エピソード三

 トイレの建物を背にして左前方に、ベンチが二脚据えられていた。その一方では、若い女性の二人組が座ってお喋りをしていた。二人とも、ロゴ入りの紙コップを手にしている。喉が渇いたから少し休憩、といったところか。

 誰もいなかったはずのもう一方のベンチに、いつの間にやら一人の男が座っていた。その姿を見て、僕は思わず声を出しそうになった。それはあの、昼食の時に隣にいた怪しげなスパイ野郎だったんだ! 春のぽかぽか陽気の中ぞろりとしたコートで体を覆っている奴なんてざらにいないし、サングラスで素顔を隠している奴だって稀だ。何より、整髪料でてかてかに撫で付けられたいかにも胡散臭いオールバックは見間違いようが無い。

 足元には彼の持ち物らしき白い大きな紙袋が置いてあったが、ロゴが入っていないので、土産物屋で買ったものではなさそうだ。ごつごつと歪に膨らんでいる。……もしかすると、人に言えないようなものを取引しようとしているのかもしれない。僕はそんなことを考えた。

 男は、サングラス越しに僕の方をじっと見つめていた。反射的に背筋に震えが来た。ついと目を逸らす。こんなところで因縁をつけられでもしたらたまらない。今は大事なデート中なのだ。

 視界の端で、男がコートの内側に手を入れた。どうせ煙草でも取り出すのだろうとそれとなく窺っていると、黒光りする金属の塊がぬっと現れた。

 あまりの非現実感に、対応が遅れた。

 拳銃型ライターに決まっている。あるいは何かの冗談だ。本物のわけがなかった。そんなことあってはならなかった。隣のベンチの二人組も、通りすがりの家族連れも、一人たりとも騒いでいないのがその証拠だ……。

 頼むからそうだと言ってくれ。僕は無根拠に根拠を求めた。

 男は僕に銃口を向けてきた。

 実際に衝撃を受けるまで、全く危機感が無かった。現実なんてそんなもんだ。自分の生活の中に本物の拳銃が関わってくることなんて絶対に無いと思い込んでいる。拳銃も短銃もライフルもマシンガンもバズーカも、どれも別世界のお話だ。取り返しの付かなくなるその時まで、頑なにそう信じている。

 左肩にかけていた真実ちゃんのバッグが急に暴れて、脇腹の辺りに強くぶつかった。殴られたような痛撃が走った。わずかに足元がよろめいた。

 一瞬遅れて破裂音が響いた。大音声が轟き、こだました。間違いなく銃声だ。男の銃から一筋の煙がたなびいている。男の表情はわからない。口元には何の表情も浮かんでいない。

 ……撃たれた。事実を事実として知覚した。

 愕然とした。血の気が引いた。パチンコ玉を頭から大量に流し込まれたみたいに、冷感が下降しながら全身に広がった。恐怖に当てられて思考が麻痺し、突然の出来事にパニックに陥った。僕じゃない誰かがどこかで悲鳴を上げた。銃を撃った男の存在に気付いたのだろう。ざわつきが広がっていく。

 僕は動けない。射竦められている。男の銃はまだ僕に向けられている。引き鉄に指がかかっている。

 衝撃を受けた脇腹に、痛みはなかった。それが逆に不気味だった。致命傷のあまり、痛覚が麻痺しているのかもしれないと思った。恐くて確かめられなかった。足の震えが止まらなかった。

 右手を誰かに掴まれた。

 はっとして振り向くと、そこには長い黒髪の女性が立っていた。幽霊のように、無から急に現れたように感じられた。

「逃げるわよ!」

 女は勝手なことを言って、僕の腕を掴んだまま走り出した。

「ちょっと待って」

 僕はわけもわからず抵抗しようとしたが、半ば引き摺られるようにして二、三歩それに続いた。男が視界から外れる。銃声は轟かない。強引に手を引かれる。女の力は尋常じゃなく、背は僕より少し高いくらいだ。

 走り出すことを躊躇していた。背後を気にした。動いてはならない。固く信じた。殺されかけているのにそんなことを思った。真実ちゃんとの約束があった。約束を破るわけにはいかなかった。置いて逃げるわけには……。

 まさか! 疑念を振り払う。死体になってまでその場で待機することに、どんな意味があるというのか。

 意を決して、僕は自分の意志で地面を蹴った。女を追い抜くような勢いで駆け出した。女は手を離してくれた。

「着いてきて!」

 言うなり、僕を先導するように疾走を始めた。

 脇腹が少し痛んだが、重傷ではありえないとわかった。傷が深ければ、こんな風に自在に動けるわけがない。迷いが消えれば楽になれた。

 サングラスの男に背を向けていることは恐ろしかった。今にも後ろから銃声が聞こえるんじゃないかと、気が気ではなかった。

「振り向かないで。とにかく今は逃げることだけに専念して」

 正論だった。必死で逃げた。

 女の選んだ道は適確だった。基本的に遮蔽物の近くを走った。開空間を通らざるを得ない時は人の多い場所を選んだ。いずれも狙撃の対象になりにくい工夫だ。決して真っ直ぐ進むことは無かった。脇道に飛び込んで攪乱もした。

 てっきり正門の方に進むと思っていたが、女は海側に向かっているようだった。噴水広場に出てからは、朝一番で乗った悪夢のジェットコースターに至る道をなぞり直す感じになった。息を切らしながら、僕は訊いた。

「……どこに向かっているんですか?」

 追跡者の気配は感じられなかった。心臓が爆発しそうだ。正直、そろそろ立ち止まりたかった。

 女は前を走りながら、少しだけ足を緩めた。

「海にボートが用意してあるらしいわ。それに乗ってここから脱出しましょう」

 彼女が何を言っているのか、僕にはさっぱりわからなかった。どんな言葉を求めていたのかも実はよくわからなかった。安全な場所まで逃げて、不審者の存在を警察に通報する、とそう言われれば納得したのか。

 ……まさか。あの男が単なる不審者であるわけは無い。明らかに僕をつけ狙っていた。無差別殺人犯が偶然僕を狙ったというような話ではない。

 だとすると、僕への襲撃は即物的な次元では語れない。明らかに事情に通じている協力者がタイミング良く現れたことも合わせて、未来の僕の関与が想定された。

 振り返り、男の姿が見えないことを確認してから、足を止めた。女が、その気配に気付いて引き返してくる。

「待って下さい。……僕には今の状況が全くわからないんです。納得出来るように説明してくれませんか?」

 女の姿をじっくりと観察した。当時の僕よりは年上だったけれど、まだかなり若い女だ。二十歳前後だろうと当たりをつけた。上から下まで黒一色、身体のラインにぴったりの、動き易そうな服装をしている。髪は肩までかかる程度で、ラフに後ろで一つに束ねていた。ヒールの無い靴を履いているのに、僕より上背がある。整った顔立ちではあったけど、目元に険があった。吊り目がちで、いつも怒っているような顔つきなのかもしれない。肌の白さと服装のコントラストが極端で、何となく鯨幕を想像した。

 彼女は不機嫌そうに、形の良い唇を歪めた。

「あなたは私のことを知らないかもしれないけど、私はあなたのことをよく知っているわ」

 質問の答えになっていなかったが、やけに説得力があった。首の動きだけで僕に歩くよう促した。僕は、どうにも胸が騒いで仕方なかったが、それに従った。最低限の警戒は必要だった。

「……未来の僕、というですか?」

「そういうことになるわね。あなた自身とも会っているけど」

「どこで?」

「それは自分で思い出して。とにかく今は、あいつから逃げることだけに専念しましょう」

「あいつは一体何者なんです?」

「ああ、鬱陶しいから、一々敬語なんて使わなくて結構。あいつの正体については、おいおいわかると思うわ。一つだけ言えるのは、非常にたちの悪いあなたの敵である、ということだけ」

 ……敵。それはあまりにも日常離れした言葉だった。具体的なイメージは全く湧かなかったが、何らかの巨悪を勝手に仮託して納得することにした。どれだけ拘ってみたところで、彼女の口から説明してもらえないことは容易に予想された。

「わかった。質問を変えよう。あなたは誰なの?」

「名前? それとも身分?」

「両方」

 彼女は僕を見下ろして、僅かに目を眇めた。

「私の名前はサエリ。『さえるさと』と書いて冴里。わかり易い身分は持ってないけど、強いて言えばあなたのボディーガードかしらね」

 この時彼女は実際に冴里と名乗った。後に本名でないことがわかるので、わざわざ仮名を使わなくて良い。

「……ボディーガード?」

「そう。私があなたを守ってあげる」

 冴里は不敵に笑って見せた。目尻が柔らかく緩み、表情に温かさが宿った。魅力的な笑顔だった。僕は思わず赤面し、そんな自分を呪った。真実ちゃんへの背徳だ。

「さ、とりあえず急ぎましょう。怪我してるわけじゃないんでしょ?」

 そうだ、すっかり忘れていた。僕は、拳銃で撃たれたのだ。今更ながらに左脇腹に手を当てた。血でべっとり濡れているようなことは当然無く、軽く鈍痛が走っただけだった。

「バッグが弾丸を止めてくれたのね。だから、あなたの身体は軽い打撲で済んだ」

 冴里が、真美ちゃんのバッグを指差している。側面の布地に小さな穴が開いていた。ぞっとしながらその穴に触れてみる。縁が少し焦げ付いて、繊維が硬く縮れていた。アップリケでも縫い付ければ誤魔化せるかもしれないが、真実ちゃん、怒るだろうな……。

「でも普通、こんなバッグくらい貫通するんじゃないの?」

「さあ。中に、何か硬いものでも入ってたんじゃない」

 大事なものとか入ってないといいけど……。すぐにでも中を開けて確かめてみたかったが、プライバシーを考慮してやめておいた。それに、今は敵とやらから逃げるのが先決だ。

 冴里が走り出したので、僕はへとへとの身体に鞭打ってそれに続いた。例のジェットコースターの脇を通り抜けた時、恐ろしい可能性に思い至り、僕は慌てふためいた。

「一応訊いておくけど」

「何?」

「あのトイレに、僕の連れがいたんだ! 彼女に危害が加えられるようなことはないのかな」

「連れって、真実ちゃんのこと?」

「知ってるの?」

「そりゃあ、ね。あの娘はなかなか厄介な相手だし」

「……え?」

 不穏当な発言に肝を冷やす。冴里は、全てを打ち消すように首を振った。

「ううん、こっちの話。気にしないで。あの娘なら大丈夫。狙われることはないわ」

「人質にされたりする可能性は?」

「……そんなに心配なら戻ってもいいけど、今戻るなら命の保証はないわよ?」

 冴里の言い回しは、あたかも自分で手を下すかのようにも聞こえた。どこまで本気かわからないが、逆らわない方が良さそうだ。未来の僕の関係者ということは、そのやり方に誤りは無いはずだった。

 何分拳銃で襲われるなんて初めての経験だったから、僕は非常事態の作法を全く知らなかった。今何が起こり得て何が起こり得ないのか、それすら量りかねていた。サングラスの男が真実ちゃんに銃を突きつけている悪しき想像を頭から振り払い、僕は走り続けた。

 冴里は先程、ボートが用意してある、と説明していた。それに乗って逃げるには、当然ながら海岸まで出なくてはならない。だが、遊園地の敷地は侵入者を防ぐために高い柵で囲われている。いくら園内から海側に近付いたところで、柵に阻まれて海まで出られないはずだった。普通の柵なら乗り越えられないでもないが、場所が場所だけに何らかのセキュリが敷かれていることは想像に難くない。

 どうやってそれを越えるのか不思議に思っていたら、タネは簡単だった。平常時は使われていない裏門があるというのだ。新たなアトラクションの増築に際して、海側から資材を搬入したい時に使用される他、いざと言う時は非常口としての役割も果たすという。

 僕達は、延々と続く柵に沿って歩いた。……そう、歩いていた。体力はさすがに限界に近かった。真実ちゃんのバッグが重く、左肩がだるかった。

 左手の柵の向こうに、青い海が広がっているのが見える。三角帆のヨット。モーターボートの描く白波。小さな赤いブイ。波も穏やかな、平和な海原。

 ジェットコースターの走行音や楽しげな音楽が聞こえなければ、遊園地であることを忘れてしまいそうだった。柵の傍には、華やかさを示すためか花壇が続いていた。色とりどりの花が健気に咲いていたが、観光客に顧みられている様子は無かった。

一人の男が僕達を呼び止めた。相手がテーマパークの従業員服を着ていたのでぎくりとしたが、向こうは気さくに近寄って来た。

「やばそうだったら、すぐ逃げるわよ」

 冴里が小声で呟いた。一方で従業員は、真っ白い手袋で冴里を指し示しながら、尋ねた。

「……ええと、冴里さん、ですよね?」

 僕達は、二人して虚をつかれたような顔になった。

「そうだけど、あなたは?」

 冴里の不審そうな声に、従業員は顔を輝かせる。身の潔白を示すように、深々と頭を下げた。

「あなたがたの協力者です。お二人の味方ですから、どうぞご安心を。ええと、少々お待ちいただけますか」

 彼は、僕達から少し距離をとると、腰に吊るしたトランシーバーに何事か吹き込んでいた。「本当に来たんだって! 今日は悪戯じゃねえよ」などと、小さく叫ぶ興奮気味の声がかすかに届く。

「彼、冴里のお仲間?」

「……本人がそう言ってるんだから、そうなんでしょ」

「冴里は組織で動いてるの?」

「違うわ。でも、ある意味ではそうとも言えるかもしれない。味方ならどこにでもいるから」

「ふうん」

「同じくらいの割合で、敵もいるけどね」

「……お待たせしました。どうぞこちらへ」

 従業員が戻って来た。僕達は、彼に連れられて再び歩き出す。すぐに、扉が見つかった。巧みに柵にカモフラージュされているが、カマボコ型に切れ込みが入っており、白く塗られた蝶番で支えられている。思っていたより大きく、大型トラックが易々と通れそうだった。門の前だけ花壇も途切れている。観音開きになるようで、中央部に閂式の鍵がかかっていて、南京錠で止めてあった。その足元には、柵を支える支柱の代わりに金属製のストッパーが地面に空けられた窪みに嵌っている。門が風で軋むことを防いでいるようだ。

「今、仲間が鍵持って来ますから、ちょっと待って下さい」

「ありがとう、助かるわ」

 従業員は、素っ気無い冴里の言葉に恍惚としたような顔を見せた。頬が上気している。

「あの、俺、お二人に会えて本当に光栄です」

 光栄? 僕がわけもわからず冴里の方を見ると、彼女は何とも言えない複雑な表情をした。小さく肩を竦める。

「協力者の存在は知ってたけど、ここまで強烈なシンパだったとは思わなかったわ」

「すみません。無礼を承知で窺いますが、あの、握手、お願い出来ませんか?」

「……まあ、減るもんじゃないし、別にいいけど」

「ありがとうございます!」

 従業員は、手袋を外しておずおずと右手を差し出してきた。冴里はそれを無造作に握る。

「……感無量です」

「そう、良かったわね」

 一頻り握手を交わした後、今度は颯爽と僕の方に手を伸ばした。

「え? 僕も?」

「はい、出来れば!」

 冴里の表情を窺うと、私は知らないわ、とばかりに目を逸らされた。わけのわからないまま、芸能人にでもなったつもりで握手に応じる。男は、がっしりと思いのほか強い力で握り締めてきた。

「頑張ってください。応援してます!」

「あ、ありがとう……」

 自らの待遇に困惑を隠し切れないでいると、遠くの方からどよめきが聞こえた。振り返ると、園内から大勢の人間が歩いて近付いて来ている。大半は従業員の制服に身を包んでいたけど、明らかに普通の観光客姿の人や、着ぐるみを着ている者までいる。総勢三十人は下らないだろう。先頭に立っているのは、見るからに警備の仕事をしていそうな、青い制服を着た四十がらみの男だった。

「あれ、全員あなたの仲間なの?」

 冴里が眉をひそめながら尋ねると、従業員は力強く頷いた。

「勿論です。お二人を必ず外洋まで逃がし切りますよ」

 ……外洋まで逃げるのか。僕はその言葉をまるで他人事のように聞いた。悪い冗談にしか思えない。協力者の数と言い、僕が巻き込まれているのはどうも大変な規模の謀略らしかった。

 応援に駆けつけた群衆は、僕達を遠巻きにしながら、思い思いに話をしている。

曰く、すげぇ、本物だよ。曰く、うおお、俺、この日のためにここでバイト続けてたんだ、最高。曰く、向こうも今頃集合してる頃だろうな。曰く、私たちって好き勝手にやって大丈夫なんだよね。曰く、この戦いに勝ち負けは無いからね。野次馬も混ざってるくらいだから平気でしょう。曰く、結局彼はどっちを選ぶんだろうね。曰く、俺はこのまま行って欲しいけどなあ。……

 僕は首を傾げるばかりだったが、冴里は事態に納得したのか、はたまた見切りをつけたのか、凛とした表情で悠然と構えていた。そこへ、

「重ね重ねすみません。記念に写真撮っていいですか?」

 握手に味をしめたらしい従業員が、携帯電話のカメラを構えて近付いて来た。

「……仲間と並んでってこと?」

「そうそう。お二人を中心に囲んで、集合写真みたいに」

「……いいわ。撮るならさっさとしましょ」

 気前の良い冴里の言葉に、やんややんやの大喝采が起こった。そして、出来るだけ僕らに近付こうとセンターポジションの取り合いが始まる。僕は、せっかくなので撮影役の従業員に自分のデジカメを渡して同じように撮ってくれるよう依頼した。デートの思い出を残すという本来の目的からは完全に逸脱したが、何かの記録にはなるだろうと思った。

「はーい、撮りますよー。まともに写りたかったら動かないで下さーい」

 従業員の言葉に、皆、思い思いのポーズで固まった。僕は曖昧な笑みを浮かべて直立不動。冴里も似たようなものだったが、笑みに含まれる呆れの度合いが強いように見えた。

 携帯で二枚、デジカメで二枚撮られた。

「写真はメールで送りますので、欲しい人は後でアドレス教えて下さーい」

 拳銃を持った男に命を狙われているはずの僕と、それを守るボディーガードのはずの冴里は、修学旅行の学生みたいなノリの協力者達に囲まれた。次々に励ましの言葉を受け取り、ただただ困惑するしかなかった。

 騒ぎが沈静化すると、最初に一団の先頭にいた警備員のおじさんが、鍵束を握りながら真面目な顔で近付いて来た。

「これまで半信半疑で警備員続けて来やしたが、まさか本当にこんな大役を任せてもらえるとは……。警備員冥利に尽きるというもんですわ。同僚に自慢させていただきやす」

「はあ、それは何より……」

 おじさんは、迷うことなく鍵束から一つの鍵を選び出し、扉を閉ざしている閂に付いた南京錠へと近づけた。心なしかその手が震えている。緊張しているのだろう。いくらかもたついた後、どうにか開錠を果たした。

 すかさず最初の従業員が閂を下げ、さらに別の従業員が駆け寄ってきてストッパーを外し、三人目が右側の扉だけを押し開いた。錆びた蝶番が甲高い音で軋んだ。海が近いので、腐蝕が早いのかもしれない。人間が一人分だけ通れる隙間が空いたところで、止まった。扉を開けた従業員が、ホテルのドアマンのように慇懃に頭を下げ、僕達を片手で導く。

「さあ、お二人とも、どうぞ」

「ありがとう」

 冴里が頭を下げてから門を抜け、僕もそれに続いた。テーマパークは高く造成された土地に建てられているため、門の外は勾配が続いていた。谷間のような傾斜を抜けると、コンクリートで固められた波止場に接続していた。この急な坂道を車がまともに登れるのかどうか、それは定かではない。

 園の敷地から出ただけで、冗談のように磯の匂いが強く薫った。海が本当に目と鼻の先にあることを心から実感した、丁度その時だ。

「そこ! お前ら、一体何をしている!」

 柵の向こうから大きな声が聞こえてきた。群集が扉の前に集まっているせいでその先が良く見通せないが、僕達に協力的でない警備員にでも見つかったのだろう。

「まずい。石嶺さんは敵側の人間だ。向こうの勢力が殺到するぞ!」

 既に僕らに続いて柵を越えていた最初の従業員が叫ぶ。協力者達の顔に緊張が走った。ドアマンをしていた従業員が、冷静に指揮をとり始めた。

「慌てるな。ここは俺達に任せろ! 柵の手前で食い止める! 倉庫の鍵を持ってる谷崎さんと、ボートの運転が出来る伊地知以外は全員園内に残って戦おう!」

「待て、大和田。万が一に備えて護衛が三人くらい欲しい」

「わかった。伊地知が適当に見繕ってくれ」

「よし、木村、笹西、沖本、お前ら来い!」

 伊地知というらしい最初の従業員が、誰が誰だかわからない三人を呼び込んだ。ちなみに、全員仮名なので誰が誰でも構わないとも言える。南京錠の鍵を開けた警備員もこちらにやって来たので、たぶんこの人が谷崎さんだろう。

 ドアマン大和田が扉を閉ざし、内側から閂をかけ、さらに南京錠で封じた。屈んでストッパーに手をかける。

 傾斜の下にいた僕達と、目の高さが合った。大和田は軽く敬礼をすると、

「ご武運を!」

 と強く言って、園内に振り返った。

「よし! 香坂、白鳥、神田川! 石嶺さんが人呼ぶ前に武器取りに行くぞ!」

「はい!」

 集団が割れ、慌しく戦闘準備に動き出す。

「さあ、我々も行きましょう!」

「は、はあ」

 早足で進む伊地知に、当事者のはずなのに最も状況に疎い僕、鋭い眼差しの冴里が続く。さらにその後ろに谷崎さん、それから木村、笹西、沖本の三人が順不同で並んだ。……統率が執れているとは口が裂けても言えない適当な行軍だった。しかも、谷崎さん以外は武器らしい武器を持たぬ全くの空手。谷崎さんにしても、警棒をぶらさげているだけで、銃を持った相手には無力に近い。不安だらけのメンバーだった。

 と、傾斜を下りきったところで突然、背後から銃声が連続して聞こえてきた。柵の向こうで戦いが始まったらしい。裂帛の気合の声やら、断末魔の叫びやら、怒号と悲鳴が交錯している。

 戦慄が駆け抜けた。

 一体僕は、どんな相手に命を狙われているというのか!

 戦闘の騒音を聞きつけた伊地知が、舌打ちを一つしてから足を速めた。

「急ぎましょう。皆がどれほど時間を稼いでくれるかわかりません」

「そんな……」

 木村、笹西、沖本の内の一人が、傾斜の終わりで足を止めた。足を止めた者を木村としよう。

「僕はここに残ります。敵が柵を突破したら、大声を上げて知らせます。また、傾斜の出口にテグスを張って罠をしかけます。陳腐な仕掛けですが、転んで銃を暴発させる者も出るやも知れませんから」

 木村が決死の覚悟であることがわかったが、その顔には悲痛な色は滲んでいなかった。

 僕達は彼の意図を汲んだ。後ろを振り向かずに走った。

 だが、銃声が轟くたびに恐怖で身体の動きが鈍る。足が縺れそうになる。

 冴里が僕の不安を拭うように、左手を握ってくれた。

「大丈夫。私があなたを守るわ」

 その手の感触は、真実ちゃんのものと全然違っていた。指が細くしなやかで、掌はしっとりと濡れていた。恥ずかしさを認識するより先に、バツの悪さを覚えた。あまりに自然に手を繋いでしまえたことで、真実ちゃんを裏切ったような気がしてならなかった。心臓が、キリキリと締め付けられる。緊張感が体中に漲っている。まるで絶叫マシンに乗る直前のように。吊り橋効果でトラウマが植え付けられるかもしれない、そんな刺激!

 ああ、僕は何を考えているんだろうか。自分を叱咤する。僕は今生死をかけた戦いの中にいるんだ。恋だの愛だのと呑気にことを構えてる場合じゃないだろう。

 銃撃の音はまだ続いている。そこに爆発音さえ混じる。すぐそこは戦場なんだ。きっと何人もの血が流されているんだ! そう、それも僕を守ろうとした人達の血が。僕と一緒に写真を撮影した人達の血が。頑張って下さいと励ましてくれた人達の血が!

 僕は冴里の手を強く握り返し、二人で走った。

 波止場はぱっと見でL字型に切られていた。遊園地からの傾斜は、L字の横棒の中央右寄りに接続しており、僕達はそこから、Lの字の書き始めに当たる方向を目指していた。Lの字の縦棒部分には一列に十個倉庫が並んでおり、下から四番目と五番目の倉庫の間に、奥へ延びる脇道が走っている。倉庫の大きさは殆ど一様だが、最奥のものだけが二回りほど小さかった。伊地知が指差しながら叫ぶ。

「あの中にボートがあります!」

 皆はほぼ全力疾走を始めている。僕達は手を繋いだままだ。右にカーブを切る。弧を描くようにして遠心力を飼い慣らし、スピードをなるべく落とさず進む。爆発音に後押しされて、僕達はコンクリートを蹴りつける。

 僕らの後ろで、笹西、沖本の内の一人が立ち止まった。直角カーブのところだ。止まった者を笹西としよう。巨漢の彼は息も絶え絶えで、ギブアップしたかのようにも見える。笹西は大声で叫んだ。

「僕はここに残ります。万が一敵がここまでやってきた時は、お任せください! 得意のぶちかましで、相手を海に落っことしてやりますよ!」

 威勢が良く発言は勇ましいが、向こうが飛び道具を持っていたらぶちかます前に死んでしまう。

 だが、そんな野暮なツッコミを入れることは誰にも出来ず、五人は右手に海を見ながらひた走った。左には倉庫が建ち並んでいる。どれもこれもシャッターが閉まっており、中を窺うことは出来ない。銃声に混じって、微かに海鳥の鳴く声が聞こえた気がした。

 真実ちゃんの鞄がずり落ちそうになり、肩にかけ直す。

「邪魔なら持ってあげるけど?」

「いや、大丈夫」

 義務感に駆られていた。自分が持っていなければいけない気がした。僕の中で感情は分裂している。真実ちゃんのことを気にしながら、左手は頑なに冴里と繋いだまま、離さない。離したくない。

 緊急事態を言い訳に、劣情が疼き出す。

 鼓動はひたすら加速していた。その理由の半分もわからないままに。

 四つ目と五つ目の倉庫間を抜ける横道まで来た時、沖本が立ち止まった。半ば予想通りだったので驚きもしない。その主張も話半分に聞いた。

「おいらはここに残ります。こっちの分岐から誰か来ないか見張っておきます。もし敵が来たら、逃げ回って相手の注意を引きます。つまり、囮って奴です」

 最早誰一人としてその作戦の正当性に考えを巡らす余裕を持たなかった。正直、倉庫の鍵を持っている谷崎さんが立ち止まらなければどうでもいいや、という気分にさえなっていた。

 先頭に伊地知、続いて僕と冴里。ちらりと振り返ると、谷崎さんは少し遅れていたものの、しっかり着いて来ていた。

「谷崎さん、急いで!」

 伊地知が叫ぶ。谷崎さんは、真っ赤な顔で懸命に足を運んでいる。警備員なんだからもっと体力があって然るべきだと思ったが、こんなところで愚痴っても仕方がない。

 とうとう伊地知はL字の先端、十番目の倉庫に到着した。倉庫の前の地面はなだらかな傾斜を描いており、そのまま海中に没している。貨車に乗せたボートをそのまま海まで運び出せる仕組みらしい。

「早く! 鍵をこっちへ!」

 谷崎さんは、まだ七つ目の倉庫の前にいた。伊地知に急かされ、腰のポーチから慌しく鍵を取り出し、下手投げで放り投げる。鍵は僕達の頭上を越え、放物線を描いて見事伊地知の胸元に吸い込まれ――ない。

「あああ!」

 思わず僕は叫んでしまった。大暴投だ。鍵は太陽光を反射してきらきらと輝きながら、伊地知の遥か頭上を越える。伊地知が咄嗟にジャンプして手を伸ばすが、全力疾走後で息も上がっており、動きに精彩を欠いていた。全然届かない。

「しまった!」

 鍵はそのままノーバウンドで海にまで達した。実際には聞こえないはずの、ぽちゃん、という小さな音まで耳の中で反響する。

 ものの見事に失われた。

 …………。誰もが無言。呆然と立ち尽くした。

 どれくらい無為の時間が続いたか、いち早く立ち直ったのは冴里だった。

「ぼおっとしてたって仕方ないわ! こうなったら、鍵を壊してでも開けるしかないでしょ!」

 それもそうだ。引くに引けないのだ。冴里は僕の手を引いて第十倉庫まで走る。冴里の声に我を取り戻したのか、伊地知も倉庫のシャッターに体当たりを始めた。

「それ、普通に持ち上がらないの?」

「駄目なんだ! 内側から電動ロックがかかってる。レールから外して根本からぶっ壊せば開くかもしれんが」

「体当たりくらいじゃ無理じゃない?」

「ぶちかましの得意な笹西さん呼べば?」

 僕が何気なく言うと、伊地知はぱっと顔を明るくし、「うおおい、笹西!」と大声で怒鳴って手招きし始めた。

「普通のドアはないの? ピッキングの心得なら多少あるんだけど」

 耳を塞ぎながら、冴里もがなる。

「裏手に入り口があるから、そっちに回るといい!」

 第八倉庫の前から谷崎さん。

「間もなく柵が破られそうです!」

 傾斜の下から木村の声まで聞こえる。

 もうぐちゃぐちゃだ。

「針金か何か持ってない?」

「ええ、急に言われてもわかんないよ」

「とにかく行くわよ! もしかしたら開きっ放しってこともあるかもしれないし」

 冴里は僕の手を引いたまま、第九倉庫脇の狭い隙間に飛び込んだ。日陰になっているため、かなり暗い。不要になった煉瓦や灯油のポンプ、古タイヤなんかが打ち捨てられていて、かなり荒れていた。それらを踏み越えて進む。

「なんか、子供の頃の廃墟探検を思い出すな」

「……あなたって、臆病かと思うと意外と肝が据わってるわよね。呑気なだけかもしれないけど」

「そう?」

 背後からは、引き続き伊地知の怒声が響いて来た。谷崎さんが独断でシャッターにぶつかっているらしい音も聞こえる。距離の割に遠く感じた。僕達だけ隔離されてしまったかのように。

「そうよ。敵がすぐそこまで迫ってるって時に、普通そんなこと考えないわよ」

「アドレナリン出過ぎて、感覚が麻痺してるだけだよ」

 僕が言い訳にもならないようなことを口にした瞬間、狭い路地を抜けた。広大な敷地にコンテナが無数に並んでおり、作業用のフォークリフトの姿も見える。人の気配は無かった。

 壁伝いに急いで回り込むと、第十倉庫の正面にこぢんまりとしたドアが付いていた。軽金属素材で出来ており、ドア本体は頑丈そうだが、上半分が磨りガラスになっている。ピッキングなどしなくても、最悪、ここを割ればどうにかなりそうだった。

「……ねえ、何か変じゃない?」

「え?」

 冴里が、顔の前に一本の指を立てた。静かにしろということだろうか。不審な物音でもするのかと思い、耳を澄ませてみた。

 ……特に何も聞こえないようだが。

「あ……、そうか」

 僕もようやく気付いた。

 倉庫を一つ隔てた向こうは、戦場になりつつあるのだ。その騒がしいはずの波止場から、一切の音が漏れ聞こえて来ないというのは、明らかに異常だった。

 微かにジェットコースターの音が聞こえるが、銃声や爆発音はしていない。伊地知の叫ぶような指示も、鳴りをひそめている。

「……ちょっとそこでピッキングでもやってて」

「はあ?」

「すぐ戻る」

 冴里の手を離し、真実ちゃんのバッグと自分のショルダーバッグを下ろす。すぐさま、今通って来た隘路に滑り込んだ。障害物を避けながらにじるように進んで、L字型の埠頭に戻る。半ば予想された光景がそこにあった。

 無人。傾斜の下で待機したはずの木村も、L字の角でダウンしたはずの笹西も、脇道前で見張りをしているはずの沖本も、第十倉庫に辿り着いたはずの伊地知も谷崎さんも、誰もいない。

 波がわずかに寄せては返す、平和な港湾そのものだ。

 咄嗟に、太陽の位置を確認した。心なしか、先ほどよりもわずかに高い。……太陽が西から昇ったのでなければ、間違いなく時間が逆行している。あるいは翌日以降の別の時間帯にタイムスリップしたのかもしれないが。

 考えていてもわからない。僕は倉庫の隙間をみたび通って冴里の元に戻った。

 冴里は、地面にしゃがんで鍵穴を覗き込み、細長い何かを差し込んで弄くっているところだった。本当にピッキングを試みているらしい。

「どうだった?」

「どうだったって何が?」

「誰もいなかったでしょ」

「何でわかるわけ?」

「わかるわよ。時間のことは人一倍よく知ってるもの」

「え?」

「セオリー通りなら、数十分前の世界にタイムスリップしてきたってところね」

 冴里はこちらを見ずにさらりと言ってのけた。僕は、二の句が継げなくなった。

「どうしたの? 違うの?」

「いや、違うも何も……。僕のタイムスリップにセオリーなんて無いし……」

「ああ、それも知ってる。何しろ、私のタイムスリップにもセオリーは無いから」

 僕は目を丸くした。自分以外にそんな人間がいるなんて思ってもみなかった。

「でも、大体わかるじゃない。突発的なタイムスリップにセオリーはなくても、身体で感じる絶対的な時間感覚にセオリーがあるんだから」

「まさか。時間の流れが見えるとでも?」

「そんなはっきりしたもんじゃないけど。第六感ってやつ?」

 冴里は錠と格闘しながら、けらけらと笑った。

「僕にはどうも信じられない」

 思ったことがそのまま口から出た。喉の渇きに気付いて、ショルダーバッグからお茶を取り出す。蓋を開けたところで冴里が横からそれをかっさらった。何の躊躇もなく唇をつけて、中身を傾ける。三度、白い喉が鳴った。深く息をついて、満足そうにつき返す。

「一体、何が信じられないわけ」

 受け取ったペットボトルから無心で中身を煽る。すっかりぬるまっていたが、胃の腑に落ちるまでじっくり堪能した。渋みと甘味が混在している。たぶん、幻想だった。

「……僕の体質を知っているだけならともかく、同じような体質の人がいるなんて、想像もつかない」

「そう? 私はどこかにいるもんだってずっと思ってたから、あなたに会った時は運命を感じたけど」

「運命って……」

 小指と小指に見えない赤い糸が結ばれているような、メルヘンチックな妄想が頭をよぎった。

「だってそうじゃない? 私達は今、二人で一緒にタイムスリップしてるのよ。あなた、これまで誰か他の人と一緒に時間を越えたことなんてあった?」

 言われて初めて気付いた。僕は常に独りだった。独りで別の時間軸を歩いていた。孤高を気取っていた。なのに冴里は今、正しい時間世界から弾かれた僕と完全に同期している。

 ……運命。安っぽい言葉だと思わないでもない。

「単に、手を繋いでいたから僕と一緒に過去に飛んじゃっただけじゃないの?」

 苦し紛れにそんなことを言ってみるが、冴里はまるで意に介さない。

「あなたと一緒にいるためには四六時中おてて繋いでなきゃいけないってこと? 私はそれでも別に構わないけど」

 僕も別に構わなかった。いや、変な意味じゃなく。手を繋ぐだけで自分の体験が共有出来るなら、試してみたいと思った。誰と? 勿論、真実ちゃんと。

 だって僕は、冴里のことは何も知らない。

「ま、何にせよこんなところで過去に戻るなんて強運よ。ピッキングなんて時間さえあれば誰にだって出来るわけだし」

 総括するように冴里が言った。

 火照った肌を癒すように、海から風が吹いてきた。五感が僕に世界を押し付ける。異なる時空を塗りたくる。だが、そんな活性は感じない。冴里の言う『大体』がわからない。自分が異物だという自覚がない。当たり前のようにこの風に馴染んでいる。

「ちなみに、ヘアピン二本借りたから」

「え?」

 真実ちゃんのバッグの上に見慣れないポーチが乗っかっている。化粧道具やヘアゴムなどの小物が入っているらしい。

「おいおい、勝手に取り出すなよ。僕のじゃないんだから」

「死ぬよりましでしょ」

「そりゃまあ、そうだけど」

「だったら文句言わない」

「……あのさあ、水を差すようで悪いけど、律儀にこの倉庫開ける必要無いんじゃないの? 今の内に海沿いの道を走って逃げればいいじゃん」

「さあ。やりたければやってもいいわよ。私が知ってるのはあなたがボートで逃げる場合だけだから、それ以外の方法で無事に生き延びられる保証はないけれど」

「逆に言えば、ボートにさえ乗れば助かるんだね?」

「少なくとも、私にあなたのことを教えてくれたあなたはそう言ってたわ」

「……どうも解せないんだけど、その僕はいつの僕なんだ? 僕と君が同期してタイムスリップするなら、今後そんな機会があると思えないんだけど」

「あら。ずっと一緒にいてくれるってこと? それってプロポーズ?」

 くすくすと楽しそうに笑う。まるで、年上の女性に手玉に取られる純情少年の構図だった。

「茶化すなよ」

「茶化してるつもりもないけど、答えるつもりもないわ。だって、いずれわかることを前もって説明するなんて、野暮でしょ。それともあなた、タイムスリップのおかげで知った公開前の映画の結末を、友達に逐一ばらして回るタイプ?」

「……僕の人生は映画じゃない」

「そうね。映画のネタバレをしたところで、あらすじは絶対に変わらないものね」

「僕の人生は変わる、と?」

「少なくともあなたは、台本をなぞるだけの俳優ではないでしょ? ここでビルの爆発に巻き込まれて死んで下さい、と言われて黙って頷ける?」

 僕は何も答えなかった。答えは頭の中で固まっていたけれど、それを口に出して良いかどうか迷った。

 ……死に時が来たのなら潔く死にたいと思う。

 その一言を口に出したら、たぶん冴里は僕を殴っていただろう。半ば、涙目になって。

「よし、開いたわ」

 かちゃり、とノブから小さな音がした。冴里が鍵穴からヘアピンを抜き、立ち上がる。

「さ、入りましょ」

 扉は確かにあっけなく開いた。冴里は一度中を窺って、するりと体を滑り込ませる。僕は、二つのバッグを拾い上げて後を追った。ポーチは真実ちゃんのバッグの中に戻しておく。

 倉庫の中は暗かった。冴里が入り口脇のスイッチを探り、電灯をつける。灯りがつくと同時に、機械の駆動音が響き、がしゃがしゃと騒がしい音を立てて正面のシャッターまで上がり始めた。

「あ、一番下のは電動シャッターの操作スイッチなのね。どうも形が違うと思った」

 何やら言いながら、あれこれ操作して元に戻し始める。時間が来るまでシャッターは閉じておいた方が無難だった。開けたところで、逃げられるわけでもない。

 倉庫内は雑然としていたが、真ん中にでかでかと鎮座するモーターボートが一際目を引いた。この大きさだと、クルーザーと言った方がいいかもしれない。貨車に乗せられているとはいえ、デッキが僕の頭より上にある。小型船舶免許で運転出来るかどうか微妙だ。三人乗りくらいのちゃちなものを想像していただけに、度肝を抜かれた。丸みを帯びた船体は白く輝いており、全体的に真新しい。まだ一度も海に浮かべたことがないのかもしれなかった。元来乗り物好きな性質なので、操舵室の様子を見てみたかった。壁面についた梯子を見つけ、そこに足をかけたところで、ジャケットの裾を引っ張られた。

「何?」

 冴里は真剣な顔付きで、倉庫の片隅を指差した。

「テグス」

「は?」

「テグス。釣り糸のことよ」

「いや、知ってるけど」

「あそこにあるわ」

「……だからどうしたの?」

 海の近くの倉庫なんだから、当たり前だ。壁には釣竿だってかかっているし、投網と思しき格子状の紐の塊がうずたかく積んである。釣り糸くらいで何を言っているのだろう。

「シャッターを少しだけ開けるから、行って来て頂戴。たぶん、ゆっくり歩いても往復出来る時間はあるから」

「……ごめん、僕には君が何を言ってるのか全然わからない。この数分間にどんな天啓を受けたというのかな?」

 冴里は鋭い目元をさらに険しくして、苦言を呈した。

「信じたくなかったけど、あなたって本当に鈍いのね」

 さすがの僕でもむっとした。

「それじゃあ、この鈍い僕にもわかるように噛み砕いた説明をしていただけませんか、賢しい冴里さん」

「気に障ったなら謝るけど、お言葉に甘えて説明させていただくわ。遊園地からの坂道を下ったところで、罠を仕掛けるために残った人がいたでしょ? 名前は忘れたけど」

 木村のことだ。

「彼、テグスを張るって言ってたけど、普通に考えて遊園地の一従業員が業務中にそんなものを持ち歩いてると思う?」

 ……それもそうだ。大した罠じゃなかったので気にしていなかったが、テグスなんてそうそう都合良く持っているわけがない。事実、残りの二人は何の小細工もなしに、その身一つで残る羽目になっていた。

「となると、偶然あそこに落ちていたのを見つけて利用した、ってことにならないかしら」

 ここまで来れば、鈍い僕でもようやくわかった。

「……前もって現場にテグスを落としに行け、ということか」

 些細な辻褄合わせだけど、そういうのを侮ると痛い目を見そうな気がする。実のところ、細かいことに気を配らなくても、世界は基本的に盤石だから大概どうにかなってしまう。ただ、違和に気付いた上であえて看過するのは柄じゃない。自分の記憶と異なる過去が目の前で展開されるのは、皆が想像するより何倍も気持ち悪いんだ。自分の中で何が正しいのか全くわからなくなるから。

「ご明察。あの人が、悪人を懲らしめるためにいつも釣り糸を持ち歩いてるって可能性もなくはないけど、念には念を入れた方がいいでしょ」

 そういう稼業なら持ち歩くのは別の糸じゃないかと思ったけれど、冗談を訂正するのも馬鹿らしくて、僕は大人しく命令に従うことにした。

「いってらっしゃい」

「行って来ます」

 冴里にシャッターを少しだけ開けてもらい、這うようにくぐる。コイル状に巻かれたテグスを片手に、L字の波止場をぶらぶらと歩いた。歩きで間に合うのなら、走ろうとは到底思えなかった。朝から変な緊張の連続だったし、心身ともに疲れ果てていた。真実ちゃんとの待ち合わせが、何だか随分と昔のことのように感じられた。

 ジェットコースターの走行音が間欠的に聞こえる。直線距離は近いはずだが、敷地自体が彎曲していたのでどの辺りにあるのか上手く把握出来ない。高台を見上げると、遠方右寄りに半円状の観覧車の弧がのっそりと覗いていた。切なくなるので見るのをやめた。

 一人で歩いていると、今後への不安が鎌首をもたげてきた。何もかも投げ捨てて、海にでも飛び込んでしまいたかった。脇腹をさすった。内出血でも起こしているのか、少し痛む。誰だか知らないけど、どうせ銃を撃つならちゃんと当てて殺せよ。同語反復的だけど、楽に死ねるのは楽だからいいんだ。変な風に生きるのが一番厄介なんだ。正常な時間の枠組みから外れてるからよくわかる。

 どうして僕は、逃げなくてはいけないのか。そうまでして生きなくてはならないのか。

 未来の僕がいるからか? 助けてくれる冴里がいるからか? そもそも僕は、理由が無いと生きられないのか?

 ごちゃごちゃ考えていても仕方がない。それもよくわかっていたんだけれど。

 随分時間をかけて、目的の場所に辿り着いた。テグスを目立たない隅の方に転がして置いておく。木村が気付くかどうかまでは保障の限りでない。

 わいわいと賑やかな話し声が聞こえる。坂の上に大勢の人の気配があった。下から見上げる限りにおいては、柵の直近に誰の姿もない。……おおかた記念撮影でもしている頃合か。

 間もなく、谷崎さんが鍵を開けるために柵前に近付いて来るだろう。顔を合わせない内に戻った方が良さそうだった。

 不意に、冴里と別れて一人で逃げてみてはどうか、とロクでもないことを唆す悪魔が脳内に生誕した。強く反対意見を主張する天使はいなかったが、無謀な上に建設的でなかったので、自らの意思でさらりと葬った。きっと、これも運命。

 冴里に対する根拠の無い信頼感は不快でなかった。空が高いことに意味なんかないのと同じで、それ以上の言葉を必要としないのだ。

「ただいま」

 シャッターをくぐると、冴里は器用にも立ったままで眠りこけていた。電動スイッチの脇、腕を組んだまま壁に背をもたれて瞳を閉じている。

 近付いてもまだ起きない。相当深い眠りに落ちているようだ。スイッチを操作してシャッターを自分で閉める。さすがにその音で目を覚ますかと思ったが、意外にも動かない。

 睫毛の長さを観察した後、今度こそ操舵室を見にクルーザーに足を伸ばす。

 ジャケットの裾を引っ張られた。

「……何?」

「おかえり」

 狸寝入りだったのかもしれない。何となく不満そうだ。

「うん。で、何?」

「荷物は先に乗せておいたから、今は行く必要ないでしょ」

「いや、船の中見たいし」

「ボートを海まで運ぶ大仕事が残ってるのに、変な体力は使わない方がいいわよ」

「……まさか人力で押して行くわけ、これ?」

「貨車の構造を見る限り、そうとしか思えないわ」

 僕は、大仰に溜息をつき、手近な木箱の埃を払って腰を落ち着けた。二度と立ち上がりたくない、と心底思った。冴里もまた休眠姿勢に戻り、微動だにしなくなった。

 二人で体力の回復に努める。

 均衡はすぐに破られた。壁越しにくぐもった、しかし充分な大きさの銃声が連続して轟いた。

「始まったわね」

 丁度、この時流の僕達がL字地帯に踏み込んだ頃合だろう。

 冴里はストレッチや屈伸で身体の凝りを解している。あまりの疲労に柔軟運動すら億劫だったので、僕はパスする。

 外界の音に注意する。靴音と喋り声が聞こえた。何を言っているのかは定かではないが、気配は確かに近付いて来る。

「僕はここに残ります。万が一敵がここまでやってきた時は、お任せください! 得意のぶちかましで、相手を海に落っことしてやりますよ!」

 笹西の太い声が響き、状況がおぼろげにわかった。ありがたいことに、前回のセリフと全く同じだ。平行世界への分岐は免れたようだ。木村にテグスを渡すミッションは成功したらしい。

「彼は、この船を運ぶために必要な人材ね」

 冴里は冷静にその先のことを分析する。

「何人くらいいれば足りるのかな」

「チェーンの数から考えて、五人」

「チェーン?」

 なるほど、クルーザーを乗せた貨車の側面から、二箇所ずつ、引き綱の役割を果たすらしい金属製のチェーンがだらりと垂れていた。左右各二人、一人は後ろから押す役割で、合計五人か。

「あの囮の彼も来てくれれば、か弱い私は休めるんだけど」

「……むしろ、彼の方が非力のような気もする」

 噂をすれば、沖本が残留の意向を示す宣言が聞こえてきた。正確に歴史をなぞっているのは間違いない。「谷崎さん、急いで!」伊地知の叫び。ばたばたと慌しい足音が倉庫のすぐ前まで到達した。「早く! 鍵をこっちへ!」

「この辺で、大暴投をやらかすのよね」

「あああ!」

 外では、当時の僕が嘆いている。頭蓋骨の震動の関係で自分で喋る声と違って感じられるが、それでも何度も対面して聞き慣れた声だ。

 伊地知が地面を蹴って跳躍。「しまった!」手が届かずに、着地。

 鍵が海中に没し、全員の動きが止まった。遠くから響く銃声が場の雰囲気を支配する。冴里が表情だけで苦笑している。

「ぼおっとしてたって仕方ないわ! こうなったら、鍵を壊してでも開けるしかないでしょ!」

 凛々しい、もう一人の冴里の提案。少し遅れて、がしゃん、と大きな音と共にシャッターが揺れた。撓んでいる。伊地知の体当たりが始まったのだろう。僕達は、黙って当時の流れを追う。

「それ、普通に持ち上がらないの?」

「駄目なんだ! 内側から電動ロックがかかってる。レールから外して根本からぶっ壊せば開くかもしれんが」

「体当たりくらいじゃ無理じゃない?」

「ぶちかましの得意な笹西さん呼べば?」

「うおおい、笹西!」

「普通のドアはないの? ピッキングの心得なら多少あるんだけど」

「裏手に入り口があるから、そっちに回るといい!」

「笹西、お前、ちょっとこっち来い!」

 アクシデントに直面して皆焦っており、だいぶ状況が錯綜している。

「そろそろ私達が横手から回り込もうとする頃だわ」

 がしゃん、と再び体当たりの音が聞こえてきた。ここまでは聞き覚えがある。

「そろそろ行くわよ」

 冴里がシャッターのスイッチに手をかけながら、開いている方の手で指を三本立てた。

 すぐに二本に減った。もう一度、シャッターが撓んで喧しく鳴る。無駄な足掻きをしている誰かがいる。

 一本。思いのほか落ち着いている。思わぬアクシデントで与えられた一時の休憩が終わり、波乱に満ちた冒険が再開する。

 零。冴里がスイッチを操作する。がしゃがしゃとシャッターが巻き上げられて行く。

「開いたわ!」

 冴里が叫ぶ。僕と世界が再び合流する。歴史の流れに回帰する。

「あり得ないくらい早いですね! さすが!」

「まあね。ちょろいもんよ」

 伊地知が腰を屈めてシャッターをくぐりぬける。谷崎さんも並んで入って来た。

「笹西、何やってんだ、お前もだよ!」

 伊地知が必死で手招きする。それから素早い所作で貨車のチェーンに飛びついて、右手首に何重にも巻きつけた。

「谷崎さん、左お願いします!」

「じゃ、私こっち」

「笹西は後ろから押せ。固定が弱いから、ボートだけ飛び出さないよう注意しろよ」

「ええ、もう。敵だと思って思い切りぶちかましてやりますよ」

「注意しろって言ってんだよ」

 僕は谷崎さんの側、左後方部のチェーンを思い切り握り締めて位置についた。シャッターが完全に開くのに合わせて、伊地知が掛け声をかけた。

「せーの、でいきますよ。せーの!」

 綱引きを思い出す。じゃらじゃらと鳴る金属製の鎖は滑って力が入りにくい。伊地知に倣ってぐるぐると腕に巻く。だが、びくともしない。手応えが重過ぎる。本当に動くのか、こんなものが!

「一度動き出したら楽になりやすから、しっかり!」

 自分を鼓舞するような谷崎さんの声。両足を踏ん張り、全身全霊を込めて引く。腕が痛い。肩が抜けそうだ。顔面に血液が集まり、額の血管が切れるかと思った。

「はい、集中!」

 どすん、と手許から衝撃が伝わった。どうやら船体に肩を入れて本気でぶちかましを食らわせた無謀者がいるらしい。……誰とは言わないが。若干呆れて気が抜けかけたが、驚くべきことにそれをきっかけとして車輪がゆっくりと回り出した。耳障りな軋みを上げる。

「よし! このまま進みましょう。左右のバランスにちょっと注意で!」

 対角線上から伊地知の声。僕達は順調に足を進める。シャッターを越えてコンクリートロードへ。傾斜がついてそのまま海まで続いている。重力の助けを借りて一層楽になる。

「適当なところで脇に外れて下さい! くれぐれも巻き込まれて海に落ちないように!」

 車輪の回転に勢いがつき始め、殆ど力を込めずに進むようになった。チェーンを腕から解き、いつでも逃げられるようにする。船体は海へ向けて猪突猛進、加速を始めている。

 谷崎さんがぱっと手を離す。チェーンが地面に引き摺られて軽い音を立てる。僕も見よう見まねでチェーンを放り、横に避けた。先頭で盛大な水飛沫が上がった。加速の勢いは幾分か海面に吸収されたが、当然それだけでは相殺し切れず、ボートは浮力を得て水上を滑るように移動した。貨車はそのまま路面に沿って沈んでいく。

 無事、進水出来たようだ。

「今、そこに横付けします。お二人とも、待ってて下さい」

 伊地知は船の上にいた。海に出る際に素早く飛び乗ったのだろう。操舵室で幾つかの計器を確認している。

「早く早く! 急いで下さい! もう一刻の猶予もないですよ!」

 はるか遠くで、木村が叫んでいる。タイミング的にぎりぎりだった。

 やがて、エンジンが起動しモーターの音が聞こえ始めた。クルーザーが出発し、湾内を軽く一周して戻って来る。華麗にターンを決めて、少し離れた埠頭に側面から接岸した。

「お二人さん、どうぞ」

 谷崎さんが、僕と冴里を導く。ぶちかましに全精力を使い果たした笹西が、道端に突っ伏していた。気丈にも僕に親指を立てて見せたが、そのまま死んでしまいそうだ。

「本当に、ありがとうございました」

「何、礼なんかいりやせん。楽しんでやってるだけですから」

 僕は梯子に足をかけ、伊地知の手を借り、一息でデッキに駆け上がる。船上特有の揺らぎに少しふらついた。床はぴかぴかに磨かれており、靴裏と擦れて体育館のようにきゅっきゅと鳴いた。

「すごい」

「驚いてないで退いて。早く出発しないと危ないわ」

 すぐ後ろから冴里も上がってきた。僕は慌てて場所を空ける。伊地知は早速、ドア一枚隔てた操舵室に駆け込んだ。

 デッキ後方に移動する。波止場の入り口で木村が手を振っているのが見えた。僕は手を振り返した。と、一際大きな銃声が鳴った。木村が胸を押さえ、前のめりに倒れた。

「木村!」

 クルーザーが発進する。スクリューが高速で回転する。強烈な加速。風が髪を靡かせる。思わずつんのめる。

「木村!」

 沖本が全速力で木村の元に向かう。僕たちのクルーザーは外洋に向けてどんどん遠ざかる。

 遊園地の傾斜からわらわらと大人数が駆け下りてくる。出口に差し掛かった一群が何かに引っ掛かって盛大に転ぶ。一人が転べばそれに続く人も転ぶ。以降はそれが連鎖する。ばたばたと滑稽なほどに人間が倒れる。殆ど将棋倒しの態になり、戦場に大きな混乱がもたらされる。

 テグスの罠が、結実したのだ。

「木村……」

 僕は呆然と、彼の苗字を呟くしかなかった。彼についてはそれしか知らなかった。どんな思い出も無かった。もう、顔すら思い出せない。

 真っ青な海面を割るように、クルーザーが白波を引いていく。陸地はどんどんと遠退いて行く。

 岸で豆粒みたいな人影が動いている。沖本が、列を乱した敵の群衆の中に飛び込んでいく。乱戦になれば、相手は銃を使えない。そう考えてこその決死のダイブ。囮になって逃げ回ると言っていた男の、蛮行。

「……何なんだよ、これ」

 どうして、そこまで必死に闘おうとするんだ……。

 最早、戦場は小さ過ぎて見えない。戦いの結末はわからない。沖本は、谷崎さんは、笹西は、どうなったのか。逃げたのか、捕まったのか、殺されたのか……。

 沖まで出たことで、臨海遊園地の全貌が明らかになった。数々のアトラクションが現実の中で異彩を放っている。目に見える範囲の他の海岸線を見渡しても、明らかに浮いている。幻想の世界は現実と相容れず、さらにその両者と相容れないのがこの僕だった。

「僕は一体、どんな大事件の渦中にいるんだ……」

 ぼやく。僕には何もわからない。

 いつの間にか隣にいた冴里が、そっと僕の手をとる。その細い指が、僕にはどうしても拒めなかった。

「大丈夫。私が守ってあげるから。心配しないで」

 僕さえ助かれば、他に何人死んでも良いというのか。八つ当たりに近い怒りが湧き上がった。怒鳴り散らすだけの元気があれば、そうしていた。いや、疲れていることを言い訳にしているだけかもしれない。僕だって結局、自分のことしか考えていない。義憤に駆られるほど高尚な精神を持ち合わせていない。

 操舵を自動に切り替えたらしく、伊地知がやって来た。

「さすがに、ここまで逃げれば大丈夫だと思います。そう簡単には見つからないでしょう」

「どこまで行くつもりなの?」

「外洋を大回りして、一気に首都まで出ようかと思っています。結局は場当たり的になるんで、その後のことはわかりませんが」

「君には本当に世話になるね」

「何、構いません。お二人のお役に立てることが私の本望ですから」

 敬礼でもせんばかりの彼に、僕は儀礼的に頭を下げた。

「疲れたのなら、キャビンで休んで下さっても結構です。狭いですが、二人で横になれるくらいのスペースはありますので……。あ、別に今の発言に他意は無いです」

 僕は、緊張感が途切れて睡魔に襲われていたところなので、遠慮なく休ませてもらうことにした。それに、どろりと深く淀んでいた不安感から逃れるためには、現実から目を逸らすくらいしかやりようがなかった。

 伊地知に尋ねたいことがあるという冴里と別れ、一足先に反地下になった船室に向かう。暗かったので電気を点けた。経費節約のためか、裸電球がぶら下がっていた。部屋には、いかにも仮眠用という折り畳みベッドが二つ、押し込められるように狭苦しく並んでいた。その片方に、冴里が運び込んだらしい、僕と真実ちゃんのバッグが置いてあった。足元にはシュラフのような真っ黒いビニール製品が丸まっていたけれど、ベッドには毛布もあったので、当然そちらを選ぶ。

 横になり、ふと腕時計を見る。午後六時前だったけれど、この表示は現在の時刻を正しく表していないはずだ。細かいことは気にせず、僕は即行で瞼を下ろした。

 モーターの震動が身体の最奥部に断続的に響く。連続するリズムに緩やかな波の反復が加わり、僕の脳は快適な弛緩を促された。体中の力が抜けた。思考能力を根こそぎ奪われるように感じた。魂がすうっとどこかへ吸い込まれるようにして、僕は意識を失った。瞼の裏には、裸電球の煌々とした灯りがべったり張り付いていた。

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