エピソード二

 それは、僕が十九歳になる年の春の出来事だ。

 三年のギャップがあるから実際の僕の年齢は当然ずれていたし、そもそも細かいタイムスリップのせいで、僕の年齢は常によくわからない。少なくとも、巻き戻しが何度もあったおかげで、精神年齢は実年齢よりずっと高いはずだった。

 とにかく、時期的には春であり、僕が少年から青年へと移行する瑞々しい年齢だったという曖昧な把握で話を続けよう。

 そもそも冒険譚のヒーローに、具体的過ぎる設定を求めるのは野暮というものだよ。あまりにクローズアップすると、露骨な生活臭が感じられていただけない。奇妙の時流の住人であるより前に、僕だって一般人だからね。好物はコロッケだとか、好きなスポーツは野球だとか、そういう情報を小出しにするだけで損をする。君達から、手の届きそうで届かない位置に、僕は立っていたいんだ。……何、これはファンタジーじゃなくルポルタージュだから、主役の詳細情報も必要だって? ははは、そこは我慢だ。辛抱強くなければ立派な報道記者にはなれないよ、たぶん。

 さて、冒険の始まりの舞台を説明しよう。それは、とある遊園地だ。具体的な場所は言えないけれど、首都からは外れている。海、それも外洋に面していて、マスコットキャラクターは海洋生物だ。併設された水族館も人気で、こちらは別途料金がかかる。

 国民の誰もが耳にする、というほど有名ではないが、平日でも決して閑散とすることはない、そこそこ流行のテーマパークだ。親子連れが楽しく出かけるには申し分ないし、カップルが初めてのデート場所に選ぶにも吝かでない。

 高速道路の出口から近く、大きな駐車場もあるので車でのアクセスも可能だが、如何せん駐車料金が暴利に近いのでお勧め出来ない。行くなら電車が良い。テーマパークの名を冠する最寄り駅からわずかに徒歩五分。お値段もリーズナブル。混雑を避けたいなら、あえて最寄り駅を外し、近くのターミナル駅から出ている専用バス路線を介するのも手だ。マスコットキャラクターが壁面に踊るメルヘンチックな奴が、一時間に数本の割で往復している。休日には勿論臨時便が出るが、渋滞には用心が必要だ。

 入場券込みの一日フリーパスはかなりお得で、五つのアトラクションに乗れば元が取れてしまうし、さらに嬉しい年間パスポートは、月に一度行くだけで楽々元が取れる勘定になっている。かと言って、地上に落成したワンダーランドを日常の延長に位置付けると痛い目を見ることは必至で、金銭面に目を瞑ることが出来なければ、心から楽しむこともまた出来ない。

 食事を園内のレストランで取る時には、飲食物と一緒に夢を買うことを覚悟して、外界の二倍強の値段を提示されても笑みを崩してはいけない。たけぇ、と呟こうものなら全ての幸福が逃げていくし、たけぇ上にすくねぇ、などと騒ごうものなら生きて帰れる保証はない。

 ふと見つけた自動販売機すら現実主義者の味方ではなく、マスコットキャラクターのロゴが入った限定レア商品がメルヘン料金で売られているだけだ。要注意である。とうもろこしを熱して破裂させ、バターと塩で風味を調えただけの食べ物も、おそらく容器にキャラクターがプリントされているという理由で高騰しているし、土産物屋には原価を聞けば卒倒しかねないグッズが所狭しと並んでいる。

 園内で守銭奴がメルヘンチックに生きる道は皆無であるが、各トイレの入り口に企業側の慈悲で設置されたと思しきウォータークーラーのおかげで喉だけは無料で潤せるのが功を奏したのか、開園以来金額面での苦情は一切持ち込まれたことが無いという。

 言い忘れたが、飲食物の持ち込みは自由なので、用意周到な人間はお弁当と水筒を持参する。フリーパスは再入場も可能なので、お昼を外で済ますというのも一興だ。

西門から歩いて十五分のところに、テレビ番組でも紹介された美味しい蕎麦屋がある。お勧めは、園内でのアメリカンドッグ二本半に相当する金額で食べられる天ぷらそばの大盛りである。何と、大盛りにすると蕎麦が増えるだけでなく海老天まで一本増える。アメリカンドッグに焼き付けられたマスコットキャラの焦げ目を見てはしゃぐより、三代に渡って受け継がれた秘伝の出汁と腰のある麺の織り成す絶妙のハーモニーに心酔する方が、幾分か生産的ではなかろうか。

 いけない。少し話が逸れた。舞台となる遊園地の話に戻ろう。肝心のアトラクションの話がまだだった。

 アトラクションは、そう、豊富の一言に尽きる。それをあえて纏めるなら、殆どが『一定のコースを周回している乗り物』だ。

 速度と軌道と外装が多彩だが、出発点と到着点が一致する構造を持つ物ばかりであり、これは作業効率を考える上で最適な戦略をとっていることがわかる。何しろ同じところを何度も繰り返し回っているだけなのだから、作動させる際に難しいことを考える必要がまるで無い。作業員はルーチンワークで済むし、客に対してはサーキット構造を介した何らかの暗示的効果を与えられるのだろうと推測する。電気エネルギーを受けて動き出し、運動エネルギーと位置エネルギーの変換を繰り返し、最終的に制動をかけて原点で静止するのでは、完全に時間とエネルギーの無駄遣いであるが、園内でそれを指摘する者が誰もいないことがその証左である。

 とはいえ、同じ乗り物であっても、運賃の代価として高速での移送を行う電車やバスとはコンセプトが異なり、遊園地の乗り物は徴収する金銭の代価として、緊張感、スピード感、落下感、浮遊感、回転感、終了時の安心感、さらにはスリル、恐怖、冒険、夢心地、絶叫、ストレス、驚愕、ショック、感激、ロマンス、快感、幻想、甘いムード、告白のタイミング、一生の思い出、高速回転による酔い、次の日以降のヘタレという渾名等、総括不能なほど多様な無形物を提供しているので、機械的に糾弾すると視野の狭さを露呈する。

 入場した時点で日常の枠組みから外れているのだから、園内ではアトラクションを楽しんだ者こそが勝者である。純粋な心を持つ子供や空気を読める大人、現実からのほどよい逸脱に快感を覚える人ほど勝ちを拾い易く、行列の待ち時間ばかり気にしたり、乗り物の値段を気にしたり、虚構の世界を下らないと揶揄したり、逆さまになる系の乗り物が駄目だったり、それどころかスピードの出る奴が全般的に駄目だったり、意中の相手とアトラクションの好みが全く合わなかったり、人ごみを見るだけで殺意を覚えたりする人は大体負ける。

 あくまでもリラックスし、アトラクションごとに得られる無形価値の種類を前もって冷静に分析し、TPOに応じた乗り物に乗ることで最適な享楽を享受するのが常勝パターンだろう。

 中でも絶対に外せないのは、世界でも五本の指に入るという巨大観覧車だ。最高到達点から見る景色は一望の価値ありで、わらわらと園内を動き回る人が、蟻のような大きさに見える。征服感に満たされること請け合いだ。夕方から夜にかけて、ライトアップされた園内はより一層綺麗に光り輝くので、一日のラストに選ぶ乗り物として最適であろう。慌しく浮ついた気持ちを一気に落ち着かせてくれるはずだ。

 ただ、素敵な空中散歩を終えて満足して帰る途中も注意が必要だ。園内を悠々と闊歩するマスコットキャラクターを見て、ふと、中の人はどこから外を見ているんだろうか、と疑問に思ったら台無しだ。せっかく楽しいアトラクションで蓄えたファンタジー貯金も一気にゼロになろうというものだ。後味が悪くなり、疲労感と現実感が一気に両肩にのしかかる。

 だがそんな時は、はしゃぎ疲れて眠ってしまった二人の子供を背負いながら帰る仲睦まじい若夫婦でも眺めて、小さな幸せを感じると良い。微笑ましい光景に、思わず頬が緩み、優しい気持ちになれることだろう。

 その際、『どこに行くかじゃなくて、誰と行くかが楽しめるかどうかのポイントなんだ』という身も蓋もない結論に至ることもあるかもしれない。それは、テーマパークの企業経営者側にとって間違いなく不利益となるが、充実した人生を送るためには必須である。私見ながら付け加えておこう。

 ……どれだけ鈍い人にでもわかったろうけど、僕はそもそも遊園地という浮ついた類の場所にあまり好感情を抱いてはいないんだ。ただし、その存在を完全に否定する気は無いし、こんな僕でも没頭出来れば楽しいのだろうとは思う。日常に飽いた人達には、こうした幻想の世界から受ける刺激もたまには必要だろうから。割り切って見れば良い商売じゃないか。サービス業として最優秀だ。需要と供給が完全に一致しているし、お客様に夢を売るという仕事自体に夢がある。

 ただ、僕がどうしてもアイロニックな視点を持たざるを得ないことも理解して欲しい。

 僕には、どうして平穏な日常を謳歌出来るのに、皆がわざわざ波乱含みの世界を求めるのかがわからないんだ。それも、金を払ってまで。

 僕がどうしたって手に入れられない平穏を手にしながら、あえてスリルやら何やらを望むんだぜ。ただの僻みかもしれないけど、一般人の余裕を見せ付けられているようで、あまり愉快ではないんだ。

 君だって、例えば、大金持ちの人が、「プールつきの豪邸にも飽きたから、たまには一日くらい六畳一間の安アパートで暮らしてみるか」なんて言ったら、楽しい気分はしないだろう? それと同じようなものさ。「裕福な生活に飽いた大富豪には、貧乏な刺激も必要だろう」なんて温かく見守る気になれるかい?

 じゃあどうして遊園地になんて行ったのかって? 決まってるじゃないか。この頃僕は、大検のために毎日毎日気の狂いそうになるほど勉強をしていたんだ。塾だの家庭教師だのすらない。参考書を買い込んで、がむしゃらに我流でやっていたんだ。意地になっていたというのもあるけど、一人でいれば時間旅行によるトラブルも最低限で済むと思ったから。

 一日平均十四時間机に向かうんだよ。信じられる? 巻き戻しが起これば、一日二十四時間を越える。我がことながら、知恵熱が出るんじゃないかと本気で心配したよ。

 でも、そんな生活がまともに長続きするはずがない。息が詰まるに決まっている。本当に毎日そんなことをしていたら、近いうちに脳神経が焼き切れていたに違いないよ。

 それを危惧したのか、三年先行していた中学校時代の友人が、気分転換に出かけないかと誘ってくれた。その友人は、大学受験に失敗して浪人生活を始めていたから、僕と似たような境遇で、予備校の都合をつけて平日にテーマパークまで出向くことを計画した。遊んでる暇は無い、と突っぱねることも出来たんだろうけど、せっかくの誘いを断るのも悪いだろう?

 だから、それほど好きでもない遊園地にまで行くことになったわけ。

 男二人で遊園地なんて寂し過ぎる? おいおい、何を言ってるんだ。その友人は女の子だよ。名前は、そうだな、実名だとまずいから、マミちゃんとでもしようか。しんじつ、と書いて真実ちゃん。かなり可愛い娘だった。

 真実ちゃんとは、中学校二年と三年の時にクラスが一緒でね。真面目で成績も良いから学級委員長を押し付けられて、専ら男子連中から委員長と渾名されていたけど、俗に言う委員長タイプでは決してなかった。むしろ大人しくて、決まった友人としか上手く話せないような内気な女の子だった。委員長、なんて呼び名は、一種の揶揄だね。

 でも、決して苛められてたわけじゃない。男子にも女子にも人気があった。困っている時自然と手を貸してあげたくなるような不思議な雰囲気を持っていたし、一緒にいると穏やかな気持ちになれた。何より、僕は彼女が上手く話せる友人の一人だった。僕の前では快活に喋ってくれた。

 彼女のことは普通に好きだったよ。まあ、憧れに近かったけどね。恋人関係になってどうこう、って次元ではなかったはずさ。少なくとも中学在学中は。

 三年のブランクが空いて戻って来たばかりの頃、真実ちゃんの方も受験で忙しかったろうに、時間を作ってわざわざ会いに来てくれた。この年頃の女の子は短期間で凄く雰囲気が変わるよね。高校生の真実ちゃんはまるで大人みたいに見えた。眼鏡をかけて、見たことのない制服着て、別人みたくなってた。他の友人達に会った時も驚いたけど、彼女が一番だった。柄にもなくどぎまぎしたよ。

 その時、どんな会話をしたかあまり覚えてない。久しぶり、と言われて、僕にとっては全然久しぶりじゃないはずなのに、何となく時間の隔絶を感じてしまって、その言葉がやけにしっくり来たことだけが印象に残ってる。たぶん、向こうの近況報告に終始したと思う。真実ちゃんが国立大学の医学部を目指してるってこともこの時に聞いたのだろうし、あと、眼鏡についても言い訳してた。目が悪くなって高校からかけ始めたけど、あんまり好きじゃないから普段は出来るだけコンタクトを使うようにしていて、この日はたまたまそうなったんだって。……なんだ、意外と覚えてるな、話した内容。あとは電話番号とアドレスを交換して、以降ちょくちょくメールでやり取りするようになった。

 だからまあ要するに、春先の遊園地へ二人で出かけましょうってのは、率直に言って初めてのデートのお誘いという奴なんだ。な? 僕が断らなかった理由もわかるだろう? 勉強と恋、青春真っ盛りの僕が一体どちらを優先させると思う?

 僕は迷惑顔の裏側で、地に足がつかないほど浮かれていたんだが、今思えばその油断がいけなかった。僕には平穏なんて無縁なんだってことを、すっかり忘れてしまっていた。

 集合は、最寄り駅に朝八時。アトラクションを満喫するために開園時刻に向こうへ着くようなタイムスケジュールだった。

「おはよう」

 七時五十五分に駅に着いたら、真実ちゃんは先に来ていた。眼鏡でなくてコンタクトだったから、中学生の頃の面影が感じられた。パステルカラーのカットソーに白のカーディガンを羽織っていて、右手の腕に大きめのバッグを下げていた。意外にもスカートでなくパンツルックで、腰には小さなポシェットを付けていた。ファスナーについていたふわふわのキーホルダーが揺れている。よく覚えてるだろ? 何しろ緊張のあまり、穴が開くほど見詰めたからね。向こうがモジモジして、変かな、とか訊いて来るまで続けようと思ったけど、嬉しそうに顔を綻ばせるだけで一向に照れる様子がないから、諦めて普通に挨拶を返した。

「おはよう。もしかして結構待った?」

「……うん。でもまあ、早く来た私が悪いし、気にしないで」

「嘘でも、今来たとこって言うんじゃないのか、普通」

「それは男の人の場合」

 勝手なことを言って、真実ちゃんは僕に切符を手渡した。

「はい、先に買っといたよ」

「あ、ありがと。切符代払うよ」

「いや。いいよ」

「良くないだろ」

「代わりに遊園地のフリーパス奢ってもらうからいいの」

「……前売りのチケットとかあるんじゃないの?」

「どうせ平日だからチケット売り場も空いてるし。ほら、行こうよ」

 真実ちゃんは軽い足取りで先行する。一瞬だけ表情が曇ったように見えたけど、機嫌は良さそうだ。手とか繋ぐべきだろうか、なんて考えながら、僕は少し遅れて続いた。

「そうだ、委員長、ちょっと待って」

 僕のショルダーバッグのサイドポケットには小さなデジタルカメラが入っている。僕はそれを取り出すと、真実ちゃんが振り向いたところでシャッターを切った。見返り美人みたいな構図になって、僕は何となく満足した。

「え、撮ったの?」

「うん。肖像権侵害で訴える?」

「いや、いいけど。出発駅から撮るなんて、気合入ってるね」

「まあね」

 実際この時はまだ、初デートの思い出をしっかり残しておこう、というくらいの気楽な気持ちだった。このカメラがまさかあんな大活躍をするなんて、夢にも思わなかった。

「写真好きなんだ?」

「そこそこね。委員長は嫌いなの?」

「なんていうか、苦手。過去の自分と向き合うのが気恥ずかしくて、撮った写真をまともに見られないんだよね」

「へえ、写真の中の自分にも人見知りするんだ」

「そう。写真の中の誰かに一目惚れもするしね」

「……え?」

「何でもない」

 はにかむように笑いながら、真実ちゃんは逃げるように改札を抜けた。僕は首を傾げながらそれを追う。思わせぶりな発言の一つ一つにどきどきした。若いって良いよね。

 現地へのアクセスは電車とバス。鈍行列車で一駅隣まで出て、急行に乗り換えて終点まで。平日だからラッシュの時間に少し被るけど、ぎゅうぎゅう詰めってほどでもないから大丈夫だ。そこから専用バスで一本という道程だった。

 ホームに着くと、鈍行の電車が丁度滑り込んできた。座席が殆ど埋まり、立っている人がちらほら見受けられる程度の混雑具合だ。どうせすぐに降りるので、僕と真実ちゃんはドア付近に立つことにした。

「なんか、やけに大きな荷物持ってるね。何が入ってるの?」

「……秘密」

「まさか参考書とか?」

 僕が尋ねると、真実ちゃんは少し笑った。その唇が動いて、続く言葉を形作ろうとした。電車が発進し、慣性によって体が揺れた。その場に踏み止まろうと咄嗟に出した一歩が、何故かアスファルトに接地した。

「え?」

 慣性が消失し、たたらを踏む。空気の変化を首筋に感じる。目前をスーツ姿の男が通り過ぎて行く。思わず一歩後ろに下がった。壁にぶつかった。振り返ると、様々に色分けされた大きな案内地図があった。すぐ脇には大きな煙草会社の広告が張り出されている。車内広告ではない。

 駅に特有の喧騒が聞こえる。電車の発車ベルと進入の際の震動音が上の方から響いている。上方に目をやると、しみだらけの天井に大きな蛍光灯が並行に張り付いていた。

 広い割に混雑している。大勢の人間が、忙しなく僕の眼前を行き来していた。背後の地図を見返す。よく知った駅の名前が記されていた。テーマパーク行きの専用バス乗り場を示す白抜きの文字を見て、確信する。僕は、終点のターミナル駅にいるのだ。改札を出てすぐの、地下通路入り口だろう。

 ……どうも、唐突にタイムスリップをしてしまったらしい。僕は咄嗟に自分の状態を確認した。半袖のシャツにデニム地のジャケット、黒いジーンズという格好は、間違いなくデート当日のものだ。ショルダーバッグも同じだし、サイドポケットにはデジカメが入っている。

 辺りを見回すが、真実ちゃんがいない。全身から血の気が引いた。早速、一人で妙な時間の中に放り出されたようだ。慌てて時刻を確認する。駅の時計は九時二十五分、そして僕の腕時計も九時二十五分。……両方が完全に一致しているということは、この身体とこの世界が正しく結び付いているという事実を示している。体ごとタイムスリップしたのなら、僕の腕時計はまだ八時過ぎであるはずだった。

 ということは、精神だけが飛んでしまったわけだ。それも、服装からすると同じ日の一時間後に。だとすると、真実ちゃんがいないのはどうしてだ?

「お待たせ」

「うお」

 雑踏の中から真実ちゃんがいきなり声をかけてきた。勿論、先程見た時と寸分変わらぬ服装をしている。

 どうやら、キオスクで飲み物を買って来たらしい。やけにうろたえているこちらを不思議そうに眺めながら、お茶のペットボトルを差し出している。

「あ、ありがとう」

「後、約束通りこれも」

「え?」

 真実ちゃんは有無を言わさず、手持ちの大きなバッグを押し付けてきた。何が何やらわからないながらも、流れ的に思わず受け取ってしまう。ずしりと、思わぬ重量感が襲ってきた。不意をつかれて肩が抜けそうになる。

「滅茶苦茶重いな」

「そう?」

「何が入ってるの?」

「また? さっき言ったじゃん」

 真実ちゃんは苦笑。僕の空白の時間に何らかのやり取りがあったらしい。僕は、真実ちゃんのバッグをショルダーバッグと反対側の肩にかけた。身体の両側を荷物に挟まれて、家族旅行でこき使われるお父さんみたいな有り様になった。受け取ったペットボトルはショルダーバッグに入れる。

「で、バス乗り場どっちだった?」

 身軽になった真実ちゃんが、肩を回しながら尋ねる。どうも彼女が飲み物を買って来る間、案内図を見てバス乗り場の位置を確認するのが僕の役目だったようだ。……わざわざ地図を見るまでもなく、バス乗り場なら前から知っている。少し不思議に思いながら、今度は僕が先に歩き出した。真実ちゃんは真横に並んで付いて来る。混雑しているので、はぐれないように注意した。距離感が縮まった気がした。

 マスコットキャラクターが派手派手しくプリントされた専用バスはすぐに見つかった。海を意識した青地が基調で、赤と黄色で大きく遊園地の名前が描かれている。他の路線バスに比べて明らかに浮いていた。毒々しい装飾に早くも拒絶反応を起こしそうになったが、楽しそうに目を輝かせる真実ちゃんを見ていると何も言えなかった。せっかくなので写真を一枚撮っておいた。

 開園時間直前に遊園地前に到着する便ということで、バスは思ったより混んでいた。どうにか確保した二人掛けの座席に並んで座りながら、とりとめのない話をした。十分ほど走ると拓けた海沿いの道に出て、進行方向に宙をのたうつジェットコースターのレールが見えてきた。やや右寄りには空を支えるような巨大観覧車の姿もある。前の席に座っていた小さな子供が大声ではしゃいで、すげぇすげぇと連発した。みんな温かい目で見守っていたけれども、他に誰もいなかったら僕がぶっ飛ばしていたところだ。

 平日というのに暇な人間はいるらしい。僕達も人のことを言えないのだけれど。正門前には既に相当規模の行列が出来ていて、僕はあんぐり口を開けた。

「これでもかなり少ない方よ。休日なんてチケット売り場も窓口を増やすし、あっちの方に別の入り口用意してお客さんを分散させるの」

「へえ。せっかくだから撮っておこう」

 ファインダーを覗いてシャッターを切る。人が大勢立って並んでいるというのは、それだけで非日常的だ。特殊なイベントであることを実感させられる。子供から大人まで年齢層は幅広く、学生服を来た一団までいた。修学旅行か何かだろうが、少々季節外れの感がしないでもない。

「行列なんか撮ってないで、二人で撮ってもらおうよ。ほら、あのロゴが見えるとこで」

 真実ちゃんは僕からカメラを引っ手繰ると、近くにいた、小さな子供連れの若い女性に気さくに話し掛けた。

 あれだけ思い出作りだなんだと言っていたわりに、いざ二人で並んで写真に写るとなるとやけに緊張してしまう。笑みを浮かべようとした顔が固く強張るのを感じた。何しろ真実ちゃんは、僕の隣に並ぶだけでは飽きたらず、平然と僕に寄り添ってきたのだ。腕まで絡めてくる。女の子特有の柔らかさにどきりとした。空いた手で気さくにVサインなんかしながら、彼女は意外と大胆だ。

 ポーズを変えて二枚も撮った。勿論僕は微動だに出来なかったけれど。真実ちゃんが、相手に礼を言ってカメラを受け取る。僕も遠くから会釈をしておいた。相手も、娘というより妹のような連れと一緒に、ぎこちなく笑みを返してくれた。

 真実ちゃんは、せっかくのデジカメなのに、きちんと撮れたかどうか確認もせず戻って来た。写真を見るのが本当に恥ずかしいのかもしれない。代わりに確認しようとすると、

「写真じゃなくて実物を見てよ」

 なんて可愛いことを言う。やられた。抱き締めたくなるような衝動に駆られたけど、初心な僕にそんなことはできっこない。でも、勇気を振り絞って自然な感じで手を繋いだ。一瞬、真実ちゃんの指がびくっと震えたけど、嫌がられはしなかった。優しく握り返してくれた。隣から上目遣いでこちらを見遣る真実ちゃんの目元が微かに赤く染まっている。たぶん、僕はその倍以上真っ赤になっていたことと思う。

 チケット売り場に並んでフリーパスを二つ買った。約束通り僕のおごりで。それだけで高額紙幣が楽々一枚吹っ飛んだけれど、金のことを気にしてたら遊園地なんて楽しめない。ただでさえ否定的な価値観を持っているんだから、良いところを見るようにしなければ。僕はそう心がけるようにした。園内図の載ったパンフレットと、安っぽいビニール素材の白い腕輪を渡された。後者がフリーパスだ。当日の日付が刻印されている。一度付けたら外さないで下さい、と注意された。

「これを見せるだけで全部の乗り物に乗れるわけか」

「実は別料金が必要なのもあるけどね」

「そうなの?」

「うん。隣の水族館には入れないし、最近出来た絶叫マシンもフリーパスの対象外」

「へえ、よく知ってるね」

「一応調べたから。高一の頃の遠足で来て以来で、色々変わってたらまずいと思って」

「……変わってたら何かまずいの?」

「以前の攻略法が通用しないかもしれないでしょ」

 入場門は十時に開いて行列を飲み込み始めていた。こんな大勢の人間を捌くのにどれだけかかるんだろう、入るまで三十分以上かかったりするんじゃなかろうか、などと心配していたのだが、杞憂に終わった。フリーパスを腕に付けている人はそれをかざすだけで通過出来るので、思っていた以上に進行が速い。入場券と乗り物券を別々に買っている人の方が少数派だ。入場者数をカウントするためだろう、一人ずつ金属製のバーを押して入るようだが、順序良く次々に進んでいる。ゲートは横一列に五ヶ所用意されていて、にこやかに笑う女性オペレーターが、検問でもするかのように隣に立っているのが見えた。

 入り口が近付いて来ると、何だか変な風に緊張してきた。真実ちゃんと繋いだ右手が少し汗ばむ。真実ちゃんは対照的にリラックスしており、繋いだ手を無造作に揺らし、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。

「正門から近いアトラクションはその分混みやすいから、遠くの方から回ろうね」

 入場が待ちきれないのか、彼女はそんなことを言った。

「それって、みんな同じこと考えるんじゃないの?」

「素人は、乗りたいやつから順番に乗ろうとするから大丈夫だと思う」

「素人って。委員長はプロなわけ?」

「この遊園地は縄張りじゃないけどね。私、一人で絶叫マシンをはしごするのが趣味だし」

「……嘘。委員長って絶叫系苦手な人だと思ってた」

「意外?」

「うん。見た目、メリーゴーラウンドのヘビーローテーションとかしそうじゃん」

「えー、そうかなー」

「もしかして、今日もバリバリ絶叫系のに乗りに来た?」

 真実ちゃんは、うーん、と小さな声を出しながら、数秒間迷いを露わにした。

「今日はデートだから、もうちょっとおとなしめの路線でもいいよ。そもそもここは絶叫系に強い遊園地じゃないし」

 僕はほっとして、率直に言った。

「実は僕、逆さまになる系の乗り物が駄目なんだ」

「へー、そうなんだ。確かに、あんまりぐるぐる回る奴は酔うもんね」

「それどころか、スピードの出る奴が全般的に駄目なんだ」

「嘘」

「本当。たくさんのブランコが空中で横に回るアトラクションあるじゃん? あれが楽しいと思える限界」

「……あれ、かなり小さい子でも乗れるやつだよ?」

「うん、だから本当に苦手なんだ、絶叫マシン」

「……ごめん、遊園地じゃない方が良かった?」

 真実ちゃんが悲しそうな顔をしたので、僕は慌てた。入園前に気まずくなってどうする。

「いや、そんなことない。今日は覚悟を決めて委員長が乗りたいやつに乗るよ」

 すると真実ちゃんは、顔を輝かせた。にやりと、これまで見たことのないようなある種邪悪な笑みを浮かべて、

「言質はとったからね」

 と、呟いた。嵌められたのだと勘付いたが、時既に遅し。一人ずつバーを回して幻想の世界に足を踏み入れるや否や、真実ちゃんは僕の手を引いてぐいぐいと歩き出した。多くの客がパンフレットを見ながらわいわい話し合っている広場を抜け、土産物屋の前を通り、どことなくウェスタン調に設えられたメインストリートに出てもなお足取りを緩めない。

「あのー……、歓迎の意を表してフレンドリーに振る舞うマスコットキャラクターを平然とスルーするのはどうかと思うんだけど」

「あ、写真撮りたかった?」

「いや、まあ、そうだね。それもある」

「ごめんごめん。でも大丈夫。園内の至るところにいるもん、あれ」

「……身も蓋もないこと言うね。どうせ中身はバイトの兄ちゃんだろうし、着ぐるみごときで一々騒ぐのは馬鹿らしい、とか考える派? ちなみに僕はそうだけど」

「そこまで言ってないって。入り口前は大人気で写真も順番待ちだし、不合理でしょ? 大きな噴水のところで撮ろうよ」

「わかったから、もうちょっとのんびり歩かない? 景色でも見ながらさ」

「うん、復路はそうする。でも、気が変わらない内に一番ハードなジェットコースターに乗っておきたいでしょ?」

 真実ちゃんは屈託なく笑っていたが、僕の表情は相当引き攣っていたはずだ。僕達はパンフレットも見ずに迷いなく進み、噴水広場の横でマスコットを捕まえて通行人に写真を撮らせた以外は、全くスピードを落とさなかった。とはいえ、そんな僕達を全力疾走で追い抜いて行く子供なんかもいたし、急ぎ足自体はそう珍しいことでもないのかもしれない。メルヘンチックな世界を楽しむために現実問題として時間に追われるなんて、皮肉な話だ。真実ちゃんがスカートでなくてパンツを履いているのは、ファッションより何より、機動性を重視したためなんじゃないかと少しだけ思った。

 順路沿いに僅かに囲われた土壌に半ば無理矢理植えられた形の木々が、青々とした葉を茂らせている。その合間から、ピンク色に着色されたレールが見えて、僕の鼓動が高鳴った。楽しそうな喧騒に紛れて、ゴーゴーという力強い走行音と甲高い悲鳴も漏れ聞こえてくる。

「あのさあ、今から乗るのって、別料金必要なやつじゃないよね?」

 震えそうな声で、真実ちゃんの背中に尋ねる。別料金が要るなら、それを理由に辞退しようと思っていた。彼女から返って来たのは非情な回答だった。

「違う違う。この前出来た奴は、あれじゃないよ。最高到達点は高いけど、コースは単純で走行距離も短いの。宙吊り系だから体感速度は相当になるだろうけど」

「宙吊り系って?」

「椅子に座ってるんだけど、床がなくて足がぶらぶらするようなやつ。スキーのリフトみたいな」

 考えるだけでも身が竦んだ。

「今から乗るやつは違うんだよね?」

「うん」

「どんなやつ?」

「うーん、園の端っこにあるから、コースの途中何度も海の上に張り出してるけど、それ以外の点では比較的オーソドックスかな」

「でも、園内で一番ハードなんだろ?」

「海に向かって最高スピードで急降下するからね。それに、海の上で逆さまになるし」

 体中に鳥肌がたった。繋いだ手を振り払って全速力で逃げることさえ考えたけど、それを敏感に察知したのか真実ちゃんが振り向いた。ぽつりと、小さな声で言う。

「……嫌なら、私だけで乗るけど」

 絶叫マシンオタクという本性を剥き出しにして、見たこともないほど冗舌に語っていたのに、いきなりいつものペースに戻るのはずるいと思う。僕が悪いことをしているような気分になるじゃないか。

「いや、大丈夫大丈夫」

 真実ちゃんを安心させようと、空元気に振る舞った。いっそ身長制限にでも引っ掛からないかと、無為な希望に縋った。

 真実ちゃんは、僕の返事を聞いて、本当に嬉しそうに笑った。それだけで何でもしてやろうという気になってくる。本当にずるい。

 目的のマシンは十分待ちだった。待ち時間は確かに短いけれど、本当にそれが入り口から遠いところへ一目散にやって来た成果だという保証はない。平日だから混んでいないというだけかもしれないしね。

 ふと、勇ましい横文字の名前の下に、正気の沙汰とは思えない値段が付いているのに気付いた。乗り物券を使う客には容赦しないということか。あえて単価を高くし、フリーパスに割安感を植え付け、それを買わせる戦略なのだろう。経営者と客、どちらにとって得なのかはよくわからなかった。

 真実ちゃんは目に見えてはしゃいでいた。ペットボトルのお茶で喉を潤しながら、僕に絶叫マシンの魅力を語っている。その殆どを聞き流していたが、締め括りはこんな言葉だった。

「だから、好きな人と絶叫マシンに乗れば、絶対両想いになれるはずなの」

 何が『だから』なのか良くわからなかったが、ジェットコースターのドキドキを恋のドキドキと勘違いするという、釣り橋効果の一種の話だろうと予想をつけた。

 僕は返事に詰まった。真実ちゃんは僕が好きなんだと遠回しに告白しているのではないか。そんな風に思えた。この期に及んで照れている自分が奇妙だった。相思相愛のムードは感じていた。ちゃんとした恋人になる手続きを踏むなら今が最適だ。

 じゃあ僕達もこれで両想いになれるね、などと洒落た言葉を返したかった。でも、あまりにも僕のキャラに合わない。飄々とした顔で、そんなことを言える自信は無かった。さすがに軟派に過ぎないかと躊躇した。

 それは、この冒険を巡るあまりにも象徴的な出来事だった。

 真実ちゃんは、少しの間恥らうように沈黙していたが、一度何か言いたそうに小さく口を開いた。

「…………」

 結局何も言わずに口を噤み、冗談めかして相好を崩す。次に紡がれた言葉は、本意ではなかったろうと思う。

「でも、それって要するに勘違いなんだよね。どうせ長続きしないに決まってるよ」

 僕は再び返答に窮したが、どうにかフォローの言葉を探し当てた。

「それ以前に、絶叫マシンに慣れてる人には無効なんじゃない? そんなにドキドキすることもないだろうし」

「うーん、それはどうかなあ。私は毎回ワクワクドキドキって感じだけど」

「僕は今、ドキドキというよりキリキリに近い」

「あは、恋の予感どころか、逆にトラウマになったりしてね」

「笑い事じゃないって……」

 雰囲気が雑談ムードに戻ったところで、とうとう順番が来た。意味深な発言はうやむやになり、僕と真実ちゃんの関係はそのまま維持された。手荷物を預けてからシートに乗り込み、思ったよりラフな安全バーとやらに狼狽し、金属製の手すりにしがみ付いた。

「表情が硬いよー」

「そ、そう?」

 引き攣り笑いすら浮かべることが出来なかった。ランプが回転し、発車のベルが鳴った。マシンは勿体をつけるようにゆっくりと動き出した。

 その後のことは、思い出したくもない。

 気付いた時にはベンチに横たわってダウンしていたという感じだった。

「気持ち悪い……」

「いやー、まさかここまで弱いと思わなかった」

「笑い事じゃないって……」

「一番恐いところで万歳してるから、てっきり楽しんでるものかと思った」

「……自分でも信じられない」

 ジェットコースターに乗っている間は、生きた心地がしなかった。一刻も早く終わることと、タイムスリップで未来に飛ぶことばかり願っていたのに、時間の神は僕に試練を与え給うた。信仰の対象ではないから、ありがたくも何とも無い。

 ……三十六回だ。

 最高到達点から海面に向けて急角度で滑走し、最高速度で海に突っ込むかと思うやいなや体を外に振られ、バンクの付いた急カーブを右に曲がり、あっと言う間に螺旋状に二回転する。その後も、入り組んだコースをあっちへうろうろこっちへうろうろ縦横無尽に疾走する訳だが、その辺りの記憶は本当にない。何しろ三十六回だ。螺旋状の回旋が終わると同時に、僕の意識は三十六回連続で最高到達点からの落下の瞬間に引き戻されたのだ。

 わずか七秒間のタイムスリップである。

 地獄だった。それ以外に説明のしようが無い。これ以上の嫌がらせも考えられない。スピード感と浮遊感の綯い交ぜになった恐怖、慣性で海に放り出されるのではないかという緊張、逆さまになる不快。それらが、一縷の安息も許されず三十六度反復される不条理。ショックで死んでもおかしくなかった。

 僕はジェットコースターに完全に翻弄されていた。同じコースを何度も繰り返している異常に気付いたのは、四度目の反復の時だった。座りながらにして眩暈がしたけれども、平衡感覚が狂わされたせいなのか絶望のあまり気を失いそうになったせいなのか、区別がつかなかった。

 段々こなれてきて恐怖を感じなくなるだろうという希望的観測に縋っていたのは十度目までだ。根本的に駄目だった。速いこと自体が恐い。内臓が持ち上がるような落下感が気持ち悪く、遠心力で振り回されるのはただただ辛い。シートに押し付けられて痛い。短時間に何度も上下の反転を余儀なくされるので、頭も朦朧としてくる。どうしようもなかった。早いうちに解決しないと、本当に死ぬかもしれない。気ばかりが焦った。

 まずシートからの脱出を計ってみた。安全バーはが外れず、不可能だった。当然だ。仮に外れたとしても振り落とされて死ぬだけで益が無い。この案は没だ。

 絶叫マシンということで、絶叫してみた。あまりの恐さに悲鳴すら出ない、というのがそれまでの状態だった。いざ声を出してみると、意識が他のことに囚われる分少しだけ気が楽になることに気付いた。これは大発見である。大声で叫び続けた。三回繰り返した。時間流の反復を終わらせない限り、何の解決にも至らない。やはり没だ。

 どさくさに紛れて手を伸ばし、真実ちゃんの胸に触ってみた。不自由な体勢であったし、状況が状況だけに感触を楽しむどころではなかった。柔らかいことだけはわかった。心臓の高鳴りに別の要因が混じったが、心地良い興奮などとは程遠い。むしろ、不整脈を起こしそうな感じだ。勇気と無謀を吐き違えた印象だった。ちらりと視線をやると、当の真実ちゃんは猛烈なスピード感の中こちらを見据えて困惑顔を浮かべている。……万が一反復が終わっても地獄。精神的に相当追い詰められたが、螺旋が二度終わったら無事頂上に戻っていた。良かった。色んな意味で良かった。

 気を抜いたせいで一回分無駄に行程をこなした。吐き気と戦った。

 目を瞑り、視覚情報を遮断してみた。いつ何が起こるかわからない分、余計に恐かった。駄目だ。二度とやりたくない。

 息を止めてみた。無意味。

 叫んだ。

「委員長、好きだー!」

 肝心の真実ちゃんの反応を見る勇気が無かった。僕はたぶん馬鹿だ。タイムスリップ中にこんなことを試すのも馬鹿だし、それを最後までやり遂げられない辺りが致命的だ。

 視界が白い闇に閉ざされて意識が飛ぶという貴重な経験をした。おそらく一瞬だった。目が覚めても何一つ状況は変わっていなかった。

 泣いてみた。無意味。いや、前方からの強烈な風を受けてかなり目が乾いていたから助かった。ドライアイを防げた。やっぱり駄目だ。

 自暴自棄になった。手すりから手を離して万歳した。不安定になる分、スリルは増す。あらゆる感情がごちゃごちゃになって、狂ってしまいそうだった。大声で笑った。両手を上げたまま、悲鳴を上げるでなく心底楽しそうに笑い声を上げた僕は、絶叫マシン大好き人間に見えたかもしれない。皮肉なことに、この回が決め手だった。反復は決着し、螺旋二回転を終えてもレールは続いた。支柱を縫って進んだ。左右に振られ、上下に揺られ、僕はぐったりとなったまま終点まで運ばれたんだろう。憶えてないけど。

 マシンが止まっても、容易には立ち上がれなかった。真実ちゃんは心配そうに僕を気遣った。吐くわけでもないのに背中を優しくさすってくれた。吐きそうだっただけに本当に心地良く感じられた。真実ちゃんと係員に両側から支えられ、どうにか降りた。大丈夫ですか、と何度も繰り返された。半笑いで答えた。たぶん目が死んでいた。

 次に乗る客全員の注目を集めただろうし、僕の惨憺たる有り様を見て、怖気付いた人も何人かいただろう。こうして僕は伝説になったのさ。……畜生。

 ベンチに座って、お茶を一口含んだ。目を瞑ると、身体がふわふわ浮かんで感じられた。魂だけが一人歩きしてるみたいだった。地に足が着いていないって奴だ。

 唯一の収穫は、真実ちゃんに膝枕してもらえたことか。人間、心底辛い時には甘え上手になる。僕だってやる時はやるのだ。真実ちゃんの膝には安堵感があった。このままの姿勢で永遠に眠ってしまいたいと思った。柔らかい匂いに包まれた。幸福を実感した。

 でも、いつまでも休んでいたって仕方ない。何しに遊園地に来たのかって話になる。若干の吐き気を残したまま、僕は気丈にも立ち上がった。後ろ髪の引かれ具合は並ではなかったけれど、真実ちゃんを落胆させたくない。

「だいぶ楽になった。ありがとう。そろそろ次行こう」

 立ち眩みには黙って耐えた。頬の端に不自然な笑いが張り付いた。

「……大丈夫?」

「大丈夫大丈夫」

「絶叫系は避けた方がいいよね」

「うーん、まあ、出来れば」

 金を詰まれても願い下げだ、と言いたいところだったのに、こんな弱腰になるのが僕の僕たる所以だ。口に出た端から後悔した。

 案の定、おとなしめの乗り物二つに乗った後、別のジェットコースターに挑戦する羽目になった。真実ちゃんは容赦をしない。変なタイムスリップが起こらなかったから今度は大丈夫だったけど、大丈夫だったという以上の感想は何も無い。面白かった、などとは嘘偽りが前提であっても言いたくなかった。真実ちゃんも少し不満そうで、こちらは生温くていささかスリルが足りない、とのこと。……全くもって賛同しかねる。

 途中、気が向いた時に写真を撮った。真実ちゃんだけ写したものが二枚、真実ちゃんに撮ってもらったものが二枚、ツーショットが二枚。記念写真ってのは笑顔の安売りだな、と脈絡無く思った。

 六個目のアトラクションをこなしたところで、お昼を摂ることにした。値段のことを考えると少しげんなりした。

「何食べる?」

「えーと、私、お弁当作って来たよ」

 目の前が明るくなった。真実ちゃんに後光が差して見えた。

「嘘! まじで! すごいじゃん」

 お昼は手作りのお弁当なんて、まるで絵に描いたような最高のデートシチュエーションじゃないか。僕は喜びのあまり小躍りしそうになった。誰もいなかったら実際にステップくらいは踏んでいた。正直、最初のジェットコースターの気持ち悪さから完全に立ち直れてはいなかったのだけれど、手作り弁当の登場で悪心の全てが吹き飛んだ感じだった。

 真実ちゃんはそんな僕を見て曖昧に笑う。

「……わざわざそんなに驚かなくても」

「いや、だって、ほら。ありがとう。まさか手料理が食べられるとは思わなかったから。食事代も浮くし」

「最後のが本音なんじゃないの?」

 レストラン前に解放されたテラスの一席を陣取る。混雑具合はそこそこで、見たところ、無駄金を払ってクオリティの低いランチセットを購入している人の方が、自家製のお弁当を広げている家族連れより多いようだった。

 隣の席をちらりと窺うと、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるオールバックの若い男が座っていた。暖かいくらいなのにロングコートを羽織り、色のきついサングラスで目元を隠している。あまりの異様さに言葉を失った。遊園地には全く似つかわしくない風体だ。さらにその向かいに座る女性までが同じような格好をしている。……流行のスパイごっこか何かだろうか。

「ちょっとバッグ貸して」

 言われて、真実ちゃんのバッグを返す。彼女が中から取り出したのは、三つの大きなタッパーだった。弁当箱の代わりらしい。中身は一つがサンドイッチ、残りの二つがおかずとフルーツである。おかずは、厚焼き卵、唐揚げ、炒め物など、オーソドックスながら卒が無い。プチトマトやブロッコリーのおかげで彩りもすこぶる華やかだ。

「お世辞抜きにすごいな、これは」

「料理久しぶりだから、張り切っちゃった」

「……本当にすごいな」

「呆然と見てないで、早く食べようよ」

「あ、そうだ。写真写真」

「えー、恥ずかしいよ」

「ほら、お弁当と一緒に笑って笑って」

 無茶な注文をしながら撮影をして、僕達は食べ始めた。ツナの挟まれたサンドイッチを摘む。大体のところ、サンドイッチは失敗しにくいため、外れが少ない。それに加えて、真実ちゃんが僕のために作ってくれたという事実が最高のスパイスとなっているのだから、不味いわけがなかった。おいしいおいしいと褒めちぎって一頻り真実ちゃんを喜ばせたのは言うまでもない。

「今朝何時に起きたの?」

「六時半くらい。家族の朝ごはんも一緒に作るよう言われてたし、それに合わせて」

「へえ。手際良いんだね」

「うーん、でも結構時間無くてばたばたしちゃった。ほら、例えばこれ」

 彼女がバッグから取り出して見せたのは、まるまる一本のマヨネーズだった。

「何それ?」

「ブロッコリー用にマヨネーズが欲しかったんだけど、直接入れて中でぐちゃぐちゃになったりしたら嫌だし、上手く入れるアイデアが思いつかなくて……」

「そのままチューブごと持ってきたの?」

「そう」

「……また随分と思い切ったな。まさか、醤油もボトルごと持って来たりしてないよね?」

「あは、さすがにそれはないって」

 そう訊いたのは別に冗談ではなかった。弁当三箱とマヨネーズ一本でもまだバッグの重さに全然足りない気がしたからだ。真実ちゃんが笑って否定したので、それ以上は追及しなかった。

「そういえば、弁当作るためにばたばたしてたって割に、待ち合わせ場所には僕よりずっと早く着いてたんだよね?」

「ああ、あれは嘘。普通に歩いたら間に合わないから、お母さんに車で送ってもらったくらいだもん。で、急いで切符買ってそれらしく振る舞っただけ」

「……おいおい、それでフリーパス奢らされた僕って何なんだよ」

「まあまあ。私の手料理でチャラってことでここは一つ」

 本気で不貞腐れていたわけでもないので、当然それで手打ちになった。パンフレットを広げ、この後のコースはどうするべきか作戦を練りつつ、楽しい食事を続けた。

 真実ちゃんは本当に張り切っていたらしく、お弁当の量は二人分を遥かに上回っていた。彼女は小食だし、僕もたくさん食べる方ではない。普段なら絶対に余っているところだ。だが、せっかくの手作り弁当ということで、残すのは勿体無い。僕は無理して全部を腹に収めた。真実ちゃんは手を叩いて喜んでくれたが、しばらくの間満腹のあまり動けなくなってしまった。また、日頃の運動不足が祟り、早くも両足が疲れを訴え始めていた。出来ることならこのまま座ってお喋りを続けたい。そんな自堕落な思いに駆られる。

 ……結局、遊園地に来たからにはアトラクションを巡らねば損だという理屈で、僕らは席を立って歩き出した。損得勘定は、ときに肉体疲労を凌駕するのだ。真実ちゃんのバッグが若干軽くなっていたのが救いだった。それでもまだかなりの重さがあったが。

 食後一発目のアトラクションは、比較的穏やかな奥内物を選んだ。乗り物自体に派手さが無い分、海底旅行というコンセプトがはっきりしていて、演出も上手く施されていた。出口から直結していた売店にソファみたいな大きさの鮫のぬいぐるみがあったので、真実ちゃんに乗ってもらって写真を撮った。値札が付いているので一応売り物らしいが、あまりにも高額なので買う人が現れるとは思えない。専ら僕達がしたように写真撮影用の小道具と化していたが、店側もそれを許容しているようだ。

「すごいふわふわしてたし、あれ欲しいなー」

 真実ちゃんは恨めしそうに僕を見てそう言うが、さすがにその願いを聞いてやることは出来ない。

「仮にお金が足りたとして、あんなのどうやって持ち帰るんだよ」

「あー、電車に乗せたら目立つだろうね」

 電車の通路を塞ぐ巨大な鮫を想像したらおかしかった。ひどくシュールな光景だ。

「ま、冗談はさておき、鮫の次は何乗りたい?」

「もっと速いやつ」

 この段階で僕は、真実ちゃんとの楽しい遊園地デートがわずか二時間後に破綻することなど、考えもしていなかった。日没直前に乗る予定の大観覧車ばかり楽しみにしていた。二人きりの密室というシチュエーションに疚しい期待があった。それまでは相手に合わせて、絶叫系の乗り物をとにかく耐え切ろうと覚悟していた。

 話はそれなりに弾んだし、時折訪れる沈黙にも気まずい思いをすることはなかった。時間が経つにつれて、真実ちゃんが上の空になることが増えたけれど、はしゃぎ疲れてぼおっとしているんだろうと思っていた。休憩を提案しても、大丈夫、と笑って返された。

「高一でここに来た時さ」

 十五分待ちの別のアトラクションに並んでいる時、真実ちゃんが巨大観覧車に視線をやりながら、ぽつりと呟いた。近くからだとその威容は壮絶だ。天を仰ぐように大きく首を逸らして、ようやく頂点が視野内におさまる。シャフトは水色に塗られており、全体的にポップな色合いをしていた。ゴンドラの中の乗客が窓に張り付くようにして景色を眺めているのが見える。行列に居並ぶ人間達を高みから見下ろすのは、さぞ良い気分に違いない。

「私、あの観覧車に乗れなかったんだ」

「……どうして? 混んでたの?」

「ううん。それもあるけど、何か友達同士で乗るのが嫌でさ」

「あー、わからないでもないな」

「共学だったから、調子の良い子達は男子と女子一人ずつで乗ろうぜ、なんて悪乗りし出すし」

「ははは、委員長嫌がりそうだな、そういうの」

「だって、嫌じゃない? 高所恐怖症だってことにして乗るの辞退しちゃった」

「絶叫マシンに乗れて観覧車に乗れないなんて、誰も信じなかったんじゃないの?」

「疑ってた人はいたけど、班のメンバーが奇数だったから、丁度いいやってことで落ち着いたの」

「ふうん」

 真実ちゃんは、自嘲的に小さく笑う。

「だから、ってわけでもないけど、あの観覧車にはいつか好きな人と二人で乗ろうって決めてたんだ」

 心臓が、早駆けの馬みたいなリズムで脈打った。真実ちゃんが僕の顔をじっと見ていた。

 言葉が見つからずに間が空いた。僕は勇気を振り絞った。

「……僕でいいの?」

 卑怯な奴だと思われないか、それだけが心配だった。

 真実ちゃんは、はにかむように笑いながら頷いた。

「そっちが嫌でも、絶対乗ってもらうから」

 言葉にならない温かさが胸いっぱいに広がった。不覚にも、涙ぐみそうになった。愛が生々しく僕を貫いた。

 僕は全然、嫌じゃないよ。

 そう言おうとしたけど、口が上手く動かなかった。ほんの少しの勇気か、ほんの少しの誠意が、足りなかった。

 僕の気持ちは観覧車に乗った時にちゃんと伝えよう。無言の中でそう誓った。微笑み返した。繋いだ手が温かかった。

 待っていたアトラクションは、大した代物じゃなかった。それでも、僕達はそれなりに楽しんだ。二人でいること自体が楽しくて、アトラクションはどうでも良いのかもしれない。

 それが恋だと、人は言うのかもしれない。

「ちょっとトイレ休憩挟んでいい?」

 そんな問いに否があろうはずがない。二人でお手洗いを探した。看板に表示があったが、園内の雰囲気を壊さないようにとの配慮からか、メインストリートを外れた人通りの少ない場所に誘導された。

「絶対にここで待っててね。置いてったりしないでね」

 真実ちゃんは、そう言い残して、清潔そうな建物の中に消えた。何でそんなに必死に懇願しているのか不思議に思いながら、僕は一人で待った。ウォータークーラーの水は冷えていて美味かった。少しだけ嫌な予感が、胸に兆した。

 それは決して気のせいじゃなかった。

 ――僕が真実ちゃんの生きている姿を目撃したのは、これが最後だった。

 ……なんてね。嘘だよ。それくらいの方がインパクトはあったろうけど、別に彼女は死にやしないから安心してくれ。

 ただし、この嫌な予感が大当たりするのは本当のことだ。何しろ、真実ちゃんに再会するまで僕は大変な苦労を強いられることになるんだから。

 ここに一人の若い男が登場して、僕の冒険はとうとう本格的に始まるんだ。

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