第202話 呟き
織田勢は村木砦攻めから素早く撤収し、追撃のかからぬうちに船を出し、急ぎ那古野城へと向かっている。
船の中の織田信長は、眉間に皺を寄せ、終始無言のままであった。
家臣達も信長のそんな様子に声をかけることもできず、船内は重い空気のままであった。
船員達は黙々と艪を漕いでいる。
那古野城近くで船を降り、そのまま那古野城へと入る。
留守役を頼んだ斎藤道三が出迎えてくれた。
「婿殿、よく無事でもどって来てくれた」
斎藤道三は笑顔で出迎えた。
蝮と言われ、揶揄される人物とは思えぬほどの柔和な笑みを見せていた。
「舅殿、留守中那古野城をお守りいただきありがとうございます」
「何もすることが無くて、実に暇だったぞ。しかし、村木砦は残念であったな」
「面目ありませぬ」
「気にやむ必要は無いだろう。味方についた水野家を助けるために自ら危険を冒して軍勢を率いて向かったのだ。非難するものはおらん。暴風の中であったとしても水野を助けるため危険を冒して船を出し、倍近い敵に挑んだのだ。日頃お主を非難する者達は、そんな気概さえ無い。奴らは身の安全ばかり考える奴らだ」
「ですが・・・」
「確かに、知多郡は失うことになったが、家臣達は味方を救うために大将自らが危険を冒して動く姿を見ている。危険を冒した分だけ家臣達の信頼は強いものになったのだ。それに知多郡を失ったが、代わり今川に強烈な一撃を食らわせてやったではないか。しばらく今川は動かんだろう。いや、動けんだろう。それを天の時と捉えて、その間に尾張をまとめあげよ」
「村木砦攻めで、遠くからではあるが、上杉晴景と思われる男を見た」
信長は村木砦攻めを思い出しながら語った。
「上杉晴景か・・・」
「遠くからではあるが、視線があったような気がした」
「どう感じた」
「離れていたがその視線に力強さを感じた。奴は強い・・・そして信頼できる強い家臣を多く持っている」
「そうか・・・」
「村木砦攻めの終わり頃に上杉の増援が飛び込んできた。饗談(信長の忍び組織)の話では、その集団は稲葉山城から休むことなく走り続け、通常の軍勢が進む時の倍以上の速さで走り抜け、半分以下の時間で村木砦についたそうだ。まさに神速」
「兵は神速を尊ぶか・・・上杉が誇る精鋭部隊だな」
「正直、羨ましいと思た」
「婿殿、上杉晴景も最初からそんな家臣がいたわけでは無い。最初はお主と同じ周りは敵だらけだったそうだ。さらに頼れる家臣もいなかったそうだ」
「なんと・・・」
斎藤道三の言葉に驚き目を見開く。
「一人又一人と頼ってくれる者達を集めて鍛え、精鋭と噂される者達を作り上げたのだ。金銀を得て財を作り、地位を得ても、儂や他の大名達のように驕り高ぶることも無い。得た財はことごとく人材の育成と領地の開発と領民の生活の安定につぎ込んでいるそうだ。以前起きた天文の飢饉では多くの者達が餓死した。だが、上杉の支配する地域では餓死するものは一人もいなかったそうだ」
「飢饉で餓死者がいない・・・」
飢饉で餓死者を出さなかったと聞き驚きを隠せない信長。
「これから先は、お主の考え次第だ。どんな道を選んでも儂は婿殿を支えよう。たとえ敵であっても学べるものは学び、使えるものは使え、そして強かに生きろ。儂からはそれだけだ」
道三は静かに微笑んでいた。
信長は道三の言葉を聞き自然と頭を下げていた。
「舅殿の言葉。しかと胸に刻みましょう。これからもこの信長をお助けください」
「承知した。儂らを存分に使われよ」
「義元殿。信長に上手くやられたな」
今川家と織田家との和睦が成立した後に、晴景は駿河今川の館の茶室にいた。
晴景が足利将軍足利義藤を動かし、今川家と織田家の和睦を成立させていた。
和睦成立で双方が撤収することとなった。
「前線では手ひどくやられた。だが、晴景殿のお陰で織田信長の奇襲を跳ね返し知多郡を取り返せた」
義元は晴景に頭を下げていた。
「そんなに気にするな。儂が自ら織田信長の奇襲のありそうな場所に飛び込んだのだ。織田信長という男を少しでも知るためにな」
そんな晴景の言葉に、少し呆れたような義元。
「お主は・・・周りの者達が苦労しているな。それで、お主の目には織田信長という男はどう見えた」
「一言で言えば、剛毅果断。そして柔軟な考えを持つ」
「剛毅果断で柔軟な考えを持つか・・・」
「損得勘定だけで動くなら最初から水野家は見捨てるだろう。だが、信長はそうしなかった。辿り着く前に船が転覆して全滅する恐れが高いにも関わらずだ。味方を助けるために大将が己の命を賭ける姿を見れば士気は高まる」
「そうだな。信長の家臣達の結束は高まる。尾張国内部で敵対している者達からしたら面白くなかろう」
「だが、それをあからまさに言えまい。信長に敵対している者達は、ぜいぜい強がって見下す程度だろう」
「尾張国内部で皆潰しあってくれたら楽なんだがな」
「そう思うなら、義元殿がそのように持っていくしかあるまい」
「それはわかっている。そのように動くつもりだ。尾張が内部抗争している間に我らの軍勢の強化に取り掛かる」
義元は素早く茶を立て晴景と義元は、しばし茶の湯を堪能していた。
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