エピソード十

 もしかすると、君達には僕が何をしようとしているのかよくわからないかもしれない。けれど、少し考えて欲しい。実質的に僕に出来ることなんて高が知れているし、僕がしたいことなんて本当に限られている。真実ちゃんと別れて冴里を選んだ以上、僕の目標は、冴里を円環から逃がすことだけだ。それも、過去を改変することなしに。そのためを思えば、どんな努力すら厭う気はなかった。

 具体的には何をしようとしているのか。……実に地味な話だけれど、過去を変えないために小さな伏線を拾っていく作業だ。一人きりの時は杜撰に考えていた分、重要なこの局面においては慎重を期する必要がある。何しろ、ただでさえ平行世界に紛れ込んでいるのだから、これ以上の致命的な分岐は是が非でも避けたかった。

 というわけで僕は、遊園地からボディーガードの冴里と一緒に洋上に逃げた僕を追いかけていたのだ。過去の僕がクルーザーの船室で眠りこけていた空白の時間に、彼らを被写体にして二枚の写真を撮らなければならない。僕が恐れた謎の第四の人物を、自ら演じなければならない。さらに、二人の意識の空白を埋めるために、精神だけのタイムスリップで当時の自分の体に潜り込む必要もあったが、こればかりは自分でどうすることも出来ない。いつか、都合の良い機会に起こってくれることを願うしかなかった。

 道々、旅の初心者である冴里に、僕の冒険の概要を話して聞かせた。本人が望まない限りは、必要な点以外詳細を隠した。冴里は、自分の未来を先取りして知ってしまうことをあまり快く思っていなかった節があるので、最低限の心配りだった。僕のボディーガードだった頃の冴里を思い返してみても、未来の僕からそれほど多くを聞いていた風でなかったような気がしたので、問題はないだろう。

 とはいえ、知っている知識を知らない振りで誤魔化すことは出来るが、その逆は出来ない。冴里が自分の未来に関してどんなことを知っていたか思い出しながら、情報の欠落のないように努める。

「でもちょっと待って。あなたの話を聞く限り、これから私達が追いかけるせいで、未来の私は海の上を漂流する羽目になるのよね? どうしてそんな不合理なことをするの?」

「敵だからだよ」

「誰が」

「僕達が」

「……誰の」

「過去の僕達、つまり、未来の君達の」

 これが答えだった。過去の僕を困惑させ続けていたのは、皮肉なことに未来の僕の辻褄合わせの措置そのものだったのだ。予言の自己実現にも似た、あまり愉快でない結論だったけれど、目的のために選べるほど、僕には多くの手段が用意されていないのだ。

「そんな馬鹿な話ってある? 我が身可愛さで言ってるんじゃないけど、海の真ん中にボート一つで放り出すなんて、正気の沙汰じゃないわよ」

「僕だって出来ればやりたくない。だけど、これが必要なことなんだ。僕は君を解放してやれる」

「言いたいことはわかってるわ。本当にタイムスリップのタイミングが二人で完璧に同期するというなら、それだけであなたに付いて行く価値はある。本当だとすれば、ね」

「実際にタイムスリップが起こるまで半信半疑なのも無理はない。お互いに接近遭遇したこと自体が引き金となって、二人の時間旅行体質の間で干渉が起こった、という尤もらしい説明で納得してくれるかな?」

「……原理はわからないけど、ありそうな話ではあるわね」

「君はこれまでの人生で、生年から前後五年という狭い幅でのタイムスリップを繰り返し続けている。だから軸となる時間流を持つ僕と同調することで、狭苦しい時の牢獄の中から抜け出したい。合ってる?」

「修辞的な表現は鼻に付くけど、大体その通りね。それって、このままあなたと暮らすだけじゃ駄目なの? わざわざ漂流なんてしなくてもいいんじゃないの」

 ある意味で、僕が冴里をボディーガードとして送り出そうとしていた時の思考と一緒だった。だから、理解出来ない考えではない。

「過去へのタイムスリップが起こった場合、君は歴史を狂わせないように注意するって確か言ってたよね?」

「……あなたに言った憶えはないけど、そうね」

「突き詰めれば、それが君の疑問への答えだと言えなくもない。その姿勢が一番正しかったんだ。僕らのちっぽけな思惑や、小手先だけの辻褄合わせ、悪戯心から来る過去の改竄、それら全てを飲み込んで、なお悠然と立ち現れるのが世界の姿なんだ。何をしても無駄であり、かつ、全ての行動に意義がある。歴史の整合性に注意を払えば世界は綺麗な形で僕達を迎え、何もしなければ矛盾だらけで襲い掛かる。どちらにしても、自分で観測出来る世界は一つしかない。逆に言えば、自分にとって綺麗な世界も見えないところで矛盾だらけになっているかもしれないし、自分にとって矛盾だらけの世界は他の皆に対しての完全な整合性を保証しているかもしれない」

「それ、辻褄合わせなんてどうでもいい、って言い草に聞こえるけど?」

「違うよ。客観的に正しい世界なんてどうやっても作れないんだから、せめて自分達にとって矛盾の無いすっきりした世界を構築すべき、ってのが結論だ。タイムスリップ関係の齟齬で一番割を食うのは、それを目の当たりにする僕達なんだからね」

「……どうも、煙に巻かれたような気がしないでもないけど、要するに『僕のために言うこと聞きなさい』って言いたいわけね。過去と未来が食い違うのは気持ち悪いから」

 不愉快だという感情論で済ませられればまだ良い方だ。主観的に体験出来る世界が一つしかないというのは、取りも直さず『やり直しが利かない』ということだ。

 時間の巻き戻しや過去へのタイムスリップなどが起これば、以前に犯した失敗を取り返せるのではないか。その認識は、殆ど誤解だ。僕の時間移動が任意で行えないという事情もさることながら、仮に失敗を取り返したところで、僕の記憶の中からそれが消えてしまうわけではない。ありうべき選択肢の一つとして観測不能な平行世界の中に溶けてしまうだけで、無に帰したわけではない。普段意識していないだけで、地球のどこかでは常に小さな子供が飢え死にしている。それと同じことだ。見えないのは目を逸らしているからに過ぎず、事実を抹消することは出来ない。

 他の誰もが知らないとしても、僕だけは寄り道した世界を覚えている。これは、やり直しなんかじゃない。僕にとってみても、人生が一度きりという事実に変わりはない。無頓着に、齟齬や矛盾を抱えていくほどに、誰も知らないところで孤立が進んでいく。行き着く先にハッピーエンドが待っているとは、到底思えない。

 追い詰められて自壊しないためには、因果の整合性が保たれることを『当たり前』だと思える日常を送るべきなのだ。

 如何なる運命が自分を待ち構えていたとしても、回避せずに正面から受け止める。一見馬鹿正直で大変そうだけれど、これが一番賢いやり方だった。

「そう捉えてくれても構わないよ。ついでに、『僕のために僕を愛しなさい』ってのもあるけど、これはどう?」

「……あなたの過去で、私があなたを愛していたから?」

「ううん。僕が君を好きだから」

「……零点ね」

「そりゃ手厳しい」

「あら、採点は零点からの減点方式なのに」

 からかうように言う冴里の表情から、ようやく警戒が消えた気がした。僕の気分の問題かもしれないけれど、気のおけない仲になると、彼女の目元からは険しさが取れる。これで一歩前進だ。

 駅前の地図を見て、徒歩で一番近い海岸まで出た。予想通りというべきか否か、そこには携帯用ランプを振って僕達に合図を送る奇妙な集団がいた。近付いてみると、一隻の高速艇を囲んでざわついている。僕達の姿を見ると、歓声が上がった。

 船の中には何やら無線でやり取りをしている男の姿があった。どうも、僕達の到着を誰かに知らせているらしい。周囲の野次馬達はカメラ付きの携帯電話で一頻り僕達の写真を撮っていたが、冴里が不機嫌そうに睨みを利かせると渋々引き下がった。

 代表者らしき年配の男性が、人ごみを掻き分けながらぺこぺこと低頭しつつ現れた。

「お疲れ様です。挨拶もそこそこに申し訳ありませんが、時間がないので急いで下さい。限界まで飛ばしてもらいますが、間に合うかどうか保証出来ません」

「わかりました。ご協力感謝します。このお礼はいつか必ず」

「いえいえ。もう戴いておりますから」

 ツーカーのやり取りで難なく海上の足を手に入れられたことで、僕は自分が正しい道を進んでいることを確信した。この協力の背景に何があるのか考えるのは後だ。突然の展開に目を白黒させている冴里を引き摺って高速艇に乗り込み、早速出発する。

「お二人とも、出来るだけ喋らない方が良いですよ。舌を噛みますから」

 僕は操縦士の言葉を無視して冴里と会話を続け、本当に舌を噛んだ。しかも三回も。好きでそうしたのではなくて、彼女に説明しなければならないことが山ほどあったことが原因だ。

 一通り説明が終わった後は雑談が始まったが、この頃には船の揺れに体が慣れていた。

「ねえ、今、万が一私達が別の時間にタイムスリップしたら、どうなるのかしら? 猛スピードで未来の海の中に投げ出されるの?」

「身の回りの物も一緒に時間の波を越えるから、船ごと移動出来るんじゃないかな」

「でも、他の人間は一緒に飛べないんでしょ? 操縦士さんだけ海の上に取り残されることにならない?」

「なるかも」

「それって死なない?」

「死ぬかも」

「ちょっと、勘弁して下さいよ!」

「いや、真面目な話、そんなことは起こらないと思う。加速度を共有している他人が一人でもいる場合は肉体を伴ったタイムスリップが起こらない、とか、そういう決まり事がありそうな気がする」

 何しろ僕は生まれてこのかた、同乗中の自家用車からタイムスリップによって放り出されたことなどないし、もしもそれに近しいことが起こっていたらとっくに死んでいただろう。

 時間移動体質は生きるのに不便であるが、本当の意味での致命的状況を避けるくらいの分別は持ち合わせている……らしかった。

 冴里はしばらく考えた末にぽつりと漏らす。

「私達の地球が常に自転と公転をしているってことをお忘れなく。私達の時間跳躍は常に、数十億の同乗者を無視して行われているのよ」

 そんなことを細かく議論していても埒が明かない気がして、僕は早々に反駁を諦めた。聞こえなかった振りだ。

 この高速艇を駆り出すまでの経緯を操縦士に尋ねたところ、遊園地のゲート居残り組のリーダーだった従業員大和田から携帯電話で連絡を受け、仕事を早退して駆けつけたとのこと。訊けば、勤務地も住所も首都近郊であり、この地には特に何の繋がりもないという。

「この日のために、わざわざ遊園地の近場にガレージ借りて船置いといたんですよ」

 いくらなんでもやり過ぎな気がしたが、誰あろう僕のためにしてくれているのだから文句の言いようもない。

「でも競争率が高くて冷や冷やしました。無線やGPSの機能が充実していて、尚且つ一番速かったから私のが選ばれましたけど、危うく無駄骨を折るとこでしたね」

「協力者同士、連帯感は無いの?」

「無いことはないですが、基本的には皆自分のことしか考えてないですよ。良きライバル、といったところですか」

「つまり君は勝ち組というわけだ」

「まあ、そうですけど、一番の勝ち組は町長だと思いますよ」

「町長って?」

「さっきあなたと挨拶してた方です。テーマパークの誘致から始まって、町興しに随分と力を入れていましたからね。あなたが本当に来訪したことで、便乗商法という汚名を漱ぎ、元祖という確固たる地位を確立しました」

「あー、まさかとは思ったけど、そんなところまで僕の影響が及んでいたのか」

「……あまり驚きませんね」

「まあ、基本的に、この世のあらゆる事柄の裏には未来の僕が関わってると思いながら暮らしてきたからね」

 ふと、漂流中にもこのような科白を冴里の前で口走ったことを思い出した。そして、以前に聞いたことがある、と指摘されたことも。

 無意識的にも因果は繋がるのかもしれない。

 あるいは、この操縦士が上手く会話を導いてくれたか、だ。

 カマをかけるように、

「ありがとう」

 と、一見脈絡無く言ってみた。操縦士は僕の言葉を聞いて、にやりと不敵に笑う。会心の笑顔に、自分の想像が当たったことを知った。

 星屑をばら撒いたような海沿いの町の明かりを左手に見ながら、洋上の暗闇を切り開くように波を蹴立てて疾走すること数十分。前方に小さな灯りが見えてきた。見紛うことなく、それは僕達が外洋に出たクルーザーのものだ。モーターを停止し、ただ波に身を委ねて浮かんでいる。

 操縦士が無線機で目的船舶の視認を報告している。相手は当の伊地知であり、向こうもこちらを捕捉したとのことだ。追跡者である今の僕達と、逃亡者の導き手であるはずの伊地知の間に端から話が付いているなんて、考えようによっては最低の裏切り行為みたいだが、今回ばかりはそうも言っていられない。

 僕は思わず目を丸くしてしまった。クルーザーのデッキの上に、おーい、おーい、などと間抜けた大声を上げながら両腕をぶんぶんと振っている二人の人影があったからだ。

 ……誰あろう、過去の僕とボディーガードの冴里である。この時間、意識を失っていたはずの僕達の中には、随分と乗りの良い僕達が入っているらしい。当の逃亡者であるこの二人までがグルで、追跡者を心から歓迎しているのだから、やってられない。必死の逃亡を試みていた昔の僕だけが完全に馬鹿を見た形だ。

「本当に私達が一緒に旅をしてるのね。でも、私のあの闇夜の鴉みたいな格好は何?」

「あれ、私物じゃないの?」

「持ってないわよ。喪服じゃあるまいし」

「似合うと思うけどな」

 接舷するや否や、オールバックじゃない僕が、どうもどうもとへらへら笑いながら近付いて来た。

「なんか、初々しい二人を見てるとこっちが恥ずかしくなるよ。何、その距離感?」

「五月蝿いな。そっちこそ、外見は過去の僕なのに中身は未来の僕なんて、全く最悪だよ。君らは一体いつの僕達なんだ?」

「秘密さ。何しろ僕の時も教えてもらってないからね。ただし、冒険の全行程が終わってしばらく経って、完璧に油断していた時だとだけ言っておく」

「そんなこと言われたら油断出来ないじゃないか」

「大丈夫。私達もそうやって愚痴りながら生活してきたから」

「ほらほら、無駄口を叩く前にやることを済ませよう」

 もう一人の僕は、デジカメを放り投げてきた。

「僕の時計によると、最初の写真を撮る二十時四十八分まではあと七分だ」

「三人で写ってるやつだっけ?」

「そう。小向さん、ちょっと船動かして、こっちに回り込んでくれない?」

 小向? 誰だ? と思っていると、高速艇の操縦士が「了解」と艇をゆっくり動かし始めたので、どうやら彼の名前らしかった。

「ちょっと待って。何でこっちの操縦士さんの名前知ってるの? 僕が訊いた憶えはないのに」

「何言ってんだ。今、僕の口から聞いただろう」

「いや、だから、その君はどうやって知ったんだよ?」

「今、僕の口から聞いたって言ったばかりじゃないか。オールバックで頭の回転が鈍ったか?」

「辻褄合わせてる最中に、そんな、蛇が自分の尻尾を飲み込んでいくような知識があっていいわけ?」

「いいに決まってるだろう」

 向こうの操舵室から出て来た伊地知さんが、苦笑しながら割って入った。

「ご安心を。先ほど私が無線相手の名前を教えたから知っているだけですよ」

「……なんだ、そうか」

 ほっと胸を撫で下ろす。隣の、ロングスカートの方の冴里がそんな僕を見て言った。

「子供の頃、私に勉強を教えてくれたのは未来の私だったけど、それも変なのかしら」

「そう言えば、そんなことも言ってたね。結局、卵が先か鶏が先か、みたいな不毛な話なのかもしれないな」

『……最悪の纏め方ね』

 黒尽くめの冴里が声を合わせてきたので、その感想は二重に聞こえた。ロングスカートの冴里はぎょっとしたように相手を見ていたが、憤然とした顔で口を噤んでしまった。

 伊地知を含めた三人が舳先に一列に並ぶ。重要な写真であることを理解しているらしい伊地知の表情が硬いが、これは記憶にある顔付きの通りだった。問題は過去の僕達である。

「そんな風ににこやかに肩組んでなかっただろ。真面目にやってくれよ」

「そんなことを言われても、カメラマンである君が逐一指示を出すのが道理というものだ」

「……すっかり他人事だと思いやがって」

「あら、あるいは他人事かもしれないわよ。ここにいる私達が本当にあなた達の未来の姿だとどうして言える?」

「そうそう。フリーパス引き千切ろうとしないだけましだと思わなきゃ」

 僕はどんよりした気分になり、まさに今の僕のような表情をとるよう相手に依頼した。クルーザーの舳先に横付けされた高速艇のデッキを移動し、操舵室の写り込む角度から慎重にポジションを決める。バックに夜景が入らないことも忘れてはならない。

「確かこんな感じだったはず」

「いざとなったらカメラの時計弄って撮り直せばいいんだから、気楽にやろう」

「……わざわざ船乗って出張って来たのに、気勢を削ぐようなこと言わないでくれ」

 時刻を見計らい、二十時四十八分にシャッターを切った。自分のデジカメのデータと撮れた写真を照らし合わせたかったが、僕のデジカメは電池切れで起動しない。心残りはあったが、仕方なくそれでオーケーとする。

 次の写真は、七分後。夜景が見えるように僕と冴里の二人を写せば良い。伊地知さんが撮れば問題ないので、僕達は特に必要なかった。それでも、未来の二人が真面目にやらない惧れがあったので、邪魔にならない位置から見張りをして、構図に誤りがないことを確認した。フラッシュが焚かれ、硬い表情の二人がフレームに収まる。

すると髪形がまともな僕が一転して相好を崩し、冗舌に語りだした。

「お疲れ様。ここでの君達の役目はもう終わりだ。せっかくだから、僕達が沖合に出て救難ボートで船出する様を見学していくかい?」

「……冴里、見たい?」

「遠慮しておくわ。黙って見ていられる自信がないし」

「そう言うと思った。陸へ戻ろう」

「戻ってからやることは当然わかってるよね?」

「十三日以内に加賀見さんを捜し出す」

「違う。君は日常の中に片足を戻しているわけだから、きちんと家族に連絡を取るのが先決だ。冴里と二人で活動するつもりなら、外泊の許可を取らないと」

 そういえばそうだ。体感時間で一ヶ月ほど両親に会っていないため、あたかもひとり立ちしたかのような錯覚をしていたけれど、僕は学生に毛の生えたような身分でしかない。両親を心配させないよう配慮する、という項目が追加されただけで、僕の冒険は一気に世俗的な代物へと堕した。

「ちなみに君達は、今から港に戻ると三年前にタイムスリップする。その紙袋をロッカーに仕舞うためだ。未来の年号の入った貨幣を使わないように。あと、きちんと袋の中身を確認しておいた方がいい」

「……気持ち悪い。急に親切になったな」

「何しろ僕も昔そんな風に思ったものでね」

 この後に続いた未来の僕からの指示は適確で、実のところ僕が考慮の外に置いていた事柄までフォローされていた。二人の冴里は呆れたようにそれぞれのパートナーを見ていた。似たような表情をしていたけれど、二人の胸中は全く別物だったことと思う。

 等閑に礼を言い、小向さんに頼んで船を出してもらおうとしていたら、最後に一番重要な言葉をかけられた。

「全身防備の迷彩服の購入もお忘れなく!」

 僕は思わず顔を顰める。どこかで調達する必要は感じていたが、まさか自腹を切るとは思っていなかったからだ。

「そんなもの用意するお金なんて無い!」

「じゃあ、盗め!」

「ふざけるな!」

 憎まれ口を叩きつつ、船尾に立ち、遠ざかっていく二人に大きく手を振った。隣では呆れ顔を張り付かせた冴里が海風に髪をなびかせている。

「あなたはきっと運がいいわ」

「どうして?」

「行き当たりばったりな割に万事が上手くいくもの」

「これでも慎重なつもりなんだけど」

「じゃあ、私がお金を捨てるほど持ってることも計算通り?」

 不意をつかれて絶句してしまったが、考えてみれば不思議なことではない。タイムスリップを活用すれば幾らでも荒稼ぎが出来るからだ。狭い範囲で何度も同じ時間を行き来する冴里の場合は特に。

 かろうじて、声を振り絞るようにして答えた。

「……僕はきっと、運がいい」

 岸に近付き、電波が入ることを確認し次第、忠告通り母親に携帯電話で連絡をとった。二週間ほど戻れないと言うと、思いの外気楽に了承され、むしろ拍子抜けするほどだったが、これで心置きなく行動出来る。

 出発地点付近に接岸し、港に降り立った瞬間に夜が明けた。往路数十分の道程に復路で数時間要したわけでは勿論なく、未来の僕の解説通りタイムスリップが起こった結果だった。

 冴里は、僕が一緒に時間を飛んで来たことにご満悦の様子で、自分のデジカメで記録用の写真を撮ると、得意の時刻把握能力を披露。三年前の日付を口にした。当然それは真実ちゃんの遠足の日と同じであり、僕達は早朝で人気のない駅に向かって歩いた。道中、紙袋の中身を慎重に検める。体感的な今朝方ロッカーから取り出した際と、寸分の違いも無いようにしたかったが、それはあくまで理想論に過ぎないことに気付いた。開封された整髪料は、コンビニで新品を調達することで誤魔化したが、一発減ってしまった弾丸を戻すことは不可能だ。手に入れる手段が無い。

 そこで僕は考え方を変えることにした。僕は拳銃に元々何発の弾が入っていたか確かめていない。つまり、僕が遊園地で一発撃った後、茶髪の彼女に託している間に、減った分の銃弾を装填してくれたかもしれない。最低限、一発でも中に実弾が篭められていれば、次の周回の僕も僕を狙撃出来る。

 ……もしかすると、この銃弾の数が平行世界の分岐を呼んだのかもしれない。

 僕の苦悩をよそに、冴里はレジ横で買った肉まんを美味しそうに頬張っている。一口分けてもらいながら、紙袋のセッティングをした。コートの畳み方まで一々憶えていなかったけれど、拳銃が一番奥だったのは確かだ。如何なる平行世界の僕も同じように曖昧な思考を辿るはずなので、これで良いのだろう。

「この袋を、コインロッカーに仕舞うわけね」

「そう。でも君は、中身を知らんぷりしなければいけない」

「ふうん。怖い話よろしく、赤ちゃんの死体でも入ってることにするわ」

「ビンゴ。まさにその通り」

 冴里は不思議そうに首を傾げていたけれど、僕は満面の笑みだ。どうやら無事に、全てが一つに収束しそうだった。

 ロッカーの鍵を手に入れ、この時世での用は済んだ。早々に元の時間軸に吸収されることを願ったが、時間の移動が好きに出来ないのは何度も言った通りだ。

 僕は一刻も早く休息を取りたかった。離島からヘリで脱出して以来、体感的に続いているぶっ通しの一日はあまりに長く、そろそろ体力の限界だった。冴里が一人暮らししているという別荘が一番近い拠点となりそうだったので、不躾ながら押しかけることにする。普段であれば絶対に気が咎めたであろうタクシー利用もこの時ばかりはありがたく、どこかの山間に佇む小奇麗な一軒家に到着して揺すり起こされるまで、夢一つ見ずに泥のように眠っていた。

 居間のソファからカーテンまでパステルカラーに統一された可愛らしい内装を意外な思いで眺めていると、余っているという立派な客室に案内された。シャワーも浴びずにそのままベッドに倒れ込もうとして、冴里に釘を刺す。

「お風呂に入るとしても、右手のフリーパスは外さないでね」

 これ以降、辻褄を合わせながら例の日付のフリーパスを買えるチャンスは無い。円環を壊して一本の鎖にするためには、この冴里にフリーパスを着けていてもらわなければならないのだ。

 冴里は肩を竦めるだけで、部屋から出て行った。

 僕はぐっすりと思う存分惰眠を貪り、次に起きた時には三年の月日が経過していた。一足先に目を覚まして買出しに出ていた冴里によると、遊園地デートの三日後に当たる日だとのこと。

 僕はシャワーを借り、がちがちに固まった髪を久しぶりに崩し、冴里の作ってくれた朝食を口にした。冴里はカジュアルなパンツ姿で、当たり前のように首からデジカメを吊るしていた。

「それで、この後どうするの?」

「十日以内に加賀見さんを見つけて、ヘリで離島に連れて行ってもらわないといけない」

「その、加賀見さんって誰?」

「未来の君の旦那」

「……え?」

「つまり、おそらくは未来の僕。十五年後くらいかな」

「ならどうして、今の時代にいるわけ?」

「それは僕の知るところではない」

 わかるのは、彼らにはどうしても島を丸ごと買い取って豪邸を建てる必要があったということだけだ。

 名刺の一枚でももらっておけば良かった、と後悔したところで何にも始まらない。相手が偽名を名乗っている以上、まともな手段で連絡先を見つけるのは難しい。

 唯一の手掛かりを手繰るべく、本土に戻った際の飛行場に出向き、あの軽い感じの青年操縦士を探したが、どうも飛行場職員のパイロットではないらしく、外れに終わった。飛行場の個人利用の顧客リストを聞き出そうにも、何の後ろ盾も無い若造の僕達にまともな対応を返してくれるわけがない。

 完全防備の迷彩服セット(勿論、ガスマスクとヘルメット付き)をミリタリーショップで購入出来たことは上々としても、肝心の加賀見さんとのコンタクトが取れないのでは話にならなかった。一週間空振りを続け、さすがに焦りを隠し切れなくなった頃、何のことは無い、拠点である冴里の家に届いた小包のおかげで活路を見出した。

 差出人の名はずばり加賀見某。連名となって梢の名が付けられ、宛先の苗字はともかく名前が冴里となっていたことから、その狙いは明らかだった。小包の中身は携帯ラジオに似た小さな黒い機械で、触ってみたら用途は一発でわかった。

 そういえばすっかり忘れていた。……ボイスチェンジャーである。

 同封されていた手紙によると、屋上にヘリポートのある高級ホテルに滞在中で、僕達の分の部屋も確保してあるから暇なら是非遊びに来いとのこと。首都まで出なくてはならないのでかなり遠かったが、聞きたい話もあったので行くしかない。

 冴里の金で買い込んだ長期滞在用の荷物を抱え、僕達は急行を乗り継いで指定されたホテルまで向かった。あまりの豪勢さにロビーで気後れしていると、

「いやー、お疲れ様です。遅いですよ、二人とも。もう来ないのかと思っちゃったじゃないですか」

 フォーマルなはずの背広を着崩してホスト紛いになってしまっている例の雇われパイロットがやって来た。向こうが気さく過ぎるため、本当なら初対面であるというのに、思わず以前の続きのようなペースで会話しそうになる。

「君はパイロットの人だよね? どうしてここにいるの?」

「何言ってるんですか。遭難したお二人さんを救出するための活動拠点がここじゃないですか。発見の報せを受け次第ヘリで助けに行くんでしょ。僕がここにいなかったら誰が操縦するんですか」

 その割に、ほんのりと酒気を帯びている。スーツ着用義務のあるホテル内の高級レストランで一杯引っ掛けてきたようにしか見えなかった。あるいは酔い覚ましの散歩にでも出かけるつもりだったのかもしれない。

 パイロットを警戒してすっかり目元を強張らせてしまっている冴里に事情を説明した。彼女は渡りに船とばかりに、加賀見さんのところまで連れて行ってもらえないかと実に賢い要請をし、パイロットは軽く請け負った。エレベーターで最上階まで案内してくれ、二部屋しかない内の片方のドアをノックする。

「お二人さんが着きましたよ」

 ドア越しにおざなりとも言える説明をすると、中からチェーンを外す音が聞こえ、いつぞや見た通り短髪を金色に染めている梢さんが現れた。大きく胸の開いたドレスを見事に着こなしており、言われてみれば身長も顔立ちも冴里と似通っているのだが、醸し出す雰囲気は全く異質だった。当の冴里も完全に面食らったように立ち竦んでいる。彼女は、淑女の嗜みだとでも言いたげに、艶やかな笑みを自然と頬に浮かべると、

「どうぞ」

 と声をかけて僕達を中へ招き入れた。軽佻だが空気の読めるらしいパイロットは、無言でその場から立ち去った。

 部屋は、僕の考え得るホテルの一室という概念を根底から覆すほどの破壊力を持っており、神々しいまでに光り輝いていた。窓からの素晴らしい眺望、高級品であることが一目でわかる調度の数々、額だけで気圧されそうになる立派な絵画。何の冗談かバルコニーにはプライヴェートプールがたっぷりの水を湛えている。思い浮かぶのはたった一つ、自分がいかにこの場にそぐわないかというだけの話。出来ることなら質素な我が家へ飛んで帰りたかった。

「やあ、待っていたよ」

 加賀見さんはダイニングテーブルの前に腰掛け、やけに物々しい通信機を操り、ヘッドフォンを耳に当てていた。いかにも行方不明者の探索機に指示を飛ばしています、という態だが、実質的に発見は二日後と決まっている。どれだけ意味のある行為かは疑わしいが、それでも懸命な捜索の振りをするのは冴里のためだろう。海上に放り出しておいて、発見の報告があるまで遊び暮らしていました、では誠意が感じられない。

 また、これはカモフラージュの役目も担っていた。漂流後の僕達はあの島に漂着した際、十三日目から六日間過去に戻るため、この時点で既に豪邸生活を送っている。つまり、ヘリコプターで離島に出向けば救出は完了となるのだ。しかし、冴里にそれを報せてはいけない。彼女には、十二日間漂流が続き、十二日目に助けが来るというタイムスリップ抜きのシナリオを描かせなければならない。後で説明するが、これは冴里に漂流を楽観視させるための重要な作戦でもある。

 加賀見さんによると、五機の飛行機が僕達のボートを捜索中だというが、どこまで本当かはわからなかった。少なくとも、本気で捜す気ならばレスキュー隊にでも出動を要請すれば良いはずなので、僕達の身の安全よりも歴史の辻褄合わせを重視しているのは間違いない。

 僕は、冴里が梢さんと一緒に席を外している間に、避けては通れない質問を加賀見さんにぶつけてみた。

「あなたは、本当に未来の僕なんですか?」

 加賀見さんは、真剣な顔でじっと僕を見つめた。背丈は同じくらいだったが、顔立ちから自分の面影を感じられない。加齢による変貌だと言われれば納得はしそうだが、僕にはどうしても彼が自分だとは思えなかった。良い意味でも悪い意味でも、彼は僕の未来予想図の範疇を逸脱している。

 しばらく無言の睨みあいが続いたけれど、加賀見さんは結局問いに答えず、ふいと視線を逸らした。隣の部屋も予約してあるから、彼女と二人で好きに使うといい。それだけ言い残して、無線に集中する素振りをして僕を追い払った。

 ……実は僕には未だにこの答えがわからない。年齢的に、多くの時間は残されていないのだけれど、果たして自分が今から加賀見さんになるべきかどうか。迷っていると言ってもいい。自己の本質よりも大富豪というレッテルの方が目立つような人間になっていいものかどうか。

 冴里を梢と呼ぶようになっていいものかどうか……。

 それはともかく、準備はここに至って完全に整った。離島に出発するまでの二日間、僕は冴里と話し合いを続けた。意図して親睦を深めると共に、重要な取引を合意させた。物心ついてから肌身離さず持ち歩いた道具を手放すことにはいくらかの抵抗は示したものの、時間という檻の中から脱出するために必要なことだと説き伏せた。互恵的な信頼関係を築き上げ、恋愛関係に突入しそうな気配は醸したものの、スイートルームでは結局キス一つせずに終わった。それすらも、自分と冴里のための伏線だった。

 二日後の午前九時三十分。無線機に救難ボートを発見したとの報せが入る。それは丁度、僕達が洋上で狼煙を上げ、小型飛行機の旋回を確認した頃合いだった(あの時腕時計は九時五十五分くらいを指していたが、三十分進んでいたので)。うやむやの内にタイムスリップが起こり、全くの無駄になったと思っていた僕らの努力は、地味ながら結末を導くための布石となっていたらしい。

 僕達は支度を整えて、屋上に上がった。僕の言う支度とは、要するに迷彩服を着ることだった。コインロッカーのキーは忘れずにポケットに入れた。さすがにヘルメットやガスマスクを被るのは鬱陶しく、手で持って運んだ。

 ヘリポートは広く、見覚えのあるヘリコプターが一機、ぽつんとその真ん中に申し訳無さそうに停まっていた。

「忘れ物はないかな?」

 加賀見さんが問う。仕立ての良いスーツを着て、すっかり若社長然としていた。梢さんをエスコートしながら、堂々と構えている。

「大丈夫です」

 僕の声は若干震えている。緊張のためでなく、武者震いだと思いたい。

「では、最後の仕上げといこうか」

 ヘリコプターに乗り込む。梢さん、加賀見さんに続いて僕が。そして最後に冴里が。お互いのパートナーと隣り合って座り、安全ベルトを着用する。操縦席から軽い調子でパイロットが告げる。

「んじゃ、飛びますよ」

 ローターが唸り、主翼が回転する。わずかに傾いだ後、垂直に離陸する。上昇を続け、プラモデルのようなビル街を見下ろす。空虚な、顔のない街の上空を飛ぶ。

 終わりを感じる。

 後は海に出て、豪邸の建つ孤島に向かう。それだけだ。

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