第138話 襲撃

上杉景虎は信濃国で甘粕景持と合流した後、上野国へと向かっていた。

春真っ只中とは言え山間は少し肌寒い。

今日は風が時折強く吹いてくる。

無風かと思えば、急に強い風が吹き。また風が止み、また風が吹くを繰り返している。

晴れてはいるが雲の流れが早い。

そこに物見に出ていた軒猿衆の忍びが戻ってきた。

「景虎様、2里ほど先の山間で少し開けた場所に、北条勢と思われる者たちが潜んでおります」

「伏兵か」

「おそらく」

「数は」

「2千と思われます」

「他には」

「周辺には他に潜んでいるものはおりません」

「わかった。宇佐美定満!」

景虎が宇佐美定満を呼ぶ。

「定満、鉄砲隊を準備せよ。伏兵が潜んでいるところまで行ったら、潜んでいる場所に徹底的に撃ち込め」

「承知しました」

宇佐美定満は直ちに鉄砲隊に指示。前方に鉄砲隊を配置していつでも射撃できるように準備させた。

鉄砲隊の前には、弓や鉄砲の攻撃に備えて竹束をいくつか用意させる。

軍勢の左側には山の斜面。右側には流れの早い川が流れている。

川向こうの山の麓からは4町(約400m程)は距離がありそうだ。見通しは悪くない。

軍勢はゆっくりと慎重に進んでいく。

越後上杉勢の進軍を阻むように前方の木々の間より矢が打ち込まれてきた。

「鉄砲隊用意。撃て」

宇佐美定満の号令で次々に前方に向かって鉄砲が撃たれる。

鉄砲は特に狙いを定めずに伏兵がいると思われる場所に広く撃ち込んでいく。

木々の間からは人のうめき声や叫び声が聞こえてくる。

時折吹く強い風が火薬の匂いと血の匂いを越後上杉側に運んでくる。

北条勢に鉄砲を撃ちかけている越後上杉勢に左手斜面上から鉄砲が打ち込まれた。

しかも、上杉景虎がいる周辺に向かってである。

鉄砲の玉が地面に当たり土煙が上がり、小石が弾け跳ぶ。

馬が驚き暴れようとするところを景虎は手綱をしっかり握り家臣と共に宥めている。

日頃から鉄砲の音に慣れさせるように訓練をしている馬であっても、突然の攻撃を受けて狼狽えている。

鉄砲による攻撃は僅かではあるが、越後上杉の武将たちは慌てた。

大将である上杉景虎のいる周辺に攻撃を受けたのである。

「景虎様、お下がりください。危険です」

鬼小島弥太郎は、特製の槍を構え景虎の前に出る。

「弥太郎。心配無用」

狙われた景虎は、慌てることなく平然としている。

「適当に撃ち込んできた鉄砲の玉なんぞ、儂には当たらん」

その時、一瞬強い風が吹いた。

その瞬間、景虎の顔の横を矢が通りすぎた。

凍りつくように一瞬動きを止める越後上杉の武将たち。

景虎は、自分の横を通り過ぎて木に突き刺さった矢を見て口元に笑みを浮かべる。

「三段構えの罠とは、北条もなかなかやるではないか」

越後上杉勢の前方に見え見えの伏兵を置き、そこに気を取られたところに本命の攻撃に見せかけた鉄砲での攻撃。

鉄砲に気を取られたところに本当の本命である弓矢の攻撃。

普通なら4町もの先から弓矢による攻撃は無い。

あり得ない弓矢の攻撃だ。普通なら完全に射抜かれている。

景虎は矢を撃ち込んできた先を見つめる。

矢を放った北条勢に聞こえるように大きな声をあげた。

「この距離をほぼ正確に打ち込むとはなかなかの腕前。4町はあるであろうこの距離をものともせずに正確に打ち込む腕前は見事なり。だが、その程度では軍神毘沙門天に帰依したこの景虎を射抜くことはできんぞ。ハハハハ・・・・」

景虎の声が山間に響き渡っていった。


「化け物か・・・矢が顔のすぐ横を通ったんだぞ。なんで平気でいられる。なんで笑える」

相模国の猟師である与市は、まだ若く大柄な体に今まで仕留めた熊の毛皮を着込んでいる。

肌寒山中でありながら暑くもないのに汗が止まらなかった。

与市の横にいる風魔小太郎はこの策が失敗したことが信じられなかった。

三段構えの罠。

越後上杉勢の前方の伏兵による囮。

風魔の忍びによる鉄砲を使った撹乱。

伏兵と鉄砲に気を取られたところにトドメとなる大弓による攻撃。

この策が失敗に終わった。

景虎は伏兵と鉄砲の囮を仕掛けられても全く動じていない。

そして、トドメの弓が強風で流され僅かにそれた。

鉄砲を周辺に射かけられ、矢が顔のすぐ横を通り、自分の身が危険に晒されたにもかかわらず笑って見せた。

与市の遠方の獲物を弓で射抜く力は、弓の性能と弓をひく圧倒的な腕力だけでは無く、圧倒的な視力にもある。

7尺の大弓がもつ性能と圧倒的な腕力、遠方でも正確に獲物を見つける目が与市の弓を支えている。

その圧倒的な目が、矢が顔の横をすり抜けたにもかかわらず、満面の笑みを浮かべ笑っている景虎を捉えていた。

そして、景虎の笑い声が周辺に響き渡っている。

「与市。引き上げだ」

与市を守っている風魔小太郎と配下の忍びたちが与市に声をかける。

「あともう一度、もう一度弓を弾かせてくれ」

与市が弓を引こうとした時、止んでいた風が再び強く吹きはじめた。

「クッ・・ここでまた風が邪魔するか」

このまま矢を放っても風に流されてしまう。

もはや襲撃を断念するしかない状況となっていた。

「与市、もう無理だ逃げるぞ。急げ、我らが逃げることができなくなるぞ」

与市と風魔の忍びたちは急いで逃げていった。

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