エピソード七

 もったいぶってないで早く袋の中身を教えろ、なんて思うかもしれないが、僕にはもったいぶるつもりは毛頭ない。ヒントどころか答えも既に提供してある。何しろ、紙袋を見て絶望する理由なんて一つしかないだろう? いや、正確に言えば、見た途端に絶望する紙袋なんて一つしかないだろう?

 そう、あれだよ。

 僕を狙撃した男が持っていた怪しげな荷物さ!

 それがどうしてこんなところにあるのか。いや、どうしてこうも平然と僕の手に渡るのか。そんなの、考えるまでもない。この期に及んで、過去を変容させるためだなんて話、あるわけがない。

 僕は万が一の可能性に縋って、袋の中身を一つずつ確認していった。けれど残念ながら、予想通りのラインナップがずらりだ。変装用のサングラスが二つ、新品の男性用整髪料が一つ、季節感無視のロングコートが窮屈そうに畳まれて、男性用と女性用それぞれ一着ずつ。最後に紙袋の底に残ったものを見て、あまりのシュールな光景に楽しくもないのに笑ってしまった。どうしようもない不快が襲い、食べたばかりの蕎麦を戻しそうになる。そこには黒く照り輝く拳銃が、その重厚さとは裏腹に、ひっそりと眠るように横たわっていた。

 僕達に求められていることは、火を見るより明らかだった。

 体感的に一ヶ月以上前、実質的に未来の記憶を必死に辿る。あの遊園地で真実ちゃんの手作り弁当を食べていた時、その横の座席にいたサングラスにロングコートの怪しげな男。……僕を狙撃した犯人。さらにその正面にいた同じような格好の女。……おそらく犯人の連れ立った彼女の、風貌をどうにか思い出そうとする。――駄目だ。印象に残っていない。茫洋としていてどうにも掴み所がない。

 はっとなって、僕はデジカメを取り出した。随分と酷使してきたため、バッテリーが切れそうだ。出来る限り急いで写真を検索していく。古い方から順に、写真の中の怪しげな人影を探す。自宅の最寄り駅でこちらを振り返った瞬間の真実ちゃん。派手な遊園地直通バス。入り口に連なる行列。子供連れの女の人に撮ってもらった真実ちゃんと僕のツーショット。ほぼ同じ構図がもう一枚。噴水前でマスコットキャラの着ぐるみと僕達のスリーショット。アトラクション前でポーズを決める真実ちゃん……。

 いた。豪華なお弁当に続いて表れた、真実ちゃんが大きな鮫のぬいぐるみに跨っている写真の中に、目的の人物を発見した。どうして撮った時には気付かなかったのだろうか。ぬいぐるみの後ろにある棚の向こう側に、サングラスをかけた男女が小さく写り込んでいる。

 ピンポイントで拡大する。画像は荒くなったが、女の顔の特徴はどうにか判別出来た。何しろ今や一番見慣れた人間の顔だ。見間違えようもない。男の方の顔に至っては、見たくもなかった。

 これで、一切の言い逃れは利かなくなった。

 僕は呆然と呟いた。駅構内に荷物を散らかしている僕達を通行人が不思議そうに見ていたが、気にしている場合ではなかった。

「あれは、僕達だったのか……」

 考え得る限り最低最悪の狂言だった。僕と冴里は三年後、デート中の僕と真実ちゃんの前に変装して現れるのだ。二人とも、この日のフリーパスは買わなくても最初から着けているというあまりの親切設計! 冴里はこの黒尽くめの洋服の上にコートを羽織り、サングラスを着けて。僕はその挙句に髪をオールバックに固め、銃をコートの内ポケットに潜ませて……。

 真実ちゃんがトイレに行き、過去の僕が独りになったら行動開始だ。僕は真実ちゃんの荷物に阻まれることになる実弾を過去の自分に向けて発射し、冴里は僕の連れであることなど知らぬ風に颯爽とその僕を助けに走る。そして――

 過去の僕と一緒に海へ出て、漂流し、漂着し、生還する。まさに、この僕が辿った道程と同じように……。

――ちょっと待ってくれ!

 その恐ろしい事実に行き当たり、僕は真っ青になった。

「冴里、君は全て知ってたのか!」

 言葉は悲痛な叫びになる。冴里は、わずかに困惑の色をその目に湛えたが、あくまで平静を崩さずに立っていた。

「これらを信じるなら、ことになる……。ぐるぐるぐるぐる、まるでメリーゴーラウンドのように! そんな馬鹿なことがあるか! おかしいじゃないか。君は、歴とした一人の人間だ。僕の人生の一定期間に閉じ込められるなんてことが許されるわけがない!」

 冴里は、未来の僕に一連の冒険の流れを教えられたのだと言った。僕のことを運命の相手だと言った。歴史は常に賢い者の味方だと言った。予想より漂流がきつかったと言った。時間移動にある程度の軸がある僕が羨ましいとも言った。僕を守ってくれると言った。僕が近いうちに真実ちゃんでなく冴里を選ぶようになるとも言った!

 頭がくらくらする。

 彼女の言葉の何が本当で何が嘘か、全くわからなかった。僕のパートナーだったはずの年上の女性は、期間限定でしか僕の前にいられない、蜃気楼のように実体のない相手だったとでも?

 まさか。

 そんな辻褄あわせならばない方が良い。僕の人生のために彼女の人生が円環となって閉じてしまうなんて、許されるはずがない。

 僕はそう強硬に主張したが、当の冴里は何を考えているのか、笑って取り合わなかった。

「この世はなるようになる。因果を繋ぎ得るのがあなたしかいないなら、きっとあなたはそれを成すわ。それが運命なのよ」

 僕は憎悪にも似た強烈な感情に支配され、発狂せんばかりに身悶えした。頭をばりばりと掻き毟り、次善策が無いものか、必死の形相で模索した。だが、全ては螺旋状に上手く纏まってしまっている。冴里を、僕の人生における浮気な女神の偶像として短期的な位置付けに甘んじさせると、パズルはこれ以上ないほど綺麗に完成する。僕は異常な時間流の中それでも前進し、冴里は永劫同じ時を繰り返し続けるという致命的な岐路に立たされるけれど。

 それを否定するならば、全てを白紙に戻さなくてはならない。完成直前のパズルを引っ繰り返して台無しにするような行動をとらざるを得ない。

 ああ、それでいいじゃないか。僕の頭の中で、誰かがそう叫んでいた。辻褄合わせなんか糞くらえだ。僕達は同期してタイムスリップ出来る運命的なカップルだ。このまま二人、どこか遠くに駆け落ちでもして平和に暮らせばいいじゃないか。時間の枠組みに囚われる必要なんて、もう全くないのさ!

 まさか。そう単純な話ではない。僕と冴里が出会ったのはそもそも遊園地での狙撃があったおかげだ。その狙撃事件を無かったことにしたら、僕と冴里の出会いそのものが否定されることになる。タイムスリップの同期も消え、二人ばらばらになって猛烈な孤独を抱えるのがオチだろう。万が一大丈夫だったとしても、僕達の境遇は決して落ち着かず、今しも巻き戻しが起こるんじゃないかと戦々恐々とし、胸の奥には説明のつかないもやもやがずっと居座り続けるはずだ。

 そんなのも願い下げだった。

 八方ふさがりとはまさにこのことだ。

 僕は頭を抱えた。前向きな考え方は全く出来なかった。

 もしかすると、割り切る時が来たのかもしれない。そもそも僕には真実ちゃんがいたのであり、冴里には吊り橋効果で転んだようなものだ。基本的にはそういう筋書きだった。つまり、僕が溺れそうになっていたのは浮気な恋ではなく、そもそも恋愛ですらなく、擬似恋愛とでも言うべき代物だったんじゃないだろうか。単に、シミュレーションの終焉が訪れ、真実の愛を見詰めなおす時期が来たのではないか。真実ちゃんと向き合う時が来たのではないのか。そんな風には考えた。

 だが、何にしろ悲劇だった。機械のように、自分の感情を客観的に判定出来る人間なんているはずがない。割り切ることなど出来ようがなかった。

 冴里は言った。

「大丈夫。大丈夫だから、私を信じなさい」

 ……それを信じたというわけでもない。なのに結局僕は、冴里を時の牢獄の中に送り出してしまうのだ。

 三年なんてあっという間だった。

 無論、これは比喩でも何でもない。僕がどれだけ鈍感でも、作為、乃至悪意を感じずにはいられないタイミングで、タイムスリップが起こった。口論に疲れた僕が喫茶店での休憩を申し入れた途端であり、冴里が地面に散らばった変装道具を全て纏め終えた瞬間でもあった。あと一秒早ければ、僕達の手許に無かった紙袋はその場の時世に置いてけぼりになったかもしれないし、あと一秒遅ければ、腹立ち紛れに開き直って休憩くらいはとれていただろう。余りにもきりが良過ぎた。まるで話として一段落がついて、準備段階から決行段階へとスムーズに移行してしまったかのようだった。

 冴里が僕の目を見詰めながら、三年後に着いたわ、と平然と告げた時、僕はその場から完全に動けなくなった。あまりに突然の展開に、嘘だろ、としか言えず、開いた口も塞がらなかった。キオスクの店頭に筒状に重ねられた新聞を一部掴み、日付を確認して思わず唸った。ぐしゃり、と手の中で新聞紙が潰れ、弁償して購入する羽目になり、そういえばあのデートの時にテラスで犯人は新聞を読んでいたっけな、と妙に納得して溜息をついた。

 僕達は、当然というべきか偶然というべきか、あっけないほど手軽にデート当日の午前十一時を迎えたのだ。一連の出来事は全てこの日に収束するための布石だったのかもしれない。破壊活動家が暗躍しているような演出を施し、僕の危機感を煽ったことすらその一環だとすると、伊地知達は僕の協力者というより共犯者であり、僕は目的と手段が撞着した滑稽劇にまんまと踊らされただけ、ということになる。

「僕はこの日を永遠に忘れないと思う」

 皮肉な面持ちで僕が言うと、冴里も頷いた。

「私もよ。何しろあなたと初めて出逢った日だから」

 同時に、別れる日でもあるのか……。僕は彼女を抱き締めたい衝動に駆られたけれど、一度そうしてしまうとこの腕から解放してやれる自信が無かった。虚無的に乾いた覚悟に、湿っぽい悲惨な結末が上塗りされそうで、僕はかろうじて欲求を押し殺した。手すら繋がなかった。冴里は少し寂しそうに、けれども確かに笑っていた。

 整髪料をべったり塗り、トイレの鏡を使ってオールバックを完成させた。髪はがっちがちに固まっていた。そこにサングラスをかけ、大人びたコートを羽織るだけで、驚くほど平常時の自分から逸脱した。十や二十、歳をとった自分はこんな風になるのかもしれない。漠然とそんなことを考えた。銃の扱いには詳しくなかったけれど、冴里が基本的な操作を教えてくれた。最悪、暴発さえしなければそれで良かった。トイレの個室で、紙袋から懐に移した。ショルダーバッグと真実ちゃんのバッグを二つとも空になった紙袋の中に詰め込み、変装は完璧に仕上がった。いや、あの日の犯人の正確な模倣が完成した。

 同じように女子トイレから出てきた冴里の格好が、あまりに似合い過ぎていたため頬が緩みそうになった。強面の殺人者を装っているので、慌てて取り繕う。

「さ、行きましょう」

 冴里の声はいつも通りだったけれど、張りのある低い声はちゃちな扮装を越えて彼女を裏世界の住人に仕立て上げていた。その長身や、ぴんと伸びた背筋も実にそれらしい。

「そうだな」

 僕はどうしても、思春期のガキが大人ぶっているような猿真似の感が抜け切らなかったが、騙す相手が相手なので楽観出来た。何しろ自分の変装を見て『怪しげな人間だ』と断じるような愚か者である。他人の本質でなく、サングラスや髪型という形式化されたギミックに重点を置く杜撰な人間観察を前に、気をつけることなどほぼ皆無だ。せめて歩き方の癖くらい変えようかとも思ったが、ぎくしゃくして疲れるだけなので止めた。

 冴里と並び、一駅だけ電車に乗る。園まで歩いて行けない距離ではなかったが、少しでも急ぎの方が良いと考えた。真実ちゃんとはバスで来たため、こうして最寄り駅に向かうのは初めてだった。事あるごとにこちらへ不審そうな視線を投げかける乗客に囲まれ、何となく楽しくなる。

「拳銃を抜いてみせたらどうなるだろう」

「……やめなさいよ。大人気ない」

 まるでジョークのように誤魔化したけれど、本当にそうしたくてたまらなかった。後先考えずに雑踏に向けて引き金を引き、銃を乱射し、殺戮者の汚名を着て地獄のような哄笑を上げたかった。あるいは自らのこめかみを撃ち抜いて果てたかった。そんな破滅が自分にはお似合いに思えた。

 それで冴里が救われるというなら、僕は喜んでそうしていただろう。だが、実際は彼女を苦しめるだけだ。損得を越えて完全に無意味、空虚な妄想だった。

 到着した駅から、人の流れに沿ってテーマパークの入場門に向かう。ファンシーで楽しそうな曲がスピーカーから大音量で鳴り響いているが、僕の気分は裏腹に沈鬱だった。チケット売り場に寄る必要は無く、入場者数の重複カウントを避けるためにか用意されていた別枠のゲートへ進んだ。フリーパスの日付を確認し、「おかえりなさい」とにこやかに微笑む女性従業員を少し疎ましく思いながらも、僕は幻想の世界への帰還を実感する。

「これからどうするの?」

「デジカメによると、お弁当の写真は午後一時十分に撮られている。要するにそれが昼食の時間だから、僕らはその少し前にテラスに陣取っておけば良い」

「今何時?」

「えーと、十一時三十二分」

 僕は自分の腕時計で確認した。既に、駅の時計に合わせてあった。時計なら冴里も左腕に着けているが、彼女のものは端から用途が異なっているので、時刻を知る際の役には立たない。

「あと一時間と少しか」

「どうやって時間潰そう。この格好でアトラクションに乗るのも何だし、早めにテラスに行っておく?」

「あ、待って。一つだけ、わがまま聞いてもらっていい?」

「……内容次第」

 冴里は決して、最後に、とは言わなかった。その矜持が僕の胸を打った。彼女はいつものようにどこか飄々としながら、願いを告げた。

「一緒に観覧車に乗らない?」

 僕は自分でも不思議なほど落ち着いていられた。首を横に振るべきだ、と頭の中で誰かが僕を諌めた気がした。けれども、僕はそうしなかった。流されるままに頷いていた。拒むための上手い理由が見つからなかった。

 この判断は間違っていなかったはずだと、今でもそう思っている。

 観覧車に乗っている時間よりも、皮肉なことに待ち時間の方が長かった。ゴンドラ内は二人きりの密室であるが、たかだか十分少々しかない。ぽつりぽつりと散発的に話しただけで、何ら色っぽいことは起こらなかった。これは本当の本当に。

「私に初めて会った時、あなたどう思った?」

「どうって?」

「私の第一印象ってこと」

「何だろう……、ああ、あまりに颯爽としてたから、忍者みたいだって思った」

「何それ。失礼ね」

 サングラスをかけた二人がのんびりといつものような会話に興じている様は、ひどくミスマッチで滑稽だった。

「じゃあ聞くけど、冴里こそどうだったんだよ」

「どうって?」

「僕の第一印象」

 言ってしまってから、これは良くない質問だったと気付いた。冴里が無限の円環の中を生きているなら、僕との最初の接近遭遇という体験自体あるのかどうか疑わしかった。一瞬気まずくなりかけた僕に、彼女は真剣な顔でこう答えた。

「人の良さそうな顔してるなって思ったわ」

「……ふうん。他には?」

「そうね。次に会った時は、拳銃を前にしても全然怯まないところとか格好良いなって感じたけど」

 それは、あまりに現実感が乏しすぎて、危機を危機として認知出来なかっただけではないか。そう指摘しようと思ったけれど、こちらに都合の良い誤解を自ら解くこともなかろうと、僕は小さな笑みを浮かべるに留めた。

 物寂しい気持ちが表情に出ないよう苦心した。

 何度も何度も漂流して大変だね。頑張ってね。

 あまりに白々しくて、身勝手な応援は出来なかった。

 ゴンドラが一周して地上に戻って来た時、全てが終わったように感じた。僕の旅も、こうして一周し終えたのだ。

 意識することなく、歴史の中に溶け込んだ。レストラン前のテラスでは、まるで予約でもしてあったかのように、座るべき席がしっかり空いていた。僕は急にコーヒーが飲みたくなり、同時に新聞も読みたくなり、ちらちらと周囲を窺いながらも全くそのようにした。気温が上がってきて暑いくらいだったが、コートを脱ぎたいとは思わなかった。冴里はサングラスの向こうで静かに瞳を閉じている。これから待つ数々の試練に向け、体力を温存しているのかもしれない。

 そして午後一時。隣の座席に一組の微笑ましいカップルがやってくる。僕は出来るだけ新聞で顔を隠し、そちらの気配を耳だけで窺う。女の子がかばんから手作りのお弁当を取り出している。

「お世辞抜きにすごいな、これは」

「料理久しぶりだから、張り切っちゃった」

「……本当にすごいな」

「呆然と見てないで、早く食べようよ」

「あ、そうだ。写真写真」

「えー、恥ずかしいよ」

「ほら、お弁当と一緒に笑って笑って」

 楽しそうな声が聞こえ、僕は不覚にも涙を流しそうになった。胸にこみあげてくる感情に、名前がつけられない。強いて言えば望郷の念に似ていた。過ぎ去りし幸せの情景を文字通り目の当たりにしたのだから、ある種当然でもあった。

 だが、僕が涙ぐんだのはきっとそのためではなかった。僕はおそらく冴里のことを考えて、あるいは冴里を失う自分のことを考えて哀切を覚えていた。

 ……僕は結局、擬似恋愛の網の中から逃れることは出来なかったのだ。別れが近付けば近付くほど、その呪縛は威力を増して僕をタイトに締め上げた。

 冴里は、まるで僕と真実ちゃんの幸せから目を逸らすように、ひたすら瞑目して沈黙を守り続けた。ぬるくなったコーヒーを啜りながら、僕も新聞記事に没頭するよう努めた。

 変な髪形をしていない方の僕は、ガールフレンドの手料理に舌鼓をうち、一時間もしない内にすっかり全てを平らげてご満悦となった。傍から見ていてうんざりするほど楽しそうなオーラを撒き散らしている。

「そろそろ行動開始だ」

 隣の席の二人が片付けを始めたのを潮に、僕は新聞を折り畳んで、冴里に声をかけた。

「あとは、向こうにばれないよう後を追えばいいのね」

「実際のところ、現場がわかってるからそこへ先回りしてしまえばいいだけの話なんだけど」

「……尾行ごっこに飽きたらそうしましょ」

 当然ながら、そんな地味な活動が面白いはずも無く、僕達はすぐに飽きて音を上げてしまった。いや、気持ちの整理がつかないままで悠長なことをしている余裕が無かった、というべきか。鮫のぬいぐるみの後ろに待機して記念写真に紛れ込むという最低限の義務を果たした僕達は、一足早く現場に向かうことにした。

 ベンチが二脚並んでいる。記憶に従って、その片方にどっかりと腰を落ち着けた。冴里は、入念に付近の様子をチェックしている。僕はその背に声をかけた。

「やっぱり、やらないと駄目なんだろうか」

「……まだうだうだ言ってるの? ここまで来たんだから、やるしかないでしょ」

「冴里は、どうして平然としていられるわけ?」

 むっとして思わず問い返してしまったが、これは愚問だった。彼女にとって、これはルーチンワークに等しいはずだ。躊躇う理由などそもそも存在しない。

 僕が厭っていたのは、実はその一点だったのかもしれない。僕との会話や密事が全て定められた流れの一部であり、冴里にとって何度も繰り返されたやり取りであるなどとは、どうしても認めたくなかった。本気で冴里に相対していた自分が、操り手に恋したマリオネット人形のようで惨めだった。シニックを気取るには、冴里の存在はあまりにも僕の中で大き過ぎた。

 質問を受けた冴里は、むしろ怒っているような顔付きになって僕を見下ろした。

「私がどうして平気かって? そんなの、あなたのことが好きだからに決まってるでしょ」

 僕はサングラスを外し、目頭を押さえた。これほどの献身もないと思った。本音かどうかわからない、しかしただその一言で、僕は救われ得たのだ。

 僕は、彼女の覚悟に魅せられた。

「私がこんなにあなたを信じているんだから、あなたも私を信じなさい。絶対、大丈夫だから」

 けれど、大丈夫なわけがなかった。僕の前から冴里が消えてしまうという最大級の絶望を、一体何をもって贖えるというのか。……例えば真実ちゃんの純愛? 確かにそれは僕に最高の幸福をもたらすかもしれない。けれど、冴里の不在の代替にはならない。そんな気がした。冴里の代わりを務められる人間は、冴里しかいない。

 冴里に触れたかった。劣情にも似た思いに衝き動かされ、僕は手を伸ばした。冴里は何のつもりか、ハイタッチの要領でその手をぱちんと弾き、元気出しなさい、と笑った。

「ちょっとお手洗い行って来るけど、戻って来てまだめそめそ言ってたら、ぐーで殴るわよ」

 コートを翻して颯爽と歩いて行く背中を見やり、僕は最後に二人で記念写真を撮ることを思い付いた。紙袋の中を漁り、デジカメを探す。冴里が戻って来たら誰か他の人にシャッターを頼んでみよう、と思って周囲を見渡すと、隣のベンチにいつの間にか二人組の女性がいた。飲み物を持って談笑している――。

「あ」

 戦慄が走った。一瞬前までそこには確かに誰もいなかったはずだ。

 脳内の混乱は思いのほかすぐに弾けて消えた。僕はことのからくりに気付き、慌てて姿勢を戻した。トイレの正面に目をやると、考えていた通りの光景がそこには広がっていた。まるで吸い寄せられるように、そいつから視線を剥がせなくなった。サングラス越しに、一瞬だけ確かに目が合った。

 何の比喩でもなく、昔の僕を見ているみたいだった。あの日の僕がそこに立っていた。

 勿論、彼が突然この場所に出現したというのではない。突然ここに現れたのはこちらの方だった。荷物もろともタイムスリップで未来に飛んで来たのだ。数時間の空白をすっ飛ばし、僕はこうもあっさりと犯行時刻直前の世界に到着してしまった。……覚悟すら決められぬ内に。

 許せなかった。冴里との別れの挨拶一つまともに出来なかったことが、どうしても許せなかった。

 やるせなかった。冴里が全身全霊を込めて手助けする相手が、呑気に真実ちゃんを待っているという事実が、どう考えてもやるせなかった。

 僕は過去の自分自身に対して、間違いようのない憎悪を抱いた。彼は恩知らずであり、裏切り者であり、簒奪者であり、その全てを補って余りあるほど完全に無知だった。

 理性の深奥から殺意が漲ってきた。

 コインロッカーに入っていた拳銃が本物であった理由が、ようやくわかった気がした。

 これは狂言でなかった。僕は間違いなく過去の僕を殺そうとしていた。そこには遠慮も躊躇も容赦も何も無かった。真実ちゃんのバッグという鉄壁の防御に阻まれてどうせ失敗する、などという生易しい打算すら無かった。

 僕は全力をもってして戦うつもりだった。相手は単に過去の僕というだけでなかった。これはいわば、僕の因果律を神に問いかけるような、極めて大きな意味を持つ狙撃だった。ここでこいつさえ殺せば、冴里は僕のもとに戻って来る。僕のものになる。僕は幸福になれる。真実ちゃんという枷から解き放たれる。誰も見たことのない、冴里と共に歩く新しい未来が開けるのだと、そんな風に確信した。

 この時ようやく、僕には一連の冒険の意味がわかった。

 僕は、自分の伴侶を選ばされていたのだ。冴里と真実ちゃんという二人の候補者から択一するという方針で。

 何かに導かれるように、内ポケットから銃を取り出した。相手の男はぎょっとしたような顔で、しかし硬直したまま立ち竦んでいる。かすかに僕の手が震えたが、照準を合わせることに支障は無かった。撃鉄を下ろすと同時に、世界から全ての音が掻き消えた。遊園地特有のご機嫌な喧騒も、隣の女性二人の話し声も、風の囁きも、分厚いコートの衣擦れの音も、自分の心臓の鼓動音も、呼吸の音すらも。集中線を引いたように視野が狭窄し、斜に構えて立つ相手の心臓を視界の中心に捉えた。

 不思議なことに、射線上に真美ちゃんのバッグは無かった。盾として有効な位置になければ、奇跡を起こした辞書も魔法のような魔法瓶も役には立たない。奴の心臓は殆どノーガードで銃口に晒されていた。そして、一発目の銃声が鳴らなければ、冴里は彼を助けに来ない。彼が積極的に回避のための行動をとることもありえない。何故なら僕にそんな記憶はないからだ。

 要するに、過去の僕には弾丸を妨げる術など皆無だった。

 勝った。

 僕は確信をもって引き金を引いた。引き金は軽く、しかし発砲の反動で右腕が揺れた。

 ――鮮血が舞い、あの日の僕がもんどりうって倒れるのが見えた。


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