エピソード一

 あれだけタイムスリップの話をしておいて何を今更と思われるかもしれないが、時間というものは、基本的に過去から現在、そして未来に向けて一方的に流れている。というよりも、僕達が日常的に時の流れを感じるには、原因と結果の役割が不可欠で、結果が原因より先んじることが無い以上、時間軸は一方に向けて流れるのが必然だ。

 変に難しい言い方をしたけど、要するに、『僕が林檎を食べた』から『林檎が無くなる』のであって、僕が食べるより先に林檎が無くなることはあり得ないという話だ。『隣の犬が咥えて持って行ってしまった』ら、僕が食べなくても『林檎が無くなる』けれども、それは別の因果関係が成り立っているというだけの話だ。個々の原因は定かではないにしろ、『あったはずの林檎が無くなる』ためには、間違いなくその過去に何かがあったはず。その推定に誤りはない。つまり、『林檎が無い』からといって、その未来において『林檎を食べて無くしてしまわないと』などと考える必要が無いのは、ひとえに時間が過去から未来の方向に一方的に流れているおかげであって、そういう意味で僕達の思考は完全に時間流に支配されていると言っても良いだろう。

 ところが、ここに二つの例外がある。

 一つには、『林檎を食べた』ことと『林檎が無くなった』ことの間にある簡単な因果関係がどうしても把握出来なくなるという、因果の失認症状が挙げられる。これは実在の病気だ。その場合、記憶の中で、出来事の起こった順番の認識に錯誤が生じることが多いらしい。『林檎を食べた』ことと『林檎が無くなった』ことに関連が見出せないから、どちらが先に起こったのかわからなくなってしまうんだ。となると、事実誤認という根本的な問題に目を瞑れば、主観的にはタイムスリップとしか思えない体験をすることが出来るとも言える。……ただし、タイムスリップの奇妙さを本人は決して意識出来ないから、痛し痒しというところさ。むしろ、そもそも本末転倒な話だったかもしれない。因果関係が崩壊すれば、時間の流れに大きな意味はなくなる。事実が事実であるというそれだけを足がかりに孤立し、ばら売りにされて飛び飛びに転がっている。そんなモノトーンの世界で、タイムスリップだ何だと浮かれるのは不謹慎だろうね。

 もう一つの例外が、何を隠そうこの僕の症例だ。いや、症例というほど洗練された状況ではないのだけれど。

 僕は物心ついた時から、原因と結果の繋がりがどうしても上手く把握出来なかった。何故なら僕は本当に、林檎が無くなった後にその林檎を食べるような子供だったからだ。

 こうやって言葉にすると失認症状と区別がつかないかもしれないが、もっと有体に言えば、僕は時間の流れを無造作に逆流してしまう体質の持ち主だったんだ。

 自分にとってはそれが当たり前だったから、幼い頃は何かがおかしいなんて一つも思わなかった。だって、僕達は三次元を移動する時、前後左右上下、好きなように動けるだろう? 前にだけ、右にだけ、上にだけしか進めないなんて不合理な制限を受けたことがあるかい? それと同じ要領で、僕は無制限に時間軸を動けた。未来と過去のどちらに向けても羽ばたいて行けたってわけ。何の意識もせずに。

 小学校に上がる頃には違和に気付いていた。さすがに、系統だった時間の話の中に自分にとって不可解なことが多過ぎて、不思議になったんだ。何らかの結果を提示された際、皆はこぞってその原因を過去に追求する。未来も視野に入れている自分がいかに異端であるか、意識せざるを得なかった。

 時間の概念について話が噛み合わない感覚は、あれに似ている。ほら、二人で向かい合った時、お互いにとって右と左が逆転しているせいで、どうにももどかしい思いをしたことはないかい? あれだよ、あれ。僕にとっては、皆が過去と未来を取り違えているんじゃないかと思うようなことが、頻繁にあった。実際には、時間の波に上手く身を任せている皆が正しくて、少数派である僕が一方的に間違っているわけだけど。人間は結局自分本位にしか物事を考えられないから、随分と割り切りは難しかった。

 笑い話にもならないが、僕は結構な間、サンタクロースを自分だと思い込んでいたんだ。クリスマス・イヴの日に子供達にプレゼントを配る奇天烈な格好をしたおっさんなんて普通に考えればいるわけないだろう? それでもいるという噂になっている以上、将来的に僕がその役目を担うんだと短絡的に決め付けていた。提示された結果の、その原因を未来に求めたんだ。サンタが本当にいるかどうか論争している友達を眺めては、ニヤニヤ笑っていたものさ。各家庭を効率良く回るのにどんなやり方があるか、真剣に考えたりもした。自分ならばあらゆる因果を繋ぎ得ると自負していた。恐ろしいほどに自意識過剰だよね、意図的に時間を遡ることが出来るわけでもないのに。

 具体的に僕がどうやって時間の流れを超越するか気になると思うけど、文字通り時と場合によってバラバラだから、かえって説明しづらい。何しろ意識的にやっているのでないから、規則性が無いし決まり事も無い。通常と異なる時間の流れに踏み込んだその瞬間には、なかなかそうと理解出来ないものなんだ。後になってから、あれが怪しいとかこれが妙だとか、原因を必死で探し求める始末。人間には空間を認知する力はあっても、単独で時間のみを認識する術がない。意識が連続していれば、それだけで一律の時間流がそこに存在すると錯覚してしまう。本当の時間の流れを知るためには、世界を完璧に客観視出来る神様の視座が必要だろうね。

 例えばある時、こんなことがあった。一人で留守番を頼まれている時、喉が渇いた僕はガラスのコップに水道の水を注ごうとしていた。まだ背が小さくて、台所のシンクには踏み台を使ってやっと手が届くかどうか、という状態だったから、随分と危なっかしい操作になる。蛇口に手をかけようと爪先立ちになった瞬間、死角になった斜め後ろから、

「危ない!」

 という大きな叫び声が聞こえたんだ。僕は身を竦ませて、思わずコップを取り落とした。シンクの中には陶器の食器が置いてあって、その縁にぶつかったコップは、哀れ真っ二つに割れてしまった。

 僕は唖然とし、猛烈と怒りに駆られた。何しろそのコップは、側面に大好きな戦隊物の柄がプリントされた当時のお気に入りの代物だったからだ。幼い子供ほど物に対する執着は強い。

 今、大声をあげたのは誰だ! そのせいで吃驚してコップを割っちゃったじゃないか。許せない!

 復讐を誓った僕は、急いで振り返った。背後には誰もいない。声の聞こえた方には開けっ放しの扉がある。歩いて行ってこっそり廊下を覗いた。やはり誰もいない。そもそも、一人で留守番をしていたのだから、家に誰かがいるはずはない。玄関にはしっかり鍵がかかっていた。泥棒が入り込んだ形跡も見当たらない。

 一応、念のために一階の部屋を全て見て回ることにした。居間に転がっていた玩具の銃を片手に、ドアを蹴り開けて、前転しながら各部屋に進入するんだ。刑事ドラマの真似事だった。いやいや、悪ふざけをしていたわけじゃないよ。凶悪な犯人を見つけるにはそうするのが決まりだと、思い込んでいたんだ。まだ子供だったから。

 結局、一階の他の部屋には誰もいなかった。最後に、廊下側からもう一度キッチンを覗いたらあっさり謎は解けた。そこではだった。背の低いそいつは、踏み台を使っていた。見覚えのある洋服を着ていたことで、すぐに僕自身だと気付いた。

 その僕の足元の踏み台が、体重移動に合わせて大きく傾いている。どうして倒れないのか不思議なくらいで、見ているこっちが冷や冷やしたよ。我慢出来ずに、僕は咄嗟に叫んでいたね。

「危ない!」

 しまった、と思った時にはもう遅かった。警句に驚いて、向こうの僕が肩を竦めた。おかげで踏み台の安定は保たれたけれども、がちゃん、とガラスの割れる音が聞こえたんだ。向こうの僕がコップを落として割ったのは間違いなかった。何しろ、僕が割ったのだから。これにて因果の成立だ。

 とすると、うかうかしていられない。向こうの僕が復讐を決意してこちらの僕を捜しに来ることは必定だ。謝るなんて選択肢はなかった。謝って許してくれる僕ではない。僕は背後を顧みることなく、夢中で逃げたね。どこへって? 当然、さ。一階にいたら見つかってしまうことは誰よりもよく知っていたからね。

 階段を昇りながら、ふと僕は恐ろしくなった。だって、僕より前に、僕に危ないと叫んだ僕が、同じことを考えて二階へ逃げているはずじゃないか。さらにその前には、僕に危ないと叫んだ僕に危ないと叫んだ僕が、僕に危ないと叫んだ僕と同じことを考えて僕に危ないと叫んだ僕より前に二階へ逃げているはずだ。さらにさらにその前には、僕に危ないと叫んだ僕に危ないと叫んだ僕に危ないと叫んだ僕が同じことを考えて……。堂堂巡りだけど、要するに二階には何人もの僕が既に昇っている。二階の部屋が無数の僕でぎゅうぎゅう詰めになっている想像に駆られて、僕は足が竦んでしまった。僕だらけの押し合い圧し合いなんて気分の良いものじゃない。

 それでも、どうにか進んだよ。恐る恐る、這ってでも昇った。止まっている訳にはいかなかった。ぐずぐずしていると、次の僕が後ろから追いついて来そうで、それもまた恐かったからだ。疑心暗鬼で創られた絶体絶命状況ってわけだ。

 二階に到着すると、まずは子供部屋を覗いてみた。刑事ドラマの真似をする余裕はさすがになかったね。おっかなびっくり、両手で目を押さえて指の隙間から見る感じだった。中は玩具が散乱していたが、人間は誰もいなかった。胸を撫で下ろしたよ。同じように、父の書斎にも両親の寝室にも誰もいなかった。……僕は、無事、独りで留守番していたようだ。

 安心したら力が抜けて、廊下にへたり込んだよ。フローリングの床がひんやりしていて、それが無性に安堵を誘ってくれた。だって、僕より前に同じことをした僕がいないという何よりの証拠だからね。床が生温かったら泣き叫んでいたところだ。

 当然、階下から、僕に危ないと叫ばれた僕が恐る恐る逃げのびてくることもなく、一連の騒動は鎮静化した。僕は握りっ放しだった銃を玩具箱に戻してから、一階に下りた。喉がからからだったから、今度は冷蔵庫からジュースを出して飲んだ。それはそうだ。もし水を飲もうとしたら、そのコップは割れてしまうだろうからね。同じ愚は犯せない。

 ……まだまだ序の口だというのに、早速混乱したのかい? 説明しづらいと言った理由がわかっただろう? 主観的には連続した時間の中を動いているつもりだけれど、気付けば不可解極まりない世界に紛れ込んでいる。僕が時間の流れからどういう風に弾き飛ばされたか、見当がついたかい?

 一見すると矛盾しか残らなかったように見えるけど、それらしい理屈をつけることは出来る。それぞれの行動を起こした正確な時刻がはっきりしないし、時間の巻き戻りによる事実のリセットを仮定すれば、あらゆる仮説が構築出来てしまう。その中から正解を特定する術も無いし、これ以降の例示については、時間移動の概念解釈を僕はあえて放棄する。やりたければ勝手にやってくれ。僕の症例全体に敷衍し得る代表的メカニズムが存在しないから、ひどく面倒なことになるぞ。

 さっきの話の後日談だけれど、お気に入りのコップは結局割れてしまった。三日後の休日、僕達家族は家を空けたんだけど、戻ってみたら割れていたんだ。真っ先に空き巣の可能性が疑われたけど、居間に出しっ放しにしていた玩具の銃が二階の玩具箱に仕舞われていた以外に、被害はなし。僕にはからくりがわかったけど、両親は盛んに首を傾げていた。小ずるい僕は被害者面して泣き喚いた。お化けがやったんだ、とか無茶なことを言っていたら、新しいのを買ってもらえることになった。僕はそれで満足した。君も、これで満足しないといけない。

 通常の時間軸から切り離されている関係上、僕は同一時刻に複数人存在することがざらにあった。大体は、僕の知らないところで僕の知らないことをやっていたようなのですれ違いになったけど、直接顔を合わせる機会も結構あった。

 僕の学校は週休二日だったんだけど、間違えて土曜日に小学校へ行ってしまったことがあった。朝、自然と目を覚まし、時計を見てその時刻に気付いて眠気が一気に吹っ飛んだ。遅刻ぎりぎりだった。本当は休日だからどうでもいいのに、目覚ましをかけ忘れたのかと思ってしまったんだ。慌しく着替えを済ませ、金曜日のままのランドセルを背負って朝食も食べずに家を飛び出した。誰もいない通学路で異常に気付きそうなものだけど、全速力で走っていた僕は視野狭窄を起こしていてそれどころじゃなかった。引き返すことなく校門をくぐり、昇降口を上がり、階段を二段抜かしで昇って、教室のドアを開けた。

 その途端、ドアの隙間に挟まっていた黒板消しが支えを失って落ちて来た。当然ながら、それは僕の目の前を通り過ぎてそのまま床に落ちた。チョークの粉が舞った。他愛のない悪戯は大失敗。誰だよこんな下らないことする奴、と教室を見回して絶句した。クラスの机全てに、が好き勝手に座っていて、にやにやとこちらを眺めているんだ。で、せーので声を合わせて、

「今日、土曜日だぜ! 無駄足ご苦労さん」

 だってさ。馬鹿げてるよね。おざなりな拍手で喝采して来る。驚くよりも何よりも先に、げっそりしたよ。

「僕はこんなことのために、あと三十四回もここに来ることになるのか!」

 皮肉をこめて叫んだら、未来の僕達も応戦してくる。

「おー、本当に言ったぞ」

「当たり前じゃん、同じ僕なんだから」

「十五回も聞くとさすがに飽きるな。ここの流れも全く一緒だし」

「僕、ちょっとひねって誰も聞いたことないセリフ言おうかな」

「いや、そのセリフも普通に聞いたことあるんだけど」

「退屈のあまり一人寝てる奴がいるところまでおんなじだ」

「狸寝入りだけどね」

「言うなよ、それ」

 和気藹々と話し続ける三十人以上の僕。呆然とした。話によると、最年少は僕で、次は三日後の僕。最年長は三年後の僕だという。三年も経って何やってるんだよ。非生産的にもほどがある。来たくて来たわけじゃないという事情があるにしろ、あまりにも無駄な集会だ。

「これだけの人数がせっかく集まってるんだから、何か出来るだろ。この時代に何か貢献していってよ」

 今を代表する僕は未来から来た僕らに提案したけれど、一笑に付された。

「無理無理。僕の時もみんな無為に過ごしただけだから」

「最初の僕以外、全員ルーチン化してるから正直面倒なんだよね」

「来ても意味ないことわかってるのに来ないといけない。過酷だよ、これは。皆、うんざりしてるわけ。まあ、僕は今日普通に学校に来ただけだから良いけど」

「僕なんか、放課後忘れ物取りに来たらこれだよ。鬱陶しい」

「あと五分で解散だから、うだうだ言うな」

「ああ、十五回目と六回目の僕は、何故か八回目の僕について行くことになるからよろしく」

「知ってるって。それで二十回目の僕を起こすんだろ? 正直だるい」

 空騒ぎの雰囲気に通底する全体的なモチベーションの低さにさらにうんざりさせられ、僕は黙って踵を返した。家に戻って不貞寝したよ。何もかもが夢であれば良いと思ったね。

 三日後、音楽室での授業が終わって、一番に教室に戻った僕が、十五人の僕に黙って迎えられるまでその希望は続いた。……儚い望みだったよ。入り口で立ち竦んでいたら、後ろから「早く入れよ」と急かされた。振り向くと、そこに立っているのも勿論、僕。これ以上無いほどの仏頂面をしていた。何もかも馬鹿馬鹿しくなった。せめてもの慰めに、好きな子の席に座ろうとしたら、周りの僕が一斉ににやにやした目でこっちを見てくる。僕の思惑なんて当然筒抜けだ。思っていた以上に未来の僕は性格が悪いようだった。

 せっかく過去の僕に出会ったんだから、未来の話の一つでも聞かせてくれても良いのに、と最初の内は思ったけど、実際に何度も土曜日への登校を余儀なくされる内に、小さな真理に至った。過去の僕と未来の僕は、保持している情報と言う点において、完全に後者が前者を上回っている。その絶対的な包含関係が、まともな会話の妨げになるんだ。過去の僕が未来の僕から有意義な情報を得ることはあるけど、その逆は絶対に無い。未来の僕が積極的に話そうとしない限り、対話というレベルでの情報伝達が前向きに検討される余地は残っていない。何より、そういう理由で会話が成り立たなかったことを、未来の僕は既に知っているしね。

 じゃあ、その過去をあえて変えようとしたことはないのかって? 勿論あるよ。考えることは誰でも一緒だ。

 土曜日の会合の七回目くらいに、ちょっとした悪戯心で、誰も聞いたことのない発言をあえてしてやろうと思い立った。でも、実際に何て言おうか特に決めず、思ったままを口に出してみたら、何と辻褄が合ってしまった。「僕、ちょっとひねって誰も聞いたことないセリフ言おうかな」というのがそれだ。本末転倒だった。それでもめげずに、奇声でも上げてやろうかと大きく息を吸って身構えた。そうしたら、隣の席の僕が、「無駄だよ」って小さく声をかけてきて、あっけなく気勢を削がれた。完全にタイミングを逸した。こっそり忠告してくる辺りが、巧妙だった。何をしようと目論んでも無駄なんだ、と強く思わせる口振りだった。三十回を越えて重複した現実は、浅はかな発想からじゃさすがに変えられないかもしれない、と思った。

 でも、実はそれも違っていた。次の八回目、僕は懲りずにまた試した。何の脈絡もなく叫んでみた。破れかぶれだったし、むしろ、口を塞ぐか何かして、他の僕が必死に止めてくれるだろうと高を括っていた。だからこそ思い切ることが出来たし、だからこそ予想外だった。

「うひょおおおおおおおおおおおお!」

 僕の声は驚くべき大きさで教室中に響き渡ったね。音波でガラスが割れるんじゃないかと懸念した。椅子に座った僕達が、耳を塞ぎながら全員こちらを向いた。引くに引けなくなって、息が続く限り叫び続けた。皆は黙って僕を見ていた。驚いている風ではなかった。

 声が途絶えると、しん、と恐いくらいの静寂が襲った。厳粛ともいえる妙な間の後に、笑いが一気に弾けた。大爆笑と言うに足る見事な笑いっぷりだった。僕だけが顔を真っ赤にして俯いていた。隣の席の僕が馴れ馴れしく肩を組んできて、

「お勤めご苦労さん」

 なんて言いやがる。僕にとっては叫び声なんて初めてなのに、入り口で呆けている最年少の僕以外、まるで当然のこととして受け入れていた。全てが予定調和だって顔で笑ってる。どうもおかしい。

「ねえ、こんな風に叫んだ人って毎回いたっけ?」

「わざとらしいぞ、八回目の僕!」

 直接訊いてみたけど、野次が飛んで、また皆でゲラゲラ笑い転げるだけだった。何が何やらわからなかったけど、作戦が失敗したことだけはわかった。僕は一人、腑に落ちない思いを抱えたまま、早々に引き上げたよ。

 九回目はどうなったかって? 当然のように、叫び声はなかったさ。七回目までと全く同じルーチンが繰り返されただけ。波乱のはの字も無い。八回目は夢だったのかと疑った。

 どうにも気になって、僕は斜め後ろにいた八回目の僕にこっそり尋ねた。この頃には、どの席にいるのが何回目の僕なのか大体見当がついていたし、何より、僕が八回目で座ったのと同じ席に座っているのだから、そいつが八回目であることは自明だった。

「なあ、八回目の僕は大声で叫んだはずなんだけど、なんで君はいつものように黙っていたんだ?」

 質問は妙だったけれど、言わんとしていることは伝わると思った。実際の八回目の僕は大声で叫んだため、九回目の僕からこんな質問を投げかけられたことはなかった。だから、ここにいる八回目の僕は僕がこなした八回目の僕とは全然別の僕なんだということは何となくわかった。

 すると案の定、その僕は驚愕を顔に貼り付けながらこう答えた。

「どういうこと? から、あえて八回目は叫ばずに黙っていようと思ったのに……」

 どうやら、八回目の僕だけ土曜日の会合の場所を取り違えたらしい。時間を遡る段階で、別の平行世界に迷い込んだのだね。その過程で二人の僕が交差してしまったに違いない。突拍子も無いことをする気は完全に失せたね。以降は、ルーチンワークをこなすように単純なループに戻った。

 つまり、僕には一応、自分の行動を自由に決める権利がある。未来を知ったからといって、それに合わせて行動する必要はない。けれども一方で、一つの世界で歴史を正確に縛り付ける不可知の力も働いている。結果的に、僕の主観では辻褄が合ったり合わなかったりする。時間の波に翻弄されつつ、絶妙なバランスで正しい流れにも乗せられている。下手に足掻いて完全に流れを見失うくらいなら、力を抜いて身を任せてしまった方が良いかもしれない。かといって、いくら願っても順調な流れにだけはどうしても乗れない。ポジティブに生きる気力も無くそうというものだよ。

 だからというわけじゃないが、僕は本当に幼い頃から、ある種の諦観を滲ませながら生きてきた。全てが面倒くさくなって来て、死のうとしたことも少なくない。

 実際、学校の屋上から飛び下りたことがある。少しも緊張しなかった。丁度、初恋に破れて傷心を抱いていた時期だから、気負い無く飛べた。屋上の縁から後ろ向きに倒れた。中空で目を閉じた。全てが終わるんだと本当に思った。安らかな気持ちにすらなった。過去が走馬灯のように見えることは無かった。ただ、落下までの数秒は本当に長くて、何十メートルも落ちているみたいだった。実際、本当に長かったのかもしれない。頼みもしないのに地面にマットが敷かれていて、僕はぼすっと包み込まれた。衝撃は完全に吸収された。落下中に別の時世に移動していたらしい。少し大人になった僕が、横で腕組みして立っていた。お定まりのにやにや笑いを浮かべながら、

「お勤めご苦労さん」

 だってさ。全部がお見通しなのかと思うと悔しいやら虚しいやらで、何にも言えなくなった。その僕は、あまり深刻そうでもなく、こんな風に続けた。

「残念だけど、僕はまだまだ死ねないよ。何しろ僕が生きているからね」

「……君は何年後の僕だ?」

 ふわふわのマットの上で、僕はどうにか訊いた。

「四年後。わざわざ中学校から出張ってきた。面倒だから放っておこうかとも思ったが」

「僕なら放っておくね」

「おう、四年前の僕もそう言ったさ。結局来たけどね」

「……どうして」

「もっと未来の僕が、助けに行けって忠告に来たからさ。僕が助けに行かなくても、助けたい意思のある僕が未来にいる以上、どうせ助かることは決定事項だろう。あるいは、君が死んでも僕には全く影響しない、というつまらないオチになるかだ。だったら、青臭い昔の自分を拝むのが一番楽しそうだろう? 行動の自由は生者の特権だよ」

「…………」

 四年後の僕は、つまらなそうに溜息をついた。

「わけのわからん時世を生きて来て、疲れているのはよくわかる。でも、君は今それでもかなり楽しい時期を過ごしてるんだぜ。好きに戻れるもんなら、君の時代に戻りたいくらいだよ」

「ちょっと待ってくれ。未来の僕にそんな絶望的な言葉を聞かされて、どうしてまだ生きていこうと思えたんだ?」

「何、この説得なんて全然関係なくて、自殺未遂が四回も続けばいい加減飽きるってだけの話だ」

「……僕はそんなに何度も死に損ねるのか?」

「それを確かめるには生きるしかない、なんて言われて丸め込まれただけだったりして」

「ふざけるな」

「思った通り、なかなか楽しかったよ。じゃあ、後はよろしく。頑張って」

「おい!」

 中学生の僕は勝手な言い草で締め括ると、悠然と歩み去った。僕は、巨大なマットを前に途方にくれた。こんな無茶な状況に独りで放置されるくらいなら、早く元の時代に戻りたかった。しかし、気紛れな時間の神は僕の事情を斟酌してはくれない。かといって、ぼおっとしているだけでは解決は覚束ない。

 よし。僕は気合を入れて、熱血気味に走り出した。勿論夕陽に向かってだが、方向は偶然であって意図的ではない。裏門を抜けて町に出た。

 住宅街を抜けて、駅に向かった。見慣れた商店街は見慣れたままの姿だった。四年の月日は特に街並みを変えなかったらしい。垢抜けた風も無く、駅前通りに居並ぶ各種店舗は、無秩序を唯一のスローガンにして軒を並べていた。僕は、立ち読みし放題の小さな書店にそのままの勢いで駆け込んで、購読中の週刊雑誌を開いた。僕の一番好きな漫画は既に連載を終えており、同じ作者による別の作品が掲載されていた。

 馬鹿みたいな話だが、それを確認した時、僕は生きる希望を見つけた気がした。少なくとも、短絡的に死を選ぶくらいなら、その前にやれることをやるべきだと思った。時間軸から弾かれているからこそ出来ることだってあるはずだ。作者よりも先に漫画の内容を知る、という卑近な行為に限らず。そんな当然のことに思い至った。

 あまりにも不条理な形でタイムスリップが起こるものだから、僕はそれを有効に利用しようと思ったことが一度も無かったんだ。厳しい現状に対応するのが精一杯で、手が回らなかったとも言える。死にそびれて開き直ることで初めて、自分にも可能性が見えた気がした。

 けれど、生きる希望が湧いたところで、僕に行き場が無いという現状は如何ともし難かった。ドラマなんかだと、主人公の決心が固まると、都合良く元の時代に戻れたりするはずだけど、僕の場合そういうところが本当に適当だ。時間の神は盛り上げどころを知らないらしい。何も起こらず、ただ時間を持て余した。熱意も冷めていく。僕は極めて現実的な手段を考える。この時代の実家には中学生の僕が平然と暮らしているから帰れない。お金も一銭も無いから宿泊施設を利用することも出来ない。頼りになりそうな友人も、四年前の自分なんかに手を貸してくれるとは思えない。参った。

 気付けば日没間近。僕は、全てを成り行きに任せるつもりで未来の漫画を立ち読みすることにした。わかりやすい現実逃避だった。でも、得る物は色々あった。この間始まったばかりで、かなりセンスがあると睨んでいたスポーツ漫画が、案の定センターカラーを担う看板漫画に成長していた。当時からマンネリ化が叫ばれていた大御所の作品は、まだ平気な顔で連載を続けていた。新連載の超能力バトル物は、絵の上手さ以外誉めるところが無かった。そんなことに一喜一憂しながら、この世界に生きることの意味を噛み締めた。万物に宿る神の恩寵と愛を感じて涙した。専ら嘘だけれど、僕はとにかく時間を潰した。何かを待っていた。

「へい、そこの君、今日泊まるところはあるのか?」

 そんな僕に、とんでもなく不自然な言葉をかけてくれたのは、四十がらみの怪しいおじさんだった。何やら、先ほどからずっと遠巻きに僕を見ていた人だ。セリフと言い挙動と言い、まともな人間とは思えない。残念ながら、怪しいことを除けば条件は満たしていたので、少し気を落としながら質問を返した。

「もしかして、未来の僕?」

 中年太りが始まり、頭も薄くなりつつあったその人間が自分だとは思いたくなかったけど、こんな都合の良いタイミングで僕に救いを差し伸べられるのは、僕の窮状を知る未来の僕を除いて他に無い。

 おじさんは一瞬顔を輝かせたが、すぐに笑って首を横に振った。

「私は、ええと、未来の君に頼まれて動いている者さ。君に泊まる場所を無償で提供するのが私の役割だ。そういう約束になっている。君がここにいるのは三泊の間だ」

「三泊も? それは助かる。どうもありがとう」

「礼なら未来の君に言いたまえ。用意周到だよ、彼は」

 自分が、この謎のおじさんにタイムスリップのことを納得させて協力を取り付ける図は全く想像出来なかったけれど、深くは考えないことにして、ありがたく宿を借りた。

 おじさんは、近くのウィークリーマンションに僕を案内した。備え付けの家具以外何もない殺風景な部屋だが、前もって契約してあったらしい。お小遣いだと称して二万円をくれた。それから、ここにサインをしてくれ、と証明書の類には到底見えない大きな紙を渡された。何これ、と尋ねると、僕を助けたことの物的証拠にするのだという。未来の僕との契約なのかもしれないので、快くサインをした。おじさんは、隣の部屋にいるから、何か困ったことがあったら呼んでくれ、と言い置いて去っていった。心なしか浮かれていた。つくづく意味がわからなかったが、僕はそこで足掛け四日暮らし、最後の朝、目が覚めると無事に元の時代に戻っていた。

 日付は、飛び下りを決行した日の三日後。僕は、何事も無かったように自室のベッドで横になっていた。二日間の空白があったが、周りの誰も、その間の僕の不在を気にかけていた様子はない。どうやら、飛び下りてからこちら、別の時代の僕が代わりを務めてくれていたらしい。僕自身には記憶の空白が残ったが、そんなものは日常茶飯事なので全く気にしなかった。僕は無事、荒れる時間の中で生を繋いでいた。

 君からしたら意外かもしれないが、このような記憶の空白は別段珍しいことではない。未来へスリップする上で、不可避の症状だ。騒ぐ必要もないさ。だって、記憶どころか、体ごといなくなることだってあるんだから。まさしく神隠しのようにね。

 神隠し現象は小刻みに起こった。そのせいで、不如意の遅刻、授業放棄、早退には何度も悩まされた。小学校低学年の頃、徒歩五分の通学路をいつも通りに歩いていたのに、学校に到着したのが一時限目の半ば過ぎになったことがある。どこかで不用意に時空の裂け目を越えたんだろう。もう少し到着が遅れていたら、大騒ぎになっていたところだ。通学途中の誘拐や拉致を疑って、PTAの有志が大捜索を開始する直前、絶妙なタイミングで僕は校門に現れた。担任の女性教師が駆け寄ってきて、優しく問い掛けた。

「一体、どうして遅れたの?」

 その質問で、僕はどうにか自分の置かれた境遇が理解出来たけど、そんなの答えようがない。僕は寝坊もしていなければ道草も食っていないし、怪しいおじさんにお菓子をあげると言われてのこのこ着いて行った覚えもないんだ。時間の流れがおかしくなったなんて、言うだけ無駄だ。尤もらしい理由がまるで見つからなかった。僕は必死で考えた。さて、幼い頭を懸命に捻った僕は、一体どう答えたと思う?

「宇宙人にさらわれておかしな実験をされたので、覚えていません」

 丁度、UFOブームが来ていて、メディアは連日のように宇宙人特番を組んでいた。だから、こう言えば乗り切れると考えた。アブダクションは身近に起こり得る一番の危険のはずだったからね。先生は、一瞬だけ目を丸くしたけど、すぐに笑顔になった。

「そう。おかしな実験をされたことまで覚えているのなら、肝心の言い訳部分を忘れないようにね」

「はい、これからは気をつけます」

 こんな頓珍漢なやり取りで、当時は本当に誤魔化せたと思っていたんだから、お目出度い話だね。

 この担任の先生に、僕は小学校六年間の内四年間教わった。彼女は本当に良い先生だと思う。滅多に怒らなかったし、何より、生徒一人一人に対する理解があった。僕がちょこちょこ不可思議な時間旅行に出かけるたびに、先生は僕を質問攻めにした。けれど、それは本気で理由を問い詰めるというより、説明させることで僕に免罪符を与えてくれていたようだった。異様な挙動を示す僕に、問題児というレッテルを貼って警戒するような安易な逃げを打たなかった。他の生徒と同じように扱ってくれた。

「二時限目、一体どこに行っていたの?」

「ええと……小旅行です」

 理由になっていないが、それでも先生は頷いた。

「じゃあ三時限目、髪型と服装と日焼け具合が今と全然違ったのはどうして?」

「……気分転換です」

 またも理由になっていないが、やはり先生は頷いた。

「さっき一緒にいた、背格好のよく似た男の子は一体誰?」

「……逃げ出した影法師です」

 先生は、今度は笑った。

「そう、なら仕方ないわね。出来ればこれからは、気分転換に陰法師と小旅行に出かけることは謹んでね。授業も大切だから」

「はい、気をつけます」

「じゃあ席に着いて。四時限目を、始めます」

 本当のところ、先生が僕の奇行をどんな風に把握していたのか、僕は知らない。先生が動じなかったおかげで、友達も奇異の目で僕を見ることはなかった。最悪、僕が明らかに同時に二人いてさえ、大騒ぎを避けられた。そんなこともありなんだと、皆が勘違いしてくれた。今考えると、周囲の人間が平然とこんな僕に接してくれたことこそが、僕の人生における一番の幸運だったのかもしれない。そういう意味では、そのきっかけを作った先生には感謝してもし切れない。

 いや、あるいは感謝の対象は両親に向けるべきかもしれない。僕だって人並みには両親への敬愛の情を感じているが、それだけでは足りないかもしれない。僕の異常な時間感覚で一番迷惑を被ったのは両親だ。面と向かって口には出さなかったけれど、その奇態に気付かなかったはずはない。随分と手を焼いていただろう。にもかかわらず、文句の一つも言わずに育て上げた。息子の成長を見守り続けた。もしかすると、僕のために、学校や周囲の人間達にそれとなくアナウンスをしてくれていたのかもしれない。おそらく僕は、完全なる無理解の中ではどうやったって生きられない。

 一番酷い時で、僕は三年の空白を経験した。これは、喜劇的な悲劇だった。十五歳の時だ。授業中お腹が痛くなって、トイレに行って戻って来る間に、僕以外の世界は三年経っていた。浦島太郎の気分がほんの少しだけわかった。色んな意味で最悪のタイムスリップだ。きっかけといいタイミングといい、他に幾らでもやりようがあるだろうに……。神隠しの発生も、場を弁えてもらいたいもんだ。

 随分騒ぎになったろうって? それが違うからまた恐ろしい。僕の不在の間、実際に演じてくれる身代わりの僕こそいなかったが、何らかの手が講じられていたようだ。戻って来て教室の扉を開けるや否や、見ず知らずの生徒が揃いも揃って、「おかえりなさい」なんて気楽な声を上げている。最初は教室を間違えたのかと思ったが、それにしても様子がおかしい。ぽかんと立ち尽くしていると、当時の担任が後ろからやって来て、僕の肩を叩いた。

「信じられないかもしれないが、君がいなくなってから、三年も経っているんだよ」

 なんて、真顔で言う。さすがの僕も、ドッキリ番組を疑ったね。

「今日は特別に、ご両親にも来て頂いてるんだ」

 とか言われても、僕としては今朝会ったばかりだ。何が特別なものか。少し皺の増えた二人が涙ぐみながら肩を抱き、感極まった様子で何度も僕の名を呼んでいるんだけど、実感なんて沸くはずが無い。相手に合わせて、心配かけたね、くらい言えばよかったんだけど、そもそもそんな自覚も無いんだから、うろたえるばかりさ。腹痛が治まり、すっきりして戻って来たらいきなりこれだぜ。信じられる? どんな名優でもこの即興劇には対応出来ないと思うね。

 何事もなかったように授業を再開する教室を後目に、僕は両親と一緒に職員室へ直行だ。十五歳というありのままの年齢に沿って高校受験をするか、いっそのこと、生年月日から得られる大検の受験資格を活かして、一気に大学受験を目指してみるか。そんな究極の選択を迫られる。授業中のトイレが僕の人生を変えたよ。

 結局、僕は高校受験をしなかった。かと言って、中学在学時の学力でストレートに大検を突破出来るほどの才能は無い。一年間の浪人生活を覚悟し、次の年の大検獲得、当然その先の大学受験の合格を視野に、猛勉強を始めた。何しろ昔の仲間は自然体で三年先を歩いている。いくら呑気な僕でも、それを平然と後ろから眺めている気にはなれなかった。自分だけ置いてけぼりにあったような、妙な心細さを感じた。追いついてやろうという必死な思いに身を焦がした。机に齧り付かんばかりに勉学に励んだ。そうせざるを得なかった。

 そんな僕を嘲笑うかのように、その冒険は突然始まった。

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