エピソード六

 あの遊園地では事件なんて何も起こっていない。

 迷彩男のその言葉を聞いて僕が考えたのは、どこかで平行世界に紛れ込んでしまったんじゃないか、ということだった。話の辻褄が合わないなんてそれこそ日常茶飯事だったし、島に上陸してすぐに飛んだ真実ちゃんとの会話で、何かヘマをやらかした可能性もあった。

 しかし、だからと言って僕に出来ることはたった一つ、僕の人生を生きるということだけだ。その途上で、タイムスリップにより繋がる因果もあるだろうし、どうやっても繋ぎ切れない因果もある。それだけのことで腐ってはいられない。僕には残念ながら赤い服を着て世界中の子供にプレゼントを配ることは出来ないけれど、代わりに過去の自分の自殺を食い止めることは出来る。

 きっとそれが、僕のための物語なんだろう。

 僕は、加賀見さんを呼びにヘリポートに走った。目的の場所を告げると、彼は操縦士に最寄りの飛行場を探すよう命じた。

「早速、行くのかい?」

「はい。……すみません、せっかく来ていただいたのに、なんだか慌しいことになってしまって」

「いや、構わないよ。君達の役にさえ立てれば、私はどんな形であれ満足さ」

 僕は深々と頭を下げると、出発の荷物を纏めるために屋敷にとって返した。ホールには、先を見越したように僕のショルダーバッグと真実ちゃんのバッグが置いてあり、冴里が梢さんと談笑していた。迷彩男の姿は無い。

「出発するんだって?」

 冴里がこちらの姿を見て、若干険のある表情で問う。大事な話の時に邪魔者扱いされたことを、少し根に持っているようだ。僕は頷き、目的地を教えた。

「そう……一体何があるのかしらね」

 迷彩男との会話の詳細を冴里に伝えたいと思ったけれど、よくわからないなりに彼の意図を汲んで、コインロッカーの件を除いて黙っておくことにした。

 冴里はぎこちなく笑顔を作り、中に何が入っているのか楽しみね、と言った。どことなく様子がおかしいようにも思ったが、梢さんの目もあったので優しい言葉の一つもかけられなかった。

 加賀見さんがやって来て、最寄りの飛行場と連絡がついたことを伝えた。

「エアポートから目的の駅まで少し距離があるが、電車で一本だ。私達はここに残るが、操縦士に全て指示は伝えてあるから、安心して乗りたまえ」

「はい、何から何までありがとうございました」

「何があっても、気をしっかり持ちなさい」

「……はい」

 僕は忘れ物が無いかを確認し、餞別として加賀見さんが押し付けてくる現金を断り、屋敷を出た。冴里が後ろを気にしながら着いて来た。せっかくなので、豪邸の前での記念撮影を申し入れ、ヘリポートから呼びつけたパイロットにデジカメを渡し、シャッターを押させた。僕、冴里、加賀見さん、梢さんの順に並ぶ。ちらりと冴里を盗み見ると、どこか呆れたような曖昧な笑みを浮かべている。僕の笑みは反対に、緊張で引き攣れていたことと思う。この冒険の本質を決定付ける何か重大なことが、今にも起こりそうな予感を感じていた。

 ヘリポートに向かって歩を進めた。僕の後ろを黙々と着いて来る冴里に歩調を合わせ、隣に並んだ。そっと手を伸ばすと、わずかな躊躇いの後、ゆるゆると指が絡んできた。思わず苦笑を零す。

「……どうかしたの?」

 笑みを見咎めたのか、冴里が尋ねる。不審そう、というより、どことなく不安そうだ。

「いや、ごめん。冴里が横にいないと落ち着かない、とか言ったら気色悪がるだろうな、と思って」

「そんなこと……」

「子供っぽい?」

「別に。私も似たようなものだしね」

「そうか」

「そうよ」

 僕と冴里は目配せするように僅かに見詰め合った。ふう、と軽く息を吐き出す。繋いだ手に視線を落とす。

「……でも、今はなんか落ち着かないんだよね」

 冴里がぎゅっと強く手を握り、僅かに驚愕したような顔になった。くすり、と口元だけを曲げて笑う。

「私の魅力もここまでってことかしら?」

「いや、そういうことじゃなくて。たぶん緊張してるせいだと思う。さっきから妙な予感がするんだ」

「大丈夫よ……。今度は私があなたを守ってあげるから、安心して。何しろあなたは私の運命の人なんだから」

「……ありがとう」

 ヘリコプターに乗り込んで、僕達は離島を後にした。座席は二人掛けが二列で、僕達は隣り合って座った。揺れも騒音も、予想したほど酷くなかった。上空から見下ろすと、あんなに大きかった屋敷ですら、まるでミニチュアハウスのようなちっぽけな代物にしか過ぎない。

「これじゃあ、二人乗りのボートなんて到底見つかりそうにないな」

 眼下には真っ青な大海原が広がっているが、水平線の先にかろうじて陸地らしき影が見えた。本土に向かって一直線に飛んでいるはずなのに、なかなか近付いて来ない。上手く撮れるかわからなかったが、ガラス越しに一枚シャッターを切った。

「到着までどれくらいかかるの?」

「そうですねー、まあ、一時間弱ってところですか」

 隣の冴里が、僕に寄りかかって寝息を立て始めた。これからに備えて体力を温存するつもりだろう。長い黒髪を撫で、穏やかな寝顔を見ている内に、いつの間にか僕も眠りにおちていた。

「お客さん、終点ですよ」

 低い声と共に肩を揺さぶられ、僕は文字通り飛び起きた。立ち上がった拍子に頭頂部を天井に激しく打ちつける。

「痛」

 派手な音を立ててぶつかったせいで、隣の冴里も目を醒ました。パチパチと瞬きを繰り返している。

「お二人さん、到着です」

 操縦席から身を乗り出して、軽薄なパイロットがにやついている。僕は彼の悪戯に引っ掛かったらしい。てっきり意識だけが別の時間に飛んで、電車の中ででも目覚めたものかと思ってしまった。

「勘弁してくれ……」

 打った部分を擦ると、熱をもって腫れてきているのがわかった。瘤になりそうだ。

「いやぁ、まさかそんなに驚くなんて思わないですって」

 悪気が無さそうな分、余計にたちが悪い。僕はここまで運んでくれた礼を等閑に言って、早々に機を降りた。周囲にはヘリコプターや小型の飛行機が何台も停まっていた。大型旅客機は離着陸出来そうにない、こぢんまりとした飛行場だった。

 操縦士は、飛行場を出た後の駅の方向を簡単に説明し、僕の背に向けてこんなことを言った。

「加賀見さんからの伝言なんですけど、何が起こっても絶対に目的地を目指すように、とのことですよ」

 どういう意味かと尋ねる前に、僕と冴里は正常な時間の流れから弾き出された。太陽が西から東へ瞬間的に移動し、気温がすっと下がった。飛行場の骨格だけを維持したまま、模様替えでもしたかのように各種機体が異なる配置に並べ直される。見覚えのない機種や見当たらない機種も多かった。僕達は体ごと別の時刻にタイムスリップしたようだ。

「冴里、今、いつかわかる?」

 振り向くと、冴里が何とも微妙な顔付きで、影法師のようにつっ立っていた。

「どうしたの?」

「どうしたもこうしたも、私達過去に戻っちゃったみたい」

 未来か過去かで言えば何となく過去だろうと思っていたので、僕はあまり驚かなかった。

「どれくらい? 二週間とか?」

 冴里は髪を揺らしながらゆるゆると首を横に振った。

「約三年よ」

 言葉の意味が浸透するまで数秒を要した。僕は表情が強張り、そのまま何も返答することが出来なかった。どこぞにふらりと放たれていた心が自分の中に戻って来るや、僕は一番近くにいた機材運送中の整備士を捕まえて、

「すみません。つかぬことをお伺いしますが、今、何年の何月何日ですか?」

 という、冗句にしても典型的過ぎて訊くのが憚られるような質問を真顔でぶつけた。整備士は、僕達がどこから入って来た客なのか訝りつつも、半笑いで答えてくれた。僕が神隠しでいなくなった翌年の、四月の終わりだった。ついでに時刻も尋ねると、午前九時半を過ぎた辺りとのこと。

 僕は呆然としながら、礼を言うのも忘れてふらふらと当ても無く歩き始めた。気がつくと冴里が手を引いて誘導してくれており、飛行場の敷地を抜け出て最寄り駅へ向かっていた。

「とにかく、忠告通りに目的地を目指しましょう」

 つまるところ電車で遊園地の隣駅まで行くつもりらしい。僕は、絶望的な心地でぶつぶつと文句をたれた。

「あの迷彩野郎が渡してくれたのは、コインロッカーの鍵なんだ。これがどういうことかわかるかい? 彼はその中に大事なものを入れて、鍵をかけて島までやって来た。それが、今から三年後のことだ。つまり、現時点では指定されたロッカーの中にまだ手掛かりなんざ入っちゃいない。空っぽか、無関係の旅行客のボストンバッグが詰まっているのが関の山さ」

「わからないわよ。十年前からずっと開かずのロッカーになっていて、駅員も持て余してる曰くつきの心霊スポットなのかもしれないし」

「……まさか」

「開けたら遺棄された嬰児のミイラが入っていて、その横には何とあなたの名前の名札が……」

「やめてくれよ」

 冴里の戯言は無意味に真に迫っており、怖気を覚えた僕の両腕に鳥肌が立つのがわかった。何にせよ希望が持てそうな状況ではなかったが、黙っていても他に行く場所はないので渋々彼女に従った。

 駅の券売機で切符を購入する。遊園地人気にあやかって増設された商魂逞しい私鉄路線なので、他に比べて明らかに割高だった。団体旅行の客を対象としたサポートシステムは充実していたけれど、さすがに男女二人のカップルというだけで値引きしてくれるような神懸り的サービスはなかった。冴里は財布を持っていないため、僕が二人分払う。

「三百年前とか二千年後とか、極端な時間移動がないのはありがたいね。紙幣や貨幣がそのまま使えるし」

「使えない場合もあるわよ」

「ん? ああ、デザインの刷新があったりすればね」

 プラットホームの端でボケッと電車を待つ。平日のせいかあまり客は多くないようだ。和やかなメロディが鳴り、電車が間もなく到着する、とのアナウンスが入った。黄色い線の内側に入るよう指示すると共に、聞き慣れない注意事項が読み上げられた。曰く、前二両は貸切りのため通常のお客様はご利用になれませんのであらかじめご了承下さい。

 僕と冴里は顔を見合わせる。

「どういうことだろ?」

「団体客がお金出して独占したんでしょ。はしゃぎたい盛りの幼稚園児を連れてくなら、他のお客さんから隔離しといた方が安全だし、その方が迷惑もかからない」

「なるほど。……マイクロバス借りて行けってのは無粋なんだろうか」

「さあ。意外とこっちの方が安いのかもしれないわね」

 電車が入って来た。僕達は先頭車両の方で待っていたので、三両目まで歩かなければいけなかった。貸し切られた前二両は、ドアさえ開かなかったのだ。

「中に乗ってる奴ら、幼稚園児じゃないぞ。見たところ中学生か高校生だ」

「一番喧しい年頃じゃない。隔離政策は正しいわ」

 彼らは私服姿で、傍から見ていても明らかに騒いでいた。三両目に乗り込むと、隣の車両からのざわめきが低く聞こえて来る。冴里は肩を竦めて、一席だけ空いていたボックスシートに滑り込むように座り、すぐさま瞼を下ろした。着いたら起こしてね、とその態度が物語っている。

 ドアが閉まり、発車した。僕は溜息をつき、殆ど同い年の若者が青春を謳歌する様を、窓ガラス越しに傍観した。遠足にしろ修学旅行にしろ引率の教師がいるはずだが、注意しないのだろうか。まあ、それをせずに自主性を重んじるための車両貸切り措置なのかもしれないが。

 思索の海に耽溺していたら、ちょんちょん、と突然後ろから肩を叩かれた。僕は慌てふためく。持っていた荷物が他の乗客にぶつかって因縁をつけられたのかと思ったのだ。振り向いて頭を下げようかと思ったら、見覚えのある顔がにこりと破顔した。対照的に僕は絶句。

「やっぱりだ。久しぶり。こんなとこで会うなんて奇遇だね」

 まさか。そんな馬鹿なことがあるはずはない。必死で事態を否定しようとしたが、そこにいたのが真実ちゃんであるという事実は決して揺らがなかった。

 ……一体、どういうことだ?

 真実ちゃんは、デートの時に比べてまだ幼さの残る面立ちをしていた。三年の月日を感じさせる。服装もあの日よりずっとラフで野暮ったい代物だったし、髪をアップにしているせいで全く印象が異なって見える。何より決定的な違和は、細い黒縁の眼鏡をかけていたことだ。小さめのナップザックをお腹側に抱え、くりっとした目で僕を見上げる仕草が小動物のようで可愛らしい。

「もう戻ってたの? 意外と早かったね。連絡くらいくれれば良かったのに」

 一瞬何のことだかわからなかったが、すぐに神隠しについてのことだと思い至る。僕はこの前年、トイレに行ったまま戻って来なかったことになっているのだ。

 つまりこの真実ちゃんは高校一年生なのか、と何気なく考えた時、僕は既に事前情報を持っていることに気付いた。デート中、真実ちゃんは高一の時に遠足であの遊園地に来たと話していたではないか。丁度今がそれに符合する。

 あまりに突然の事態に、僕は何をどうすれば良いのか完全に見失った。反射的に冴里に助けを求めようとしたが、彼女はこちらのことなど気にもとめず、完全に寝入っている。……乃至、その振りをしている。

「何ていうか、その、実はまだ戻って来たわけじゃないんだ。正式な復帰は二年以上後になる」

 自分の神隠しがどんな風に説明されていたかよく知らなかったので、嘘のない範囲でおたおたと誤魔化した。トイレから戻って来るだけなのに、復帰って何だ。

「じゃあ、ここで会ったことは秘密にしといた方がいい?」

 やけに物分かりの良い提案に感謝しつつ、僕は頷いた。

「そっか。じゃあ、二人だけの秘密だね」

 真実ちゃんは楽しそうにくすくすと笑い、貸切りの車両に僕の中学時代の知り合いが少なくとも四人いることを教えてくれた。

「そうか、あいつらも同じ高校だったっけ」

「あれ、知ってたんだ?」

「え、あ、まあ。だってこれ、高校の遠足でしょ?」

「うん、オリエンテーションとか格好よく言ってるけど、要するにそうだね。帰った後にレポート書かなきゃいけないのがちょっとネックなくらい」

 いかにも煩わしそうに言う。学生らしい悩みではあった。

「ん、そういえば、委員長はなんでここにいるの?」

「どういう意味?」

「だって、遠足のために二両貸切りになってるんだろ? ここ、一般車両だよ」

「ああ、そういうこと」

 真実ちゃんは、ちらりと周囲を窺い、声を潜める。

「何ていうか……、その、テンションについていけなくて、避難してきたの。この車両に先生が何人か乗って見張りしてるんだけど、静かにしてれば脱出も黙認してくれるみたい」

「ふうん……。委員長らしいというか何というか」

「ちなみに、念のために言っとくけど、もう委員長はやってないよ」

「まあ、そうだろうね」

「委員長は立候補者がいたから、私は副委員長」

「……結局押し付けられてるじゃん」

「中学時代の実績を買われたんだってば」

 当人も苦笑していたので、これは皮肉なんだろう。本気でこんなことを考える娘ではない。この真実ちゃんは、僕が知っている中学時代の真実ちゃんと予備校生の真実ちゃんの橋渡し的な位置付けにあるのだ。多感な年頃とはいえ、人格の本質部分が一過的な逸脱を見せることもあるまい。

「そっちは今何してるの? もしかしてデート?」

 珍しくシリアスなことを考えていたら、心臓を射抜く鋭い矢のような質問が飛んできた。回避する間もなく、僕は見事に致命傷を負い、柄にも無く狼狽した。柄にも無く、という割には、狼狽や困惑ばかりしている気もするけど。

 じくじくと、胸がしみるように痛む。

「いや、ここだけの話、変な陰謀に巻き込まれて死ぬか生きるかの大冒険してる」

「へえ、凄いね。じゃあ何、あの女の人は相棒のエージェントってこと?」

 冗談めかして真実を語ったつもりが、鋭く切り返された。

 冴里の存在は気付かれていたようだ。僕は肝を潰す。胸が苦しい。真実ちゃんの、眼鏡の奥の瞳は実に真剣だった。心なしか潤んでいる。もしかすると、意を決した質問をふざけて切り返されたと思って怒っているのかもしれない。

 ……自惚れに聞こえるだろうけれど、この時僕は、真実ちゃんが僕のことを好きであるのを確信した。正確には、初めて気付いてあげられた。神隠しの後に再会してから急速に接近したように思っていたけれど、それは三年前の時点で既に育まれていた彼女の慕情あってのことだったのだ。むしろ僕が鈍感だっただけで、中学時代から何度もアプローチがかけられていたのかもしれない――実を言えば、思い当たる節は数え切れないほどあった。

 自分は、とんでもない勢いで純粋な女の子を傷つけようとしているのかもしれない。逼迫感に喘いで突然に何も言えなくなり、嘘でも何でも良いから見苦しい言い訳にだけは聞こえないような、都合の良い文字列を必死で検索した。

 ……冴里がボディーガードだなんて口が裂けても言えない。

「えーと、信じてくれないのも無理ないけど、デートじゃないのは確か。だって、僕達遊園地に行くわけじゃないんだもん。一つ手前の駅で降りるんだ」

「え、嘘。そこって何があるの?」

 コインロッカーがあって、そこに預けられた謎の荷物を取りに行く……駄目だ。全体的に僕の体験話は胡散臭すぎる。

「蕎麦屋」

 その場凌ぎで思わず出てきた答えだったが、実際どこの駅にも蕎麦屋くらいあるだろうから、嘘ではない。意外なことに真実ちゃんは、それを聞いて納得の表情を見せた。

「あ、それテレビで前に見た! すごく美味しいお店なんだってね」

「え、あ、そう、うん」

「確かに、テーマパークの西門から歩くより隣駅からの方がアクセスに便利とも言ってた」

「ほう」

「お勧めは天ぷらそばの大盛り。麺だけじゃなく、おっきな海老天が一本増えるって。代々受け継がれた秘伝のだし汁と腰のある手打ち麺、その素晴らしい喉越しを是非ともご賞味あれってさ」

「……詳しいね」

「うん。……あ、何、もしかして取材に行くの? あの女の人は美食家か何かで」

「そ、そうなんだよ。えーと、ほら、全国食べ歩き? みたいな、何かそういう突発的な企画で隠密裏に津々浦々を回ってることになっててさ」

「あは、何だ、そっか。私はてっきり、年上の女性の抗い難い誘惑に負けて肉欲に溺れ、身を持ち崩した末に何もかも失って、仮初の愛だけを頼みに当て所も無く彷徨ってるところなのかと思っちゃった」

「え、何それ? どこのドラマだよ」

 むしろ、どんな冗談だ。思ったより上手く笑えない自分を呪う。真実ちゃんはわずかに目元を朱に染めてはにかむばかり。彼女なりの意趣返しのつもりなのかもしれない。

 あるいは僕の心の深奥を、僕より正確に覗いているのかも。……残酷なのは、一体どちらだろう。

「ところで委員長さ、今好きな人いる?」

 突然こんな無神経な物言いをする人間がいようとは、到底信じ切れなかった。況や、それが他ならぬ僕であることなど。

 真実ちゃんは僕から露骨に目を逸らし、明らかにうろたえた。返答する前から答えを言っているようなものだ。顔を赤くして、俯いている。

「ごめん。あまりにも唐突過ぎた。フェアじゃない」

「いや、いいよ。彼氏いるの、って訊かれない辺りが、非常に私らしいなって思うし」

「あ、いや、他意は無いよ」

「フォローになってない」

 真実ちゃんは、泣きたいのか笑いたいのかよくわからない表情で僕を見た。それでも本質的には楽しそうだと思ったのは、きっと僕の贔屓目ではないはずだ。

「お詫びに、好きな女の子のタイプでも自白しようか?」

「……ずるいなぁ、それ」

「だろうね。僕が同じ目にあったら千年の夢も覚める」

「百年の恋、じゃなくて?」

「恋は百年も続かないから、自分なりの言葉で表現してみた」

「成功してるとは言い難いけど」

 色んな意味で姑息なやり方だと思った。僕が見通すことの出来る真実ちゃんの未来は、三年後、僕と再会を果たし、ついには遊園地デートにこぎつけるということだけだ。

 僕には、トイレ休憩で別れる直前までの楽しそうな真実ちゃんを歴史の中に礎定する義務がある。だが同時に、それは大義名分に過ぎず、個人的な願望として真美ちゃんを楽しませたいという本音もある。

 例えばあの未来でデート中に真実ちゃんが大怪我を負うようなことになっていれば、僕はそれを回避するため幾らだって過去を改竄しただろう。

 だが、今回は違う。僕の想いと未来のビジョン、どちらを優先するにしても、同じようなやり口が効果的だ。予防線を敷いた上で、迷うことなく真実ちゃんの心を繋ぎ止めれば良い。小ずるい戦法に見えても、それが最適な戦略だからだ。

 僕は躊躇せず卑劣になれた。

「僕が好きなのは、まず、両親とコミュニケーションがちゃんととれてる娘かな」

「何それ」

 本当になんだよ、それ。僕は自分に対するもどかしさで苛々しながら言葉を探した。全てが未来への布石だった。

「いや、恋人のことを変に隠し立てしない、とか」

「あー。でも普通、お母さんになら言うけど、お父さんには秘密にするもんじゃない?」

「そこをあえて両親で」

 真実ちゃんは、まるで僕から厳密な交際の条件を提示されたかのように、真剣に考え込んでいる。実質それに近いのだから、笑うに笑えない。僕の口車に乗って父親にデートの件を話し、当日になって大量のお菓子を持参させられる羽目になる真実ちゃんが少し憐れですらある。

「他には?」

「えーと、普通に、話してて楽しい娘かな」

 これは時間稼ぎの無為な言葉だ。

「具体的には? 冗談を冗談としてちゃんと聞いてくれるとか?」

「え? それって当たり前じゃない?」

「当たり前じゃないよ。冗談を間に受けられたり、笑いどころが自分とずれてたりすると、楽しくてもいらっと来たりしない?」

「うーん、僕は大丈夫だね。楽しければ何でも」

 意外とシビアな見解を持つ真実ちゃんに驚かされつつ、僕はどうしようもない策を弄して彼女を迎え撃つ。

「あと、普段は冷静な振りしてるのに、裏ではこっそり恋占いとかおまじないとかに嵌ってるロマンチストタイプの娘って可愛いよね」

「えー、逆ならまだしも、そんな人絶対いないよ」

「『恋人』のページにハート型のしおりを挟んだ辞書を持って好きな相手に告白すると上手くいく、なんて言われて律儀に実践したりとか」

「そんな鬱陶しいおまじない本当にあるの?」

「いや、今作った」

「馬鹿みたい」

 馬鹿みたい? とんでもない。馬鹿そのものだ。

 けれども、それに自ら進んで首を突っ込む大馬鹿者が少なくとも一人いて、それ自体明らかに媚を売っているようなものなんだけど、それでも可愛いと思ってしまえる救いようのない愚か者だっている。

 やはり僕は、真実ちゃんのことが好きなのだ。

 冴里のことが頭をよぎる。僕は、全く同時に二人を愛せるほど器用でないし、大人でもなかった。体だけの関係だと割り切ることなどもってのほか、潔癖なまでの倫理観で恋愛沙汰に臨んでいたが、今回はそれが完全に仇となっていた。真実ちゃんと冴里との間に挟まれ、気付けばよくある三角関係の構図に追い込まれている。

 何が最悪だったかと言えば、最早誰もが傷付かずに済む結末などありえないという点だった。

 一体何がまずかったのだろう。冴里との出会いに運命的なものを少しでも感じたことか。肉欲に負けて冴里と寝たことか。あるいは逆に真実ちゃんを切り捨てられなかったことか。生存のために利用するという意識をどうしても持てなかったことか。

「着いたわよ」

 いつの間にか冴里が立ち上がって、こちらを見下ろしていた。鋭い視線に、隣の真実ちゃんがわずかに慄いている。

 あっと言う間の邂逅だった。果たして伝えそびれたことはないだろうか。そんなことを考えながら、僕は右手を上げて別れの挨拶をする。

「じゃあ、またいずれ会おう」

「……うん。じゃあね」

 どことなく素っ気無いのは冴里に遠慮したからか。真実ちゃんは彼女に黙礼したが、冴里はその一切を無視するようにすたすたと電車を降りた。仲良くしろというのも到底無理な話なので僕はその背を追い、軽く手を振って電車を見送った。

 ふと、左肩に下げた彼女のバッグを返却すべきだったかもしれないと思ったが、三年後の所持品を劣化させて今返す、というのもやはり妙だった。これで良かったはず、と半ば自分に言い聞かせるように何度も反芻する。

 電車が行ってしまうと、冴里は困ったような顔で僕に文句をつけた。

「あなたのせいで全然眠れなかったわ」

「盗み聞きなんて悪趣味だな」

「出来ることなら聞きたくなんてなかったけどね。あなたが他の女を口説く科白なんて」

 ぐっと言葉に詰まる。気丈に振る舞ってこそいるが、冴里にとって愉快なやり取りであったはずはない。たとえその何割かがサヴァイヴァルへの伏線だったとしても。

「女の嫉妬は恐いわよ」

「真実ちゃんの話? それとも冴里の話?」

「勿論その両方」

 冴里は意味ありげに笑うと、小さく溜息をついた。それから一転して弟の恋の相談に乗る姉のような口調になって、ぽつりと呟いた。

「彼女の前でも、真実ちゃんって名前で呼んであげれば良かったのに。委員長、なんて野暮な呼び方でなしに」

「……恥ずかしいんだよ、純粋に」

 冴里は口元を軽く吊り上げると、僕の手をとって何の冗談か改札を抜け、そのまま駅前通りを歩き始めた。

「あの、コインロッカー通り過ぎてるんだけど」

「ロッカー? 何の話? 美食家の私はてんぷらそばのレポートに来たはずだけど?」

「…………」

 それで気が済むのなら、と思って僕は彼女を止めなかった。この冒険を通して、僕と冴里と真実ちゃんの中で一番割りを食ったのは、結局何だかんだで僕なのだろうと思う。

 体感時間では昼食を抜いていたということもあって、お腹が空いていた。苦もなく見つけた蕎麦屋は短い行列が出来ており、僕達は最後尾に並んで無言で待った。料理店で物を食べることがひどく久しぶりな気がしたが、感覚が鈍磨しているのか何の感慨も湧かなかった。二名様ですか、と尋ねられて、そうです、と答えた時、その隣にいるのが誰であっても僕には違和感が無かったと思う。蕎麦は評判通り美味しかった。店内の甘い醤油の匂いに包まれながら、僕は正面に座る冴里の一挙一動をじっと目で追った。彼女は居心地の悪そうな顔をしていたけれども、やめてとは言わなかった。

 迷彩男から受け取った鍵を片手で弄び、ロッカーの中身を想像した。正直なところ、見当もつかなかった。ただ何故か、妙な胸騒ぎがした。

 勘定を済ませて店を後にし、来た道を逆に辿る。お昼時に近付いたためか、行列は随分長く伸びていた。遊園地を途中退場して来たらしい客が何組かいた。右手に填められたフリーパスが、ブレスレットのようにかすかに揺れている。僕達と同じだった。

「日付さえ印字されてなければ、ただでもぐりこめるのにね」

 冴里はそう言って笑う。フリーパスの日付は、改竄防止のためか、凹凸がつけられた特殊な技巧で刻印されていた。長い冒険の間ずっとつけていたので、あちこち擦り切れてぼろっちくなっていたけれど、日付の部分はまだしっかりと読める。この時点ではあり得るはずも無い、未来の数字が並んでいる。既に無用の長物のはずだったが、どうしても外すことは出来なかった。今やその執着が、真実ちゃんと冴里、どちらに対する情念を示しているのかすら判然としなかった。

 コインロッカーは容易く見つかった。キーホルダーに記された番号の扉は間違いなく鍵がかけられており、延長料金も発生していなかった。僕達のために誂えられたようにも見えたが、全くの偶然である惧れも依然強かった。

「全然関係ないものが入ってたら、何事もなかったように閉めよう」

「その、一見関係なさそうなものが実は重要だったらどうするの?」

「真相は藪の中へ」

 鍵を鍵穴に差し込み、捻る。カチャリと硬質な音がしてロッカーの扉が開いた。恐る恐る、どうしても震える心を叱咤して、その中を覗き込む。

 白い大きな紙袋の端が見えた。どこかで見覚えがあるような……。引っ張り出すと、どこからどう見ても単なる紙袋だった。ごわごわと中にいっぱい物が詰まっている。

 中身を確認する前に、僕は絶句した。その答えに気付いてしまった。思わず冴里の方を向く。彼女は曖昧な笑みで僕の視線を受け止めた。貧血を起こしたように視界が狭まり、その場に膝をついた。信じたくなかったけれども、最大の手掛かりが確かに転がっていた。

 奈落に落とされたような暗黒を感じた。

 僕は騙されていた。それも、絶対の味方だと信じていた未来の僕に。

 それにより、全てが一つに繋がったのだ。

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