第130話 調略の始まり

天文16年6月(1547年)

上泉信綱は、越後上杉領越後府中を訪れていた。

初夏の日差しの中を上杉晴景の案内で亡き師匠愛洲久忠の墓に訪れていた。

晴景殿の指示で立派な墓が造られてあった。

日本海から吹いてくる優しい初夏の風が、新緑に色づいた木々の間をゆっくりと吹き抜けていく。

亡き師匠の墓に静かに両手を合わせてしばらくの間瞑目して祈っていた。

「晴景様」

「どうされた」

「我らが師である愛洲久忠様の最後はどのようでありましたか」

「常に剣を振り続け、死の直前まで剣を振っていた。そしてある日、剣を振っている途中でそのまま息絶えていた。剣と共に生き、剣と共に死んでった。まさに剣豪と呼ぶに相応しい人生だったのではないかと。我が家臣達は皆愛洲久忠殿の教えを受けた。教えを受けたのは何万人になるかわからんな。この越後の地で多くの門弟を抱えることになり、充実した日々であったのではないかと思う」

「剣の道には妥協されぬお方でしたな」

「剣の道に生き、厳しくも優しい方だった」

「私もその様に生きたいものです」

「信綱殿は既に実践されているではないか」

「私はまだまだです。精進が足りないと常に思っております」

「信綱殿にそう言われてしまうと不出来な弟子の筆頭である儂は一層精進せねばならんな」

「晴景様は、私には想像もつかないほど多くのものを背負っております。多くの者達の命と人生を背負っております。重い背中です。それほど多くのものを背負いながら剣を振り続けるなど私にはできませぬ。私は身が軽いからこそ、背負っているものが少ないからこそ、剣の道に精進できるのです」

「信綱殿」

「晴景様、またしばらくこの越後の地で剣の修行をさせていただきたい。小七郎殿とも剣を交えてみたいですから」

「承知しました。ならば、我が弟の景虎の稽古もつけてやってください」

「この信綱でよければ喜んで」

上泉信綱が剣術修行のため、しばらくの間越後府中に逗留することが決まった。




相模国小田原城

北条家第3代目当主である北条氏康は、河越夜戦で上杉景虎に付けられた左頬の傷を無意識に触っていた。

「氏康殿、上杉景虎に付けられた傷が気になるのか」

叔父玄庵の言葉に北条氏康は少し憮然とした表情をする。

「叔父上、この傷に触れるたびに己の不甲斐なさを知り、身を引き締めているのです」

河越夜戦で上杉景虎につけらた傷に触れながら静かな怒りを心の内に燃やしていた。

「氏康殿、我らは名より実をとる。それで良いではないか。確かに上杉景虎に河越城は燃やされたが、8万もの大軍を蹴散らし扇谷上杉家を滅し、武蔵国は事実上我らのものとなった。古河公方の権威は失墜し、関東管領の権威は地にまみれた。当分の間、奴らはまとまることはないだろう。それどころか内輪揉めを始めるかもしれんぞ。結果として見れば上々ではないか。奴らが手に入れたのは、上杉景虎の名声のみだ。名声では領地は増えん。名声では腹は膨れんぞ」

「それは分かっていますがやはり面白く無い。上杉景虎一人にいいようにやられた」

氏康は憮然とした表情のままであった。

「フフフフ・・・武将として面白く無いと言うことか」

「あのまま戦っていたらこの首は無かったかもしれない。だが、上杉景虎はわざと余裕を持って引き上げていった。まるで、はるか格下を相手にするかのように、いつでも勝てると言わんばかりに引き上げていった。我らの策を見破りその上を行かれ、いい様に翻弄された。武将として屈辱としか言いようが無い。上杉景虎にとっては儂はその程度に見られていたことが我慢ならん」

「その思いがあれば、この先やり返せることもあるだろう。今は力を蓄えていく時だ」

「分かっております」

「これからの我らの動きが重要だぞ」

表情を引き締める氏康。

「叔父上。山内上杉家に対しては、既に調略を始めております。長野業正率いる箕輪衆は難しい様ですがそれ以外なら調略可能でしょう。8万の軍勢で我らに破れたのですから大将としての器を疑問視され、心中では見限っている国衆も多いかと」

「山内上杉家を少しづつ削り取っていけばいい。大規模な戦にならなければ越後上杉が出てくることはないだろう。調略の進み具合では一気にケリをつけることもいいかもしれん」

「越後上杉に対してはできる限り大義名分を与えぬ様にして行けば、上野国も自然と我らのものになるでしょうな」

北条家による調略による上野国攻略が既に始まっていた。

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