第四十五話 人魚の願い
アエスに刺され、前かがみに崩れ落ちるレイアの身体を、アリオンは両腕で抱き止めた。上着と白皙の頬に彼女の真っ赤な血潮がまとわりつく。自分にかけられた術は解けたが、彼の心は刺された痛みで張り裂けそうになっていた。
「レイア!……レイア……!!」
「……ア……リオン……」
アリオンの腕の中でレイアは苦痛で顔を歪めていた。左胸の傷口からは血が溢れ出し、まるで潮が満ちてくるようにどす黒いしみが服に広がってゆく。
「何故無茶なことを……!!」
「ごめん……あんたが危ないと思ったら、身体がつい、勝手に動いてしまって……」
「レイア……」
「私と違って……あんたには……帰りを待っている者がいるから……ここで……死なせるわけには……いかない……!」
力なく答える口から、苦しそうな息が漏れる。血を失ったために、唇が紙のように真っ白となっていた。自分を案じる顔をして見上げてくるその瞳は、光を失わないように堪らえているかのようだ。それなのに、彼女は震える右手をアリオンの血に濡れた頬にあて、彼の苦しみを癒やそうとしている。いじらしさのあまり、アリオンはその上から自分の左手を添えた。
「……レイア……」
「はぁっ……あんたは……生きて……国を……取り戻すんだ……」
「レイア……!!」
「……私は……あんたに会えて……良かったよ……」
レイアはそれっきり言葉を発することはなかった。右手から力が抜け、下にだらりと垂れ下がる。目が半開きのままで、どこかぼんやりとしている。
このままでは危ない。
「レイア……嘘……!!」
セレナが真っ青になって口を押さえ、後ろに倒れそうになるのをアーサーが背後から抱き止めた。彼は歯を食いしばり何か言いたげだが、上手く言葉にならないようだ。
「レイア……!! レイア……!!」
アリオンは腕の中にいる少女の身体を揺さぶり、何度も何度も呼びかけたが、彼女の反応はもうなかった。恐らく、意識が失われているのだろう。呼吸が段々浅くなってきている。
「レイア……お願いだ……目を開けてくれ……!!」
その時、熱い涙がつき走るように金茶色の目から一筋こぼれ落ちてきた。それは、玻璃のように光り、眩く辺りを照らし始めた。
「アリオン……?」
こぼれ落ちた一粒の涙は、やがて虹色に輝く水晶と変化した。真珠位の大きさであるそれは、ダイヤモンドよりも輝きが強かった。純粋で繊細な光が周囲に満ち溢れている。
(あれがひょっとして……アリオンの“涙”……? )
アーサーとセレナが息を潜めて見守る中、アリオンはその水晶を手に取って静かに眺めていた。七色に輝く大変美しい水晶で、壊れそうな位に切なく儚い輝きを静かに放っている。
「……」
彼は何を思ったのかそれをそっと口に含んだ。
そしてそのまま身をかがめ、ゆっくりとレイアの唇を自分のそれで覆った。
そしてレイアの身体を愛おしそうに抱き寄せ、そのまま動かなくなった――彼女の左胸の傷口に手をあてたまま……。
やがて淡い青緑の光が現れ、それが半円状に広がり、レイア達四人を包んだ。
再び立ち上がったアエス王の攻撃から自分達の身を守るための、彼に出来る精一杯の抵抗だった。
こくん。
レイアののどがかすかだが動いた。それでも、しばらくアリオンは動かないままだった。レイアの唇からも離れないまま。
すると、アリオンの左手から青緑色の眩い光が解き放たれた。それは穏やかな春の海のような、柔らかい色の光だった。それが彼女の身体全体を優しく包み込む。彼女の左胸の辺りからも、同じように光が発せられるのが見えた。こちらは真っ白な光だった。
青緑色の光と真っ白な光。それらの光が互いに交差し、やがて吸い込まれるように静かに消えた後、レイアのまぶたがぴくりと動いた。頬に赤味がゆっくりとだが、戻ってきている。出血はいつのまにか止まっていた。
「……アリオン……?」
レイアがゆっくりとまぶたを開くと、視界にはまだパライバ・ブルーの瞳のままで目を赤くしているアリオンの姿が映った。血に濡れた白皙の頬に涙の跡が光って見える。
(アリオンが、泣いている……? )
「レイア……良かった……間に合った……!!」
アリオンは再びレイアの身体をかき抱いた。何が起こっているのかが良く分かっていない彼女は、どう反応して良いのか分からず、目を白黒させている。
「あ……れ……私……生きてる……?」
「ああ……大丈夫だ。君は生きているよ」
レイアは身を起こそうとして、己の肩にかかっている己の髪の毛を見た途端、こぼれんばかりに目を大きく広げた。濃い茶色だったはずの髪の毛が、何故か艷やかな黒へと変わっていたのだ。
「……私の髪、黒になっている。どうして……?」
「これは僕の推論だが、術が解けたのだと思う。君に長年かけられていた術が。理由は分からないが、先ほど術が解ける手応えを感じたよ」
「術?」
「ああ。簡単には解けぬようにと、かなり強固にかけられていたようだ」
「あんた……まさか……」
アリオンは顔色を変えたレイアを優しく抱き寄せたまま、首を静かに縦に動かした。
「もう痛みで苦しまなくても、思い出せるはずだ。君がずっと探し続けていたこと」
「アリオン……」
「レイア、このままで良いから聞いて欲しい」
アリオンはレイアの耳元でささやくように言った。感極まっているせいか、少し声が震えている。
「君がいなかったら、国を取り戻せても僕は生きていけない」
「……え……」
パライバ・ブルーの瞳とヘーゼル色の瞳が見つめ合った。レイアの中で温かい、だけど堪えきれない何かが膨らんできて、弾けそうになって来る。
「僕は国を取り戻し、君を守ると決めたんだ。絶対に守るって……」
「アリオン……あんた……」
「君を二度と失いたくないんだジャンヌ……!!」
パライバ・ブルーの瞳はヘーゼル色の瞳を真っ直ぐ見つめた。瞳を通し、熱い生命の塊のようなものが見える。
――その時、レイアの頭の中で優しいさざ波の音とともに、極わずかだが遠くから声が聞こえてきた。
――ジャンヌ!! こっちにおいでよ!! 一緒に遊ぼうよ!! ――
――ジャンヌ。僕は君のことが大好きだよ! ――
――大きくなったらきっと君を迎えに行くよ! ――
太陽が輝いている青空の下、真っ白い飛沫が飛ぶ中で、明るい茶色の髪を振り乱しながら眩しい笑顔で自分を呼ぶ幼い頃のアリオン。彼はまだ小さかった頃から大変綺麗な顔立ちをしていたことを、レイアはぼんやりと思い出していた。
(私が……ジャンヌ……だったんだ……)
その時の小さかった王子が十年の時を経た今、自分の傍にいる……。
「アリオン……」
「ずっと……想っていた……どうしても、君を忘れられなかった……」
「……」
「初めて君に会った時、姿も全て別人のように変わっていたけど、“君”じゃないかと、心のどこかでずっと思っていたんだ。瞳の色だけは同じだったから……!」
いつも顔には出さず、誰にも優しく接していたアリオン。そんな彼が自分にここまで熱い想いを胸に秘めていたなんて、思いもしなかった。レイアは、言葉が上手く見つけられないまま呆然としている。
「僕は信じていたんだ。君が戦火を逃れ、どこかで生きているって……!」
(アリオンは、ひょっとして私をずっと待っていてくれていたのか? )
十年もの間静かに流れてゆく時の流れの中で、ずっと誰かを想い続ける。相手が死んでいるかもしれず、必ず相手が見付かるという保証もない。アリオンはその中でくすぶる想いを胸の奥底に秘め、誰にも告げることなく生き続けてきたのだ。
(レイチェルが消えるように死んでしまった後、私には待っていてくれる人はもういないと思っていたのに……)
どれだけ苦しい思いをして自分を待っていてくれたのだろうと思うと、鼻の奥がツンとして、視界がぼやけてくる。
「私……」
そこでこほんと、咳払いが響き渡る。
「お取り込み中のところ悪いが、俺達もいるってこと、忘れてないか? レイアがぶっ飛ばした王様はまだ起き上がる気配はないから、そちらの心配はしなくていいがな」
二人が振り返ると、にやけた顔をしたアーサーと、雰囲気にすっかりあてられて頬を真っ赤にしたセレナが立っていた。
「レイア! レイア!! 良かった……!! もう駄目かと思ったわ!!」
セレナが駆け寄り、アリオンから解放されたばかりのレイアを思い切り抱き締めた。彼女を腕で拘束したままアリオンに笑顔を向けた。
「アリオン。ありがとう! レイアを助けてくれて!」
「こん……の大馬鹿野郎! また無茶しやがって! アリオンが助けなければお前は今頃……」
「あ〜んもう! 悪かったっ! ごめんって!! だって、ああするしかなかったんだってば!!」
レイアとアーサーの変わらない応酬のお陰で、一瞬だが張り詰めていた空気が弾けて場が少し和んだ。
「しかしアリオン。“力”は大丈夫か?」
「“水晶”の力を借りた。だから思ったほど消費はない」
「それにしてもアリオンの“涙”は凄いわねぇ。あんな美しい宝石は見たことないし、とてつもない力を持っているなんて!!」
「……それも偶然だと思う。こんな威力があるということまでは、僕も本当に知らなかった」
自分の涙から生まれた“虹色水晶”に“力”があることは知っていたが、死の淵に落ちかけたレイアを救い出すために使ったのはとっさに思い付いてのことだった。彼女を何としてでも助けたいという想いがそうさせた。口移しで彼女の体内に入った水晶がアリオンの“力”と呼応して発動し、身体から離れかけていた彼女の魂を呼び戻したのだ。そして、彼女にかけられていた術を解き、封じられていた記憶まで蘇らせたのだ。
「え〜! そんなに綺麗だったんだ!! アリオンの“涙”、私も見たかったぁ!!」
「あ〜あ残念。お前は“涙”をのんびり見ていられる状態じゃなかったからな。あれは中々お目にかかれないものだぞ」
「あ〜あ、残念」
「そんなに“涙”を見たければアリオンに頼むしかないな。彼はお前の頼みなら何でも聞いてくれるかもしれないぞ」
アーサーがにやにやしながらアリオンの左肩を軽く叩いた。
「いや……その……」
アリオンは口ごもり、夕陽が指すように頬をうっすらと赤く染めた。
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