話器を元に戻すと、胸ポケットから煙草を取り出し、その中の一本に、震える手で火を付けた。
煙を吸い込み、吐くと、残った気力も全て吐き出してしまったかのように、狭い電話ボックスのガラス壁に凭れたまま、ズルズルと地面に腰を下ろした。
煙草を口に咥えたまま、刺された脇腹を触ると、手にべっとりと赤いものがついた。青年は眼を閉じ、3時間と3000マイル先にいるベティの姿を思い浮かべた。
(ベティ、俺のベティ。夜ごと踊って、夜ごと笑い合う。俺がこの地上に残した、最後の印。君は俺の天使さ。本当に愛してる、嘘じゃない。この気持だけを、俺はあの世に持っていく。他はなんにもいらないんだ)
青年は煙草を手で挟んで口から離すと、最後に大きく息を吐いた。途端、バタリと煙草を持った手が地面に落ち、灰が雪のように地面に降り注いだ。
3時間と3000マイル 二六イサカ @Fresno1908
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