第233話 景虎と信長(1)

弘治元年11月

10月に入ると年号が天文から弘治へと変わった。

美濃国稲葉山城に留まっていた上杉景虎の下に,北畠家から3千の軍勢が尾張に向けて出発したとの報告が入った。

上杉景虎は,直ちに西美濃三人衆と明智光秀と共に,6千の軍勢を率いて美濃国を出発。

美濃国と尾張国の国境には,後詰めとして5千の兵を待機させておく。

そして,景虎率いる軍勢はもう少しで尾張国清洲城に到着しようとしていた。

軒猿衆の報告では,北畠家の軍勢は既に織田信行の末盛城に到着しているそうだ。

景虎の目に映る尾張国は越後比べて土地は狭いが,元々が豊かな国であり雪に閉ざされることも無い国であった。

「何もしなくてもこれだけ豊かなのだ。余計な欲を持たずに力を合わせればいいものを・・・。豊かだから逆に争うのか・・・」

景虎は,独り言を呟きながら馬に揺られている。

「景虎様,あれが清洲城でございます」

明智光秀の声に景虎は我に帰る。

清洲城の前に出迎えの信長の手勢がいた。

皆,異常に長い槍を持っている。

「景虎様これはいったい・・・」

明智光秀が疑念を口にする。

「向こうなりに自分達を強く見せようとしているのだろう。一方的に助けてもらうのではなく,あくまでも対等な関係であろうとするために,自分達も戦えるのだと見せているのだ。それを相手に指摘するは無粋というものだぞ,光秀」

「申し訳ございません」

光秀は景虎の言葉に思わず頭を下げる。

整列している清洲城の軍勢の中から1人の男が前に進み出てきた。

景虎は馬から降りてその男に近づいていく。

「ようこそおいでくだされた。織田弾正中家織田上総介信長でございます」

信長と名乗った男の目には強い力を感じさせるものがあった。

「上杉景虎と申します。兄である晴景の命により信長殿の助けに参った」

信長に援軍を出せとは言われたが,自らは行くなと言われたにもかかわらず,晴景の命で来たかのように言う景虎。

「おお・・・噂に聞く毘沙門天殿ですか,これは心強い限り」

緊張していた信長の顔が笑顔になる。

織田信長21歳。

上杉景虎25歳。

初めての顔合わせである。

信長からすれば,今の上杉家は圧倒的な強者である。

石高も比べることもできないほどの開きがあり,上杉家は10カ国を超える領地を持ち,それに対して信長は尾張をまだ統一できていない。

尾張国守護である斯波義統しばよしむねは守護代織田大和家に殺され斯波氏は力を失い,次の守護である斯波義銀しばよしかねは信長の保護下にある。

守護代家である織田大和家は,既に昨年信長により謀反人として滅ぼされている。

残る最大の敵は織田信行となる。

「歓迎の宴を用意しております。奥へ」

景虎は信長と共に清洲城へと入っていった。

一行を城内へと案内する信長に景虎は声をかけた。

「信長殿」

「何でしょう」

「今夜,敵が夜襲をかけてくる可能性がある。酒はほどほどにしておきましょう」

「えっ,夜襲!」

景虎の言葉に驚く信長。

「敵は我ら上杉の軍勢の数に驚いているはず。今頃,どうするかで揉めているでしょう。敵がどうしても引かずに戦うことを選ぶなら,問題となるのは兵が我らよりも少ないこと。そこを補い,少ない軍勢で大軍を叩くには,相手が油断する時を狙うのが常道。ならば,我らが到着したその日の夜が狙うのが上策であろう。普通ならば一番気が抜ける時だ。警戒しておいて損は無い」

「なるほど」

景虎の言葉に頷く信長。

「いっその事,どうせ攻めてきてくれるなら,いつまでも待っているよりは今夜攻めてもらいましょう」

「今夜ですか・・・それは,わざと隙を見せると言うことで・・・」

「今夜は歓迎の宴で清洲城で酒を大量に買い込んでいると敵方に噂を流してください。酒は我らが戦勝記念のために清洲城下で酒を大量に買い込ませていますから,敵も疑わないでしょう。実際に我らが買っているのですから。さらに商人達には,手間賃を弾んで夕刻までに末盛城周辺でも酒を買ってくるように言ってありますから信憑性は高まるでしょう」

景虎はにっこりと微笑む。

既に,上杉景虎の指示で手勢が清洲と周辺に散らばり酒の買い込みに動いていた。

さらにわざと今夜の宴で上杉の兵達と織田信長の兵達も飲むためだと言って,清洲の商人から末盛周辺の酒も今日中に集めさせるように手配していた。

これで自然に末盛城にも噂が入ることになる。

「さらに末盛城周辺で酒を買わせる商人の前で,我が手の者がわざと,1週間後に上杉勢が追加で2万の増援がくると,話すようにしておきましたから,これで敵が動かないなら,じっくりと構えて戦うまで。そうなると数の少ない敵は不利となる。さて,どう出てくるか楽しみではありますな。ハハハハ・・・」

楽しそうに笑っている景虎を見て信長は引き攣ったような表情をする。

「2万ですか・・・」

「あくまでも敵側への牽制の噂話。ですが信憑性を持たせるため,国境のよく見える場所で5千ほど待機させています」

「それでは,相当な銭を使うことに・・それに勝った時にどのように報いていいのか・・・」

「長いこと戦場で対陣すれば,これ以上にかかります。一晩で蹴りがつけが安いものですよ。ああそうだ。酒代は我らが勝手に買っていますから織田殿に請求することはありませんからご心配なく。それにこの度の戦いで勝っても負けても何も要りませんよ。尾張の領地の割譲は必要ありません。兄の晴景は必要無いと言っておりますから」

「何も要らぬと言われるのか」

「我らが望むのは尾張国の安寧。それだけです」

景虎の言葉に驚愕の表情を浮かべる信長であった。

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