第四十八話 蒼碧の革命

 アリオンは剣を鞘に納め、天井に向かって右手を突き上げて叫んだ。それは今まで誰も聞いたことのない呪文だった。 

 

「全ての海を統べる王者トリトンよ。我にわたつみの御力を与え給え……!!」

 

 アリオンの身体全体が青緑色の閃光に包まれ、光の渦が生み出だれた。しばらくして光がひいてきたと思うと、彼の右手に黄金に輝くトライデントが現れた。

 

 (ああ、あれがひょっとしてアリオンが言っていた“王族にしか使えない、特別な力”か!? )

 

 ――シアーズ家の者はトライデントを召喚し、操る力を持っているのだ。それは水と大地を支配する能力を持つ――

 

 以前、アリオンが話してくれていた“人魚の力”のことをアーサーは思い出した。腕輪の拘束から解放された今、存分に力を発揮することが出来る絶好の機会だ。アリオンはトライデントを構え、静かに問うた。アエスを睨みつける瞳は研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、声はいつもの温厚さは失われ、背筋が冷え冷えと凍りつくような冷徹な声となっていた。

 

「アエス王。今一度言う。彼女を離すんだ。さもなくば、お前の命はないと思え……」 

 

 王は怯えきって奥歯をカチカチ言わせながらも、レイアを拘束する腕を緩めようとはしなかった。彼女が顔を少しでも動かすと、首元にあてられた刃が突き刺さる可能性がある。刃先に毒が塗られてない保証がないため、レイアも身動きがとれないままだ。


「知るか! そ……そんなまやかしが、こ……この儂に通じるとでも思うのか!?」 

「……言ったな。その言葉、とくと後悔するがいい……」

 

 アリオンが頭上で三叉戟を何回か旋回させると、周囲に真っ白な稲妻が走り、轟渡った。柄尻の部分で床を思い切り突くと、大きな縦揺れが巻き起こる。


「危ない! みんな伏せろぉっ!!」


 突然襲ってきた大地震に全員まともに立っていられず、アーサー達は急いで身を伏せた。 

 

「天よ、地よ、海よりいでし精霊達よ。我の願いを聞き給え……!」 

   

 アリオンの声に従い、彼の全身からほとばしる青緑色の光は、炎のように立ち上がった。すると、耳をつんざくような轟音が鳴り響き、真っ白で大きな雷が高い天井から床へと一気に貫いた。周囲に地響きが鳴り響く。その衝撃でシャンデリアが派手な音を立てて落下した。ガラスが砕け散る音が周囲に響き渡る。

 

 やがて、どこからかごうごうと音が聞こえてきた。その音が近付いてきたと思った途端、破壊音とともに天井から大量の水がどっと流れ込んできた。そしてそれは大きく渦を巻き、どんどん量を増してゆく。それを目の当たりにした王は、目玉が飛び出さんばかりに目を大きく広げた。

 

「……や……やめろ……来るなぁああっっ!!」

「わたつみの怒り、その身に受けよ!!」


 すっかり青くなったアエスは腕の中にとらえていた少女を突き飛ばし、自分に向かって押し寄せてくる大波から何とか逃げようと後ずさったが、徒労に終わった。百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う波は、彼を逃さず一気に飲み込んだのだ。全身の力を手足にこめて、押し寄せ渦巻く流れをかき分けようとしたが、抵抗出来ない。

 

「ぐあああああああああああっっっ!!」 

 

 大波はアエスの叫びをせせら笑うかのように、ますます激しく躍り狂った。波は彼を呑み下し、あおり立て、外へ外へと押し流していく。耳を押さえたくなるような不協和音が鳴り響いたと思うと、窓に大きな穴が空き、そこから外の海に向かってごうごうと水が流れていった。


 一方、アエスの拘束から逃れたレイアは床に倒れ込んだが受け身をとり、受ける衝撃を最小限に抑えていた。身体にまとわりついていたものは、いつの間にか忽然と姿を消えていた。そんな彼女の元にも容赦なく荒れ狂う大波はどうどうと押し寄せてくる。ああ、動けない自分は今度こそもうだめかもと思ったその時、愛しく思う声がレイアの耳へと、貫くように飛び込んできた。波を大きく打つ音が、自分へと近付いてくる。 

 

「レイア! こっちだ!!」

「アリオン!?」

  

 すると、青緑色の光が自分の身体を包み込むように広がってきて、眩しさのあまりレイアは思わず目をつぶった。


(何だろう。この感覚。何か、前にもあった気がする。確か、崖から落ちた時に感じた感触と似ているな……)


 音がない中で、レイアは何かに包まれるような感触を全身で感じていた。それは彼女が強く欲しいと望む、優しい温もりだった。

 

 ⚔ ⚔ ⚔

 

 それからどれ位の時間が経ったのか、良く分からなかった。らしくなく、いつの間にかまどろんでしまったに違いない。


 レイアがゆっくり目を開けると、透明な丸い空間の中にいるのに気が付いた。波に飲み込まれたと思ったが、そうではなかった。ただ感じるのは心地よい温もりに包まれた感触だ。ああ、自分は無事だったと思った途端、きゅっと胸の奥が締め付けられるように感じがして、鼻の奥の方がつんとしてくる。


(ああ、これは彼の腕だ。この大きな翼で包み込むように私を抱き締めてくれるのは、彼しかいないから)


 ゆっくりと視線を上げると、輝く小麦色の髪が視野に入った。パライバ・ブルーの瞳がヘーゼル色の瞳を見守るかのように、優しく見つめている。身体の奥底から何かが込み上げてきて、思わず涙がこぼれ落ちそうになる。いつの間にか、彼の右手にあったはずのトライデントは姿を消していた。

 

「アリオン……? これは……?」

「僕が術で出した。水を避ける為の小舟とでも思ってもらえばいい。僕はなくても大丈夫だが、君はそういうわけにはいくまい?」


 そう言われてレイアはああなるほどと思った。


(ああ、そうか。この状況では確かに、人間より人魚の方が動きやすいよな……こちらは下手すると服の重みで溺れるし……)


「アーサー達は?」

「彼らやゲノルは僕達と同じような状態だ。無事だから安心してくれ」

 

 アリオンが引き起こした大洪水で、室内は大量の水で海のようになっていた。レイア達を包むそれは波に揺られつつ、水の上をぷかぷかと浮かんでいる。大洪水伝説に登場する方舟のようなものだろう。

 

「……まさか自分の“力”でここまでのものが召喚出来るとは思わなかったよ。予想外過ぎて正直僕も驚いている。流石にこの城全てを沈没させるわけにはいかないから、これでも手加減したのだが。もう少ししたら周りの水は自然とひいてゆく筈だ。このまま待っていよう」

「アエスは?」

「先ほど流されて行くのをこの目で見た。あの波達は彼を容赦なく海まで運んで行くだろう。二度と陸には上がれまい」

「そうなんだ。あんたを散々苦しめていた奴にしては、随分とあっけないなと思ったよ。でも……」


 レイアはふとアリオンの左腕を見た。あれほど苦しめ続けていた左手首の腕輪は既になく、前腕にびっしりと巻き付いたようなピーコック・ブルーの鱗だけが燦然と輝いている。


「私は、あんたが拘束から解放され、やっと自由になれて、とても嬉しいよ」

「何もかも君達のお陰だ。本当に、感謝しているよ」


 耳代わりである青緑色のひれのようなものがゆらりゆらりと動いていた。長いまつ毛に縁取られた切れ長の目には憤怒の色は跡形もなく、今は穏やかな光が宿っている。白皙の肌を滑り落ちる水滴がきらきらと輝いており、無意識ながらもついため息が出てしまう。こんな時だが、レイアは美しい人魚姿のアリオンについ見惚れてしまう自分を抑えるのが苦しかった。

  

「ねぇ、ところで牢に閉じ込められているあんたの仲間達のところには、行かなくて良いの?」

「あの腕輪さえ外せれば、海に生きる者達のことは心配しなくても、大丈夫だ」

「あんたがそう言うのなら、大丈夫だね」

 

 (そっか。アリオンの仲間達はみんな人魚だから、水の中は平気だったね)

 

 腕輪さえなければ“力”を使える者達は牢を容易に抜け出せる。力のない者達を助けて、この音に向かって歩けば海にたどり着けるだろう。


 そう思うと、レイアの脳裏にまた懐かしい思い出が蘇ってきた。生前の父王に連れられてアルモリカ王国に来た時の、全ての始まりとも言える思い出だった。

 

 (そう言えば、アリオンに初めて出会った時も、こんな感じだったっけ……)

 

 落とした帽子を取ろうとして海に落ちて溺れかけたその時、近くで泳いでいた幼い頃のアリオンが、自分を浜辺まで連れて行ってくれた。その時の興奮と心臓の高鳴りは、今ならはっきりと思い出すことが出来る。

 

 ――誰か助けてーっ! ――

 ――大丈夫? ぼくにつかまって。陸まで連れて行ってあげる―― 

 

 家来達が大山鳴動するわ、エオンとコンスタンスに散々泣かれ叱られるわと、後が散々だったが、幼い自分には忘れられない大切な思い出だ。口元が緩んだレイアを見ていたアリオンは、小首を傾げた。

 

「?」

「ふふふ。あんたと初めて会った時のことをふと思い出してね」

 

 レイアは突然、アリオンの首に両腕を回して自分の方へと抱き寄せた。王子は目を見開きやや固まっている。よく見ると、頬がうっすらと赤くなっているようだ。

 

「レイア……?」

「私をまた助けてくれてありがとう。アリオン。凄みを効かせたあんたも、とてもかっこ良かった」

「レイア……」

 

 視線を絡ませ、見つめ合う二人は静かに目を閉じ、唇をそっと重ね合わせた。アリオンの唇は羽のようにふわふわしていた。穏やかで優しい温もりが伝わってきて、身体中がじんわりと温かくなってくる。もれるようなため息とともに、啄むような口付けを向きを変えつつ何回か繰り返した後、二人はゆっくりと見つめ合った。それから互いの身体を互いの腕でしっかりと絡め合った――互いの存在を身体で確かめ合うように。


(私達はちゃんと生きている。大丈夫、生きている……)


 アリオンを抱き締める腕に力を込めたレイアの耳に、鼓動が聞こえてきた。これはアリオンの心臓の音だ。力強く打ち続ける生命の音。打ち寄せる波のように、聞いていて安心する音。唯一無二の愛しい音――


(ああ、この音をずっと聞いていたい。ずっとこうしていたい。このまま時間が止まってしまえば良いのに……)


 部屋中の水が完全にひいてしまうまで波に揺られつつ、二人は決して離れようとはしなかった。

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