エピソード八

 とうとう究極のタイムパラドクスが起こった。僕はまるで平気な顔をして倒れ伏す自分を眺めていた。自分の実在を根底から否定したというのに、僕自身には何の影響も無さそうだった。そんなわけあるか、と冷静になってきた頭が訴えていたけれど、何しろ自分では対処のしようもない。やってしまったことは仕方がなかった。

 案の定、異常はあった。近付いて相手の死を確認しようと思った時、僕は自分の体がまるで動かないことに気付いた。

 いや、違う。体が動かないどころか、目に入る景色すらまるで静止画のような有り様だ。宙を舞う木の葉の一片に至るまでぴたりとその場で停止している。僕の思考だけが隔離され、世界の全ては完全に時を止めているようだった。

 僕には見えた。これが死だ。全てが死んだのだ。過去の自分の死とともに、僕は世界を観測する役割を終えたのだ。無限に分岐する世界の内の一つが、永久の停滞の中に鎖されてしまった。タイムパラドクスの基本解がここにあった。

 背筋が寒くなるような恐怖を覚えたが、皮膚感覚は立毛筋の収縮すら伝えて来なかった。脳の中だけで僕は完全に完結していた。孤立していた。

 けれど実は、世界がこの時どうなってしまっていたのか、その本質的な部分が僕には全くわからない。僕が垣間見た『時間停止世界』はあくまで僕の主観に過ぎない現象であり、客観的な世界もまた同じ状態にあったという保証はまるで無いからだ。

 それどころか、もしかすると最初から僕が見たのは幻覚だったのかもしれない。あるいは、破滅的な願望から導かれた儚い夢の断片であったのかも。

 僕は突然の銃声で我に返った。引き金を引いたのはたった今だ。指先にそんな感触があった。不可解な空白も何も無く、僕の思考も直前から連続していた。少なくともそんな気がした。死の幻影は吹き飛んだ。

 夢は、破れた。

 過去の僕は、僕が引き金を引く寸前に、僅かに身を竦めていた。無意識にとったと思われる、そのほんのわずかな動きが、左肩の肩紐に伝わって真実ちゃんのバッグを揺らした。後は説明するまでも無い。弾丸は最強のバリアの中に飲み込まれて途絶えた。心臓を貫くことは無く、血の一滴たりと零れることは無い。

 僕は動かなかった。動けなかった。二発目を放つような無謀は冒さなかった。相手の顔だけを愕然と見ていた。

 悲鳴が聞こえた。二人組の女が叫んでいた。まずい、とも思わなかった。全てが台本通りに進んでいる、そんな順調ささえ感じた。

 予想通り、あるいは予定通り、冴里が現れた。

 サングラスとコートを剥ぎ、あの時と同じ、今となっては実に見慣れた服装で、女性用のトイレから音もなく飛び出してきた。過去の僕にとっては死角であり、その接近に気付いた様子は無い。

 わずかに、冴里がこちらに目配せした。僕は無言でそれを受け取った。銃は依然として構えたままだったが、撃つ気はまるで無かった。戦意を完全に喪失していた。

 冴里が過去の僕の腕を掴んだ瞬間、嫉妬にも似た感情が胸を衝いた。右手が震え始めた。一刻も早く視界の外に消えて欲しかった。

「逃げるわよ!」

「ちょっと待って!」

 危機的状況の中、必死のやり取りをしている二人が、まるで仲の良さをアピールしているようにすら見えた。馬鹿げた妄想だった。僕は病んでいた。

 二人がこちらを振り向かないことはわかっていた。引き金から手を離し、脱力した。二人の走り行く先からあえて目を逸らし、騒然となりつつある他の客に対峙した。目につく範囲に六、七人、こちらを遠巻きにしながらざわついている。

 何故、逃げないのか。

 いっそ一人ずつ撃ち殺してやろうか、という暴力的な考えが鎌首をもたげかけた時、隣のベンチで休んでいた二人組の女の片割れが、両手を上げて降伏をアピールしながら平然と近寄って来た。ストレートの髪を茶色に染めている。

「えーと、お疲れ様です、でいいんですよね」

 最初、茶髪女が何を言っているのか僕には全然わからなかった。

「とりあえず、拳銃をこちらに渡して下さい。後の処理は私達がしますからご安心を」

 僕はげんなりした。彼女らも協力者だったのだ。茶髪女の連れが、僕の紙袋を持って近付いて来る。中から真実ちゃんのバッグと僕のショルダーバッグを取り出して、こちらに手渡そうとしている。

「さあ、コートを脱いで、サングラスを外して下さい。髪型についてはどうしようもないので、何とか誤魔化すしかありません。頑張って下さい」

 こいつらは正気か? 僕は我が耳を疑った。

「僕に、真実ちゃんとのデートを続けろって言うんですか?」

「当然です。私達はそのために動いているんですから」

「そんな……。僕の協力者っていうのは、皆そうなんですか?」

「……違いますよ。あなたと冴里さんとの旅をつつがなく進行させるのが目的の人達もいます」

 伊地知達のことを言っているのだとすぐにわかった。そして、全体の構図が見えてきた。簡単な話だった。僕の協力者の中に派閥があるのだ。僕の心が冴里と真実ちゃんとの間で揺らいでいるように、冴里に味方しようとする者と、真美ちゃんに味方しようとする者の二派があり、それぞれ自分の贔屓のカップルのために助力を申し出ている。二派は必ずしもその目的においてお互い衝突していないようにも思うが、協力体制には無いようだ。

 僕は、思わず嘆息する。

「さあ、早く。もうすぐ真実さんが戻って来ますよ」

 僕は指示通りに変装セットを茶髪女に渡した。彼女はてきぱきと、それらを順に紙袋へ仕舞って行った。

 ふと、銃声や悲鳴を察知して警備員がやって来るのではないかと警戒したが、見たところ大きな騒ぎにはなっていない。周囲にいる誰一人として発砲の件を通報していないようだ。……いや、それどころか、誰も来ないように見張りをしている者さえいた。僕はようやく、この近辺にいる客が全員サクラであることを理解した。おそらく、小さく騒いで狙撃のリアリティを出し、昔の方の僕の不安や恐怖を煽るのがその役割だったのだろう。邪魔者を体よく追い払うわけだ。今や、呑気に僕に向かって手を振ってくれる人さえいた。

 茶髪女の連れから二つのバッグを受け取りながら、僕はふと尋ねた。

「あなた達は、その紙袋をどう処理するつもりなんですか?」

 拳銃の入った物騒な紙袋など、投棄するにしても厳重な注意が必要だ。

「今にわかりますよ」

 茶髪女は謎めいた科白を残し、僕に一礼した。そして、連れと一緒に女子トイレに向かう。おそらく、冴里の残したコートとサングラスを回収するのだろう。

 二人と入れ違いになるように、トイレから真実ちゃんがひょっこり現れた。早足で駆け寄って来る。

「ごめん、目が乾いてコンタクト外してたら時間かかっちゃった。予備の眼鏡一つ持ってきといてよかった」

 なるほど言葉通り、細い黒縁の眼鏡をかけている。真実ちゃんは中学時代眼鏡をしていなかったので、僕にとってはあまり見慣れない姿だ。とはいえ、直前に会った高校一年生の彼女が眼鏡をかけていたこともあって、それほど違和感を覚えなかった。

「で、何? そっちはその間に髪が乾いて鬘でも外したの?」

 くすくすと笑いながら、真実ちゃんは僕の髪に視線を注ぐ。僕は慌てて頭に手をやったが、整髪料で固められた髪型は頭から水でもかぶらないと元に戻りそうにない。

 ……まずい。あまりにも不自然だ。

 どう説明すべきか返答に窮していると、真実ちゃんは頭の先からつま先まで僕をじろじろと見分し、さっと僕の右手をとった。目の高さまで持ち上げ、手首に巻いたフリーパスを剥き出しにする。真実ちゃんのものと比べるとその劣化具合は明らかだった。

 真実ちゃんは、ふう、と小さな溜息を吐いた。

「……やっぱりね。銃声みたいなのも聞こえたし、何かおかしなことになってる気はしたんだ」

 僕は、冷や汗をかきつつ言葉を探した。

「あれは、銃声じゃなくて花火だよ、花火」

「ううん。もう、誤魔化さなくてもいいから」

 真実ちゃんは少し寂しそうに笑い、僕の左肩にかけられたバッグを指差した。隠しようもなく、そこには銃弾の貫通した小さな穴が開いている。

「あ、いや、これは、その……」

「怒んないから、本当のこと教えてよ」

 僕は、真実ちゃんの潤んだ瞳に押し切られるような形で観念した。

「……ごめんなさい。銃で撃たれました」

「はい、良く出来ました。それはタイムスリップの前、後?」

「えーと、前……って、ちょっと待ってよ。委員長、そのこと知ってたの?」

 驚愕しながら、問う。真実ちゃんは僕の質問には答えず、

「次、観覧車に乗ろうよ」

 と一方的に告げて、さっさと歩き出した。僕はそれに引き摺られるようにして着いて行く。しばらく無言での行軍が続き、観覧車に並ぶ行列が見えて来た辺りで、真実ちゃんが呟くように言った。

「知ってたよ」

「え?」

「だから、タイムスリップのこと」

「……いつから?」

「中学の頃から普通に。確信したのは高一の春だけど」

「ああ……」

「未来から私に会いに来たでしょ?」

「うん」

「とんでもない日付のフリーパス着けてたから、印象に残ってる」

「あの時、日付までチェックしてたとはね。もしかして、それを覚えてて、今日の日取り決めた?」

 何気なく尋ねた僕に対し、真実ちゃんはちょっとだけ意地の悪そうな笑顔を見せた。

「あは、ばれちゃったか。実は、半分嫌がらせのつもりだったんだ。デートの日にちをバッティングさせてやる、って感じで」

「デートのバッティング?」

「とぼけなくていいって。わかってるんだから。あの時の女の人もフリーパス着けてたし、一緒にタイムスリップしたんでしょ?」

「……ああ、冴里か」

「実はさっきトイレで会ったんだ」

「嘘」

「ほんと。鏡の前でコンタクト外してたら、誰もいなかったはずの個室から出て来た。心臓止まりそうになったよ。どっかで見た顔だな、と思ってたら、向こうから声かけてきた。こちらを憐れむように見下ろしながら、いきなり『横取りするみたいで、ごめんなさい』だって。馬鹿にしてるよね」

 横取りの対象が僕であることに気付き、面映い心地になる。行列の最後尾に並びながら、真実ちゃんはそんな僕を正面から不機嫌そうに見据え、衝撃的な事柄を告げた。

「そんなこと言われたら、諦めたくなくなっちゃうよ」

「……え?」

「知らなかった? 私って意外と負けず嫌いなんだよ」

「いや、それは何となく知ってたけど……」

 真実ちゃんの言い方はまるで、冴里が何も言わなければ自分は諦めるつもりだったみたいに聞こえた。そして、その諦める対象はおそらく『僕と付き合うこと』だ。僕は、自分が何をすれば良いのか、よくわからなくなってきた。

「ねえ、冴里さんのこと詳しく紹介してよ」

「……え?」

「一緒に時間旅行に出かけるような関係なんでしょ? いつからそんな感じなの?」

 不意に、ちぐはぐなやり取りの謎が解けたように思った。

「えーと、何か、根本的に誤解があるように思うんだけど」

「誤解?」

「うん。もしかして委員長、僕が一人になった隙にパートナーと合流して過去や未来へ遊びに行ったものだと思ってない?」

「……違うの?」

「違う違う。僕は自分の意思でタイムスリップ出来るわけじゃないし、冴里も以前からの知り合いってわけじゃない。仮にそうだったとしても、どうしてわざわざ他の女の子とのデート抜け出して行くのさ?」

「……スリルを楽しみたい、とか」

「ないない」

 僕は少し迷いながらも、自分の体質についてと、冴里との冒険についてを、真実ちゃんに話して聞かせた。勿論冒険の説明はアウトラインだけで、旅の間に冴里との恋愛が発展したことは省き、彼女は終始ボディーガードに位置付けた。さらに、冴里の存在自体が円環構造となって閉じ、関係が完全に終わっていることを強調する。

 我ながら卑怯なやり方だとは思ったが、時折相槌を打ちながら興味深そうに耳を傾ける真実ちゃんを見ていると、これで良かったのだという気になってきた。

 話が終わると、真実ちゃんはにこりと笑って、こう言った。

「まさか、私の荷物がそんなに役に立ってるとは思わなかったなぁ。お菓子とか飲み物はまだしも、辞書まで……」

「いや、ほんとに、ありがたかった。委員長のバッグが無かったら僕は間違いなく死んでた」

「……うん。生きて戻って来てくれてよかった」

 真実ちゃんは、それに続けて何か言おうとしたが、寸前で引っ込めた。そして、係員の誘導に従い、ようやく順番の来たゴンドラに素早く乗り込んだ。間近に来ると、それは意外と速く動いていた。僕が続けて、あたふたとタイミングを見計らいながら乗ると、係員が外から安全のために鍵をかけた。二人を乗せた密室は、緩やかに高度を増していく。誰からも邪魔を受けない空間に閉じ込められた。

 向かい合って座った真実ちゃんが、固いシートの上で何度か身じろぎし、思い切ったように口を開いた。

「たぶん気付いてたと思うけど、今日私、自分の気持ちに決着つけるつもりで来たんだ」

「……うん」

「しかも、殆ど玉砕覚悟で」

 まあ、三年前から冴里に関して変な誤解をしていたなら、それも仕方あるまい。

「でも、いざ来てみたら凄く楽しかった。そっちも楽しそうにしてたし、私も脈ありなんだって思えて、ほんとに嬉しかった。ことあるごとにドキドキしてた」

 それは、僕の方も同じだった。初めてのデートで柄にも無く浮かれていた。幸せの形を見た。

「ハート型のしおり挟んだ辞書、重かったのにちゃんと持って来たんだよ。ロマンチストで可愛いでしょ」

 真実ちゃんは、照れたように頬を上気させて、はにかみ笑いを浮かべた。釣られて思わず微笑み返してしまう。僕が作った適当なおまじないを実践してしまうなんて、色々な意味でこの娘は最高だった。

 真実ちゃんは気を落ち着けるように大きく息を吸う。

 僕はふと、視線を逸らす。個室にみっしりと充満する独特の空気感が、僕を少し不安にさせた。横手の窓の向こうには、数日前まで嫌というほど拝んでいた大海原が広がっていた。いくつか、小型船舶の姿もある。空は夕暮れ間近で、西の空が淀むように赤らみつつあった。腕時計を見ると、十七時三十分。あの日の僕は今頃、無事波止場を脱出し、クルーザーに乗って首都へ向かっているはずだ。……思わず、洋上に白波を立てて疾駆するボートの姿を探していた。

「私ね」

 真実ちゃんの声に、視線を戻した。わずかに遅れて、意識も向ける。真実ちゃんは、感情の昂ぶりも露わに、今にも泣き出しそうな顔で続けた。

「あなたのことが、好き。本当に好き。たぶん、誰にも負けないくらいに、好き」

 こうして愛の告白を受けたのは、初めてだった。

 嘘だ。二回目だった。

 冴里は時折、何の衒いも無く、僕のことを愛していると言った。

 僕はその答えをはぐらかし続けた。好きだと返したことはあったけれど、向こうがそれを信じなかった。

 何故なら、僕には真実ちゃんがいたからだ。

 だから僕は、迷い無く返事をすれば良い。ずっと前から僕も真実ちゃんのことが好きだった、とそう答えれば良い。

 委員長、ではなく。真実ちゃん、と。名前で呼んであげれば良い。

 それだけで、息の詰まりそうなこの儀式は終わる。めでたく一組のカップルが成立する。後は、地上に到着するまで続く愛の密室の中で、誓いの口付けでも交わせば映画のような恋愛劇が完成する。

 望んでいた通りの展開が訪れる。

 そのはずだ。

 なのに何故か、僕の胸は高鳴らない。確かに緊張を感じてはいるけれど、それは決して心地良い魂の律動を伴わない。

 僕は、真実ちゃんが好きだ。その事実に嘘偽りはない。

 けれどもどこかで、失った女性の影を追っている。

「ありがとう。僕も、好きだよ」

 なんだか、口が勝手に動いていた。それらしい言葉を吐いていた。哀しいけれど、ありがたかった。僕はこうして幸福を手に入れなければならないから。

「僕も、真実ちゃんのことがずっと前から好きだった」

 嘘でないのだから、罪も無いはずだった。

 真実ちゃんは、花が咲いたような可憐な笑みを浮かべて顔を綻ばせた。

「名前で呼ばれると、なんか、嬉しいな」

 これからはずっと、そう呼んであげるよ。

 僕が、そんな歯の浮くような科白で二人の絆を確実なものにする直前に、真実ちゃんは俯いて目元を悲しげに翳らせた。

「でも、私はやっぱり委員長のままでいた方がいい。というより、そうでなきゃ駄目」

「……なんで?」

 その時僕は、突然空に暗雲が立ち込めたかのように感じた。僕の精神世界の光量が明らかに激減し、奇妙なほどの肌寒さに背筋が震えた。正面に座る少女の名前が、急にわからなくなった。たった今そこにいたのとはまるで別人に思えた。

 彼女は泣いていた。眼鏡を外して目元を拭っていた。

 どうして泣く? 告白が成功したあまりの嬉しさに、感情の箍が外れたか?

 ……とんでもない。彼女の泣き方は、どう見ても悲しい時のそれだった。哀しい時のそれだった。

「私、駄目だね」

 真実ちゃんは、無理矢理笑みを作ろうとして余計に顔をぐしゃぐしゃにしながら、僕に縋るような目を向けた。

「急に泣いて、ごめんね……。でも、やっぱり、簡単には、諦められないから……」

 頭の中が真っ白になった。真実ちゃんの言っている言葉の意味がよくわからなかった。

「ちょっと待って。僕は、真実ちゃんの告白をオーケーしたつもりだったんだけど、上手く伝わってなかった?」

 そんなわけはないと知りながら、僕は虚しい軽薄さを武器に切り込んでいった。真実ちゃんは、目元を何度も何度も拭いながら、違うの、違うの、と小さく繰り返した。

「返事は嬉しいけど、やっぱり私達、付き合えない。気持ちに嘘吐いてまで付き合って欲しくない」

「嘘じゃない」

「でも、ほんとでもない。あなたは、私だけを見てるわけじゃない」

 冴里の顔が頭にちらついた。僕はそれを懸命に振り払う。それを見透かしたように、真実ちゃんは僕の心を抉った。

「自分でもわかってるんでしょ? 冴里さんが円環として過去の世界に組み込まれた時、あなたの心もきっと一緒にそこへ置いてきたのよ」

 ……僕は絶句するしかなかった。深い青を湛えた海が、急に禍々しいもののように見えて来た。僕の情念が冴里と一緒に海のどこかを彷徨っている、そんな気味の悪い想像が頭をよぎった。手の届かない場所に、流れ去ってしまった。

「僕が冴里に惹かれていたことは認めよう。そうだとしても、もう諦めるしかないじゃないか。君の言う通り、僕の恋も時間の輪の中に鎖されて完結したんだ。本当の意味で終わったことを、気にすることなんてない」

「ある!」

 愛情と憎悪が紙一重だと言ったのは誰だったろうか。感情を剥き出しにして叫ぶ真実ちゃんの瞳は、僕を視線だけで殺そうとしているかのようでもあった。

「あるの! ないわけないじゃない! 私は、あなたが思ってるほど純情で初心なわけじゃないし、自分でも嫌になるくらい嫉妬深いの! だからこそわかるの! 全然終わってないの! 私じゃ、絶対にあの女に勝てないの!」

 ヒステリックに喚き散らすと、両手で顔を覆って嗚咽を漏らす。僕はあまりにも居たたまれなくなり、ゴンドラのバランスを気にしながら真実ちゃんの隣席に移動した。恐る恐る肩を抱くと、意外なことに拒絶されることはなく、それどころか胸に縋り付いて来た。シャンプーの甘い匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。真実ちゃんは肩を震わせ、ごめんね、ごめんね、と僕の胸の中で繰り返した。僕はその背中を擦りながら、彼女を慰められるような言葉がこの世にあるのかどうか考えた。

「馬鹿だよね、私」

 えぐえぐと嗚咽で時折言葉を詰まらせながら、それでも真実ちゃんがどうにか落ち着いて話し始めた時、ゴンドラは最高地点を越えて下りに差し掛かっていた。

 体勢を変えようとはしなかった。彼女は意固地なまでに、僕から離れようとしなかった。

「自分から勝手に玉砕して、勝手に泣いてる」

 そうだね、とも答えられず、僕は無言で彼女の声を聞いた。

「ほんと言うと私は、三年前の時点でふられてたもおんなじなの。あなたは誤魔化したつもりだったかもしれないけど、そんなわけない。どこから見ても、あなたと冴里さんはお似合いの二人だった。お互いに信頼し合ってるのがすぐにわかった。誰にも断ち切れない固い絆で結ばれてた。すごく悔しかったけど、タイムスリップの話聞いてようやくその理由がわかった気がした」

 僕の胸に顔を埋めたまま、彼女は僕の顔を見ようとしなかった。ジャケットを握り締めるその手が小刻みに震えている。その反対の手には、邪魔になった眼鏡が緩く握られていた。

「誰も勝てないよ、そんなの。二人だけで時間を共有出来るなんて、ずるいよ。反則だよ。ごく普通の私じゃ、太刀打ちできるわけないじゃん」

「でも結局、それも終わったことだから……」

 僕が宥めるように言うと、真実ちゃんはふるふると懸命に首を振った。

「終わってない。だって冴里さんのこと好きなんでしょ?」

「一応、そうだけど……」

「向こうもそっちのこと好きなんでしょ?」

「……たぶん」

「だったら、何にも終わってない。冴里さんはこの世からいなくなったわけじゃないんだよ? ううん、私にとっては実質的にそうかもしれないけど、厳密にはそうじゃないでしょ。過去の一時期を何度も繰り返してるってだけで、そこに確かに存在してる。……ね? 無秩序にぽんぽん時間移動するあなたなら、冴里さんに会えるじゃん」

「……運が良ければ、ね。やろうと思えばかろうじて出来るってだけだし」

「でも、出来るんでしょ? しかも、一度合流さえすれば、その後はずっと一緒にいられるんでしょ?」

 いざ行うとなると、過去を改変することへの懸念が再浮上するだろうが、事実として実行は不可能でない。そういう意味で僕は、馬鹿正直にも首肯した。

 真実ちゃんはようやく顔を上げ、世界で一番哀しそうな笑顔で僕を見た。

「じゃあ、私の場合は? ずっと私の隣にいてくれる? 私と一緒にいてくれる? 二人で同じ時を歩んでくれる? そんなこと、あなたに出来る?」

 僕は無力感に打ちのめされた。

『二人一緒にいる』

 僕を愛してくれる人の望む、たったこれだけのことが僕には出来ないのだ。心はいつも傍にいる、などという生易しい言い訳は許されない。完全なる三年の空白という体験がある僕には、物理的な不在が及ぼす心情の変化を嫌というほど知っている。人間は、体が傍にないというそれだけで心に距離があいてしまうのだ。中学時代の知り合いに関して、真実ちゃん以外とまともな友人関係が復活しなかったのが、その何よりの証拠だった。

 誰が悪いのでもない。誰も責めることは出来ない。

「実はついさっきまで、私も時間旅行に連れて行ってもらえるかもしれないって思ってた。ううん、唯一その可能性に賭けてた。もしそうだったら、私にだってチャンスがあるし、三年間待った甲斐もある。好きって気持ちだけじゃどうしようもないことがあるなんて、考えたくなかった」

「……タイムスリップしてない間は出来るだけ一緒にいるから、なんて軽々しく口にするのは不誠実かな」

「ううん、充分誠実だよ。それはわかってるつもり」

 真っ赤に泣き腫らした目元を、穏やかに緩めた。

「むしろこれは、私の問題。私が、戦地から戻らぬ夫に義理立てして一生独り身を貫くような古風な性格だったら、きっと何の気兼ねもなかった。結局、私が悪いの。せめて我慢しようとすればいいのに、付き合う前から音を上げるような根性無しなの、私は」

 おそらく、自分の本質をその暗部まで冷徹に分析出来る聡明さが、真実ちゃんの悲劇なのだろう。一歩も二歩も先まで自分の感情の移ろいを見据えられるからこそ、思わぬ壁に突き当たる。

 ぐうの音も出なかった。何しろ僕は感情の波に飲まれ、一発の銃声だけで日常を振り切り、共に危機を越える過程で安直に冴里に走ったという前科がある。当然、真実ちゃんの不義理を諌めるような口は持っていなかったし、考え過ぎだと指摘出来るような身分でもなかった。

 ずっと僕のことだけを好きでいてくれる純真な女の子。その姿は、僕が作り出した都合の良い偶像に過ぎない。

 真実ちゃんも、一つの個を持つ人間なのだ。

「だから、実は奇跡的なんだよ、まだ私があなたを好きでいるってことは。この三年間、結構色々苦しかったんだから」

 口を尖らせて、冗談めかして言う彼女の顔には、どことなく吹っ切れたような表情が浮かんでいた。それが虚飾でないとはどうしても言い切れなかったけれど、僕は信じた。

「ありがとう」

 迷った末、僕は一言だけ告げた。何に対する礼なのかはよくわからなかった。何を言っても傷つけてしまいそうで恐かった。

「あは、感謝されちゃった。ただ浮気性なだけなのに」

 僕は、ようやく事態を受け入れられそうだった。真実ちゃんの言い分に理不尽なものを感じないでもなかったが、不思議と不快感はなかった。二度と埋まらないだろう喪失感がやけに胸に心地良く、これを失恋と呼ぶのなら、僕はこの感情目当てにいくらでも恋をしそうだった。

 要するに真実ちゃんは、自分が身を引くことによって僕の真の幸せを応援してくれたのだ。そんな距離の置き方が、どうしようもなく愛しかった。手に入らないとわかるや逆に燃え上がる僕の不埒な魂を、誰かに浄化してもらいたかった。

 上手く愛されることより上手く愛することのほうが圧倒的に難しい。恋愛劇の常套句のような言葉を思い出した。

「変な言い訳になるけど、僕はたぶん、真実ちゃんの表層しか見てなかった。真実ちゃんに自分の理想像を押し付けていた。きっとこのまま付き合ってたら、『こんな人だとは思わなかった』なんてことを言いまくったと思う」

「あは、なんかそれ嫌だな。でも、何となくわかるよ。心の機微に疎いとかいう以前に、あなた人間観察力ゼロだもんね」

「……それは、ちょっと傷付くな」

「傷付けてるの。好きな人が自分以外の人と一緒になるのを温かく見守る、なんてやっぱり悔しいもん」

「女の嫉妬は恐いな」

「当然」

 ようやく、真実ちゃんは僕から体を離した。横目でこちらを見遣って、口元に大人びた笑みをのせた。

「ついでに、かなりショッキングな事実教えてあげようか」

「え、結構な深手になりそう?」

「たぶん」

「じゃ、いい」

「まあ、遠慮せずに。私、今はフリーだけど実はこの三年で四人と付き合ってるよ」

 僕は、間抜けにも大口を開けたまま彼女の顔を食い入るように見詰めた。真実ちゃんを見る目が百八十度反転したように思った。少し恥ずかしそうに頬を染めるその表情が、小憎らしいほどいつも通りで、僕は逆に動揺した。

「……嘘?」

「ほんと」

「誰? 僕の知ってる人?」

「一人はね。あとの三人は全然知らない人だと思う」

「何で、って訊くのはナンセンスかな?」

「あは、嫉妬してる。ちょっと嬉しい。……別の人と付き合ったのは、高校に入って急にもて始めて調子に乗ったからってのが一つで、誰かさんがいなくて一人じゃ寂しかったからってのがもう一つ。でも一番大きい理由は、久しぶりに会ったのに『彼氏いるの?』って訊いてくれなかった誰かさんを見返したかったから、かな」

 眩暈を覚えそうになった。こんな辻褄合わせは要らない。僕は心底自分の行動を悔いた。何気ない言動で、既に償い切れないほど彼女を傷付けていたのだ。

 僕が彼女に投影していたのは、やはり身勝手な幻だったのだろう。僕の前で見せた真実ちゃんの仕草全てがお芝居だったと言われても、たぶんもう驚かない。抜群の演技力だったと褒め称えたいくらいだ。

「なんか、騙されてた気分」

「念のために言っとくけど、あなたのこと好きってのはほんとだよ。私のこと好きになってもらおうと思ってずっと必死だったし。ただ、人が一生の間に好きになる相手は決して一人じゃないってだけの話で」

「……まあ、それは僕も嫌というほどわかってるけど」

「かといって私は、同時に二人を好きになって平気でいられるほど人生を割り切れないし、相手のそれを許せるほど優しくもない」

「うん、僕も全くその通りだ」

「だからここは、私達二人がお互いをすっぱり諦めてお終い。それぞれ別のお相手を探しましょうってことで丸く収まる」

「……どこか釈然としないけど、了解」

 ゴンドラは間もなく地上に到着する。途中から殆ど外を見ていなかったことを少し残念に思いながら、僕は苦笑した。

 真実ちゃんは何故か、ポシェットから眼鏡ケースを取り出し、そこに眼鏡を仕舞い込んだ。艶然と笑む。

「ねえ、でも最後に、お互いの未練を振り切るためのちょっとした儀式をする気ない?」

 言って、潤んだ瞳をゆっくりと閉じ、心なしか上を向き、僅かにすぼめた唇を僕の方に突き出した。何をせがまれているのか、わからないほど野暮じゃなかった。

 僕は、どうしてかこれまでで一番緊張しながら、彼女の肩に手をかけた。

「……どこか釈然としないけど、了解」

 嘯いて、自分の唇をそっと彼女のそれに重ねていく。少しも躊躇しなかったのが、ある意味僕らしいと言えた。唇が触れ合った瞬間、真実ちゃんの震えが伝わって来た。一人では抱えきれない想いを静かに分け合った。

 まるで恋愛映画のようだった。観覧車の中で口付けを交わす相思相愛の二人がここにいた。丸っきりハッピーエンドの構図なのに、実際は離別のシーンなのが痛かった。静寂が深々と僕の心臓に突き刺さった。

 真実ちゃんの唇は柔らかく、涙の味がした。不意に互いの舌先が触れ合って、真実ちゃんが小さく身を捩った。可愛く喉の奥で鳴いた。僕はあえて理性の箍を外し、貪欲に相手を欲した。真実ちゃんもおずおずと応じてくれた。絡まる吐息にほんのりと煙草の匂いが混じった時、僕の幻想はそれに溶けて完全に消えてしまった。全く知らない女の子が腕の中に居るみたいだった。

 僕達は一旦唇を離したけれど、どちらからともなく再び口付けた。唇を求め、互いを貪った。無言のまま、執拗なほど別れの儀式に没頭し続けた。

……さよならを言う、その代わりに。

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