第235話 景虎と信長(3)
織田信行らは,思ってもいなかった大敗により末盛城に撤退することになった。
北畠勢も想定外の敗北と損害を受けたため,慌てて自領の伊勢に撤退していた。
疲れ果てた姿で末盛城に戻ってきた織田信行とその軍勢。
半数以上が手傷を負っていた。
皆,敵の追い討ちから逃れるためなりふり構わずに逃げてきたため,その姿は泥まみれであり,ある者は兜を捨て,ある者は甲冑を捨て,出陣の時の姿とは全く別人のようであった。
その姿を見た母親の土田御前は悲鳴にも近い声を上げた。
「どうしたのです。何が起きたのです。こんな酷い身なりなって!」
土田御前の言葉に疲れ果て眠ってしまいたい気持ちを抑え,土田御前の前に向かう織田信行。
「母上,残念ながら此度の戦は我らの負け戦にございます」
「まさか,負けたと言うのですか・・・あのうつけに」
土田御前は驚愕の表情を浮かべた。
「残念ですが,兄上と上杉家の前で完膚なきまでに・・・どうやら我らは罠に誘い込まれたようです」
「罠?」
「上杉の手勢が酒を大量に購入して,軍勢到着当日に全ての将兵に酒を振る舞い宴をする。それが罠でした。宴で酔い潰れていると思い近づくと陣の中は空でした。罠に気づいた時は既に遅く,誘い込まれた我らは,まさに鉄砲の的。大量の鉄砲による攻撃の前に,清洲城に近づくこともできず,途切れることのない鉄砲による攻撃の前に,一方的に撃たれるのみませんでした」
「なんと・・・」
「率いていた兵の内,すでに3割ほどが撃たれ,半数以上が手傷を負っております。伊勢国司北畠の軍勢は早々に逃げてしまいました」
見下していた嫡男の信長に,溺愛していた信行が負けたことが信じられなかった。
「敵襲〜,敵襲〜」
「清洲の奴らと上杉勢が攻め寄せてくるぞ」
周囲を警戒していた家臣達の叫ぶ声が聞こえる。
その声に織田信行が慌てる。
「ど・どうすれば・・」
「しっかりしなさい。あなたは織田弾正中家を背負うのでしょう」
母の叱責にさらに慌てる。
「は・はい」
「信行様。ここは急ぎ城門を閉じ籠城戦しかございません」
柴田勝家は,判断を下せない主に進言する。
「そ・そうか・・ならば,すぐに門を閉じよ」
慌てて城門を閉じ篭城戦となる末盛城であった。
末盛城に籠城する者達の3倍以上の兵力で末盛城を取り囲む,景虎と信長。
取り囲みながらも攻撃せずにいた。
信長自身が攻撃することに躊躇いがあるからであった。
景虎は,家臣達にしっかりと取り囲みを指示して,さらに末盛城の周りに柵を作らせ始めた。
次々に丸太や木材を運び込み,末盛城の周りに柵を作っていく上杉勢。
「景虎殿,柵を作るのか・・」
「簡単に逃さぬため,夜陰に紛れて逃げられては面倒でしょう」
「そ・それは,そうですが・・・」
いっその事こと,夜陰に紛れて逃げてくれないかと考えていた信長の表情は曇りがちであった。
表向きは非情な姿を見せるが,身内や味方に甘い信長は攻め込むことに躊躇いがあった。
「信長殿・・・信長殿。考え事ですかな」
景虎の呼ぶ声に慌てて反応する信長。
「これは失礼した」
「間も無く,柵が完成します。柵が出来て仕舞えば,常に緊張している必要もないでしょう。少し気を楽にしましょう」
信長の目の前では,手慣れたように柵を作っていく上杉の家臣達がいた。
人が簡単に乗り越えられない高さの柵が次々に出来上がっていく。
この高さの柵を越えるにはよじ登らねばならないが,その間に鉄砲で撃たれるか,長槍で突かれてしまうことになる。
「今の末盛城に籠城している者達にこの柵を破壊して,さらに我らに戦いを挑み勝利することは無理でしょう。我らの勝ちは決まったも同然。あとは相手がどこまで粘るかだけでしょう」
「兵糧攻めですか・・・」
「一気に攻めてもいいが,そうなるとひとり残らず討ち取ることとなり,末盛城に籠城する者達を殲滅することになる。それは信長殿も望まぬでしょう」
景虎の言葉に表情を曇らせる信長。
景虎は,信長が身内に甘いことは分かっていた。
末盛城には,仲は悪いとはいえ信長の実の母である土田御前もいた。
そのため,あえて時間をかけて相手の心を折ることにした。
近いうちに兄である晴景が,幕府を動かして将軍家から仲裁に入るようにするであろうという計算もあった。
柵を作ったのはそれまでの時間稼ぎの意味合いが強い。
柵を作らずに末盛城を攻めれば,将軍家の使者が来る前に戦いが決着してしまう。
それでは意味がない。
この戦いを将軍家が仲裁することで,天下に将軍家の権威を示すことになる。
全ては将軍家の権威を高めるという兄晴景の戦略に沿った策であった。
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