第110話 小豆坂の戦い【どうする広忠】

天文11年7月下旬(1542年)

上杉晴景率いる越後上杉勢6千の軍勢が今川領駿河国に到着した。

駿河今川館では,今川義元殿が出迎えてくれた。

「義元殿,久しぶりだな」

「ようこそおいで下された」

「此度は,三河領内から織田勢を一掃するための戦と聞いたが」

「三河領内を荒らす織田勢を打ち払い。奪われた安祥城を取り返すことが第一」

「尾張国の織田信秀はなかなかの戦巧者と聞くが」

「我らもそれは重々承知している。それゆえ軍勢を十分に用意している」

「どれほど集められた」

「今川家と松平家で約1万3千ほどだ」

駿河と遠江と合わせ石高は約40万石,三河は30万石近くあるが三河の半分近くを織田側に取られ結束力を欠いているとなれば,両家を合わせた動員可能な兵力はせいぜい1万〜1万6千程度。妥当な数か。

尾張国は57万石ある。1万5千〜8千は集められる。占領している西三河を含めればそれ以上だ。

普通に同じ武器を使って戦えば数の多い方が勝つ。時には小が大を制することもあるが常にそんなことがあるわけではない。

歴史書の言い伝えの兵の数は,敵の数を多くして,自分達を少なくして,少数で圧倒的な敵を打ち倒したと誇るのが常だ。歴史書の兵数は当てにならん。

農民兵を主力とするなら1万石で250〜300人程度だ。これ以上集めると農地が荒れて年貢が怪しくなってくることになる。

国力を見れば尾張国の方がある。何もせずに正面から戦えば尾張の織田側が勝つ。当たり前のことだ。力の劣る今川が織田に勝つには情報を制して,敵の後方撹乱,時には奇策を使うことが必要になってくる。

だが,この時代に情報を制することの価値を分かる武将はほとんどいないだろう。

「戦いは我らにお任せいただければ結構。晴景殿はのんびりと我らの戦を見てくだされ」

「ハハハハ・・・そいつは楽でいいな。ならば,危なくなったら手を出すとしようか」

「それで結構」

「ところで松平広忠殿はどこに」

「岡崎城にて織田側を警戒しております」

「ならば,三河に着いたら挨拶させてもらうとしよう」

「承知した。松平殿にはそのように伝えよう」

この後,夜遅くまで今川義元と夜遅くまで酒を飲むこととなった。


天文11年8月上旬(1542年)

三河国岡崎城

松平広忠は厳しい表情をしている。間も無く織田との決戦だ。

あえて今川に頭を下げて助けてもらった。負けるわけには行かない。

必ず勝てるはずだ。だが,負けたらどうしたらいい。

不安が次々に湧いてきて眠れない。

「広忠様」

家臣が慌ててやってきた。

「上杉晴景様がおいでです」

「な・・何・すぐにここにお通ししろ」

相手は,今川家を上回る大大名。こんなに早く来ると思っていなかった。

家臣の案内で一人の男が入ってきた。

見た感じはとても優しそうな雰囲気を纏っている。

「上杉晴景である」

「松平広忠と申します。この度はお力添えいただき有難うごうざいます」

「織田に押し込まれてきているようだな」

「私の力が足りぬばかりに・・・ですが此度は今川家の援軍を受けていますから勝てるはず」

「少し突っ込んだ話をしたい。人払いをしてほしい」

「わ・・わかりました。下がってくれ」

松平の家臣たちが下がっていった。

「色々と厳しいことを言うが怒らずに聞いてくれ,それが最終的にお主のためになる。いいかな」

「承知しました」

「松平・今川の連合軍では織田信秀に負ける」

「エッ・・・なぜです」

「理由の一つが今川にとっては他人事。今川の兵たちは死に物狂いで戦う意志が無い。不利になればすぐに崩れる。二つ目の理由,お主の腹が定まらぬこと。三つ目の理由,戦いがわかっていない。他にもあるが主な理由はこの3つだ」

「今川が他人事なのはわかります。私の腹が定まらぬと戦いがわかっていないとはなぜです」

「奪われたものを取り返すには最後は自らやるしか無い。だが,お主はどんどん織田に領地を削られどうしていいかわからず今川殿にすがった。さらに松平一族を纏め切れていないであろう。最大勢力で後ろ盾でもあり叔父でもある松平信孝殿を心のどこかで恐れているだろう。いつ裏切られるかわからないと」

松平広忠は目を大きく見開き驚いた表情をした。

「ど・・どうして」

「どうしてに答えるつもりはない。お主に足りないのは底抜けのバカになり切れぬこと。お主は底抜けのバカを演じて人たらしの名人となれ,老若男女敵味方を問わず全ての人を味方につける人たらしとなれ。どんなに腹が立っても笑って見せろ。どんなに苦しくとも笑って見せろ。どんなに致命的な失敗であっても笑って人を許せ。自分の心が苦しかったら神や仏に文句を言ってやれ,俺を助けなかったら信じてやらんぞと言ってやればいい,神や仏に俺を助けなかったら後悔するぞと言ってやれ」

「人・・人たらしと神仏に文句を言うのですか」

「最後の戦いが分かっていないことについてだ。それはお主の覚悟だ」

「覚悟」

「そうだ,今のお主の顔は不安に満ち溢れ,目は常に周りを伺うような目つきだ。いいかよく聞け。大将たるお主の覚悟が全ての家臣たちに影響を与える。大将が家臣を信用しなかったら家臣も大将を信用しない。大将が死を恐れたら兵たちも死を恐れる。大将たるもの一度ひとたび戦場に立ったら死んで当たり前と思え。戦場に立ちいくさ人となれば死ぬのが当たり前と思え。戦場に立った瞬間から死人しびととなれ,死人となれば既に死んでいるから死は怖くあるまい」

上杉晴景殿の言葉に,なぜかわからぬが涙止まらなかった。溢れ出てくる涙を止めることができなかった。

10歳の時には父は殺され,その後家臣に匿われひたすら逃げ回り,父からは何も教わっていなかった。戦の心構え,戦いのあり方。何も教わることなく父は殺されてしまった。

「お節介ついでにもう一つだ。今川勢は崩れるが最後はお主が勝つようにしてやる。上杉勢が鉄砲を撃ち始めたら松平全軍をまとめ,全力で戦場を駆け抜け安祥城に突っ込め。必ず勝てる。その間,織田勢は儂が適当に遊んでやるから気にするな。ただし,鉄砲の流れ弾が当たったら許せよ」

「ど・・どうしてですか」

「何も考えず,何も言わず突っ込め,そして織田の倅を生捕りにして来い。儂がお主の力で勝つようにしてやると言ってるんだ。ここでお主の力を天下に示し,お主の力で勝たんと一生今川の道具で終わることになるぞ。後はお前次第だ。武将として,漢としての意地を見せてみろ」

そう言うと上杉晴景殿は出て行かれた。その後ろ姿を見ているとまるで死んだ父を見ているようであった。

そして,涙を流しながら自然と頭を下げる松平広忠であった。

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