第125話  油断大敵

天文15年3月末(1546年)

河越城を古河公方と上杉勢が取り囲んで半年近くが経過していた。半年近い長期となったことから河越城を囲む古河公方と上杉勢には、楽勝ムードと長期戦による軍規の緩みがあらわになっていた。相変わらず北条氏康からは、関東諸将を通じて戦う意思がない、公方様の配下として働くなどの書状が次々に上杉勢に届けられていた。

景虎は関東管領上杉憲政の陣営を訪れていた。

「景家、この軍規の緩みは酷いな」

「景虎様、関東管領様の陣営がここまで酷いとは・・ろくに警戒もせずに昼間から酒を呑んでいるとは・・・」

見張りは通常の半分以下、陣営内の者たちは全て甲冑を外し、太刀を外し酒を飲み眠りこけている。陣営内の至る所で酒の匂いがしていた。

陣営の奥に通されてしばらく待っていると、関東管領上杉憲政殿と扇谷上杉家当主上杉朝定殿がやってきた。二人とも顔が少し赤く酒を飲んでいたようだ。

上杉憲政殿は23歳、上杉朝定殿は21歳と聞いている。二人とも戦場にもかかわらず緊張感のカケラも感じさせ無い。

「景虎殿、どうされた」

関東管領上杉憲政殿が声をかけてきた。

「北条側の動きをお聞きしたいと思いまして」

景虎は、軒猿衆を使い北条側の動きをほぼ掴んでいた。関東管領上杉憲政の陣営を訪ねたのは、関東管領側がどの程度情報を掴んでいるのか、どの程度緩んでいるのかの確認のためであった。

「北条の戦意は低い。いや、無いと言っていいだろう」

「ですが、北条も多くの戦いをくぐり抜けて来た者たち。油断は禁物ではありませぬか」

「心配無用だ。景虎殿は初陣のためまだまだ戦を分からぬのだろう。戦のことは我らに任せておくが良い。北条氏康は腑抜けよ。父親の氏綱が生きておれば違ったのだろうが、今の北条は弱い。先日、北条氏康が八千の軍勢を率いてきたため我らが出向いたら、戦わずに尻尾を巻いて逃げていった。今頃は、武蔵府中あたりで震えているようだ」

北条勢の戦意は低いと言っているが、自分が見たところ逆だ。

北条氏康の軍勢が武蔵府中に引き上げるときは整然と引き上げている。これは、軍の統制が取れている証拠であり、恐怖で逃げるならば軍勢はバラバラになって逃げるはず。

恐怖で逃げるなら足軽雑兵たちが我先に逃げ出すが、北条氏康の軍勢にはそのようなことは起きていない。

北条氏康は震え上がるどころか着々と手を打っている。

扇谷上杉家の太田資顕おおたすけあきはどうやら密かに北条家に寝返っているようだ。

「関東諸将を通じてあいかわらず書状が届いている」

「どのような書状で」

「北条綱成と城兵を助命してくれれば河越城はあけ渡す、公方様の家臣として働きたいと思っているので敵意は無いとか、次々によく書くものよ」

おそらく、関東諸将に書状を届けるのが目的ではなく公方様・上杉勢の陣営内の状況を知るために書状を送り込んでいるのだろう。そしてさらに油断を誘うのが目的。

「ですが、如何に相手が弱くともここは戦場。油断は禁物ではありませぬか」

「ハハハハ・・・心配無用だ。景虎殿は初陣ゆえ色々気になるのであろう。ここは我らに任せておくが良い。心配せずにのんびりと構えておられるほうがいいだろう」

関東管領上杉憲政様たちは、そう言って陣営の奥に引き上げて行った。

関東管領上杉憲政との会談を終えて引き上げようと陣営内を歩いていると、陣営内に遊女たちがいた。

「ここまで油断しきっているとは・・・」

景虎は驚いて呟いていた。

「景虎様。これは、とても危険な状態です」

背後から景虎の名を呼ぶ声がした。振り向くと上泉信綱殿がいた。

「少し、お時間をいただけませぬか」

「わかりました」

上泉信綱殿の案内で関東管領の陣営外れの人気ひとけの無い場所まで移動した。

「景虎殿、今のお味方の状態をどうご覧になります」

「とても危険な状態かと」

「やはりそう思われますか」

「憲政様に用心するように話しましたが取り合って貰えませんでした」

「私も今の状態は危険であると言ったのですが聞き入れてもらえませんでした。逆に遠ざけられていまいました」

「我が兄である晴景の言った通りの展開になって来ています」

「エッ・・・晴景様はこの事態を予測していたのですか」

「半年前に既にこのようになると話しておりました。そのため、陣営から離れた場所に越後上杉の陣を置くように指示を受けておりました。さらに、公方様も関東管領様も諫言を聞き入れないであろうとも言っておりました。また、北条氏康は最後まで決して勝利を諦めることは無いと思います」

「晴景様はこの後どうせよと言っておられましたか」

「後のことはこの景虎に任せるとのことです」

「この後はどうされるのです」

「具体的な部分は北条に漏れる恐れもありますのでここでは言えません。北条が決戦に出て来た時にそこを叩くまでです」

「関東管領様には・・・」

「言っても聞き入れません。ならば、自分のやれることをやるまで」

「ならば、この上泉信綱を景虎様の陣営に加えていただけませぬか」

「こちらに居なくてもよろしいので」

「度重なる諫言で遠ざけられていますから居てもいなくても変わりませぬ」

兄晴景の剣術の同門であり、弟弟子になる上泉殿なら問題ないであろう。

「わかりました。歓迎いたします。我らはすぐに陣営に戻りますがどうされます」

「後ほどすぐに参りますので先にお戻りください」

上泉信綱殿と別れると急ぎ越後上杉の陣営に戻ることにした。

「早々に引き上げ、体制を整えねばならんな」

景虎は、関東管領上杉憲政の陣から越後上杉の陣に帰って行った。


天文15年4月上旬

古河公方と上杉勢の8万もの軍勢に囲まれた河越城。

8万もの敵軍の中を一騎駆けをやろうとしている北条の若武者がいた。

その若武者の名は福島勝広。河越城を守る北条綱成の実の弟である。

河越城に立て篭もる北条綱成に対して、北条氏康の策を伝えるための伝令役を自ら買って出たのであった。

「勝広。無理をしなくても良いのだぞ。無理ならば引き返せ。命を無駄にするな」

「氏康様。心配無用にございます。この福島勝広。戦さに出た時より命は捨てております。必ずや我が兄に氏康様のお言葉を伝えましょう」

「ならば、夜明け前の時刻にいたせ。その時刻ならば敵も油断しておるし、薄暗いながらも綱成もお主のことを敵と間違えることも無いだろう」

「承知いたしました」


夜明け前の薄暗い中、馬に乗り戦場を駆け抜けていく福島勝広がいた。

古河公方と関東管領上杉勢のほとんどの見張りたちはその場で眠りこけており、僅かに起きていた者たちは8万の敵の中を一騎駆けをするものがいるとは思ってもいなかった。

「おい、馬が走っていくぞ」

「どこだ」

「ほれ、あそこだ」

見張りの一人が駆けていく馬を指差す。

「どうせ味方の伝令に決まってるさ、いくらなんでも8万もの敵の中を一騎駆けをする馬鹿はいないだろう」

「それもそうだな・・しかし、眠いな。どうせ敵は来ないだろうから一眠りするか」

「そうだな」

見張りたちは駆け抜けていく馬を気にせずに眠ることにした。

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