エピソード九

 そして二人きりの世界は終わる。

 ゴンドラが地上に到着し、お疲れ様でした、という係員の声と共に扉が開かれる。今度は僕が先に降り、眼鏡を外した真実ちゃんをサポートした。

 二人の雰囲気が気まずくなるようなこともなく、僕達は平然とこの後どうするか話し合い、景色を見損ねたという名目でもう一回観覧車の列に並ぶことになった。実は二度目の搭乗でもゴンドラの中で同じような儀式を繰り返したけれど、それは疚しい気持ちからではなかった、と言い訳しておこう。いや、仮に疚しい気持ちがあったとして、誰に文句が言えようか。神の悪戯としか思えないような、とんでもない体質のために別離を余儀無くされたけれども、僕達は本来なら善良な一カップルとして平々凡々に暮らしていけたはずなのだ。勿論、そういう『もしも』を全てひっくるめて運命を語るべきなんだけど。

 日の暮れた園内を、二人で並んで歩く。自然と手を繋いだものの、しかし距離感は確実に変わっていた。お互いに好き合っているのに恋愛の対象から外れているという絶妙な関係は、なかなか居心地が良かった。恋愛を芸術的な絵画に喩えるなら、僕達はまるで良く出来た騙し絵のようだった。

「私達の繋がりがこのまま続いて、二十年後くらいに爛れた不倫関係になってたらどうしよう」

「どうしようもこうしようも、お互い納得出来てたら別にいいんじゃないの?」

「だったら最初から付き合っておけば良かったじゃん」

「……正論だ」

 次に未来に行った暁には、二人の関係を真っ先に調べよう。僕は密かにそう誓った。当然、二人が性別を越えた親友関係であることを願った。

 土産物屋で少し買い物をして、僕達は帰路に着いた。

「この時間、バス混んでそう」

「じゃあ、帰りは電車にする? 乗り換え多くて面倒だけど」

「でも実は、結局トータルでそっちの方が早いんだよね」

「なら電車で決まりだ。一刻も早くうちに帰って寝たい」

「疲れてるなら途中で休憩して行ってもいいよ」

「こらこら、調子に乗って微妙な発言をしない」

 僕達はこうして、バス停ではなく駅へと向かった。たったこれだけの選択により、僕の冒険は劇的なまでにその色合いを変える。

 でも、後から思えば、もっと早くに勘付いていてもおかしくなかったのだ。僕の思い描いていたのと全く別の物語が進んでいたというのに、僕はその断片を悉く無視してここまで盲進して来た。例えばそれは、冴里が腕に巻いていたフリーパスや、真実ちゃんがかけていた眼鏡という形で如実に現れていた。けれど、一体誰がそんなものに一々不審を抱くというのか?

 僕達が駅のホームで出くわした光景は、それを思えば劇的でわかりやすかった。しかも、自分の立っている地盤を根底から覆すような強烈な衝撃を伴っていた。

 丁度電車が行ったばかりで人の姿が消え、ホームはがらんとしていた。次の電車まで時間があったので、手近なベンチに向かう。と、そこに腰掛ける二つの人影が目に入った。

 最初に息を呑んだのは、真実ちゃんだった。相手が誰だか分かった途端に、立ち竦むように足を止めた。

「どうして……?」

 思わず彼女の口から零れた言葉に、僕も同感だった。ベンチには、絶対にいるはずのない人間が座っていた。

 もったいぶるのはよそう。要するにそこに冴里が居たのだ。見慣れた黒尽くめとは随分かけ離れた、実に自然な格好をしている。紺の上着に柔らかい質感のロングスカートは、一歩間違えば野暮ったいコーディネートになりそうだったが、ほどよく肩の力が抜けており、怜悧な美貌に不思議とマッチしていた。首元までストレートに伸ばした闇色の髪は、シャンプーのコマーシャルのように艶やかに輝き、天使のわっかが出来ている。

「ねえ、冴里さんは時間の輪の中に閉じ込められたはずじゃなかったの?」

 真実ちゃんが怪訝な顔で僕に尋ねるが、答えられるはずがない。何しろこの事態を受けて、僕の方が遥かに混乱していたからだ。

 顔中にクエスチョンマークを浮かべながら、呻く。

「何より、隣のあれは、一体誰だ?」

 冴里の隣には、小さな女の子が座っていた。半分冴里にもたれかかり、眠ってしまっているようだ。年齢は五、六歳といったところだろう。膝の上にテーマパークのロゴが入った袋をしっかりと抱えているのが可愛らしい。

 真実ちゃんは、きょとんとした顔で一度僕を見て、わざわざ眼鏡をかけ直した。そして、眉間に皺を寄せるようにして遠目から女の子をじっと眺め、納得したように何度か頷く。

「誰って、あれ、幼い頃の冴里さん本人じゃないの?」

「え、嘘!」

「だって、そうやって自分で自分のおもりをしてたって言わなかったっけ?」

「あ、そうか。言われてみると、かなり似てるね」

「でしょ? 私も朝会った時は妹か何かだと思ってたんだけどね」

「……?」

 次々と襲い掛かる、僕の把握を遥かに越えた事象の数々。僕はただただ翻弄されるがままになっていた。

「ん、気付いてなかったの? あ、そうか。朝の段階じゃ、まだ知り合いじゃなかったんだもんね。対抗意識燃やして損した」

「……何の話?」

「憶えてない? 遊園地の入り口前で写真撮ってもらったじゃん。あれ、冴里さんだよ」

「嘘!」

「ほんと。私としても精一杯の嫌がらせのつもりだったんだから。あの人の前で必要以上にいちゃついたりして」

 ……そう言えばそうだった。今朝のことと言われても、個人的には一ヶ月以上の隔たりがあるため容易いことではない。それでも僕は懸命に記憶の糸を手繰った。正門の前で写真を撮った時、真実ちゃんが腕を組んで体を押し付けてきたり、やけに大胆だな、と僕もどぎまぎしたではないか。ライバルと目していた冴里に対する対抗意識からのことと思えば、納得も出来る。また、シャッターを頼んだ相手は、子供を連れた若い女性だった。顔立ちなどは特に印象に残っていないが、今思い出せば冴里だった気もする。何より、ボディーガードの冴里から『以前にも会っている』と教えられたのがこの朝のことだとすれば、話は符合する。

 確かに辻褄は合うが、だからこそ妙だった。

「ちょっと待って。どうしてのさ? 円環には始まりも終わりもないはず。だとしたら、幼い頃の冴里なんてどこにもいるはずがない!」

 真実ちゃんは、今更気付いたのか、というような呆れ顔で僕に頷いた。

「そもそもがおかしな話なの。同じ歴史を何度もぐるぐる繰り返し続ける人なんて、どうやってもあり得ないと思わない? どうやって最初の反復を始めるの? 万が一成功したとして、その先は? 人間誰しも歳をとるのよ? 円環を繰り返す内に、一人だけどんどん老衰していく。死んでしまったらそこで時間の輪は途切れるんじゃない?」

「……確かに円環については、僕も疑問には思ってた。でも、そのループで全てが説明出来るから、細かい問題点には目を瞑ってたんだ」

「全然細かくないし」

「うん、今考えると、致命的だったかもしれない」

 かと言って、当時の僕をなじるのは酷というものだ。何しろ『過去と未来が上手く一続きになる』という結末はタイムトラベルストーリーの王道パターンだし、僕もすっかりその気になっていたのだ。戻って来て真実ちゃんにふられなかったら、今でもその結末を信じていただろう。

「一つ訊いていい?」

「わかる範囲でなら」

「あの冴里さんは、あなたのボディーガードしてくれた人と別人だよね?」

「……どういう意味?」

「トイレですれ違った時と全然雰囲気違うから」

「服装も違うでしょ」

「うん」

「そういう意味でなら、別人」

「……そっか」

 真実ちゃんは、むー、と声に出して一頻り悩むと、僕の肩から自分の荷物を引っ手繰った。ポケットを漁り、漂流を経てよれよれになった煙草のパッケージを見て複雑な顔をした。

「落ち着きたいから、ちょっと一服していい?」

「……本当に煙草吸うんだ」

「あは、気付いてたくせに」

 彼女は堂に入った仕草で咥え煙草に火を点けると、ふう、と疲れた様に煙を吐き出した。腕を組み、顎に手を当てて物思いに耽る姿は、煙草という無粋なギミックを伴ってなお可憐だった。背伸びして大人ぶっているような、そんな印象を受ける。サングラスとロングコートで暗殺者になりすまそうとした自分が、それに重なった。

「なんか、敵に塩を送るみたいで嫌なんだけどさ」

 真実ちゃんは、駅の喫煙コーナーの灰皿に灰を落としながら、僕の方を見た。

「行って話して来た方がいいよ」

「……え?」

「だから、あの冴里さんと」

「でも、あれはたぶん、円環とは関係無い時点での冴里だよ?」

「うん、だからこそ、行ってきなよ」

「どうして?」

「円環なんて、最初からなかったのかもよ」

「……どういう意味?」

「わかんなくてもいいよ。あの人のこと好きなんでしょ?」

 僕が返答に窮していると、真実ちゃんは咥え煙草のまま僕の後ろに周り、背中を両手でぽんと押した。一歩だけ前につんのめる。振り返ると、眼鏡の向こうの目元は大きく緩んでいる。笑っているようにも泣いているようにも見える顔で、真実ちゃんは唇の動きだけで「ばーか」と言った。それきり、ぷいと顔を背け、煙草に専念してしまう。

 もしも生まれ変われたら、僕はこの娘と一緒になりたい。漫然とそんなことを考え、決然と袂を分かって歩を進めた。

 二人の冴里の方へ近付いて行く。何を話せば良いのか全く考えていなかったが、足取りが鈍ることはなかった。

 子供の冴里はぐっすりと眠っている。こちらの気配に気付いた様子もない。大人の方の冴里は鋭い目で真正面を見据えるばかりで、僕に注意を向けようともしない。近くに寄ると、子供の方が、ネックレスのように首から小さなデジカメを吊り下げているのがわかった。防水加工の施されたケースに入っている。タイムスリップの記録用に肌身離さず持ち歩いていたというカメラだろう。大人の方の冴里は、ハンドバッグの中に入れて運んでいるに違いない。

 ……だがそういえば、ボディーガードの冴里は何故デジカメを持っていなかったのか。不意に僕がそんな疑問に囚われた時、大人の方の冴里が僕をちらりと見上げた。オールバックになった不自然な髪に一瞥をくれただけで、視線を戻す。

 その動作で僕は確信した。

 この冴里は、まだ僕を知らない。

 二人の間には、遊園地の入り口で写真をとってくれるよう頼んだ側と頼まれた側という、極めて細い繋がりしかないのだ。

 話し掛けるタイミングを逸し、ベンチの前を素通りしてしまった。少し行った先で立ち止まり、自然な動作で振り返る。

 何と声をかければいい? 僕がそこらのナンパ野郎でないことを、どう説明すれば信じてもらえる? 何より、僕は彼女に一体何をする気なのか。円環に放り込むのか、あるいは全てから目を逸らして二人で一緒に暮らすのか。どちらにしろ、彼女の同意を得られるのか。僕を全く知らない冴里を、果たして説得出来るのか?

 ありがたいことに、僕の迷いはそう長く続かなかった。

 喫煙コーナーで煙草を吸っている真実ちゃんの向こうから、二人の女がつかつかと歩いてくるのが見えた。最初は特に気にもしなかったが、片方が持っている大きな白い紙袋に見覚えがあった。僕の変装グッズを入れた袋だ。

 予想通り、二人は遊園地で会った僕の協力者だった。僕はぺこりとわずかに頭を下げたが、茶髪の女はそれを露骨に無視し、冴里の目の前までやって来た。

 茶髪女の表情を見て、僕は背筋が凍る思いをした。全ての感情を押し殺した鉄仮面のような無表情だった。

 冴里が不審そうに二人組を見上げている。

「冴里さんね?」

 茶髪女が尋ねる。冴里は、気圧されたように顔を強張らせ、それでもしっかり首を横に振った。

「……違います。失礼ですが、人間違いをなさっておいででは?」

「しらばっくれても無駄よ!」

 茶髪女は激昂し、連れに持たせていた紙袋の中から黒い塊を取り出した。

 顔面を冷や汗が伝う。血の気が引き、耳鳴りのような音が脳を駆け抜けた。

 拳銃の入った袋をどう処理するのか、僕がそう尋ねた時の相手の科白を思い出していた。

 何てことだ。茶髪女は最初から、回収した拳銃を使う気でいたのだ!

 女は至近距離から冴里に銃口を向ける。冴里は恐怖のためか叫び声すら上げず、硬直したように女の顔を見上げている。

「あなた、邪魔なのよ」

 茶髪女の親指がゆっくりと撃鉄を下ろそうとしていた。

「待て!」

 僕は思わず制止の声を上げ、冴里の元に駆け寄った。茶髪女は銃をこちらに向けることもなく、わずかに一瞥をくれるだけだ。

「邪魔をしないで下さい」

「何を考えているんですか! こんなもの取り出して、正気の沙汰じゃないですよ」

 協力者だと思っていただけに、衝撃は大きかった。茶髪女は首を横に振り、

「その女には死んでもらわなければなりません」

 と言うのみだ。

「ふざけるな!」

「ふざけてなどいませんよ。邪魔立てするなら、いっそあなたにも死んでもらいます」

「どうしてそんなことを言うんですか!」

「頼まれたからだと言えば、それで満足ですか」

 僕は朦朧とした。誰が頼んだのかは、訊くまでもなかった。未来の僕だ。未来の僕が、冴里を抹殺しようとしているのだ。

 ……いや、違う。こんな女の言葉を鵜呑みにするわけにはいかなかった。真実ちゃんシンパの協力者が、銃を得たことで暴走しただけかもしれない。

 何にしろ、旗色は悪い。銃が本物であることは僕が一番よく知っている。僕の命を守ってくれる盾はもう無い。

 ちらりと冴里の方を見遣ると、彼女は往時の冷厳さからは考えられないほど心細そうな顔で、僕に助けを求めていた。僕は小さく頷くことで、大丈夫だと伝えた。隣の幼い冴里が目を覚ましていないことは不幸中の幸いだった。

 茶髪女の連れは、紙袋を持ったまま他の客の動きを見張っている。その視線を辿ると、厳しい表情でこちらを睨んでいる真実ちゃんの姿があった。連れは特に真実ちゃんに注意を払い、彼女が近寄って来ることを牽制しているらしい。真実ちゃんの助力は期待出来ないということだが、逆に言えば、この見張りが茶髪女に加勢出来ないということでもある。

 人質篭城事件でもないから、今から警察の介入を望んだところで間に合わない。

「では、さようなら」

 やるなら今しかなかった。銃を扱っているのが素人であり、なおかつ女性だという点に全てを賭けた。

 茶髪女が撃鉄を下ろし引き金を引く前に、僕は駆け寄ってその銃に飛びついた。力勝負なら、男であるというだけでこちらに分がある。あとは恐怖との戦いで、これは勢いだけで片付く問題だった。手首を強く掴む。何とかなりそうだった。茶髪女は腕を無茶苦茶に振って抵抗しようとするが、僕はそれをどうにか押さえつける。銃口が自分の方を向いて何度か肝を冷やしたが、どうにかその手から銃を捥ぎ離すことに成功した。

 すかさず二歩の距離を取り、銃口を茶髪女に向ける。彼女は何も言わず、すぐに両手を上げた。連れもそれに随って観念したようだ。

 引き金を引くような真似はしなかった。

「……その荷物も置いて、ここから立ち去って下さい」

 低く恫喝するように言うと、茶髪女達は悄然としながらとぼとぼと歩き去った。詳しく詰問したいという思いも当然あったが、騒ぎを大きくしたくなかった。ただでさえ、ホームには人が増えつつある。

 二人は、真実ちゃんの前で律儀に一礼したところで駅員に呼び止められ、こちらを指し示しながら何事か説明し始めた。僕はそれを見て慌てて銃を下ろし、紙袋の奥に隠した。実のところ、この銃で一度発砲している僕は公権力に介入されると非常にまずいことになる。どうにか誤魔化してくれ、と心から祈った。幸運にも、茶髪女はこちらでの小競り合いを痴話喧嘩か何かだと上手く糊塗したらしく、つつがなくその場を収めていた。僕は、紙袋を回収してショルダーバッグと共に肩にかける。

 真実ちゃんは肩を竦め、自然にもう一本煙草を取り出して咥え始めた。かなりのチェーンスモーカーだったらしい。

 僕は大きく溜息をつき、ようやく冴里に正面から向き直った。冴里は、何を言って良いやら全くわからないという困惑をありありとその顔に浮かべながら、ぎくしゃくと頭を下げた。険のあるような吊り目が、不審を滲ませているようでもある。

「ありがとうございます。危ないところを、身を呈して守っていただいて」

 声は冴里そのものだったが、口調が余所余所しいためいまいち心が乗り切れなかった。それでも僕は、躊躇うことなしに返事を口にすることが出来た。

「お礼なんていいよ、冴里。これからは時空を越えてずっと一緒なんだし、そんな水臭いこと無しにしよう」

 顔から火が出るほど恥ずかしかったが、勝算はあった。これは冴里に、自分こそが運命の相手だと強く確信させればそれで済む話だったからだ。タイムスリップのタイミングが同期するという切り札がある限り、僕に負けは無かった。いかに胡散臭かろうと、それに勝る武器は無いはずだった。

 案の定、冴里は一瞬目を丸くし、僕の全身を品定めでもするかのように頭の先から爪先まで観察した。思わず零した、という口振りで呟く。

「あなたが……?」

 その言葉に含まれていた驚きと期待こそが、答えだった。

 彼女はずっと、僕のような人間を待っていたのだ。

 考えてみれば、何ということもない。要するに冴里こそ、冷静ぶってその実ロマンチックな乙女心を隠し持っているという、どこかの誰かの望んだ性格を地で行く人間なのだ。

 冴里は、すっと僕に右手を差し出した。その手首には、白いフリーパスが巻き付いている。

「お近付きの印に」

 はにかむように言う冴里に、僕は応じて腰を曲げ、右手を差し出した。

 握手。

 細くしなやかな指の感触が、しっくりと手に馴染む。まだいまいち本調子でない冴里のことが、ぐっと身近に感じられた。

「一つだけ、聞きたいことがあるんだけどいいかしら?」

 その声に反応したのか、冴里の隣で小さな冴里が目を覚ました。小さな目をしょぼしょぼさせながら、手の甲で瞼を擦っている。間近に立っていた僕の姿を見てぎょっとしたような顔をした。

「おはよう、冴里ちゃん」

 僕は出来るだけ優しい顔をしたが、如何せんオールバックでは怪しさも一入だ。少女は怯えたように冴里の肩にひしと掴まった。

「恐がらないでも大丈夫。このお兄ちゃんは、私の……いえ、私達の、ステディーよ」

「……すてでぃい?」

 覚束ない発音で反復し、幼い冴里は首を傾げる。冴里は頷き、その頭を優しく撫でた。

「そう、お姫様を迎えに来た王子様、みたいな感じね」

「すごーい! じゃあ、すてでぃいが王子様のことで、さえりがお姫様のことなの?」

 微妙に違和を覚えるような質問だったが、幼い子供の発言ならこんなものだろう、と僕は適当に愛想笑いで切り抜けようとした。冴里も、真面目な顔で曖昧なことを口にした。

「そうらしいわ。私にもよくわからないけど」

 幼い冴里は満面の笑みを浮かべた。続けて僕に向かって発した言葉が、おそらくこの旅で一番大きな衝撃をもたらした。全ての欺瞞を根こそぎ叩き潰す一撃だった。彼女は何の衒いも見せず、こう言ってはしゃいだのだ。

「じゃあ、こずえも今日からお姫様なんだね!」

 こずえ。

 何かの聞き間違いかと思い、僕は冴里の顔色を窺った。彼女は、見慣れぬ者が見たら冷笑と間違えるような涼しい笑みを浮かべながら、困ったように言った。

「残念だけど、このお兄ちゃんが迎えに来たのは今日のところ私みたいよ。年功序列でね」

「えー、またねんこうじょれつ? お姉ちゃんばっかりずるーい。こずえもさえりになるー!」

「あなたにはまだ早いわ。十数年後をお楽しみに」

「遠いよー」

 少女をよしよしと宥めながら、冴里はようやく僕の方を向いた。

「さて、聞かせてもらえるかしら。お察しの通り、私の名前はなの。さっきの女と言い私の王子様と言い、どうしてそんな妙な名で呼びたがるの?」

 梢。それが冴里の本名。

 勿論、ここだけで便宜的に使っている仮名だけれど、あの豪邸島で出会った女の人と同じ名前だった事実は変わらない。

 偶然? まさか。ここまで来てそんなわけがなかった。

 愕然とした。全てのからくりが一瞬で解けた気がした。

 喜ぶべきことに、円環は確実に崩された。僕の冒険の物語はまだ終わりでなかったのだ。最後の仕上げが残されていた。

 それは同時に、冴里の物語の始まりでもあった。

 彼女が冴里という名で呼ばれること自体が、彼女の鎖された小さな円環を開く鍵となっていたのだ。大きな輪の中に小さな輪を飲み込むことによって、僕の物語と彼女の物語が絶妙にリンクしていた。

「君が冴里であることは、たぶんずっと前から決まっていたことだ。そして僕は、冴里を時間の檻から救い出す役目を担っていた。なるほど、僕達は素晴らしいパートナーであるというだけでなく、真の意味で互恵的な関係にあったわけだね」

「……一体何を言っているの?」

「念のために訊いておくけど、君は怖い話が好きかい?」

「……別に好きでも嫌いでもないけど」

「得意でも苦手でもない?」

「まあ」

「じゃあ、大丈夫。予想通りだ」

 僕は、ぽかんとしている幼いこずえちゃんを後目に、大人の冴里の手をとってベンチから立ち上がらせた。

「何なのよ、あなたは」

「だから、君の王子様だって。白馬ならぬ、時間流の荒波に乗ってるけどね」

「上手いこと言わなくていいから」

「それで不満なら、一応今のところは君のボディーガードということにしておこう。さっきのように突然襲い掛かってくる暴漢がいたら、命を賭けて君を助けよう」

「それはどうも」

「その代わり、君を冴里と呼ぶ」

「……別にいいけどね」

「そして、この世界と異なる分岐を果たした平行世界に放り込む。そこで、君にとっての本当の伴侶となる僕に引き合わせる。僕はそれまでの繋ぎだ」

「……よくわからないけど、私としてはこの閉塞状況から抜け出せるなら、何でもいいわ」

 僕は、冴里の顔を正面から真剣に見詰め、思わず笑みを零した。彼女はとにかく不思議そうな顔をしていたけど、それでも構わない。

「さあ、四次元目を始めようか」

 幼いこずえちゃんが仲間はずれを厭うように冴里の腰にしがみつき、わけもわからぬままこちらを見上げている。

 僕は、二人を引き連れて真実ちゃんの元へ向かった。まだ何か用があったかしら、と煙草をふかしながら怪訝そうに首を傾げる彼女に、卒なく冴里を引き合わせる。傍から見れば修羅場以外の何物でもない邂逅だったけれど、冴里がまだ事情を理解していないということもあり、和やかな雰囲気はかろうじて保たれた。幼いこずえちゃんを含めた四人が自己紹介をする。冴里の本名が梢だったと聞いて、真実ちゃんは不審そうにしていたが、特に何も言わなかった。僕が真実ちゃんについて、『時間移動のことを理解してくれる友人』だと説明した時、真実ちゃんの温和な笑みに一瞬だけ罅が入ったことを除けば、特に問題もなく対面は果たされた。

 意外と人見知りする三人が自然に会話出来るようになった時、僕はようやく本題を切り出した。

「実は、真実ちゃんに折り入って頼みがあるんだ」

「……何?」

「こずえちゃんをおうちまで送って行ってあげて欲しい」

 真実ちゃんは絶句した。人の目が無ければ、平手打ちの一つでも飛んで来ていたかもしれない。相手の本心を知りつつ自分の恋路を手伝わせるのは残酷以外の何物でもなかったが、それくらいのずうずうしさがなければこれからの苦難を越えることは出来ない。

 話を聞いて鼻白んだのは冴里である。真実ちゃんの顔色を窺いながら、僕に真意を問い正した。

「それはもしかして、この子を真美ちゃんに預けて、早速私とあなたの二人で行動しようってこと?」

「その通り。たった今からやるべきことがあるのを思い出したんだ」

 真実ちゃんはそれを聞いて寂しそうに溜息を吐いたが、しゃがんでこずえちゃんに目線の高さを合わせた。

「あなたのお姉さん用事があるんだって。私と一緒に帰る?」

「えー、すてでぃいのお兄ちゃんも行っちゃうの?」

「うん、ごめんね。また会えるからさ」

「ずっと先じゃん……」

 こずえちゃんは、冴里のスカートを握って少しの間渋っていたが、その耳元で冴里が何事か呟くと、納得したように手を離した。それでも拗ねたような顔で、

「いいもん。こずえ、真実お姉ちゃんと一緒にレストランでおいしいものいっぱい食べるもん!」

 と、勝手な計画をぶち上げた。

 意表をつかれた真実ちゃんも、幼い子供の対抗策に楽しそうに相槌を打つ。

「あは、じゃあ、ケーキ食べ放題のお店知ってるから、そこ行こっか」

「うん! こずえ、ケーキ大好き!」

「よし、決まりね」

 両手を繋いできゃっきゃと仲良くはしゃぐ二人を見て、なんだか複雑な気分になる。

「これでいいはずよ」

 小さな声で、冴里が呟く。

「この後、家に着くまで本当に楽しかったのを憶えてる。というかむしろ、それしか憶えてないの。『早くさえりになってすてでぃいに迎えに来てもらいたい』って日記に書いたけど、何のことやらわからなかったし」

「おいおい説明するよ。僕と冴里が歩まなければならない決して平坦でない道のりについて」

「あら素敵。語呂も悪いし内容も芳しくないし、最低の口説き文句ね」

「…………」

 こんな言い草の人間を、期限内に僕にベタ惚れの状態にしなければならないかと思うと気が滅入った。時間制限のついた恋愛なんて、あまりの切迫感で胃を悪くしそうだ。何しろ、自分に好意を寄せていた時点での冴里しか知らないため、色々と勝手が違う。誠意の通じる相手であることを願うばかりだった。

 ふと気付くと、すっかりこずえちゃんを味方につけた様子の真実ちゃんが、口を尖らせながら僕を見ていた。僕は、あえて満面の笑みでそれを受け止める。

「ほんとにありがとう。恩に着るよ。このお礼は、いずれちゃんとさせてもらうから」

「……絶対だよ」

「うん」

「今度は、辞書とか水筒とか無しで会おうね」

「勿論」

 眼鏡越しの笑顔が見られたことで、僕はようやく胸を撫で下ろした。当て擦りのようにデートの約束でもさせられるのではないかと内心冷や冷やしていたので、温情は本当にありがたかった。幼い子供の前で醜い女の争いなどするまいという強い矜持なのかもしれない。大きな借りが出来た。

「そっちがこれからどこ行くのか、訊いていい?」

「……隣の駅、かな」

「え、もしかしてまた蕎麦屋?」

「そうだって言っても信じないくせに」

「だって、こんな時に二人で蕎麦食べに行くわけないじゃん」

 そこへ冴里が、心外とばかりに口を挟む。

「あら、私はお蕎麦好きだから、食べに行ってもいいわよ」

「いや、今回は無しの方向で」

「え、『今回は』ってことは、前回は本当に食べたの?」

「流れ上仕方なくね。個人的にはまだ今朝のことだけど」

 とはいえ、その間に随分と色々なことがあったので、遥か過去の出来事のように感じられた。

「へえ。それって私も一緒にいるのよね? 今からどれくらい先のことになるのかしら」

「うーん、一応、二週間くらいを目処にしてる」

「あは、ちなみに私にとっては三年前の話だよ、それ。……なんか変な感じ」

 本当に真実ちゃんの言う通りだった。僕にとっての今朝、冴里にとっての二週間後、真実ちゃんにとっての三年前、そしてこずえちゃんにとっての十数年後の出来事が、一致している。現在を共有しているのに、過去と未来はこんなにも複雑に交錯している。全くバラバラな時間軸の上に乗っている僕達四人が平然と会話していることが、奇跡のように思えた。

 子供の前で煙草を吸うわけにもいかず、手持ち無沙汰気味になった真実ちゃんが、眼鏡拭きを取り出して、眼鏡のレンズを磨き始めた。間を繋ぐために気の利いたことを喋ろうとした僕は、ふと強烈な違和感に襲われた。

「……ちょっと待って」

 真実ちゃんが僕の方に気を逸らした一瞬間に、手許の眼鏡は好奇心旺盛なお子様にさっと奪われてしまった。「割ったら駄目よ」と窘める冴里の声。息を吹きかけてせっせと他人の眼鏡を磨くこずえちゃんを横目に、僕は重要な質問を繰り出した。

「今、眼鏡拭きどこから出した?」

「眼鏡ケースに入ってるやつよ」

「じゃあ、その眼鏡ケースは?」

「……ポシェットだけど」

「だよね。そうでないと、決定的におかしいもんな。常に携帯してないと、いざと言う時コンタクトから眼鏡に変えられないし」

「いや、今日はたまたまだよ。普通にバッグに入れてる時もある」

「……バッグには予備の眼鏡が常に入ってたりするんじゃなくて?」

「どういう意味?」

 僕は、考えてもいないようなミスを犯していたらしい。いや、明らかに不可抗力なのだが、こんなに大きな齟齬が現れると、自分に誤りがあったのではないのかと、妙に落ち着かない気持ちになるのだ。暗澹たる気持ちで、告げる。

「バッグのサイドポケット開けてみて。その、右側の」

 僕の指示通りの場所に真実ちゃんが手を突っ込んで、ぎょっとしたような顔になった。

 漂流生活の最初に確認した通り、そこにはのだ。ポシェットの中のものと全く同じデザインである。真実ちゃんが恐る恐る開けてみると、折り畳まれた眼鏡が、柔らかい布の上に鎮座していた。こずえちゃんの手にあるものと全く同一のセットだった。

「私、眼鏡は一つしか持ってないはずなんだけど……。どういうこと?」

「あー、ちょっとしたプレゼントだと思って受け取ってよ」

 わけのわからない言い訳でお茶を濁したが、さすがに不信感を拭えなかったようだ。けれど、真実ちゃんに解説したところで気味悪がられるだけなので、詳細は省くことに決めていた。

 ……僕は、分岐を誤って平行世界に戻って来ていたのだ。つまりこの真実ちゃんは、『眼鏡ケースをポシェットに仕舞った真実ちゃん』であり、僕が一緒に出掛けた『眼鏡ケースをバッグに仕舞った真実ちゃん』と別の人間なのだ。必然的に、こっちの真実ちゃんと一緒にいた『僕に狙撃された僕』も、『僕を狙撃した僕』とは違う。

 けれどこれは、今回に限った話ではない。タイムスリップと多重世界解釈が切っても切れない縁なのは、タイムパラドクスの話を引くまでもなく自明であり、『この世界は本当に自分の元いた世界なのか』というのは、時間を移動するたびに付き纏う疑問でもあった。個人的に、この疑問を逆方向から突き詰めていくと、『寝る前の自分と起きた後の自分は本当に同じ人間なのだろうか』という問いかけになると思うので、普通の人にとっても決して侮れない問題でなかろうか。

 今回、眼鏡ケースの重複という決定的な齟齬が明るみに出たおかげで、自分が平行世界にいることが自覚出来た。これは考えようによっては、ありがたいことだ。少なくとも、完全な時の円環など存在しないことの傍証にはなった。僕は無理にでもポジティブな思考を維持した。

 それに、この冒険に平行世界が深く絡んでいるということは、既にわかりきっていた。自分がちょっと足を踏み入れたくらいで、慄いている場合ではない。

「眼鏡、いらないなら僕がもらうけど?」

「ううん。もらえる物はもらっとく。ありがと」

 ふと、この真実ちゃんが僕の世界の真実ちゃんと違うというなら、本当の真実ちゃんはやはり純粋無垢な女の子なんじゃないか、というロクでもない妄想が頭に広がった。……僕は救いようのない愚か者だった。そんな都合の良い話、あるわけない。平行世界の自分というのは、ほんの気紛れで選択を違えただけの、ありうべき自分の姿だ。逆に言えば、眼鏡ケースの収納場所の違いごときで、喫煙癖や浮気性がチャラになるとは到底思えなかった。

 だからこそ、真実ちゃんとの絶妙な関係は時を越えて、あるいは世界を越えて、ずっと続けて行ける。……そんな風にも思った。

 ホームに電車が入って来る。僕達四人は一緒に乗り込み、ドア付近で待機した。冴里は僕の隣、こずえちゃんは真実ちゃんの隣。不思議な相方交換の構図を、今は誰もが受け止めている。電車は不可解な思惑を腹に抱えたまま、レールの上を無言でひた走る。

「落ち着いたら連絡ちょうだいね」

「うん、絶対する。その時に、また」

「バイバイ、すてでぃいのお兄ちゃんとさえりのお姉ちゃん」

「ええ、あなたも元気でね」

 隣駅に到着する。手を振って別れる。真実ちゃんが再び、唇の動きだけで何かを呟く。何と言ったか僕にはわからなかったけれど、冴里の表情を見る限りロクな言葉ではなかったらしい。こずえちゃんの幼さ故の純真さが、今はとても羨ましい。

「……行こう」

 猛スピードで駆けて行く電車を見送った。駅の時計で時刻を確認する。午後七時二十分。おそらく、間に合うだろう。

 急ぎ足で歩く。冴里が無言で付いて来る。手は繋がない。まだそんな二人でない。

冴里の冒険が始まり、僕の仕上げが始まる。

 目指す先は、海だ。


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