エピソード四

 何だかわけのわからない内に海の上にまで連れ出されたけれど、僕はようやく安息を得ることが出来た。普通だったらここで、次のハプニングに備えてじっくり体勢を整えるところなんだけど、時の神はいつだって気紛れに残酷だ。僕が文字通り夢心地で現実ならぬ世界を彷徨っている間、外では大変なことが起こっていたらしい。

 覚醒の直前に訪れる心地良いまどろみの中、僕は腕の中の温かな感触に違和を覚えた。何だか母の胸に抱かれているようで、極上の安心感に自我が深く埋没している。全身が蕩けそうになったけれども、僕の理性はゆっくりと現実への浮上を開始した。僕にはタイムスリップのセオリーは無かったけれど、ラブコメのセオリーはよく見えた。方程式が一つの解を弾き出していた。

 目を覚ます。真っ暗で何も見えない。船室の電気が消えているのだろうか。モーター音も聞こえない。波のたゆたう緩やかな上下動が、僕の平衡感覚を僅かに翻弄する。

 そして僕は、誰かに横抱きにされていた。背中に手が回され、身体が密着している。僕の腕もその誰かの身体に被さっていた。シャンプーの芳香が鼻をくすぐる。柔らかい部分が当たっている。……女性。明らかに対象者は一人しかいない。

「起きてるの?」

「うわぁ」

 身じろぎしようとしたら、吐息が鼻を掠めた。文字通り目と鼻の先に相手の顔があるようだ。

「びっくりさせないでよ、冴里さん。思わぬドッキリハプニングで無駄にテンション上がっちゃうだろ」

「意外と冷静なのね。もっと照れるかと思ってた」

「精一杯虚勢張ってるだけ。出来れば早く離れてよ」

「そう言われると離れたくなくなる女の不思議」

「終いには怒るよ」

「……そうね。どうやら呑気にじゃれてる場合じゃなさそうだしね」

「え?」

 冴里は、僕の腕からさっと身を離し、上半身を起こした。シルエットがぼんやりと浮かび上がる。

「気付かない? ここ、クルーザーのキャビンじゃないわ」

 僕は慌てて起き上がる。筋肉痛に悲鳴をあげそうになったが、ひとまず我慢。ベッドかと思っていた床は、ビニールのようにつやつやで、やけにぶよぶよしていた。その反発力はトランポリンを思わせる。立ち上がろうとして、頭を何かにぶつけてしまった。思わず肩を竦めたけれど、傾斜した天井も何だかえらく柔らかい。

「どうなってんだ?」

 手探りで周囲を探ると、どうもここは二段階に傾斜した壁面を持つ円錐型の空間らしい。触感はどこも同じでビニールを思わせるが、その弾力性からゴムの一種なのかもしれない。壁というか天井というか、とにかくその側面の一角にファスナーがついているのを見つけた。やけにごつく、大きい。

 冴里が躊躇せずそれを引く。眩しい日の光が飛び込んでくる。レールに沿って動かすと、人一人通れる四角い穴が開いた。

 視界を埋め尽くしたのは一面の青だった。水平線を境に、空と海が仲良く上下に併存している。僕は思わず、穴から外に身を乗り出した。

「危ないわよ」

「うわ」

 入り口を抜けると海だった。床も何もない。ド派手な黄色いラテックス製の壁面に、白波がぶつかって飛沫をあげている。

「どういうことだ?」

 右を見ても左を見ても、島影一つない。船影も勿論ない。

「……遭難したのよ。避難用のゴムボートでしょ、これ」

「まさか」

 僕はよろよろと室内に戻り、へたり込んだ。あの時キャビンの床に転がっていた、シュラフに似た何かを不意に思い出した。よく考えれば、シュラフよりも数段大きかった。あれが膨らむと、丁度こんな感じになるかもしれないと思った。

 頭が朦朧とした。遭難、だって? 何故急にそんなことに?

 冴里は、今開けたのと反対の側面にもファスナーを見つけ、それを引き開けた。光が差し込んでボートの中はより明るくなったが、僕の心にまでは届かなかった。

「こっちも、見える範囲は海ばかりね」

 腕時計で時刻を確認した。表示は、午前八時十二分。けれども、正しくはない。倉庫で三十分ほど過去に戻って時間を余分に刻んでいるから、実際には午前七時四十分というところか。

 それを告げると、冴里は顔を顰めた。

「せっかく早起きした割に、全然爽やかじゃないわね」

 全くもって同感だった。身体はぎしぎし痛むわ、海の真ん中に放り出されるわで、ここまで悲惨な目覚めも珍しい。けれど今は、そんな下らない感想を喋っている場合ではない。

 時刻と太陽の位置から、大体の方角を察知出来る。けれど、自分達がどの辺りの海にいるのかわからないので、何の役にも立たなかった。

 日付が知りたくて、ショルダーバッグを探す。あった。真実ちゃんのバッグと一緒に、隅っこに転がっている。携帯電話を取り出す。履歴も何も無く、予想通り圏外だった。……まあ、それは良い。最初から期待していない。液晶に表示された日付は、真実ちゃんとのデート翌日を示している。

「要するに」

 冴里が横から覗き込みながら言う。

「私たちが昨日疲れて寝た後に、あのクルーザーに何らかのトラブルがあった、と。そこで私たち二人だけが避難用ボートで脱出し、以来、海上をあてどもなく彷徨っている」

「揃って肝心の部分の記憶がないのがね」

「二人の運命が同調している弊害よね」

 そんなロマンチックなことを言っている状況ではない気もした。

「僕がキャビンに引っ込んだ後、冴里さんは何をしたの? 覚えてることを出来るだけ教えてよ」

「大したことをしたわけじゃないわ。GPSで正しい居場所確認したり、伊地知さんと知ってる情報を交換し合ったりしただけ。内容は今のところトップシークレット。三十分くらいで私もキャビンに降りたわ」

「すぐ寝たの?」

「……ええ」

「何、今の妙な間は」

「誰かさんの寝顔をしばらく見てたけど、結局眠くなって寝たわ。疲れてたしね。どっちにしろ一時間は空いてないはず」

「……そうか。てことは、ええと、大体午後六時半くらいには二人とも寝ていた、と」

「同じベッドでね」

「…………」

 聞かなかった振りをした。

「それで?」

「少なくともトラブルは六時半以降ってことだ」

「何にもわからないのと同じじゃない」

「そうだね……」

「そうだ、デジカメ見てみれば?」

「え?」

「もしかしたら、何か記録されてるかもしれないでしょ」

 促されるままに、デジカメを取り出し、パワーをオンにする。写真データを最新の方から順番に呼び出す。僕の記憶が確かなら、最後に写真を撮ったのは協力者達と集合した時だ。伊地知がシャッターを切ってくれた二枚。

 そのはずだったが、液晶には全く違う画像が表示された。

「なんだこりゃ!」

 画面は暗く、一目で夜だとわかる。時刻表示は前日の二十時五十五分となっていた。……僕達が意識を失った後だ。あのクルーザーのデッキで撮ったものらしい。僕と冴里が二人で並んでいる。ほとんど直立不動で表情も硬い。遥か遠く背後には、どこかの沿岸都市の夜景が写り込んでいて、それなりに綺麗ではある。

「これを見る限り、少なくとも午後九時の時点では陸から近いところにいたのね」

「あー、デジカメも一緒に過去に戻ったから、三十分くらいずれてるはず。撮られたのは午後八時半頃だと思う」

「何にせよ、こんな風に途中で起きた記憶ある?」

「ない。朝までぐっすり」

「つまり、この写真の私たちの中にいるのは、別の時流の私たちってことになるわ」

「なるほど。僕らの意識はそれを飛び越えて未来に来たわけだ。空白があるのは仕方ないな」

「次の写真は?」

 僕がボタンを押して表示を切り替えると、また見覚えのない写真が出てきた。これも暗い。二十時四十八分。ボートの舳先に左から、僕、冴里、伊地知の順に並んで立っている。伊地知はさぞ満面の笑みを浮かべていることだろうと思いきや、いまいち表情に精彩を欠いていた。僕と冴里もどこか翳を帯びている。方向が悪いのか、夜景は写り込んでいない。操舵室のガラスがフラッシュの光を僅かに反射している以外、背景は暗く沈んでいた。

 冴里はその写真を見た瞬間、黙り込んでしまった。

「どうしたの?」

「…………」

「この写真の何かが気に入らないの?」

「気に入らないも何も……」

「幽霊でも写ってる?」

「それよりもっと恐いものよ」

「え?」

 言われて、僕はもう一度画像を眺めてみた。隅々まで隈なく探す。暗がりの中に不審者の一人でも写り込んでいるのだろうか。しかし、何度見ても三人しか見当たらない……。

 え、三人? そう、それに気付いた時には背筋が凍った。

「これ、んだ?」

「でしょ、絶対におかしいわよ」

「そもそも、舳先に並んだ三人を操舵室が入る角度で写すためには、カメラを海の上に置かないといけない……。セルフタイマーを使っても絶対に無理だ」

「つまりここには、海の上からシャッターを押せる四番目の誰かがいたってことよ!」

 突然、僕の手にひんやりした何かが触れた。思わず悲鳴を上げる。冴里が指先をこちらに向けたまま硬直していた。

「……脅かすなよ」

「ごめん、そんな気じゃなくて。何か恐くなったから」

 渋々、という態で冴里の手を握ってやった。温度が下がっているのは、ラバー製の床面にずっと触れていたせいだろう。

「当たり前だけど、幽霊に写真は撮れない。ここにいたのは人間だ」

「そうなるわね。でも人間はそのままじゃ海の上に浮かべないから、船に乗っていたということになるわ」

「この距離じゃあ完全に接舷されているはずだけど、……追っ手に捕まったんだろうか」

「なら、どうして私達は助かったの?」

「いや、助かってないだろ、別に。緊急用のボートに閉じ込められて絶賛遭難中だ。相手は、僕達を事故死に見せかけようとしているのかもしれない」

 それでも引っ掛かる点はあった。デジカメの写真に第三者の存在を仄めかすような記録を残すメリットがわからないし、伊地知だけここにいない理由もわからない。携帯電話まで含めて、律儀に僕らの荷物を積んでくれたのも妙だ。

 まあ、何にしろ不気味な状況だったのは確かだ。

 第三者の介入と海上での遭難がどう繋がってくるかわからなかったけれど、決して愉快な想像は出来なかったから。

「もしかすると、伊地知さんが私達を先に逃がしてクルーザーで敵の戦艦に突撃したのかもしれないわね」

「戦艦って……。微妙に的を射てたら恐いから、深く追及するのやめようぜ」

「……そうね。この事態が好転するわけでもないしね」

「残りの写真、見たい?」

「……一応見ましょう」

 期待半分、恐れ半分で表示を切り替える。次の写真も撮った覚えの無いものだった。しかし、画面は一転して明るい。

 十七時三十一分。倉庫の中で貨車に乗ったクルーザーが、斜め前方から捉えられている。堂々たる巨体がフレーム内ぎりぎりいっぱいを占め、今にもこちらに迫って来そうな独特の臨場感があった。どっしりとしていながら躍動的、新型クルーザーの販促用プロモーション写真と言われても信じたくなるような、それは見事な出来栄えの一枚だった。

「ああ、これは私が撮ったやつね。カメラを見つけたから、つい……」

「つかぬことを聞くけど、あなた、写真家さん?」

「残念ながら、違うわ。カメラには昔から馴染みがあるけど、職業にするほど洗練されてもいないし」

「ああ、趣味とか?」

「……趣味というより、実益の方が遥かに大きいわ。常に持ち歩いていれば、タイムスリップの時に何かと便利でしょ」

「あ、そうか。それは考えたこともなかった」

「何、あなたわざわざメモとかとってたの?」

「……メモ? なんで?」

「え……、だって、タイムパラドクスが起こらないように気を遣うなら、必須でしょ?」

「メモなんかなくても、なるようになるよ」

 冴里が絶句する。

「実際、細部まで詰めずに雰囲気で動いても、大きな問題は起こらなかった。経験的に」

「……ああ、まあ、実にあなたらしいというか何というか」

 脅威のタイムスリップ体質を持ちながら、時間に対して、こういうファジーな把握をしていたことが、僕の長所でもあり短所でもあった。僕と冴里の時間概念に対する考え方の食い違いは、最終的に巡り巡って自分に跳ね返ってくる。それこそがこの冒険物語の骨格と言っても差し支えないだろう。……などと、後からそれらしく分析してみた。

「もしかして、冴里さんは自分の歩んで来た時空の遍歴を全て把握しているわけ?」

「自慢じゃないけど、物心ついた時から欠かさず日記もつけてるし、かなり正確にトレース出来ると思うわ」

「……それも僕のタイムスリップと同期してるのかな?」

「どういう意味?」

「ほら、僕らは今、時間転移のタイミングが完全に同期してるじゃないか」

「ああ、運命の人だもんね」

「いや、それは知らない。ただ少なくとも、一蓮托生の関係にあるのは間違いないみたいだ。……なら、その関係は生まれた時からだった、と考えるに吝かでないと思わない?」

「吝かでない、ね」

 古風な言葉使いを揶揄するように笑って、冴里は続けた。

「その仮説には是非とも賛同したいところだけど、残念ながら答えはノーね。私とあなた、生年月日が全然違うもの」

「へえ。失礼かもしれないけど、冴里さん、何歳?」

「……本当に失礼ね。まあいいわ。実年齢はともかく、生年から言えば四歳だけど、これで満足?」

「……四歳?」

 上から下まで冴里の全身を胡乱げに眺める。

「失礼かもしれないけど、さすがに鯖の読みすぎでは?」

「だから、生年で言えばって念押ししたでしょ。あなたに比べて私の方がずっと重症なのよ。時空のずれが致命的、と言った方がわかりやすいかしら。基本的に、生まれた年から前後五年ずつくらいの間を右往左往してるの」

「まさか! そんなタイトな時間の枠に閉じ込められたら、常に別の年齢の自分が重複してるんじゃない?」

「そのまさかよ」

 冴里は、ややうんざりしたような顔になった。

「私は、他の時流の自分達と一緒に姉妹のように育てられたわ。多い時で六人もいた。未来の自分に異常体質の詳細と対応方法を教えてもらえたから、そういう意味では恵まれてたかもしれないけど……。信じられる? 赤ん坊だった私をあやしてくれたのが十五歳の私で、三歳の私に文字の読み書きを教えてくれたのが十二歳の私、なんて具合なのよ?」

「いや……想像もつかないけど」

 自分から自分に知識を伝授するなんて、随分と閉じた情報伝達系だ。結局その知識はどこから湧いてきたんだろう?

「カレンダー機能のついた腕時計と、デジタルカメラは必需品。肌身離さず持ち歩いたわ。自分がいつの自分なのかを、きちんと他の私に証明しないといけなかったから。防水のカバーをつけて、お風呂にまで持ち込むの。万が一に備えてね」

 長袖の腕をまくり、左手首に填めた年季の入ったリストウォッチを見せてくれた。年月日も時刻も滅茶苦茶な表示だったが、それが冴里の生きてきた時間の長さを表している。人間の体温を感知して動くタイプで、電池切れの心配も無さそうだ。一貫してタイムスリップ対策が講じられている。

「ここまでつっこんだ質問して良いかわからないけど、両親はいないの?」

「いるわよ。一緒に暮らしてた。でも、基本的に『自分のことは自分で』がモットーだから、自分の娘に介入してこないの。子供の世話は、同居してる未来の私に任せっきり」

「……不思議な家だね」

「何しろ二人にとっては、結婚前から私と一緒に住んでたことになるしね。私が生まれてきた時点で、既に独自の生活スタイルが完璧に築き上げられてたわけ。家事の分業体制とか、年長者と年少者の自立的互恵活動とか。……その分、最初に両親を説得した時は骨が折れたわ。不審者にしか思われないのは目に見えてたし。自宅を訪ねて、出て来た若い父に『どちら様ですか?』と言われた時の絶望感たるや……」

「考えたくもないな……」

 おそらく、冴里の両親は、物分かりが良いという以上に人の良い性質なのだろう。でなくては、いくらそれらしい証拠を並べられたところで、『未来から来た自分の娘』を名乗る人間と一緒に暮らそうとは思わないはずだ。

「その分、色々珍しい体験も出来たけどね。自分の出産に立ち会ったり、寝た振りしている幼い私の横で両親が私を作ろうとしているシーンに立ち会ったり……」

「感動的なような、そうでもないような……」

「体感年齢が十八歳に達した時、独立して一人暮らしを始めたわ。父の別荘の鍵を譲り受けて、そこで暮らすことを許された、って感じだけど」

「へえ、家、裕福だったんだね」

「信用を得るために競馬でちょっと入れ知恵をね」

「…………」

 僕にしても、タイムスリップを利用して金銭を儲けたことが無いではなかったが、いずれも小遣い稼ぎ程度のものだ。別荘を手に出来るほど羽目を外したことはない。

「ま、結局自宅に幼い私しかいない時はベビーシッター代わりに呼び出されたし、私が生まれる前の別荘が無い時代には寄宿を余儀なくされたし、本当の意味での一人暮らしとは言い難いわね」

 どうやら冴里の場合、両親との間にある種の共存関係が形成されているらしい。必ずしも親子の絆という枠内に納まりきらない、微妙な間柄だ。

「これは結局、時間の流れ幅が極端に狭いことに原因があるわけだけど……」

 意味ありげに言葉を止め、僕を見詰める。その表情の意味がわかった気がした。

「僕とタイムスリップのタイミングが同期している限り、以前よりはまともに年月を刻むことが出来るわけだ」

「その通り。何しろあなたは、時折ランダムにあちこち飛んでいるけど、基本的に正しい『軸』に沿って歳をとってる。学校に通えるなんて相当恵まれてる証拠だわ」

 僕が学校に通っていることを、この時点で冴里に教えた覚えはなかったが、当然、未来の僕から詳しく聞いたのだろうと予想された。

「……でも、生まれが全然違うんだとしたら、一体何がきっかけで僕と冴里さんの時間の同期が起こったんだろうか」

「受け売りだけど、お互いに接近遭遇したこと自体が引き金らしいわよ。二人の時間旅行体質に干渉が起こったんじゃないかって」

「ふーん。それ、誰からの受け売り?」

「未来のあなたからに決まってるじゃない」

 悪戯っぽく笑う。未来の自分が情報源なら、眉に唾をつけておいた方が良い。どうせここで聞いたことをそのまま話したに違いない。

 ……ともかく、倉庫のクルーザー写真から得られた情報は、冴里のカメラワークの才能と一通りの過去だけで、それなりに実りはあったが、真相に肉薄するような代物ではなかった。念のために次の画像を確認すると、十七時一分の表示が入った協力者達との集合写真だった。柵の前で伊地知がシャッターを切ったものと見て間違いない。時間表示はクルーザーの撮られた写真より三十分早いが、実質的にはほぼ同時刻の出来事だ。それを思うと、何やら不思議な気分になる。

「……あ、そうだ、冴里さんのカメラも見せてよ」

 デジカメの電源を落としながら、僕は軽い気持ちで尋ねた。

「え?」

「肌身離さず持ってるんでしょ? 記録用に」

「あー、ごめん。今は持ってないわ」

「どうして?」

「うん、ちょっと、ね。色々あって」

 よくわからないが、曖昧にお茶を濁された。何か深刻な理由が隠れていそうな気がしたが、追及して欲しくないと一目でわかる素振りをしたので、黙っておいた。

 二人の間に沈黙がおりると、漂流という事実が重くのしかかってきた。空の彼方で海鳥が叫んでいる。

 表面的には長閑な海だった。波は穏やかで、陽射しもそう強くなく、遊覧にはうってつけの天気だ。釣り糸でも垂らしながら昼寝をするに相応しい。

 ボートにそれなりのスペースがあってストレスを感じないし、何の心配もせずに大船に乗ったつもりでいれば良いのかもしれい。未来の僕を知る者がいるという時点で、僕の生存はほぼ確定しているのだから。

 ……けれども、僕の胸にはそんな楽観的な材料を補って余りあるほどの不安が去来していた。

 生きることは、時に死ぬことより残酷なのだ。

 瀕死の状況で延々何日間も苦しみ抜いた末、九死に一生を得てどうにか救出される、といった状況は出来れば御免被りたい。長丁場に耐えられるだけの気力は無かった。

 僕は言った。

「とりあえず、食べ物と水がどれくらいあるか調べよう」

 正直、この時点で既に絶望的な気分だった。海での遭難というのはたいてい長期戦になる。助かるにしても死ぬにしても、だ。一番深刻なのは脱水症状だろう。外には目を覆わんばかりに水が溢れているというのに、それを口にすることが出来ないなんて随分と皮肉な話だ。水の確保は最重要の課題である。

「調べるって言っても、ボートの中にはあなたと真美ちゃんの荷物しかないわよ。私手ぶらだったし」

「……別個に非常食とか積まれてないのかな?」

「ないみたいね」

 自宅の玄関脇で埃を被っていた乾パンとミネラルウォーターが妙に懐かしい。苛立ちを覚えながら、ショルダーバッグを引き寄せる。こんなことになると知っていたなら、非常用のバッグを持って来たのに。

「僕が今持ってる食糧は、喉飴一袋とガム六個だけだな。腹の足しになりそうなものはない。飲み物も、……これだけ」

 昨日の朝に買ったペットボトルのお茶は、何だかんだでほんの二口分くらいしか残っていなかった。ちゃぷちゃぷとお茶の跳ねる様子を見ていたら、僕の喉が渇きを訴えて疼き出した。唾液を飲み下して誤魔化す。

「惨憺たる有り様ね」

「悪かったな」

「そっちのバッグは?」

 冴里が、顎でしゃくって真実ちゃんのバッグを示す。

「……プライヴァシーの侵害じゃないか?」

「緊急避難ってやつよ」

 さすがにここで渋っていたら即座に命に関わるので、渋りながらも、バッグの開け口を大きく開いた。食べ物が入っていることを神に祈りながら。

「……なんだ、これ?」

 真っ先に目に付いたのは、二リットルくらい入りそうな大きな魔法瓶だった。どうやら中身も詰まっているようで、ずしりと重い。

「保温性に優れた水筒よ、知らないの?」

「いや、知ってるけど。どうしてこんなものが入ってるのかと思って」

「遊園地に水筒を持っていくのってそんなに不思議なことかしら」

「いや、それ自体は普通だと思うけど……」

 上手く説明出来ずに、僕は口ごもった。僕が不思議だったのは、飲み物をこれだけ持っていながら、真実ちゃんが行きの駅でペットボトル飲料を買いに行ったことなのだ。ただでさえ重いのだから、そんなことをする必要はないように思う。

 しかし、そのおかげで助かったことも間違いない。大切な水分が思いがけずにこんなにも手に入った。

 蓋を開けて中身を嗅いでみると、どうやらスポーツドリンクらしかった。一日程度では、腐りもするまい。真実ちゃんが粉末を水に溶いてせっせと作っている様子を想像して、少し和んだ。

「この水筒、下の方に小さな焦げ痕があるわね」

 言われて見てみると、銀色に輝く外側の凸面が一箇所窪んでおり、黒く焦げ付いていた。

「ほんとだ。あの時銃弾はこれに当たって止まったのか……」

 何と素敵な水筒だろうか。『魔法』瓶という名も伊達ではなさそうだ。冴里は、弾痕を触りながら少し首を傾げている。

「こんなステンレスくらいなら貫通しそうなものだけど」

「ま、助かったんだからいいじゃん」

 ついでバッグを覗いて、僕は今度こそぎょっとなった。

「……さすがにこれはおかしいだろ」

 真実ちゃんのかばんの中で大きく場所をとっていたのは、辞書サイズの分厚い書物だった。いや、辞書サイズどころか、取り出して見たら辞書そのものだった。分厚いことで有名な大手出版社のやつだ。

「いざとなったら食べられるからいいんじゃない?」

「そういう問題でもないだろ。なんで遊園地にわざわざ辞書持って来るんだよ」

「知らないわよ。どうせ、学校で流行ってる恋のおまじないか何かなんじゃないの?」

「今日日そんなの流行らないって。むしろ嵩張るから敬遠されると思う」

「かばんに入ってた理由はどうあれ、どうやらそれがあなたの本当の命の恩人みたいよ」

「……え?」

 その通りだった。背表紙の内側から、小さな丸い金属片がひょっこりと顔を出している。慌てて表を向けると、中央左寄りに破裂したような穴が開いているのがわかる。ページをめくると、穴は徐々に右にずれて穿たれていた。銃弾が辞書を斜めに貫通した痕だった。『小泉』から始まる一ページに可愛らしいしおりが挟んであったが、そのど真ん中を弾痕が汚している。ページを突き進むにつれて威力が落ちたのか、抉られた穴が内側にめり込むように汚く窄んでいき、裏表紙で力尽きたように弾丸自体が止まっていた。

 弾丸の大きさは小指の先ほどしかなかったけれど、それが自分に打ち込まれていたらと思うとぞっとする。

「辞書と魔法瓶が二段構えであなたを守ってたのね。そりゃ、死なないはずだわ」

「ミラクルだね」

「残念。……そう簡単に奇跡なんて起こらないわよ」

 謎めいた言葉を吐いて、冴里が小さく笑う。普段の表情に険がある分、笑顔は本当に魅惑的だった。何か含みのありそうな、独特の気配を醸す。

「他には無いの?」

「えーと」

 タッパーが三つ、束ねられて入っていた。いずれも空だった。昨日食べた手作り弁当のなれの果てである。

「こんなことなら、あんなに頑張って食べずに、残しておけば良かった」

「ま、どうせお弁当はすぐ悪くなるし、構わないわよ。どっちかと言えば、お菓子とかの方がありがたいし」

「……噂をすれば何とやら、だね。お菓子がある」

 なんと、スーパーの袋にまとめられて、菓子類が大量に詰め込まれていた。ビスケット、クッキー、チョコレート、煎餅、ポテトチップ、飴、などなど、バリエーションも豊富だ。

「これは……予想以上ね。彼女はおやつに何を求めていたのかしら」

「さてね。でも、おかげで助かった。これだけあれば当分食いっぱぐれることはなさそうだ」

 予想に反して、当面の食糧問題と水問題が回避されたことで、随分と気が楽になった。さらに引っ張り出されたチューブ丸ごとのマヨネーズを見て、冴里が目を丸くする。

「凄いわ。マヨネーズは、身近に考えられる限り最高の高栄養食よ!」

 普段敬遠されがちな高カロリー食品は、こういうところでこそ真価を発揮するのかもしれない。大量のマヨネーズは両手を上げて歓迎された。

 バッグの奥から、真実ちゃん用のペットボトルも出て来た。まだ六割くらいは残っている。

「私たち、真実ちゃんに足向けて寝られないわね」

「本当にね」

 さすがに、飲食物はそれで全てだった。念のために引っ繰り返したけれど、化粧ポーチと手鏡が転がってきただけだ。

「サイドポケットは?」

「そこまで漁るのか」

「命が懸かってるんだもの。当然でしょ」

 三箇所あるポケットを開けてみると、それなりに色々入っていたが、どこも雑貨ばかりだ。おそらく貴重品はポシェットに入っていたのだろう。ハンドタオル、ティッシュ、ビニール袋、生理用品、眼鏡ケース、バンドエイド、折り畳み傘、ペンライト、万能ナイフ、百円ライター、封の開いた煙草……。

「どれもそれなりに役立ちそうね」

「…………」

「ん? どうしたの?」

「いや、だって、あの委員長が煙草って……」

「なに、そんなことにショックを受けてんの? 煙草くらい今時普通でしょ」

「……彼女は未成年だよ」

「むしろ律儀に二十歳から飲む人の方が少ないわよ。体壊さない程度ならいいんじゃない?」

「でもこれ、かなりニコチン量多い銘柄だよ」

「……そんなの私に言われても」

「冴里さんも吸うの?」

「私は吸わないわ。お金勿体無いし」

 真実ちゃんが煙草の煙をくゆらせている姿はどうやっても想像がつかなかった。中学校時代の、煙草イコール不良という等式が頭にあるせいで、あの真面目な真実ちゃんと容易に結びつけられないのだ。陰でこんなことをしていたなんて……。彼女の清純なイメージが瓦解して行く。

「ま、女なんて所詮醜い生き物なんだから、変な憧れは早々に捨てることね」

 冴里は冷ややかに言い放って、僕のショルダーバッグに手を伸ばした。僕は反射的に抱え込んで防御する。

「何よ?」

「いや、さっき調べたじゃん」

「飴とかガムの自己申告だけでしょ。食べ物以外で役立つもの探すんだから、見せてよ」

「いや、無いから。役に立ちそうなものは一つも無いから」

 意固地になって拒む。そうするに足る理由があった。

「……あのさあ」

 怒るかと思いきや、冴里は少し困ったようにはにかんだ。

「もう大分お気づきのことと思うけど、私はあなたのことが好きなのね、色んな意味で」

 最後に小さな誤魔化しが込められていたが、間違いなく直球だった。突然、直球で告白された。こんな風に面と向かって好きだと言われたのは、生まれて初めてのことだった。まるで顔全体が心臓になったかのように、自分の鼓動が耳元で聞こえていた。

 冴里がそっと真横に寄り添ってくる。しなやかな手指が僕の腕に絡んだ。僕は、天敵を目の前にした野生動物の面持ちになる。どうやっても逃げられそうになかった。物理的にも、精神的にも。

 冴里はしなを作って、媚びるように言う。

「だから、あなたがどんな失態を犯そうが大概のことは許せてしまえる、実に都合の良いバイアスがかかってるわけ」

 僕は返事一つ出来ない。生唾を飲み込もうにも、喉はからからで唾液すら出ない。

「だから、お願い」

 僕にしなだれかかり、耳元に甘い息を吐きかける。ぞくぞくと快感が背筋を走る。ゆっくりと、艶かしい唇が動く。

「四の五の言わずにバッグ渡せよ、今すぐに」

 恫喝するような低い声に冷や水を浴びせられたようになり、全身が硬直した。その隙を突いて、ひょいと手元のバッグが奪われた。

「あ」

 冴里は何事もなかったように、唇を釣り上げる。

「私はあなたを助けるために最善を尽くすつもり。次に邪魔立てした時は冗談で済まさないから覚悟しといてね」

「はあ……」

 どちらかといえば自分が悪いので、何も言い返せない。うやむやに消えた告白が、頭の中に靄をかけている。

 冴里が僕のバッグを漁っている。

「あー、はいはい。そりゃ隠そうとするわ」

「嫌な納得の仕方しないでくれよ」

 無造作に引っ繰り返されたショルダーバッグから、デートスポットなどを紹介している男性情報誌が三冊転がり落ちて来る。

「ちょっと、これ、ラブホテルの特集じゃない。あなた、初デートにどこまで期待してんのよ……」

「いや、別にそういう下心があったわけではなく……」

「『女がくらっとくる口説き文句』なんてまさか参考にしたわけじゃないでしょうね?」

「歯の浮くような科白ばかりで、僕にはとても口に出せなかったよ」

 一部コンセプトを参考にさせてもらったなどとは、口が裂けても言えなかった。

「まあ、読む物があるってのはいいことだわ。暇つぶしに事欠かないし」

 一人で漂泊してるならまだしも、ここには二人いるんだから暇なんていくらでも潰せるだろう、と僕は思った。いや、勿論、会話なりゲームなりすればいい、という意味だ。

 僕のバッグに入っていたのは、それ以外では財布、携帯電話、折り畳み傘、スポーツタオルなど当り障りの無いものばかりで、冴里は露骨につまらなそうな表情をした。覚醒剤でも入っていれば良かったのか。馬鹿馬鹿しくも財布の中にこっそり入れておいた避妊具が見つからなかったのは僥倖であった。

「さて、作戦会議ね」

 散らばった荷物を大雑把にグループ分けし、その真ん中にどっかりと胡座をかいた冴里が言った。

「私達が助かるためにしなければいけないことは、たったの二つ。こちらの居場所をどうにかして誰かに伝えることと、助けが来るまで最低限生き延びること。そのために具体的に何をするべきか、考えましょう」

「携帯電話と睨めっこしてれば、いずれどこかで電波が入る地域を通りすがるかもしれない。その瞬間に電話すれば良いんじゃない?」

「安直ながら間違ったことは言ってないわね。電池が切れる方がずっと先だと思うけど」

 勿論、僕としても本気で提案したわけじゃない。それでは無策と一緒だ。

「真面目な話、これだけの物資があれば、こちらの位置をアピールする方法には事欠かないと思う。例えば、手鏡で太陽光線を反射させてみたり、雑誌を燃やして狼煙を上げたり、夜にペンライトを振り回してみたり、といった具合に。ただ、その場合、この海域の近辺を通りかかる船なり飛行機なりの存在が不可欠になるよね」

「そうね。さっきから見てる範囲では、そんな乗り物が通った様子は一つも無いけれど、海流に乗っているうちに大型タンカーの航路にでも引っ掛かるかもしれない」

「飢え死にするのが先かもしれないけどね」

 冴里が、もっともらしく大仰に頷いた。

「だから、出来れば何か、建設的なやり方を考える必要があると思うの」

「建設的と言われてもねえ……。都合の良いタイムスリップを願ってみたところで到底実現しないだろうし、どうしたものか」

 時空を行き来する尋常ならざる力を持っていながら、それが意のままにならないことが歯痒くて仕方ない。

 そこへ冴里が、何事か迷いながらも口を開く。

「正直なところ、あなたに関しては何の心配もいらないのよ。未来のあなたが存在する以上、生き残りは確実だし」

「冴里さんだけ死ぬ可能性もあるってこと?」

「そう。私の死肉を食らってあなたが生き延びるのかもしれない」

「気色悪い想像させないでくれよ。そういうの昔から苦手なんだ」

「いいじゃない。生き残って自伝書いたらきっと売れるわよ。タイトルは、『大海原の孤独なカーニヴァル』なんてどう?」

「嫌だって。冴里さんが死んだ時点で僕も死ぬことにするよ」

「今の科白だけだと、恋人に惚気る馬鹿男の図なんだけどね」

 にやにやと意地の悪い笑い方をする冴里。僕は強引に話を戻した。

「とりあえず、逆に言えば余程のことがない限り僕は死なないってことだから、食べ物と飲み物をぎりぎりまで切り詰めることにしよう。それで冴里さんの取り分を増やせば良い」

「……自分で言い出したことだけど、なんか悪いわね」

「その上で、長期戦を覚悟して助けを待つ。二人それぞれ両側から見張りをしよう。機影ないし船影が見えたら、鏡なり狼煙なりペンライトなりを使って合図を送れば良い。これだけの食糧があれば、生きている内に何回かチャンスが来るはずだ」

「もし来なかったら?」

「来る。絶対来る。僕が生き残って過去に行く機会があったら、絶対にこの件についても手を講じるはずだ。捜索隊の手配がなされたのはまず間違いない」

「信じるべきは未来の自分というわけね。実に潔いことで」

「いやいや。基本的に、この世のあらゆる事柄の裏には未来の僕が必ず関わってると思って暮らしてきたからね。自意識が過剰なんだよ」

 ふっと冴里が力を抜いて微笑んだ。

「……何だよ、その顔は」

「そういえば未来のあなたもおんなじこと言ってたな、と思って」

 冴里は微笑を顔に乗せたまま、手許のペットボトルを僕に投げ渡した。二口分ほど残っている、僕の持ち物だったやつだ。

「あなたの決意に敬意を表して、特別ボーナス。それ、好きなように飲んでいいわ」

「おいおい、早速計画を破綻させるようなこと言うなよ……」

「ううん、そんなつもりはないわ」

 冴里の笑みが、いつのまにか不敵な表情に置き換わっていた。

「残りの飲食物は完璧に私が消費をコントロールするから、覚悟しといて」

 こうして、極限のサバイバル生活がスタートした。

 僕と冴里は二つの入り口付近に分かれて座り、思い思いの格好でぼおっと外を眺め続けた。一面に広がる空の青と海の青ばかり見ていると、遠近感が狂いそうになるし、現実感も薄れてくる。そういう意味で、雲はありがたい存在だった。空に無限の多様性でアクセントが加えられているという事実で、ほんの少しだけ安心出来たから。

 鳥の姿が見えることさえ稀だった。

 一日中観察を続けていると、水平線の彼方に塵粒ほどの塊が浮かんでいるように見えてくる。遥か遠くを船が行き過ぎているのだと思えてくる。僕は冴里を巻き込んで大騒ぎをした。太陽の光を鏡でそちらの方に向けて反射させてみたり、聞こえもしないだろうに大声を上げてみたりした。冴里が止めなければ雑誌に火を放つことまでしていただろう。彼女は淡々と、自分には僕の言う影が見えないし、どうせこの距離からでは何をしても届かないから諦めろ、と言った。僕は渋々頷いた。視野を変えても、水平線を凝視するとその塊がじわりと浮き上がることに気付き、己の過ちを悟った。それは錯覚に過ぎなかった。空騒ぎによる疲労感がどっと襲って来た。

 喋るとその分喉が渇くので、僕達二人は基本的に黙っていた。相手が眠っていないことを確かめるために、時折声をかけたが、相手が眠っていてもそれを咎めることはしなかった。一秒たりとも目を離してはいけない、という類の仕事でもない。目を離したところで、十中八九船影も機影も現れない。ただ、万が一居眠り中に見逃してしまったら取り返しがつかないことになる、という杞憂にも近い焦燥感だけが支えとなっていた。睡魔がその恐怖を上回るなら、眠ってしまっても構わない。それはおそらく幸せなことだから。……たぶん、そういう暗黙の了解があった。

 ビスケット二枚、チョコレート一粒、煎餅一枚、飴玉一つ、飲み物百ミリリットル。これが、一日に許容された食事の全てだ。少ないだろう? 到底耐えられる量じゃない。どうしても空腹に我慢出来なければ、マヨネーズを任意で舐めても良いってルールが付け加えられた。極限状況ってのは不思議なもので、味の濃いマヨネーズで意外と空腹感は騙せるものなんだ。むしろ問題は、喉の渇きだった。ものを食べると、どうしても飲み物が欲しくなる。ビスケットや煎餅は水分が少ないし、チョコレートは甘い。口の中が渇く。一日百ミリリットルは、どう考えても足りかった。渇きを抑えるために、菓子類を口に出来ないという顛倒も起こった。ちなみに一日目の朝一にもらったボーナスは、その日の午後には消えていた。目の錯覚で空騒ぎして、喉を嗄らしたのがその原因だ。……僕は愚かだった。

 細々したことで困る場面も多かった。特に厄介だったのが、トイレの問題だ。初日、そのことを全く失念していた僕は、冴里が恥ずかしそうにこちらに近付いて来た時、何の用件なのかさっぱりわからなかった。

「悪いけど、しばらく目を瞑って耳を塞いでくれないかしら?」

「……なんで? 変身してヒーローにでもなるの?」

「お手洗いに行きたいの」

「変身して?」

「違うわよ! 考えたらわかるでしょ。わざわざ説明させないでよ」

「ごめん。全然頭になかった。そうか。えーと、わかった。気をつけて。海に落ちたりしないように」

 僕は相手の要望通り、耳を塞いで目を瞑った。僕には最低限のプライヴァシーを守る義務がある。

「振り向いたらいなくなってた、とかその手の悪戯は止めてね」

 僕としてはこちらの方が余程恐かった。二人であることのアドヴァンテージは計り知れないからだ。

 巷では男女平等が叫ばれているけれど、こと救難ボートで用を足す際の苦労度合いを考えると、平等性の実現なんて夢のまた夢だという気にもなる。どう考えても女性の方が大変だし、危険も大きい。揺れる船上でゴムボートの縁にしゃがむなんて、暴挙に等しいのだ。男性は小の時悠々と直立姿勢でこなせる分、転落の危機に晒される場面が女性の約半分で済む。フェミニストが知ったら黙っていないだろう。即刻、男女が同じ方法で排尿出来る装置を避難用のボートに積み込むべきだ。……ま、短絡的に言っておむつで充分なんだけど。

 ただ、自慢じゃないが、僕は性差を越える個人差という概念を持ち出すことで、女性側の主張を論破出来る実例を得た。何を隠そう、海に落ちたのである。

 遭難三日目のことだ。軽い脱水症状で意識が朦朧としていたところに、二つの波の振幅が重なってボートが大きく揺れた。僕は見事にバランスを崩し、ジーンズと下着を膝まで下ろした見るも不様な姿で、しゃがんだまま背面から倒れ込んだ。盛大な水音が上がり、温度の低い液体が一気に全身を包み込んで背筋を凍らせた。

 後はもう、パニックの一言に尽きる。体中の孔という孔から海水が流れ込み、目は霞む、耳は詰まる、鼻は痛む、息は止まる、の四重苦で体性感覚は即座に崩壊した。上下をも見失い、身体に纏わりつく重たい衣服を振り払うようにとにかくもがく。足場がない中で、下半身の自由を奪われて海面から顔を出すことがいかに難しいか! 僕は両手でがむしゃらに水を掻いて、思う存分体力を消耗し、思う存分酸素を消費し、思う存分無力を味わった。塩水を飲み込んで喉を焼いた。

 死ぬのか、と本気で覚悟を決めそうになった時、没し切れなかった右手が宙を掻いた。水ではなく、宙。空気を意識して、上下を把握した。懸命に手足を動かして直立し、僕はようやく水上に顔面を晒した。太陽光がまともに目に入った。前髪から滴る海水もろとも、力いっぱい空気を吸った。咳き込んで喉に絡む塩水を吐き出してから、ようやく人心地ついた。着衣しながらでも、力を抜けば立ち泳ぎは出来る。

「大丈夫ー?」

 ボートから身を乗り出して、冴里が声をかけてきた。振り向くと、波間に漂うボートまで意外なほど距離があった。慌てて泳いで近付く。足に絡んでいるジーンズが邪魔で、脱ぎ捨ててしまいたかったが、後先を考えて自重した。それに、水中で身繕いをしようにも、生地が水を吸って重く張り付き、如何ともしがたい。不自由な姿勢でせかせかと進む。

 本当に心配したのか、泣きそうな顔をしている冴里が僕の引き上げを手助けしてくれた。ゴムボートの縁に手をかけて体を持ち上げようとすると、持ち手が海面下に没して浸水しそうになった。加減を調整しながら二人で試行錯誤し、浅瀬に打ち上げられた鯨のような無惨な姿で、僕はどうにか小さな我が家への帰還を果たした。下半身は丸出しだったが、冴里は見て見ぬ振りをして素直に僕の無事を喜んでくれた。

 それからがまた大変だった。海水を飲んだ僕は脱水症状を悪化させ、大切なスポーツドリンクをがぶ飲みすることでかろうじて小康状態を保った。濡れた衣服をそのままにもしておけず、身包み剥がされて全裸で転がされるという羞恥心に耐えることになった。勿論、転がっていたのは立ち上がるだけの元気がなかったからだ。冴里は僕の服を絞り、日当たりの良い場所に並べて干した。乾いたタオルでぐったりした僕の体を丁寧に拭いてくれた上、公では決して口に出来ないような過剰なサーヴィスまでつけた。

 腕時計の耐水性能が確かめられたことを除けば、このアクシデントによるメリットは一つもなかった。冴里が、『僕に合わせるため』という意味不明な名目で、平然と全ての服を脱ぎ始めたことも、間違いなくデメリットの方に入った。僕は、ヌーディストビーチさながらになった狭い箱舟に揺られて、うっすらと笑った。

「ちょっと。女性の裸見上げて気色悪い笑み浮かべないでよ」

 だったら脱ぐなよと言いたくなるような冴里の理不尽な発言を受けて、僕はゆっくりと首を横に振った。

「違うよ。二人とも全裸なのに、揃って右腕に白いバンド巻いてるのがおかしかっただけ」

 それは、期限の切れた遊園地のフリーパスだ。外す理由もなかったので、惰性で付けっ放しになっていた。僕のものは水に濡れてよれよれになっていたけど、印字された日付はくっきり残っている。平穏な世界に繋がる唯一の手掛かりにも思えた。

「随分と前衛的なペアルックね」

 まったくだ。僕達は、一日交代で相手の写真を撮って漂流の記録としていたんだけど、三日目の分だけ芸術性を追及した代物に変わった。……股間を林檎ならぬ煎餅で隠したアダムなんて、全く様になっていなかったけれど。

 気候は温暖で、裸でもそれなりに快適に暮らせることに気付いた。ボートの保温性が優れているのか、入り口をぴっちり閉めてしまえば日没後の寒さにも対応出来る。けれども、冴里の官能的な裸体を前にして、理性と本能の鬩ぎ合いが起こり、無駄な精神的疲労が嵩んでいくのは避けられなかった。僕の洋服が乾き次第、即座に現代人の生活に戻すことにした。

 一連の騒動で、飲料水の問題が一気に切迫したものになった。要するに僕が予定より遥かに飲み過ぎたのだ。このままだと、一週間目を待たずして飲み水が枯渇してしまう。僕は、冴里の軽く三倍は水を飲んでいたので土下座して謝ったが、そんなことをしても水は一滴も戻って来ない、と厳しく一蹴された。

「本当に悪いと思っているなら、海水を蒸発させて蒸留水を確保するためのツールでも自作したら?」

「なるほど」

 本当に悪いと思っていたので、僕は暇に飽かせてそれを試作してみた。タッパーの中に海水を入れ、大き目の透明なビニール袋ですっぽり覆う。温度が上がれば水分だけ蒸発してビニールに付着するから、それを上手くペットボトルに集めれば良い。……意外と簡単に完成してしまった。

 だからと言って水問題がすぐに解決出来たかというと、これがまた難しかった。張り付く水滴の数は多かったが、如何せんちっぽけな雫に過ぎない。纏めたところで気の遠くなりそうなほど微々たる量しか集まらず、飲料水として喉を潤すには明らかに役者が不足していた。

「ま、でも、無いよりましでしょ」

 という冴里の一声で、日当たりのいい場所が選ばれて(僕の洗濯物が干してあったところだ)、造水器が三つ設置された。揺れた拍子にタッパーから海水が零れ袋の内側が塩だらけになったら元も子もないので、一つ当たりに入れられる塩水自体が少なく、装置としては本当に微妙だったが、水の重要性を訴えるオブジェとしては実に効果的だった。喉の渇きを極限まで我慢するよう、無言で説いた。皮膚は荒れ、唇が割れ、熱に浮かされたが、それでも僕は殆ど水を断った。冴里も、味の無いガムを噛み続けることで、唾液を飲んで我慢していた。僕達は、傍目にも明らかなほど健康を害した顔付きになり、お互いがお互いを気遣って妙に優しくなった。

 七日目、天の恵みか雨が降った。スポーツドリンクが空になる直前、ぎりぎりのタイミングだった。朝から淀んだ黒い雲が全天を覆っていた。風が強く、いつもの倍以上波が高かった。上下左右に頻りと翻弄されながら、僕達はその時を待った。ぽつり、と水滴が頬を打った刹那、あらゆる容器を広げて入り口の外に突き出した。いつもは造水器の役を担っているタッパーもビニール袋も、総出で雨粒を出迎えた。ペットボトルはナイフを使って飲み口を大きく切除し、寸胴のフォルムに変えた。雨を入り易くする工夫だった。雨足は徐々に強まり、土砂降りになった。水滴が屋根を叩く太鼓のような音がけたたましく鳴り響いた。ラバー製の斜面を傾れ落ちて来る水が、滝のように入り口から降り注いだ。雨漏り対策の洗面器のように、改造済みのペットボトルで受けた。タッパーは外に差し出して直接雨に打たれた。僕は大きな口を開けて僅かに飛び込んでくる雨粒を貪るように舐めた。

 けれどすぐに、それどころでなくなった。嵐が本格化すると、海が時化た。波に乗って床が斜めに傾き、海水が大量に流れ込んで来た。どうにか真水の入った容器を持ち上げて確保する。冴里の指示で、全ての水を魔法瓶に移し、ボートの入り口を二箇所とも閉ざした。船内は真っ暗闇になる。床一面が水浸しだったが、沈没の恐れもなさそうなので排水は無視した。これ以上水が入って来ることさえ避けられればそれで良い。

 ずぶ濡れの洋服を齧って僅かな水分を絞りとりながら、僕達は船の端に体を押し付けて大きな揺れに耐えた。長期の漂流を想定して作られているためか、ボートの安定感は抜群で、波に飲まれても沈みそうになかった。

「水、まだ足りないわ」

 冴里がペンライトを使って水筒を覗きながら言った。僕は首を横に振った。おそらく、向こうからはその様子は見えないはずだ。

「今から雨を集めるのは危険過ぎる。下手すれば海の中に放り出されるよ」

「ちょっとだけ開けて、腕だけ出せば?」

「大波が来て容器を持っていかれるのがオチさ」

 僕は、髪から滴る水を指で掬って舐めとっている。はっきり言って不味かったし愉快でなかったけれど、水分が取れない苦痛に比べれば数段にましだった。冴里は髪が長い分、直接端の方を口に含んでいる。ひどく艶かしい。

 ばつが悪くなって目を逸らす。ふと、今は暗黒そのものの傾斜した天井が目に入り、僕は閃きを得た。

「そうか、外に出ずに雨を集めればいいんだ!」

 僕はよろめくように立ち上がり、ゴム製のぶよぶよした天井をつっかい棒にしながら中央まで進んだ。

「仕組みはよくわからないけど、この天井には一本も芯が入ってない。張力だけでこの形に保たれる構造になってるんだ」

「……だからどうしたのよ」

「理論上、出っ張ってる部分を裏返しても安定する」

「え?」

 ぐしょぐしょに濡れた靴で背伸びをして、円錐の頂点を摘む。縫い目が合わさって突起のようになった部分を見つけ、全体重をかけて引っ張った。何度か繰り返すと、屋根全体がびろんびろんと撓んでいたが、ある瞬間を境にべこりと天井の凹凸が反転した。天井が低くなり、少し窮屈になる。僕は中腰の体勢になった。

「あ、そうか!」

 冴里がペンライトで僕を照らし、一気に駆け寄る。

 漏斗状になったゴム天井に、ぱらぱらと雨が降り注ぐ音が聞こえる。逃げ場を失った水はどんどんこの窪みに溜まっていくことだろう。雨が止んだあとにゆっくり回収すればいい。

「あなたって天才ね!」

 調子の良いことを言って、冴里が頬に祝福のキスをくれた。

「でも、問題が二つある。一つは、高波が来て海水が混ざってしまう恐れがあること。もう一つは、水の重みに耐えられなくて天井が決壊する可能性があること」

「ううん。大丈夫。そんな風にはならないわ。きっとこれが正解よ」

「正解?」

「そう。歴史はいつだって賢い人間の味方なんだから」

 冴里は、僕の首筋にかじりつき、甘えるように頬を寄せた。嗅ぎ慣れたはずの潮の匂いが、柔らかい体臭と混じって魅惑的に感じられ、朦朧となった。冴里は、海水で濡らしたタオルで毎日体を拭い、それなりの清潔を保っていた。僕もそれに倣うようにしていたが、服に染み付いた垢地味た匂いは比べ物にならないはずだ。

 しなだれかかる冴里の体重を支え切れず、僕は濡れた床にへたり込んだ。冴里は艶を帯びた目で色っぽく笑む。

「ねえ、私たち、こんな濡れた服をずっと着ていたら風邪を引くと思わない?」

 細く冷たい指先が、腹側からTシャツの内側に潜り込んで来た。僕の背筋をぞくりと何かが這って行ったけれど、それは決して不快でなかった。

 船が大きく揺れ、僕達はバランスを崩した。

 おそらく、二つくらいの意味で。

 夕方には時化が止んで、空も嘘のように晴れ渡った。暗い室内に、西の空に傾く淡い陽の光を取り込み、雨の匂いの残る外気を大きく吸い込んだ。

 僕の作戦は大成功に終わった。漏斗型の天井は水風船のようにたわわに膨らみ、室内からでもそれと分かるほど、相当量の水を溜め込んでいた。入り口から外に身を乗り出し、コップ代わりの水筒の蓋で掬って恐る恐る飲んでみると、若干塩気が混じっているものの、充分飲用に足る代物だった!

 僕達は抱き合って喜び、なみなみと注いだ雨水で乾杯した。海水が乾いて床のあちこちが塩だらけになっていたけど、全く気にしなかった。ぐしょ濡れの僕のショルダーバッグも真美ちゃんのバッグも、乾けば似たような憂き目に合うことは確定していたけど、それすら気にしなかった。飲み水が確保出来ただけで、救出の目処が立ったわけでないことなんて、さらにどうでもよかった。

 僕達は、危機を乗り越えた仲間であり、掛け替えのないパートナーとなった。たぶん、それだけでよかった。

 その五日後、つまり遭難十二日目の午前、ボートのほぼ真上上空を小型飛行機が通った。腕時計は九時五十五分を指していた。

 菓子の大半を消費し、栄養の供給源を殆どマヨネーズに頼っていた。また、天井の水も蒸発の影響で予想より減りが早く、徐々に塩濃度が濃くなっており、焦り始めていた。僕は漂流症候群という漂流者に典型的な精神疾患に蝕まれつつあり、助けが来たという幻覚や幻聴に苛まれ、イライラが募って冴里に当たることも増えていた。冴里はそんな僕を冷静に受け止め、愛し、慰撫した。

 飛行機を見つけたのは冴里だった。彼女はすぐさま鏡でコンタクトを取ろうとし、大声を上げて呼びかけた。僕は入り口から大きく身を乗り出し、脱ぎ捨てたジャケットを腕が千切れるくらい振り回した。勿論、喉が涸れるまで絶叫した。

 小型飛行機は、何のリアクションも見せずに飛び去った。波はそう高くないし、あれだけの高度から見下ろせば絶対に気付くはずだと思った。何しろボートの外面は派手な黄色をしているのだ。

 折り返してこちらの正確な座標を確認しに来るかもしれない。通報を受けた救助隊のヘリが飛んで来るかもしれない。そんな希望に縋って食い入るように空を見詰めた。

 ……どれだけ待っても助けは来なかった。

 陽が沈み始めた時、僕はほとんど発狂同然に喚きちらして暴れた。体の中で暴風雨が荒れ狂っているように感じた。やり場のない憤りが全身の皮膚から噴出した。冴里はそんな僕に平手打ちをかまして海に叩き落とした。

 体が海中に没しても興奮は静まらず、いっそこのまま死んでやろうかと自棄を起こしそうになった。水はまだ冷たく、肌を刺すようだ。水の中なのに人の声がした。僕の耳元で優しく囁いている。起きて。ねえ、起きてよ。まだ間に合うわ。私たちには運があった。あなたは助かるの。私も助かるの。あの飛行機が私達を助けてくれるの。きっとそうよ。

 何を馬鹿なことを。あの飛行機はとっくに行ってしまった。こちらに気付いた素振りも見せずに。せっかくの幻聴なら、せめてもっと希望の持てる内容にして欲しい。どうしてそんな、微妙な話が出てくるのか。

「それは、これが現実だからよ」

 紛れもない冴里の声が、僕の耳にしっかりと刻まれた。僕は目を開き、辺りを見回す。明かり取りのために小さく開けられた入り口から、細く日の光が差し込んでいる。間違いなく見慣れたボートの中だった。僕は裸で横たわっており、隣には同じく裸の冴里が半身を起こしている。

「ようやく気付いた? 私たちには運があるわ」

「……どういうこと? 夢?」

 冴里が小さく首を横に振る。

「私達は戻ったのよ。今朝の飛行機が来るより前の時刻に」

 外してあった腕時計を探す。午前七時十二分。携帯電話で日付まで確かめようとしたけれど、初日に電源を切られて以来、バッグの底で眠っていた。代わりにデジカメを起動し、間違いなく今が十二日目であることを確認する。

 飛行機が来るまであと二時間四十三分だ。

「とんでもないタイミングね。私達にはやり直すチャンスが与えられたのよ」

 冴里のタイムスリップが完全に僕と同期していることを、今度はすんなりと受け入れられた。状況的、そして精神的に。

 飛行機の来る方向とタイミングが事前に分かっているのならば、出来ることはいくらでもある。僕達は蜘蛛の糸を得たに等しい。

 僕達は、遠目でも目立つよう、時計が午前九時半を指したら雑誌を燃やした。室内も煙たくなったが、助かるために我慢した。上空は強い風が吹いていたが、煙は太く高くたなびいた。さらに、ラバー製の壁面を軽く炎で炙ると、有害そうな真っ黒い煙が上がった。白と黒の螺旋が青空に吸い込まれていく。僕達は息を止めてそれを見送った。

 飛行機が遥か彼方先に点のように見えたら鏡を使った。太陽の位置と飛行機の高度を巧みに計算し、モールス信号でSOSとなるようちらちらと角度を変えた。何度も何度も何度も何度も、視認出来るようになるまで続けた。

 その時、飛行機が突然煙を吐き出したので僕達は呆気にとられた。エンジントラブルで炎上でもしたのかと思った。それにしては速度が一向に落ちない。

 小型飛行機は、僕達のボートの上空を、煙を引いたままで大きく旋回した。空に飛行の軌跡がくっきりと残された。どうやら、スモークを焚いたらしい。航空ショーなんかで僕にも見覚えがあった。

「どうやら、気付いてくれたみたいね」

 疲れた顔の冴里が、口元だけで笑った。その目からはぼろぼろと涙が零れていたが、彼女は煙のせいだと言い張った。

 勿論僕もおんなじことを言った。

 ぐったりとなって横たわった。二人で手を繋いで助けを待った。セルフポートレートの要領で、二人の写った写真を撮った。遭難してから十二枚目。最高の笑顔が出来るはずだったけれど、何故か頬が強張った。

 僕達はこれで助かるんだ。……まあ、それは嬉しい。でも、一体僕はここで何をやってしまった?

 いまやしっくりと馴染む細い指を、強く握り直した。全ての指が絡み合う、親密な握り。

 答えは明白だった。

 僕は吊り橋効果で真実ちゃんを裏切った。

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