第237話 景虎と信長(5)

末盛城を取り囲む上杉景虎・織田信長の連合軍の本陣に,信長の実母である土田御前が同行する家臣らを引き連れてやってきた。

織田信行に代わり和睦条件の最終確認のためである。

末盛城を幾重にも取り囲む上杉景虎と織田信長の軍勢の中を,恐ることもなく堂々と通っていく。

一行が本陣に入るといくつもの床几(椅子)が用意されている。

信長達の前にやってきた土田御前には,柴田勝家とその郎党らが同行してきている。

信長の正面にある床几に座る土田御前。

その表情は無表情と言っていい状態であり,信長を見ていなかった。

「母上。お久しぶりでございます」

「元気そうね」

実の息子を前にしたとは思えぬほどにそっけない言葉と無表情ぶりである。

土田御前は,信長と弟信行が幼い頃から,弟信行だけを溺愛して信長を嫌っていた。

幼い頃に弟信行だけを溺愛する母の姿を見せられ,母に反発したためか年を追うごとに奇抜な姿と行動をとるようになり,周囲から尾張の大うつけと呼ばれ,それがさらに母との溝を大きくしていった。

多くのものと徒党を組み,奇抜な姿で領内を歩き回り,領民が呆れるような行動をとるほど,大うつけの噂は大きくなり広がっていく。

そんな噂を耳にした土田御前までもが大うつけと呼び始め,信長を見る目はますます冷たいものとなっていく。

そんな信長を理解してくれていたのは,実の父であり今は亡き織田信秀だけである。

周囲の讒言を撥ねつけ,信長が嫡男であることを変えることはなかった。

和睦交渉の場に臨む土田御前の顔は,感情が抜け落ちたような,無表情の能面でも付けたかのようにも見える。

「双方,和睦の条件は分かっておりますな」

三淵晴院の言葉に頷く両者。

双方ともに三淵晴員らから和睦の条件は聞いており,信長も承諾していた。

あとは双方で最終確認となる。

「信行と末盛城の者達が,信長殿に忠節を誓えば,領地を3割減らすことで信行を罪に問わず,隠居もせずで良いのですね」

土田御前は,表情を変えずに淡々と話をしていく。

「母上,その条件で問題ありません。この信長も将軍家の裁定には従います」

「こちらも,将軍家の裁定には従います」

三淵晴員は双方の様子を見ていた。

「双方ともに異論が無いようですので,この条件での和睦といたします。将軍足利義藤様の和睦の斡旋を双方ともしっかりと遵守していただきたい」

「承知した。この後,末盛城の囲みを解き,我らは清洲城に引き上げることとする」

信長の言葉に柴田勝家が答える。

「我らも承知いたしました。できる限り早急に熊野誓紙をお出しします」

勝家の言葉が終わるや否や土田御前は立ち上り,振り返ることもなく出ていった。

柴田勝家は慌てて土田御前の後を追う。

立ち去っていく土田御前の後ろ姿を見つめる信長は,何処となく寂しさを感じさせる目をしていた。

「織田弾正中家を継いで力を示しても,母からすれば儂の忌み子扱いは変わらぬか・・・もはや生涯このままなのだろう・・・」

信長は誰にも聞こえぬほどの小さな声で呟いていた。

和睦となり将軍足利義藤の権威を示すことができ,三淵晴員・細川藤孝は満足していた。

上杉景虎は,狙い通りことが運び喜んでいる。

織田信長は,上杉の力を借りたとはいえ尾張国内にその力を示し,背後に将軍家と上杉家の支援を受けている事を示すことができ,反信長派を抑えることに成功。満足のはずがどこかうかない表情であった。

「信長殿,何処かうかない表情ですな。何か心配事でも」

「景虎殿。この和睦は一時的でしょう」

「信行殿が再び反乱を起こすと言われるか」

「和睦の場に出てこなかった。つまり,儂に含むところがあるからであろう。儂はそんなつもりは無いのだが・・信行を害しようと思ったこともない。同じ父と母から生まれた者として,できれば手を取り合って行きたいと思っているのだが,向こうはそうは思っていないようだ」

「信長殿・・・」

「儂は評判が悪いからな。親父の位牌に香を投げつけるような大うつけだからな。信行とその周辺はおそらく今でも自分達こそが尾張国を治めるに相応しいと思っているだろう。悲しいことだが人の考えは簡単には変わらんものだ」

「信長殿が父上の位牌に香を投げつけた話を聞いた我が兄晴景は,信長殿をかなりの人物で油断のならん相手であると言っておりました。信長殿を評価しているものは信長殿が考えているよりも多くいるはず」

「それは本当の話か・・」

「本当の話です」

「天下の覇を示す上杉晴景殿にそう思ってもらえるとは嬉しい限りだ」

「信行殿は同じ血を分けた者同士。きっといつかは分かり合えるのではないですか」

景虎の言葉に少し口元に笑みを浮かべる信長。

「上杉殿には大きな借りができてしまった。儂の手が必要ならばいつでも声をかけてくれ。いつでも力になろう」

「兄晴景にそう伝えておきます。ぜひ,京においでの時は兄にお会いください」

「承知した」

織田信長は清洲に,上杉景虎は美濃に戻っていった。

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