蓮の葉

北緒りお

蓮の葉

 水たまりの中に取り残された。

 何の偶然なのか、水から顔を出した蓮(はす)の葉の上にできた水たまりの中に一人でいたのだった。

 不幸中の幸いと言っていいのか、体がすっぽりと隠れて、中で体の向きを変えたりもできる。もし、この中にもう一匹いて追いかけっこでもしようものなら狭くてどうにもならないのだけれども、自分一匹でじっとしている分には苦しくもならず、居続けることはできそうだ。

 葉の上にできている水たまりは、ときどき池の中の落ちてくる青い柿の実と同じぐらいだろうか。水たまりというのには、高さがある分、水でできた果物のような感じもする。

 ほんの少しだけだが泳げるのもあり、胸鰭(むなびれ)を動かして、体をあちこちに向けてあたりを伺う。

 いつもは水の中から見上げている蓮の花や草木を横に見え、新鮮であると同時に、なにやら腹の奥が落ち着かないような気持ちがする。

 まだ太陽が出ていくらもたっていない時間なのもあり、世の中の皆が寝ぼけているように見える。

 まだ花開いていなかった蓮のつぼみは、なにやらけだるそうにほどけていき、大きな花弁(はなびら)に耐えきれなかったのか、バサリと音を立てて広がる。

 水の中にいるときは、花が広がった振動で茎がふるえるのはよく聞いていたが、それを間近で見るとなると迫力が違った。水に落ちてくる蓮の花の力のない色ではなく、まるで真夏の太陽がすぐそばにあるかのような鮮やかで明るい、けれどもギラギラしていない柔らかな色がすぐそばにある。

 曇天の空は機嫌が悪そうに薄明かりだけを葉の上に落としている。ときどき、霧が舞うような頼りない雨が降り、そのおかげでこの水たまりは乾くこともなく、けれども雨水で溢れるわけでもなく、ぽつぽつと当たる水滴の音だけを静かに感じさせながら、なにもない時間が過ぎていく。

 太陽はすでにてっぺんを通りすぎている。だが、空は薄暗く、自分の背に当たる明かりの感じから、沈んでいく時間になったのだと思っている。水の中にいた頃ならば、こんな水面にずっといることは怖くてできない。

 鳥の餌食になったらそれで終わりだ。葉の上の水たまりでは深く潜られるところもないので、ただただ静かに息をして、動かないようにしているしかない。雲も流れはない深く濁った空になり、こんな状況で運はメダカに味方に付いてくれているのか、鳥の影もなく、さりとて、ほかに動きもなにもなく、静かに蓮の葉をふわりと押す風とはっきりしない雨があるだけなのだった。

 風が吹くとほんの少しだが、この水の繭(まゆ)も一緒に揺れ、ほんの少し、葉の上でその珠の形が崩れ、軟体動物みたいにのびる。けれども、伸びた形は、なにか自意識を取り戻したかのようにすぐに形を取り戻し、元の珠の宮殿となるのだった。

 葉の上は薄曇りと霧雨のおかげで暑くも寒くもないちょうど良い具合であることに驚いた。水の中にいるときは、太陽が出ても水の表面だけが少し暖まるだけで、底の方に泳いでいくと全身が縮みそうなぐらいに水が冷たいことがある。

 葉の上ではそれがなく、狭い水の宮殿は少しの日の光でも暖かくなる。

 暖かくなると体中が伸び伸びと動くようになり、自然と腹も減り、食べものを探して泳ぎ回りたくなるのだった。

 ここは泳ぎ回るのにはあまりにも狭く、食べものになりそうな物もほぼなにもない。

 池の中にいたからと言って、毎日食べものがあるわけでもないのだけれども、食べられる物がほとんどないところに比べれば、泥をついばみ、目で見えるかどうかの小さな虫を食べられるだけましだった。

 体一つでいるだけならば十分な水の量だが、このなかで一匹のメダカが生きていこうというのは無理な話だ。

 今日一日は問題ないだろうが、明日になれば干からびてしまうかもしれない。天気が悪いからか鳥も見あたらないが、鳥に見つかったら逃げるところなどありはしない。

 葉の上はいままで見たことがないくらいに美しいところだが、ここでずっと生きていくのはできないところでもある。

 メダカ同士は水の中で追いかけっこをするのが日常だ。瞬発力も少しは自信があり、水面からはねる力だって少しはある。勢いよくこの水の密室から飛び出せば池に戻れるかもしれない。

 それにしても、この葉は広い。その真ん中の一番低いところに水の牢獄があるのだから、ちょっとやそっとで抜け出せはしない。

 蓮の葉の上は、水の中から触れているところを見ると、メダカの鰭みたいに輝いて見えるが、水の壁のぎりぎりまで近づいて、よく見てみると、ほかの草や木々の葉っぱのような色をしているが、表面はまるで水の中でみる苔のように細かい毛が生えている。そこに雨粒が落ちると、あるで水が体をこわばらせて葉の上に広がらないようにしているかのように珠になる。細かい雨が降り続き、辺り一面が雨の珠で敷き詰められ、珠ができあがる隙間がなくなると、その中のいくつかがくっつき、流れ、一番のくぼみにある水の宮殿にぶつかり、水面の壁が一瞬ふるえたかと思うと、流れてきた水滴は一つになり宮殿に飲み込まれる。そのたびに新鮮か水が入ってくる。

 少しの雨の珠でも、そこに飛び出していけば、葉の外にでられるかもしれない。

 池の中で仲間と追いかけっこをしていて、上へ下へと泳いでいるうちに勢いづいて水面に飛び出すことが何度かあった。その要領で思いっ切り勢いをつけると外に飛び出すことは知っているのだが、この狭い水の密室の中でどうやって勢いを付けるかが悩みどころだ。

 自分の体をまっすぐにのばす、勢いを付けられるのは体の半分もないぐらいで、感覚としては頭一つ分ぐらいの余裕しかないような所だ。

 水の壁は柔らかそうに見えて、水の中に入っものを外に逃がさないという意志があるのかと思えるほど、粘りのある力で水の中に引き込んでくる。

 目の前にある水の壁際まで泳いでいき、口の先で少しつついてみる。

 ふつうに泳いでいるような力だと、口の先が少しでも水の壁から出て行こうとすると、なにか柔らかく力強いもので押し戻され、水の外にでることができない。

 この水の宮殿が崩れずに葉の上で揺れ続けているのは、その力が上と言わず下と言わず、すべての方向から水を支え、そして形作っている。水の形を崩さないように見えない力が支え、そしてその力で外にでようとすると押し戻される。

 全力で目の前に広がる水の壁に体当たりをすればいけるかもしれないと考えた。

 できるだけ葉の幅が狭いところをめがけ体当たりをする。水の部屋の反対側の壁ぎりぎりまで下がり、そして、勢いを付けてでようとしている方向の壁に体当たりする。

 一回目は、水の壁に押し戻されてあっけなく終わる。

 二回目、水の壁をねじ曲げて、鰭の所まで膨らませることができた。

 そして、三度め。

 外に出た。

 出ると言うよりは、まとわりつく水の幕を振り払うように水の外に飛び出したような感じだ。

 勢いよく出たまではいいが、蓮の葉の上に散らばる水滴が集まり、小さな水の実ができる。その水が体を覆い、また押さえつけられる。

 体のすべてを押さえつけられ、それこそ鰭(ひれ)も動かすこともできなければ、鰓(えら)だって押さえつけられているから開かない。いくら口をぱくぱくやったところで水の量だって対してないものだから苦しいことこの上ない。

 とにかく体をめいいっぱ動かしてみる。尾鰭(おびれ)をばたつかせるために尻尾に力を入れ、体を動かす。

 動かす、というよりは、暴れているというのに近いかもしれない。

 動かせるところをすべて動かし、とにかく、葉の外にでるか、くぼみに貯まっている水の中に戻るかのどちらかをしないと干からびてしまう。

 水の珠から出たとたんに苦しくなるとは思わなかった。

 池の中で追いかけっこをしているときの尾鰭の力の入れ方よりも、もっと強く、鱗がはがれてしまうのではないかというぐらいに強く動かす。

 葉全体が激しく揺れ、水滴は集まりそのほとんどは、さっきまで閉じこめられていた水の牢獄に吸い込まれていく。

 いくらか水が足されて、その体が大きくなったからなのか、水の壁の揺れはいささかゆっくりとなり、全体がゆっくりと揺れているかのように見えた。

 蓮の葉の揺れと、尾鰭で葉をたたく振動が何かの偶然で重なり、大きく葉の表面が揺れる。その瞬間、水の宮殿は体をつつむわずかな水の幕を見つけたかのように吸い込み、またさっきのように水の中に閉じこめられたのだった。

 息は楽にできるが、このまま過ごすのには心許ない。

 それからというもの、何度か水の牢獄から脱出しようとしては戻され、外に出られたと思ったら葉の上から池にいけず、体を動かして葉ごと揺らし水の牢獄に吸い込まれるというのを繰り返したのだった。

 日は傾き、細かな雨が水の宮殿と葉の上に落ちる。

 夜になり、蛙の鳴き声しか聞こえなくなる。

 月の明かりがあっても良さそうだが、それも雨と雲が覆い隠してしまっているのか、うっすらと明るいような気がするがほぼ闇の中だ。

 朝になる。

 小雨は止んだが、薄暗いような気がする。

 陽の明かりで水が暖まらないと体がこわばったように動かない。

 少し暖まってきたところで、何の気もなしに上を見上げる。

 ちょうど、蓮の葉に触れるようにして蓮の花のつぼみがあった。

 夜のうちに延びてきたのか、それともいままで気付かないでいたのか。

 水の牢獄からのぞくそのつぼみは、真横にあり、その大きさに目を奪われ、なにがあるというわけでもないのに見続けてしまうのだった。

 朝の空気はだんだんと夜の気配を消していき、スズメや鳥がどこかで鳴き始める。

 つい見とれていた蓮のつぼみは、ゆっくりと花を開こうとしている。

 堅く締まっていた花がゆるみ、少しほどけたかと思うと、そのまま、音を立てて一気に開いた。

 花びらは勢いよく蓮の葉にぶつかる。

 その勢いで蓮の葉の上にあった水の宮殿は激しく揺れ動かされ、形を失い、水平だった蓮の葉はその均衡すら失い、葉の上にあったすべてを池の中に落とした。

 そのおかげで池の中に戻れたのだった。

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蓮の葉 北緒りお @kitaorio

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