第136話 小心翼翼たる心

天文17年4月中旬(1548年)

越後国越後府中

上杉晴景は、総勢2万の軍勢を率いて上野国に向けて出陣すべく準備が整った。

今回上野国に向かう軍勢は足軽農民兵は一切入れず、上杉晴景直属となる赤備え虎豹騎軍のみである。

軍勢の出発にあたり関東管領上杉憲政殿を連れていくために、上杉晴景は上杉憲政殿に与えた屋敷に赴いた。

上杉憲政は、春の日差しが降り注ぐ中、屋敷の庭に面した縁側に一人で俯くように座っていた。

服装は戦に赴く身なりではなく、いつもの日常の身なりのようだ。

庭にある小さな池にいくつかの小さな岩が置かれ、その周囲には背の低い緑の木々が置かれている。

晴景は屋敷に造られた庭を通り、上杉憲政に近づき声をかける。

「憲政殿、軍勢の準備が出来たので我らと共に上野国に参りましょう」

「儂は行かぬ。体調がすぐれん」

憲政は力の無い声で呟いた。

「憲政殿は上野国を取り返すのでは無いのですか」

「体調がすぐれん。行かぬ」

「では、上野国は北条に任せるのですか」

「それはできん・・・」

「ならどうするのです」

「儂は行けぬ・・・」

晴景は上杉憲政の勝手な言い分に怒りが込み上げてきたが、心を落ち着けて憲政に向き合う。

「ならば、上野国に関することはこの上杉晴景に一任するとの書状をお書きください。そうでなくては、我らの大義名分が立ちません。それも無いなら、我らは上野国に関しては全て北条に任せ、我ら越後上杉は軍勢を出す事をやめ、上野国とは一切関わりを持たぬことにします。それでよろしいですか」

「わかった。上野国に関しては晴景殿に全て任せる。書状ならば今すぐにでも書こう」

覇気も無くした上杉憲政は、屋敷の中に戻ると書状を書き始める。

「これを持っていくが良い。あとは任せる」

書状を書き自らの花押を書き入れ晴景に渡した。

晴景は、半ば呆れていた。

あれだけ北条を討伐せよと言いながら、自らが矢面になると分かれば行かぬと言う。

これが関東管領であることを誇った者なのか。

8万もの軍勢を集め北条を潰そうとした者なのか。

相手を討とうとすれば、相手の反撃により自分が殺される可能性もあることも考えずに軍勢を集め、その挙句に相手の逆襲で敗れた。

武士でありながら、奪われた領地を取り返すために己が命を賭けることもできん。

それでは、上野国は北条に任せるかと聞けば困ると言う。

これでは、上野国衆や武蔵国衆たちの思いを受け止める事は出来ないだろう。

国衆たちの忠誠心を取り戻す事も出来ないだろう。

元々の本質がこうだったからこそ国衆たちがついてこなかったのだろう。

山内上杉家は終わったのだ。目の前にいる上杉憲政殿で事実上山内上杉家は終焉するのだとあらためて実感していた。

200年の歴史を誇った扇谷上杉家が滅び、そして同じく200年の歴史を持つ山内上杉家が滅ぶのだ。

将来、歴史通りに景虎が関東管領を継ぐことになって、山内上杉家の名跡は残ったとしても、事実上山内上杉家が滅ぶことに変わり無いと思う。

景虎が関東管領を継いだとしてもそれは新しい上杉家だ。

上杉憲政の上杉家が残るのでは無い。景虎による新しい上杉家が誕生することになるのだ。

どうしても上野国や関東との関わりが断てぬなら、逆に積極的に介入するしかあるまい。

「確かに書状はいただきました。憲政殿は屋敷にてゆっくりとお休みください。越後領内は平和です。安心してお過ごしください」


上杉晴景は、関東管領上杉憲政の書状を受け取ると屋敷を後にして軍勢の待つ春日山城に戻った。そこに景虎が近づいてきた。

「兄上、憲政殿がおりませぬがいかがされました」

「上野国には行かないそうだ」

「エッ・・上野国を北条から取り戻すのでは」

「体調がすぐれないため、行きたくないそうだ」

「なんと・・兄上にかなり厳しく言われたため気後れしたのではないですか」

「おそらくそうであろう」

「憲政殿が行かぬなら如何します。此度は取り止めにしますか」

「憲政殿が上野国に行かぬなら、上野国を北条に任せて放置するのか、儂に一任するのか決めてもらうように話をした。その結果、上野国に関することは儂に一任するとの書状をもらった」

「自らは動かずに兄上に丸投げですか」

「だが、やりやすくなったとも言える」

「ですが面倒ごとが増えたとも言えます」

「確かにな」

景虎の言葉に少し渋い表情をする晴景であった。

上杉晴景と関東管領上杉憲政を待っていた軍勢は、関東管領上杉憲政が上野国には行かぬことが告げられると、上杉晴景の指示を受け越後府中から2万の軍勢が出発の準備を整えた。

晴景は自らは信濃経由の道。景虎は三国峠からと考えていたところ景虎から待ったがかかった。

「信濃国から上野国に入るの道は、北条側と戦になる可能性が高いです。当主たる兄上は三国峠から上野国にお向かいください。信濃からの道はこの景虎にお任せください。襲ってきたら蹴散らして見せましょう」

「久しぶりの戦だ。前哨戦のつもりで儂が信濃から行くつもりであったのだが」

「信濃からの道はこの景虎にお任せを、ここは譲れません」

強い意志を感じさせる面構えだ。こんな時の景虎は頑固だ。

「仕方ない。信濃からの道は景虎に任せよう。その代わり、景虎側の兵を増やすことにする。良いな」

「承知しました」

晴景は天下泰平の旗印を掲げ、8千の軍勢を率いて三国峠から上野国に入る道を進むことにする。

景虎は義の旗印を掲げ、1万2千の軍勢を率いて信濃国を経由して上野国に入る道を通ることにした。

晴景が率いる主な武将は、直江実綱、斎藤定信らである。斎藤定信は嫡男の朝信とものぶを同行させている。朝信は後に謙信を支える越後の鍾馗との異名で呼ばれることになる男である。

景虎が率いる主な武将は、宇佐美定満、柿崎景家、鬼小島弥太郎、そして信濃で合流する甘粕景持らである。

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