第137話 狡猾なる者たち
天文17年4月下旬
相模国小田原城
「いよいよ越後上杉が動いたか」
北条氏康は小田原城の天守から、春の日差しが溢れる城下を見下ろしながら呟いていた。
氏康の背後には北条家の忍びである風魔忍者の風魔小太郎が控えていた。
「越後上杉の兵力はどれほどだ」
「総勢は2万」
「2万・・・意外だな。もっと多いかと思ったぞ。越後上杉の力からしたら4万や5万出しても不思議ではあるまい」
「2万の兵力ですが、越後上杉家が誇る精鋭赤備えだけでございます」
「農民はいないのか」
「今回の越後上杉の軍勢に農民はおりません。どうやら春先の田植えなどを考えてのようです」
「越後上杉の精鋭赤備え。常に武芸を磨き、軍略を学ぶ強者どもの集まりと噂されている奴らだったか」
「はい、2万の兵力ではありますが油断のならない危険な者たちかと」
「まともにぶつかるのは危険か」
「さらに大量の鉄砲を持ち込んで来るようです。約三千挺になるかと」
「鉄砲か・・・越後上杉は鉄砲を使いこなしているのだったな。鉄砲を使うために重要なのは火薬だ。大量の鉄砲を使うということは大量の火薬があると言うことだ。鉄砲も火薬もどちらも高価な物。それを大量に用意できるのだ。恐るべき力・・いや恐るべき財力と言った方が良いか」
氏康がしばらく思案していると叔父玄庵がやって来た。
「氏康殿、越後上杉がやって来るそうではないか」
「叔父上、越後上杉は2万の軍勢らしいです」
「2万だと、意外と少ないな」
「農民を使わずに、越後上杉の精鋭だけのようです」
「ホォ〜。確か虎豹騎軍とか言われてる越後上杉の精鋭か。面白い。クククク・・・血が騒ぐな」
「叔父上、儂には何かと自重しろとか、大将が先陣を切るなとか言われる方が、敵との戦いを楽しみにされては困ります」
「ハハハハ・・・そう言うな。強い奴と戦ってみたいのは武士の業。戦ってみたいと思うことと手に入れた領地を守ることは別だぞ。武士の業は二の次、三の次だ。領地を守ること、無駄に兵を消耗しないことが重要だ。越後上杉は三国峠からやってくるのか」
「玄庵様、それについてはこの風魔小太郎がご報告いたします」
「小太郎、では頼む」
「越後上杉の軍勢2万。この2万の軍勢は二手に分かれます。上杉晴景率いる8千は越後国三国峠から上野国に入ります。上杉景虎率いる1万2千は信濃国を経由して上野国に入るようです」
「上杉晴景と上杉景虎の二人が出てくるのか。儂はどちらか一人が出てきて軍勢を指揮すると見ていたが二人ともやってくるとは」
北条玄庵は上杉晴景、上杉景虎の二人がそれぞれ軍勢を率いていると聞いて驚いていた。
「それと、この越後上杉の軍勢には越後国に逃げ込んだ上杉憲政がおりません」
「上杉憲政がいないだと」
「はい、どうやら上杉憲政は軍勢と共に上野国に来ることを拒否したようです」
「上野国を諦めたのか」
「それよりも我らとの戦で多くの国衆に裏切られことと、上杉晴景を家臣扱いして一方的に我ら北条の討伐を命じたため、上杉晴景を怒らせたためらしいです。話しによりますと、上野国から我ら北条を追い払ったら平井城に上杉憲政を残して、越後上杉勢は帰るから後は好きにしろと上杉晴景に言われたらしいです」
「ハハハハ・・・上杉晴景を怒らせるか、上杉憲政もなかなかやるではないか。家臣でも無い越後上杉家に助けてもらいながら偉そうなまねをするするとはな。助けて貰ったのなら身を低くして礼を言い、ひたすら頭を下げて助けを求めれば良いものを、つくづく愚かなことよ」
「ですが、その代わり上野国に関して上杉晴景に全て一任すると書状を与えたそうです」
風魔小太郎の言葉を聞き、一瞬にして厳しい表情になる北条玄庵。
「一任・・・全て一任だと」
「ハイ」
北条玄庵は大きくため息をつく。
「上野国のことを越後上杉に丸投げするとは、大人しく我らに滅ぼされれば良いものを迷惑な奴だ。奪われた領地を自ら奪い返す気力も失せたか・・奴には武士としての・・漢としての意地は無いのか」
「叔父上」
「氏康殿、どうされた」
「上野の国衆を越後上杉にぶつけますか」
「命を下しても、動かん可能性が高いだろう。奴らは風見鶏。強い相手が現れればすぐさま変わる。変わり身の速さは驚くほどだ。しかも、越後上杉には上野国を一任するとの書状まである。我らの方もいつまでも農民たちを徴兵したままでいる訳にはいかん。そうなると越後上杉とまともに戦う訳にはいかんだろう」
「ならば、上野国衆に越後上杉討伐の命を出しておいて、上野国衆がどう動くか見極めましょう。場合によっては上野国は一旦手放し、武蔵国まで下がれば良いかと。そして、越後上杉が越後に帰れば、また上野国を我らで押さえればいい」
「流石は氏康殿。その通りだ。わざわざ危ない真似をせずに時を待てばいい」
「もしも、越後上杉が武蔵国まで攻め込み越後上杉の勢いが強いならば、ここ小田原に籠城すれば負けることはありませぬ。奴らの兵糧が尽きて越後に帰って行ったら全て元通り。まともに戦う必要はありません」
「あれほど上杉景虎に敵愾心を見せていたではないか。良いのか」
「叔父上、これでも北条家を預かる身。己の気持ちと北条家として動くときは別です」
「それで良い。お主は北条家を預かる身。その心をしっかり忘れぬようにせよ」
「ただ、せっかくはるばると越後国から上野国まできてくれるのですから、それなりにもてなしてやらねば北条の名折れでしょう」
氏康は不敵な笑みを浮かべる。
「もてなしか・・・どうもてなしてやるのだ」
「一人面白い者がおります」
「面白い者とは」
「相模国内の猟師で与市と名乗る長弓の名手がおります。7尺(約2m程)の弓を自在に操り、4町(約400m程)先の獲物を射抜くのです」
「なんと、4町先の獲物を射抜くのか・・それ程弓の使い手がいたとは」
「鷹狩りの折、偶然見つけました。与市を使えばなかなか面白いもてなしが出来るかと」
「ハハハハ・・・良いではないか、面白い余興が見れそうだ。存分にもてなしてやると良い」
「この氏康にお任せあれ」
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