エピソード五
漂流生活はまだ終わらなかった。皮肉なことに、僕達は日没間際にまた十二日目の朝に巻き戻されてしまったんだ。燃やした雑誌も復活してたし、写真のデータは一枚消えていた。無論、小型飛行機に助けを求めたこともパー。
でも、焦りはしなかった。同じことをすれば同じ結果が得られるのが世界の摂理だ。助けを呼ぶために必要な手順はわかっていた。
飛行機の到着三十分前に狼煙を上げる。飛行機が見えたら手鏡で信号を送る。飛行機がスモークを焚いて合図してくれたら成功。せっかくなので飛行機の写真を撮る。室内に二人で横たわって助けを待つ。ここでも写真を撮る。それを延々と繰り返した。
時には残りの食糧を全て食べて宴会めいたことをやってみたり、裸で海に飛び込んでみたり、気分が盛り上がるままに抱き合ったりしたけれど、救出のためのプロセスは絶対に崩さなかった。
十六回続いた。
この時の僕は決して理性的な人間ではなかった。ただでさえ漂流という過度のストレスでおかしくなりかけていて、そこに追い討ちをかけるようにタイムスリップだ。冴里が上手くストレスの発散を考えてくれたおかげで暴れたりはしなかったけれど、心の底では自暴自棄になっていた。何度も無茶をやった。それも、人間として最低の類の。
具体的なことは口に出すのも憚られるが、要するに僕は冴里の好意を利用して性的逸脱に走りかけたのだ。一歩間違えれば、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
ただ、ありがたいことにその全てがうやむやの中に消えた。
僕達の漂流生活は謎を抱えたまま唐突に打ち切られた。
最初に聞こえてきたのは、静かに打ち寄せる規則的な波の音だ。心地良いリズムが僕をまどろみの中から引き上げる。僕は目を開けても暗闇の中にいた。
手探りで周囲を確認する。隣に冴里の温かみを感じてほっとした。落ち着いた寝息を立てていたので、起こさないでおく。腕時計を見ると、午前十時一分。デジカメを起動して日付も確認する。どうやら、無事に来た漂流十三日目のようだ。画像データを見てみると、スモークを焚いた飛行機の写真と、ボートに寝そべった冴里とのツーショット写真がしっかり入っている。
ふと、全体的な身体感覚に違和感を覚えた。足場がやけに盤石過ぎる。波に揺られる浮揚感が足りないのだ。僕は這って入り口を探し、ファスナーを開けた。強い陽光が差し込む。
僕はおなじみのボートの中にいた。けれども、外はおなじみの一面の海ではなかった。
まず目に入って来たのは、砂浜だった。白く細かい砂がなだらかな傾斜をつけて広がっている。右手側こそ青く澄んだ海がのさばり、白い波頭を崩しているが、間違いなく陸地だった。救難ボートは、浜に打ち上げられたのだ。
僕は転げるようにボートから這い出した。揺らぎのない地面の感触がやけに久しぶりだった。どっしりとした大地の偉大さが、裸足の裏側からじんじんと染みて来るみたいだ。平衡を失い、よろりとふらつく。俗に言う陸酔いというやつかもしれない。二、三歩たたらを踏む。一歩目までは、確かに足の裏をくすぐる温かい砂粒の感触があった。
「惜しい」
え?
愕然とした。二歩目は靴を履いていた。眩暈のように視野内に白いノイズが混ざっている。目に見える景色ががらりと様相を変えていた。困惑に飲まれた。
タイムスリップだ……。何百何千とこなしてきたはずのそれを認識するまで、空白の数秒を要した。
がたんごとん、とレールの継ぎ目を越えるたびに独特のリズムを刻む震動。十二日前は日常だったはずの穏やかな風景。吊り革を掴んで立つスーツ姿のサラリーマン、煽情的な文句で耳目を引く車内広告、徐々に速度を上げて後方に流れ去って行く最寄り駅。
ああ、そしてドアの近くに立っている僕の隣には――
「参考書よりも変なものかもしれない」
無邪気に笑っている、真実ちゃんの姿があった。
活動的なパンツルック、ふわふわのキーホルダーの付いたポシェット、そして一際大きな手提げのバッグ。あの日、遊園地デートの時と全く同じスタイルだ。
不覚にも僕は泣きそうになってしまい、慌てて目元を擦った。当然、その右腕にフリーパスは付いていない。仄かな欠落感に囚われた。不自然にならないよう会話を繋ごうと試みたが、何を話していいのか咄嗟にはわからなかった。
体がやけに軽やかで、心身ともに充実している心地良さが全身を包み込んだ。当然だ。今の僕は十二日間の極限状況を生き抜いていない。清潔な皮膚にはつやとはりがあるし、筋肉も衰えていない。不衛生な水を飲んでいないから慢性的な腹痛もないし、潮の匂いに馴化してもいない。女の味も知らない。
真実ちゃんと真正面から向き合うことの許される頃の僕だ。
たとえその中には、あの時から全く変質してしまった僕がいるとしても。
「参考書よりも変、ねえ……」
僕は、きちんと隙間を埋めなければいけない。電車内にいる僕を上手く演じて、ターミナル駅の僕までリレーしなければいけない。漂流生活も、その終わりに辿り着いた謎の砂浜も、冴里のことも、全て一旦思考の外に置いて。
「普通は持ち歩かないもんだしね。もし次の一回で当てられたら、何でも言うこと聞いてあげる」
「え、本当に!」
真実ちゃんの言葉に、僕は無邪気に驚嘆の声を上げる。記憶を懸命に手繰って、どうにか会話の流れを思い出す。確か、その重そうなかばんには何が入ってるのか、といったようなやり取りだったはずだ。
「でも、間違えたら正解言わないからね」
大丈夫だよ、知ってるから。僕は思わずそう告げそうになった。
こんなに不平等な賭けもあるまい。僕は真実ちゃんのバッグを引っ繰り返して検めた経験があるのだ。予備の生理用品がどこのポケットに入っているか、隠し持っている煙草の銘柄は何か、そんなことまで熟知している。
適当に間違えるべきか正解を出すべきかで迷った。真実ちゃんからは、真剣に考えているように見えたことだろう。
「ヒント欲しい?」
「えーと、いらない。意地と根性で当てる」
「あは、無理っぽい」
隣駅に着いた。急行に乗り換えるために同じホームで待つ。絶妙な距離を開けて二人、隣り合っている。手は繋がない。繋ぎたくても、二つの理由から繋げない。一つは、罪悪感のため。もう一つは、遊園地前の行列で初めて手を繋いだ時の初々しい真実ちゃんの反応を守るため。
「そうか……」
僕は口の中だけで呟いた。この僕は、未来の僕として過去の僕のために然るべき行動をとらねばならないのだ。
テグスの時と同じ要領だ。あらゆる偶然を思い出し、それを必然に変えていく。
「よし、なんか突然閃いた」
僕は、宣言するように真実ちゃんに告げた。
「委員長が持ってるのって、辞書じゃない?」
真実ちゃんは、『お』の口のまま無言で体を軽く仰け反らせた。驚愕を端的に現したいらしい。さらに何故か、徐々に顔が赤く染まっていく。
「正解?」
「……うん。なんかびっくりして心臓止まりそうになった。何でわかったの?」
「え? 意地と根性で」
「えー、嘘だぁ」
「じゃあ、勘」
「うん、なら納得」
「勘で良いなら何でもありじゃん」
僕の指摘に、くすくすと楽しそうに笑う真実ちゃん。体感時間にしてひと月ぶりの再会なのに、まるで何年も会っていなかったように感じてしまう。その笑顔が、やけに懐かしい。穏やかで屈託のない、えくぼの出来そうな純粋な微笑。
「よし、じゃあ早速命令聞いてもらおうかな」
「えー、いきなり? 線路に飛び込め、とか無しだよ」
「何でまたそんなブラックな……」
「一応こっちにも最低限の拒否権があることを主張しとかないと」
「ま、僕は弥勒菩薩なみに優しいから、大丈夫だよ」
「ほんとに優しい人はそんなこと言いません」
「だね」
病んだ精神も、健康な肉体に引き摺られるのかもしれない。意外に自然な様子で会話をこなす自分を、まるで別人を眺めるような心地で意識する。
やって来た急行電車に乗り込んだところで、本題に入った。
「終点ついたらさ、キオスクに寄ってペットボトルの飲み物二本買って来てよ」
「パシリ? 考え方がせこいなあ。別にいいけど、私水筒持って来てるよ。二リットルくらい入るやつ」
「あー、えーと、それは金輪際忘れる方向で」
「は?」
きょとんとした顔で、真実ちゃんが首を傾げる。あまりに素直な態度に、心臓を締め付けられるような苦しさを覚えた。
「なんていうか、そう、あたかも水筒なんて無い風を装うゲームだと思って。喉が渇いたら、キオスクで買った飲み物を飲む。お弁当食べる時も勿論水筒は出さない」
「あれ? お弁当作ってきたこと言ったっけ?」
しまった。変な風に墓穴を掘った。ここで僕がお弁当の存在に気付くのはまずい。
「ううん。カマをかけてみただけ。作ってきてくれてたら嬉しいな、と思って」
「あー、なんだ。じゃあ引っ掛かっちゃったな。お昼にジャーンって出して驚いてもらおうと思ってたのに」
「なら、そうだ。これもゲームの一環にしよう。あたかもお弁当のことなんか知りませんっていう風を装おう」
「何それ?」
「まあ見ててみなって。僕、すごいから。委員長がお弁当出したら、本当に今始めて知りましたって感じで、目、キラキラさせて喜んでみせるから」
「あは、なんか面白そうだけど、変なとこで無理しなくていいんじゃない?」
「いやいや、そんな懸念なんて吹っ飛ぶくらいのリアクション見せるよ」
不意に、僕が遊園地内でお弁当のことを知らされた時の真実ちゃんの曖昧な笑顔を思い出し、何となく納得した。こんなやり取りがあったのでは、苦笑の一つも零したくなる。
「えーと、命令はそれで全部?」
「今のところは……。あ、まだだ。園内での間食を禁止しよう」
「間食? おやつのこと?」
「うん」
「ええ! 私、自慢じゃないけどお菓子、山のように持ってきたんだけど」
「なんでそんなに……?」
「お父さんが持っていけって」
何も無いのに思わず噎せた。
「お父さん……? ちなみにお父さんには今日のデートのことはどう伝わってるの?」
「そのまま。仲のいい男の子と遊びに行くって」
「オトコノコ、までですか」
半ば親公認だ。戦慄が走る。
「でも、それなら尚更お菓子なんて持たせるかな? 厳しい門限を設けるとかならともかく……。お父さんお菓子屋さんなの?」
「まさか。何かの縁起担ぎみたいなこと言ってたけど、実際は、『お前らなんてまだまだ遠足気分のお子ちゃまだ』ってことを暗に示したかったんじゃないかな。当て擦りみたいだけど」
「……そんなに屈折したお父さんなの?」
「あは、当たらずとも遠からずってとこかな」
「ま、まあ、そんなお父さんに屈しないためにも、間食はなしの方向で。身体にも良くないしね」
僕はどうにか話を纏めて、少しでもこの現実が歴史通りになるよう、調節して行く。僕の危機を救ったのが殆ど真実ちゃんのバッグである以上、一歩間違えれば自分の命に関わる。
他に、何か注意をすべきことは。
「必然的に、そのバッグは中身が減らなくて重いままになるから、より力のある僕が持つことにしよう」
被弾した際、盾にするための措置だ。
「え、悪いよ」
「悪くないって。約束通り、僕の言うことは聞いてもらう」
「かっこつけちゃって」
とはいえ満更でも無さそうに、僕にバッグを渡そうとする真実ちゃん。
「床に置いとけばいいのに」
「なんか、直接地面に置くのって嫌じゃない? 汚そうで」
バッグを受け取ろうとした僕は、その言葉で手を止める。この日の朝、電車内からターミナル駅へ突然ワープした僕は、バランスを崩して何歩かふらついた。その時、もしもこんな重い物を持っていたら、即座に転倒してしまうのではなかろうか。地面に置いておくことが許されないなら、ここでバッグを受け取るべきでない。実際、荷物を受け取ったのは真実ちゃんがキオスクから戻って来た後だった……。
「あ、今の言葉は町の清掃局の人たちを侮辱してるな。罰として、荷物もちはしばらくお預けにしよう。飲み物買ってくるまでは自分で持ちたまえ」
わけのわからないノリで無理やり切り抜けることにした。デートの本質は結局、気の合う二人のふざけ合いだ。
「えー、ずるい。なんか、期待した分一気に重く感じてきた。お礼言って損した」
「いやいや、委員長お礼なんて一つも言ってなかったから」
「心の中では言ってたの。『このたびの貴殿のご配慮、恭悦至極に存じます』って」
「ないない」
喋っている自分と考えている自分が全く別人のように乖離していた。僕は表面上楽しそうに、つつがなく真実ちゃんとのデートをこなしている。その裏で、生存のための布石を一つずつ練っている。
どちらも僕であり、どちらも僕でない。心と体と世界が、全て細切れにされているみたいだ。
終点に到着する直前になって、煙草のことに思い至った。もしかするとあれも、僕の指示で買ったものなんじゃないだろうか? 何しろ、一緒に入っていたライターが狼煙を上げるための必需品である。そのためのカモフラージュとして抱き合わせで買わせたのでは……?
実際、純真そうな真実ちゃんを直に見ると、陰で煙草を吸っていそうには思えない。煙草の件を切り出すべきか否か、僕は迷いに迷った。
結局やめた。煙草のケースが開封済みだったことが、全てを裏付けているように思えた。煙草の話題を出して薮蛇になるのは嫌だった。疑惑が真相として固まるのはどうしても避けたい。
たとえ偽りの純粋性であっても、今はそれを愛でていたかった。僕も随分屈折していた。
ターミナル駅に着いて、僕達は改札をくぐった。
「じゃあ、飲み物買って来る」
「任せた。その間に僕、そこの地図でバス乗り場確認しておくから」
「ん、お願い」
ずっしりとしたバッグの重さをものともせずに、真実ちゃんは雑踏を上手くかわしてキオスクの方へと消えて行った。僕はその背を見送り、記憶にある通りの地図看板へ近付く。
やるべきことは、やったはずだった。肩の力を抜いて、目を閉じる。ゆっくりと瞼を開けて行き、あの砂浜に戻っている場面を想像した。依然、駅の雑踏が視界を埋めている。
あれ、まだか。
不意に、全てが虚無に溶けるのでないかという恐怖に駆られた。僕は精神だけ未来にトリップし、『ありうべき未来』の一つを垣間見ただけなんじゃないか。全ては時間移動体質の成せる幻想に過ぎず、僕と真実ちゃんはこれから平然とデートをして平然と帰宅するんじゃないか……。事実、そういうことが無いではなかったので、僕は冷水を浴びせられたようにぶるりと震えた。今更全てが白紙に戻るなんて、酷だ。
直後の瞬き一つで世界が変わった。突然体が脱力し、バランスを崩して顔面から白砂の中に倒れ込む。細い腕を伸ばして咄嗟に体を支えようとしたけれど、衝撃を殺す前に腕の方が折れそうだった。頬にざらついた砂の感触が直撃し、Tシャツ越しにもちくちくとそれが感じられた。尖った貝殻やガラス片なんかが落ちていたら危ないところだった。
仰向けになって、大の字に転がる。細かい砂はぱさつく髪に容易く絡まり、ジーンズの内側にも巧みに入り込んでくる。
僕は淡々と笑った。自虐的に哄笑を上げた。起き上がり、砂を掴んで遠くまで投げ捨てる。綺麗な砂浜だった。小さく均一な砂粒が、絵に描いた様にぎっしりと敷き詰められている。見た限りゴミ一つ落ちておらず、わずかに流れ着いた海藻が干からびて朽ちている以外、海岸線は真っ白だった。
内地に目を向けると、砂浜は徐々に岩場に変わり、そのまま崖のような岩肌にぶつかっている。その上は鬱蒼とした森になっており、左右を見渡すと、湾曲した海岸線がすぐにその高台の影に隠れるように消えていた。非常に狭い島か、そうでなければ半島の突端だ。
漂流生活が無人島生活に切り替わっただけで、サヴァイヴァルライフの持続を余儀無くされるのでは元も子もない。
僕は、覚束ない足取りでテントのようなボートに戻り、冴里を起こすことにした。真実ちゃんに会った後、それでも全く揺るぎそうにない冴里との絆が、我がことながら残酷だった。適切な距離を置こうと自制出来るほど強くなかった。
ゴム製の床に砂が当たってぱらぱらと軽い音を立てた。四つん這いになって冴里に近付き、肩を揺する。
「……着いたよ」
着いたって、どこに? 自分でも馬鹿げた科白だと思ったけれど、冴里は眠そうに目を擦り、平然と次のようなことを口にした。
「なら、荷物をまとめて早速出発しましょう」
寝ぼけているのかと思ったが、彼女は立ち上がり、てきぱきと動き始めた。まず服装を整え、散らかった室内を片付けた。ゴミはゴミでまとめ、残った食糧、タオルやナイフなどの小物は元のバッグに戻して行く。僕は呆気にとられつつ、彼女に倣って室内の清掃をした。デニムジャケットを羽織り、荷物の整頓をしようとして、慌てて携帯電話を取り出した。長い漂流生活ですっかりその存在を忘れていた。電源を入れて電波状況を確認する。
「圏外でしょ?」
見透かしたように冴里が言うが、まさにその通りだった。僕はすごすごとそれを引っ込めた。ここも辺鄙な場所らしい。
冴里が、改造したペットボトルをゴミの袋に入れているので僕は焦った。
「待ってくれ。それはまだ必要になるかもしれない。水を蓄えられる容器は貴重だ」
「大丈夫。私を信じなさい。私達は助かったのよ」
一通り荷物を纏めると、僕達は手を繋いで上陸を果たした。僕は、靴を履いての再上陸だ。砂粒がその内側に入り込む不快までもひっくるめて、浮ついた気分だった。
「本当は、ボートも畳んで持っていくべきなんだけど、重そうだからやめておきましょう」
「天井に溜まった水は? 水筒に汲んでいくべきじゃない?」
「……そうね」
僕は、かなり悪くなっている水を魔法瓶に詰めた。肩から下げた真実ちゃんのバッグに入れる。
二人でお互いを支え合うようにしながら、砂浜を歩く。仲良く並んだ足跡が、点々と白いキャンバスに刻まれていった。島を反時計回りに巡るように、右手に海を見て進む。
「ここ、無人島かな?」
「いいえ。確かに島だけど、人はいるわ」
「なんでわかるの?」
「あら、忘れたの? 私はあなたの旅に関して、一通りの流れを知っているのよ」
「え、だって、自分が生き残れるかどうかわからないって不安そうにしてたじゃないか」
「そうでもしないとあなた本気になってくれないでしょ」
冴里はぬけぬけとそんなことを言った。騙されていたような気になったが、一理も二理もあったので反駁出来なかった。
「でも正直、予想してたより随分としんどかったわ」
「冴里が死ななくてほんとに良かった」
「……そんなこと、真面目な顔で言われると照れるわね」
僕達は、痩せ衰え、やつれた顔を見合わせて笑った。どうしてか、真実ちゃんの健常な笑顔よりも魅力的に見えた。日常への回帰を望む執念が、萎えかけていた。
波の音を聴きながら十分ほど歩いたところで、意外な景色に行き当たった。左手、自然林と信じていた木々が切り開かれ、高台になった島中央部に向けて、人工的な階段が設置されていたのである。曲がりくねっていて先は見通せないが、まるで僕達を招いているように感じられた。
「上りましょう」
迷うことなく二人は森へ踏み込んだ。休憩の一つもとらずに石造りの階段を一歩ずつ進んでいく。少しでも和やかな気分になれるよう、飴を舐めた。木の葉のざわめきや小鳥のさえずりに耳を傾け、自然を満喫しにピクニックに出かけたような雰囲気を偽装した。僕達の体力は、限界に近かった。
「こんな時に何なんだけど」
冴里が僕の手を強く握りながら言った。
「あなた、私のこと、好き?」
僕は、驚きで疲労が全て吹き飛ぶのを感じた。それは錯覚だろうけど、気が紛れて楽になったのは確かだった。
「……好きじゃなきゃ、あんなことしない」
「それは嘘。興味本位でしょ」
「……そうだね」
「極限状況ということもあって、決して本意ではなかった」
「……そうかもしれない」
「本当は真実ちゃんのことが気になる」
「…………」
「ま、あんな極端な共同生活送った後だし、自分の心がわからなくなって持て余している、ってのが本音かもしれないわね」
確かに、それが一番的を射ているように感じた。
僕は、極限状況での冴里との暮らしの中で、自分の本心を見失いつつあった。
「でも、覚えておいて」
森が切れて、平らな土地に出た。そこには、幻かと思うようなとんでもない光景が広がっていた。
「あなたはどうせ近いうちに、私を選ぶことになるわ」
冴里の言葉も耳に入らなかった。広大な敷地の奥に、一流のムービースターでも住んでいそうな立派な豪邸が、屹立するように僕達を待ち受けていたのだ。
通常ならば門に当たる位置に、僕達の上って来た階段の終わりがある。門扉は無く、高い塀の代わりにたっぷりと葉を蓄えた木々がその役目を担い、均された土地には青々とした人工芝が植えられていた。庭と思しきその一角に、ヘリポートを示すマークの書かれたアスファルトが敷かれていたが、それを除けば敷石の類は一切無かった。
僕達は誘蛾灯に集まる羽虫のように、正面に聳える屋敷に向かってふらふらと歩き出した。芝は緩やかにしなって反発し、踏んで歩くだけで心地良くなれた。
「誰かいるのかな?」
「いるわ」
館の両端に、野球場もかくやというような照明器具が取り付けられていた。その全てが庭の方を向いている。
「……ここ、電気来てるんだね」
「自家発電かもしれないわ。あれだけの施設を維持してるとなると、相当のものだけど」
十分近く歩いて、ようやく扉の前に到着した。窓の数から見て建物は四階建てだったが、一階層ごとの天井が高いせいか、通常のものより遥かに高く感じられた。玄関の扉も見上げるほどの大きさだ。
インターホンが見当たらず、ノッカーを使って行儀良く戸を叩いた。
「すみませーん。誰かいませんかー」
振り絞るように声を張り上げる。建物はしんと静まり返っており、返答はまるで無い。
「……留守かな」
「おかしいわね。時間的に、もう来てるはずなんだけど……」
「ヘリポートにヘリが無いってことは、誰もいないってことじゃない? ここが離島なら、それしか行き来する術がないはずだし」
「乗客を下ろして、操縦士だけが戻ればそれで済むでしょ」
「なるほど」
「でもやっぱり、状況的にそんなわけ無いんだけど……」
試しにノブを掴んで引いてみると、鍵はかかっていなかった。独特の重厚感を感じさせる手応えがあって、扉は軋みながら開いた。
「なんか、嫌な予感がする」
「どうして?」
「無人の大豪邸に鍵がかかってない場合、映画とかのセオリーだと、中は幽霊屋敷になってるじゃないか」
「……ちょっと、やめてよ。私そういうの苦手なんだから」
「あるいは、愛憎劇の縺れで血みどろの殺人事件が繰り広げられて住民が全滅してるとか」
「……それならいいけど」
「いや、良くない良くない」
「そうかしら? 除霊は無理でも、名探偵ならやってやれないことはないじゃない」
「いや、それ以前に、もっと人命を尊んだ方がいいと思うよ」
入ってすぐのホールは四階までの吹き抜けになっていた。日当たりが良いため思ったよりも明るく、幽霊付き建築には思えない。シャンデリアに蜘蛛の巣がかかっていたり、床が埃だらけだったりすることもなく、何より背後で扉がひとりでに閉まらなかったのが最高だった。
「すみませーん、誰かいませんかー?」
毛足の短い絨毯敷きの床に土足で上がり込み、声を張り上げる。音はまるで反響することなく、白い壁に吸い込まれるように萎んで消えてしまった。
「やっぱり誰もいないみたいだけど……」
「変ね……。あ、そうか。全然変じゃないんだわ。うっかりしてた。騙されるところだったわ」
「何を一人でぶつぶつ言ってるわけ?」
「日付よ、日付。漂流の最後に約十時間を十六回やり直したから、私の体感時間は一週間分くらい進んでるのよ」
「……へ?」
「忘れたの? 絶対的な時間位置が感覚でわかるって話」
「あー、そういえばそんなこと言ってたね」
「普通に体ごとタイムスリップする分には大丈夫なんだけど、巻き戻りとかで精神だけ飛ばされると、時差ぼけが起こってわけがわからなくなるのよね」
冴里はそう言って、顔を顰めた。時差ぼけなんていうデリケートな問題は、雰囲気だけでタイムスリップを乗り切ってきた僕には縁のない話だ。……いや、というよりむしろ、時間旅行による時差ぼけを忌んだために、あえて時間感覚にルーズになったというべきかもしれない。
僕は冴里に、今日が漂流十三日目にあたる日ではないのか尋ねた。冴里は腕を組んで瞑目し、やがて一つの日付を口にした。それは、漂流を開始して七日目に当たる日だった。
「待って。だとすると、僕達はいつの間に過去に戻ったわけ?」
「たぶん、昨日から今日にかけて。ボートもろとも時空の断裂を越えたって感じじゃないかしら」
「え、物も一緒に飛べるの?」
「あら、あなたもしかしてタイムスリップのたびに全裸になってたの?」
言われてみればそうだった。服は飛ぶのにボートは飛ばないという理屈はない。何しろセオリーがないので、どういう区分で随行物を決めているのかはさっぱりわからなかったけれど。
どうも冴里の話を簡単に纏めると、彼女も今日が十三日目だと思っていたけれどもそれは時差ぼけのせいであり、実際の日付は六日早いため、本来十三日目にはとっくに屋敷にいるべき人達がまだ到着していない、ということらしい。
「道理で漂流生活が辛いわけね。私もいい性格してるわ」
と、よくわからないことに納得を見せる冴里。彼女は容赦なくずかずかと歩を進め、ホールの右手に通じていた大食堂を抜け、キッチンの奥の食糧庫までノンストップで到達した。
「業務用冷蔵庫が何台も普通に稼動してる……」
「それどころか、この扉の先全部冷凍室よ」
「嘘!」
「大量にストックするためには冷凍食品が一番だし、当然ね。保存食も山のようにあるし、一年くらいは余裕で暮らせるでしょう」
「……漂流者の常として、僕はもう空腹を抑え切れないんだけど」
山のように積まれた豊富な食材を見て、僕は目の色を変えた。口の中が唾液でいっぱいになる。
「気持ちはわかるけど、内蔵が弱ってるはずだからまずはお粥にしましょう」
「無断で食べることへの罪悪感は無いんだ」
「……無いわね」
厨房の水道の蛇口を捻ると、澄んだ水が勢い良く流れてきた。真水が、こんなにも大量に! 奇跡を前にしたように陶然となり、僕は直接口を近づけてそれを啜った。後にも先にも、水道水がここまで美味しいと思ったことはない。何しろこの後、魔法瓶に入れて運んで来た雨水を試しに少し口に含んだところ、吐き気を催してしまったくらいだ。どれほど劣悪な環境にあったか知れようというものだ。
米を研いで作るのかと思いきや、レトルトのお粥があったので、お湯を温めるだけで調理は済んだ。勿論、ガスも点いた。至れり尽せりだ。
「薬膳粥だってさ。さぞかし身体に良いんだろうね」
「浮かれてないで、食器探してきて」
「火の通った食べ物なんて本当に久しぶりだよね」
「ねえ、ちょっと、聞いてる?」
「うん。味が四種類あるみたいだけど、冴里はどれにする?」
「……言っとくけど、あなたが私のことを冴里って呼ぶ人でなかったら、三発くらい本気で殴ってるところよ」
呆れたように言って、彼女は軽く僕の唇に口付けた。
高価そうな陶器の器に盛り、銀のスプーンで戴いた廉価なレトルト薬膳粥は、誇張でなく涙を流すほど美味しかった。良く噛め、という端的でわかりやすい唯一の命令すら無視し、がつがつと貪るように一杯目を平らげ、二杯目に突入した。色々な味を知るためという名目で四種類温めていたのだ。
「この、フカヒレもどきが入ってる奴が一番美味い」
「はいはい、良かったわね。烏龍茶淹れたから手が空いたら飲んでね」
本式の急須で淹れた温かい烏龍茶は僕を天国へと連れて行ってくれた。馥郁とした香りに誘われて、天使達が僕の周りで舞いを踊る。幸せを噛み締めつつ、甘味と苦味の絶妙な味わいを全身で受け止めた。
「最高だ……」
飢餓からの解放で一種のトリップ状態にあったのだと思う。冴里は僕より遥かに冷静だったけれど、飄然としながらお粥を二杯食べ尽くし、追加でもう一杯分温めていた。
人間、一つ贅を知ると際限が無くなる。
僕と冴里は腹を満たすと、屋敷の中を徘徊して最も豪華な客間に転がり込み、ナイトガウンとバスタオルを各二つ確保するや、巨大なシャワールームに飛び込んだ。ぴかぴかに磨かれた浴槽にお湯――そう、お湯だ!――をたっぷりと張り、綺麗にパッケージされていたスポンジを開け、一回ずつ使い切りと思われるボディーソープとリンスインシャンプーの袋を洗面所の引き出しからありったけ持って来て、思い出したようにいそいそと服を脱いだ。全裸の男女が二人、この時ばかりは完全に幼稚化し、シャワーを頭から浴びるだけで声を上げてはしゃぎ、お互いの体を泡だらけにしてスポンジで擦り、浴槽の水が真っ黒になってまたはしゃぎ、憑かれたように全身何度も何度も繰り返し洗い続けた。一皮も二皮も剥けてつるつるの肌を取り戻し血色も良くなった僕は、冴里に言われて無精髭を剃り落とし、こざっぱりした姿になった。三度張り直したお湯に、二人で仲良く肩まで浸かった時、お互いの素肌に触れてようやく我に返った。良い歳して何やってんだ、と頬を赤らめた。特に冴里。
だからと言って歳相応の行動をとればいいのかというと決してそうではないと思うけれど、残念なことに僕の自制心は人類史上でも最弱の部類に入るらしい。大海の真ん中にぽつんと浮かぶ救難ボートの中であろうが、贅沢な家具を誂えた大豪邸の一室であろうが、若い男女が二人集まれば結局することは一つしかない。それはある面で生物界の真理をついていたが、言い訳にもならない。キングサイズのベッドで思う存分戯れた後、泥のような眠りにおちた。そのまま次の日の昼過ぎまで目を覚まさなかった。
体力を取り戻すことを目的に、とにかく食べた。ツナとコーンとマヨネーズを混ぜて冷凍されたパンに塗り、オーブンで焼き上げた。チキンを解凍し、バターをたっぷり引いたフライパンでソテーにした。生野菜が無いという大きなハンデを背負っていたが、充実した食材と腕の良い料理人のおかげで食卓は華やかに彩られた。冴里は冷凍室に吊るされていた巨大なマグロを、鋸のような包丁で切り身に分けさえした。
一方で僕は飽くなき冒険心を発揮し、大邸宅の単独探索を決行して半地下階に洗濯機を見つけるという大手柄をたてた。すぐさま、冴里の分も含めて汚れた衣服を全て放り込む。素肌にナイトガウンだけ、という冒涜的な格好で家探しを続け、衣裳部屋にずらりと並ぶタキシードを発見して面食らった。サイズはぴったりだったが、さすがに社交界の正装に袖を通す気にはなれない。隣の部屋は当然の様に色とりどりのイヴニングドレスが吊るされており、邸宅の持ち主の、庶民との格の違いを思い知らされた。
「こんなに高価そうなものが山ほどあるのに、どこもかしこも鍵がかかってないのはなんでだろう」
「馬鹿ね。そもそもこの島に誰も来られないからでしょ。万が一私達みたいな漂流者が流れ着いたとして、鍵なんてかけてあったら逆効果。死に物狂いで中に入ろうとするから、屋敷を傷つけることに繋がるわ」
「なるほど。確かにこんな場所からは泥棒のしようがない」
「……散々盗み食いしてる私達が言う科白でもないけど」
豪邸での逗留三日目。適度な運動も兼ねて、屋敷の周囲を見て回ることにした。四階の部屋から島の景色が一望出来たので、実は散策にかこつけた単なる暇つぶしである。何しろ邸内にはテレビもラジオもない。娯楽が不純異性交遊のみというのではあまりにも生々し過ぎる。乾いたばかりの綺麗な衣服に身を包み、水筒に温かい紅茶を詰めて二人で出発する。勿論デジカメも忘れない。
屋敷の裏庭からも下へ降りる石段があり、曲がりくねった末、砂浜に続いていた。半時計周りに進んで数十分後、乗って来たボートに行き当たった。ぎらぎらと輝かんばかりの黄色のボディで自己主張しつつ、波に流されること無く砂上にうっそりと立っている。
「あそこで休憩して、それからボートを畳んで持ち帰りましょう」
休憩は紅茶を飲むだけでは到底すまなかったが、概ね言葉通りのことをした。ボートは空気を抜くと手品のように変形し、どこに隠れていたのか紐のような部分で括り上げると、まさにクルーザーの船室で見たシュラフまがいの塊が出来上がった。見た目よりも遥かに重いそれを背中に背負う。
「このまま進むと、正面の方に続く階段に出るわけだ」
「それで半周ってことは、周囲およそ八キロってところね」
「毎日一周、散歩するには丁度いいな」
「階段の上り下りもあるし、いい運動になりそう」
島の各地で写真を撮ったが、主に風景を被写体にした。浜に打ち寄せる波、常緑樹の森、広大な庭、そして豪奢な大建築。冴里にカメラを持たせたら、相変わらず絶妙の構図で写像が切り取られた。まるで最高のタイミングで時間そのものが停止したかのようだった。
適切な食事、適度な運動、十分な睡眠という健康に著しく気を配った生活サイクルが確立され、僕達は日に日に活力を取り戻した。退廃的で爛れた肉体関係も健康的なものに取って代わったが、それはむしろ僕の精神をじゅくじゅくと湿っぽくいたぶった。惑いを口にする僕に、冴里は呪文のように大丈夫大丈夫と繰り返したが、言いようのない不安感が肺臓の周辺に重たく凝っていた。二人の右手首に未だに巻き付いている安い白だけが、あるいは執拗に病的だった。
豪邸生活六日目。体感時間にして遊園地デートの日から一ヶ月弱、実時間にして十二日後。島に一機のヘリコプターがやって来た。
午前十一時十五分。屋敷の柱時計に合わせて調整した僕の腕時計の表示を信じるなら、それが到着の時刻だ。僕と冴里は散歩中で、海岸に出ていた。ローターの回転音が微かに聞こえ、島の反対側から徐々に高度を落とす機体の影が窺えた。高台と森に阻まれてすぐ見えなくなる。冴里が無言で駆け出した。正門側の階段に向かって、全力で走る。僕はそれを必死で追った。
息が切れ、心臓が破裂しそうに高鳴ったが、足だけは止めなかった。銃を持った男から二人で逃げた時のことを思い出した。石段を二つ飛ばしで駆け上がった。冴里はあの時と同じ、忍者のような身の軽さで疾走を続けた。視界が広がり、庭に辿り着く。案の定、ヘリポートに流線型の独特なフォルムが停まっていた。迷彩色にカラーリングされていたが、それはあくまでデザイン的な問題らしく、軍用機には見えなかった。
ヘリコプターに駆け寄ると、運転席に座っていた若い男が、カメラを構えて風防越しにシャッターを切った。冴里以外の人間を見るのは久しぶりだったが、出会い頭の無礼な振る舞いのせいもあり、思ったより感動しなかった。彼はへらへら笑いながら降りて来ると、軽薄そうな調子で、
「お疲れ様でーす。お迎えに上がりましたよ、お二人さん」
と、言った。僕は息を整えながら、質問を返す。
「えーと、君、一人?」
「まさか。そんなわけないじゃないですか。皆さん、屋敷の中ですよ。雇われパイロットの僕だけお留守番ってわけ」
「……話がよく見えないんだけど、遭難した僕達を助けに来たってわけじゃないの?」
「勿論助けに来ましたよ。でも、何て言うんですか、お二人さんは単なる海難事故による遭難じゃないじゃないですか。事情に通じた人間が便宜を図ってくれたみたいですよ」
「協力者ってやつかな?」
「さあ。詳しい話は中で聞いて下さい。僕はここにいろ、としか言われてませんから」
「……写真撮ってたじゃない」
「いやあ、これくらい、役得ってことで勘弁して下さいよ」
軽佻浮薄なパイロットに別れを告げ、僕達は屋敷の入り口に向かって歩く。
「この館の持ち主が、僕の協力者ってことかな」
「おそらく」
「……顔を合わせ次第、盗み食いの件を丁重に謝ろう」
「無断で部屋を使用したこともね」
教室の花瓶を割った小学生のような心地で、ノッカーを手にした。深呼吸を一つしてから、声をかける。
「すみませーん」
おそらくホールで待ち構えていたのだろう、扉はすぐに開かれた。三十代の半ばと思われる長身の女性が顔を覗かせる。化粧が濃く、金色に染められた短い髪のせいもあって、一瞬異国の人かと思った。
「待っていたのよ。さ、どうぞお入りになって」
落ち着いた声音でそう言って、彼女は僕達を招きいれた。ホールにはもう二人の人間が立っていて、僕は度肝を抜かれた。一人は、仕立てのよいスーツに身を包んだ男性で、いかにもやり手の若社長といった感じだった。颯爽と近寄ってきて、にこやかに笑う。
「やあ、どうもこんにちは。私は、及ばずながら君たちの支援をさせてもらっている、加賀見というものだ。こちらは妻の梢。夫婦ともどもよろしく」
金髪の女性がその横でたおやかに頭を下げる。僕は慌ててそれに応じた。
「あの、すみません。勝手に屋敷を使わせていただきました」
「なに、構わないよ。そのために建てたと言っても過言でないからね。お二人とも元気そうで何よりだ」
「はあ、ありがとうございます。おかげで助かりました」
挨拶をしつつ、僕の視線は加賀見さんの後ろにいる人物に釘付けになっていた。
「失礼ながら、あの方は一体何者なんですか?」
思い切って尋ねてみた。僕の手の先には、完全防備の迷彩服を着込み、ガスマスクにヘルメットを着用した謎の人影があった。豪奢な建物の中で一際浮いている。その人間は、カクカクといやに不自然な挙動でこちらに近付いて来た。人型のロボットだと言われたらそのまま信じただろう。
『私はわけあって身分を明かすことが出来ない。君達の味方であるとだけ言っておこう』
何かしらの変声機構が仕組まれているのか、合成音声のような声色だった。口調からして男性のようだ。僕は、たじたじとなって尋ね返す。
「えーと、敵の存在を警戒している、みたいな感じですか?」
『そのようなものだ。私は、君に最大の手掛かりを渡すという非常に重要な役割を担っている。よって、素顔を晒すことは出来ない』
説明になっていない気もしたが、最大の手掛かりという部分に惹かれ、話の続きを促した。彼は、ガスマスクを横に揺らし否定の意を示す。
『ここでは無理だ。彼女がいる』
ごつい手袋の示す先は、冴里だった。突然名指しされた冴里は、しかし全く驚いた様子も無く、二度頷いた。
「わかったわ。私は席を外すことにする」
「ちょっと待ってよ。冴里は僕のボディーガードだ。その、最大の手掛かりというやつを一緒に聞くべきだろう?」
「いいのよ。わがまま言わずに彼の言う通りにしましょう。それが賢い選択というものよ」
冴里はそう告げると、横にいた梢さんに何事か耳打ちした。梢さんは頷き、加賀見さんに目配せした後、冴里と二人連れ立って階段の方へ消えた。
加賀見さんは迷彩男の方をちらりと窺ったが、
「ヘリコプターの様子を見てくる。話が終わったら呼んでくれたまえ」
と言い置いて、扉をくぐった。
ホールには僕と迷彩男だけが取り残される。彼は、聞き取り易いようにとの配慮からか、ゆっくりと語り始めた。
『おそらく君は今、自分が何か大きな騒動に巻き込まれて危機に陥っている、と考えているはずだ。……だが、それは本質的に正解でない。この事件には、君の考えているような黒幕は存在しないし、多くの人間を煽動するような破壊活動家も絡んではいない』
「……まさか。あなただって、あの遊園地で何があったか知らないわけじゃないでしょう。銃火器を用いた大規模な戦闘ですよ? 爆発物さえ使われていました。どう考えてもおおごとじゃないですか」
『それは君の主観による勘違いに過ぎない』
僕は、かっとなった。
「何を証拠に! 暴徒と化した集団が人を殺す瞬間を、僕は見たんです」
『君こそ、何を根拠にそんなことを? 本当にその人は死んだのか? あの日、あの遊園地では一人の死者も出ていない。もっと言えば、他ならぬ君自身が狙撃されたことを除いて、事件性のある事柄そのものが存在しない。また、君への狙撃についても揉み消され、既に無かったことになっているので何の問題も無い』
「馬鹿な……」
頭がくらくらしてきた。自分の立ってきた足場が引っ繰り返されるようで、落ち着かない。
「それが本当だとしたら、一体どういうことなんですか? 僕は夢でも見ていたというんですか?」
男は数瞬の躊躇の後、僕に右手を差し出してきた。番号札のついた小さな鍵が乗っている。
『これが、文字通りこの事件の鍵だ。ロッカーの中身を見れば、おそらくからくりに気付くだろう』
僕はそれを受け取る。迷彩男がガスマスクの下でわずかに目を細めたのがわかった。
『一つだけ言えるのは、全てが君のための物語だということだ。……健闘を祈る』
男が、鍵を間に挟んだまま僕とがっしり握手をした。そのままの姿勢で、コインロッカーの場所を口頭で伝えてきた。
僕は、言葉にならない不安を抱えたまま、マスク越しの男の顔を凝視した。手袋に守られた手をいくら握ってみたところで、相手の思惑は伝わって来ない。緊張しているのか冷静なのか、それすらもわからなかった。
そんな彼が口にしたのは、あのテーマパークの最寄駅の、隣にある駅の名前だった。プラットホームが一つしかない小さな駅だったと記憶している。コインロッカーなんてあったかどうか、どうしても思い出せなかった。
……とにかく、次の目的地が決まった。
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