第106話 信玄!新たなる野望(六)
天文10年9月上旬(1541年)
越後府中春日山城
上杉晴景は、虎千代と共に天守から秋晴れの青空の下に広がる日本海を見つめていた。
「兄上、上杉家の領内においては、飢饉で餓死者を出さずに済んで良かったです」
「だが、他は酷い地域が多かったようだ。京の都では数万もの餓死者が出た様だ」
「なぜ、そこまで酷いことになるのですか」
「公家も幕府も寺社仏閣も権力争いばかり。他者を踏みつける事ばかりだ。皆、米1粒、銭1文の重みを分かっていないからだ」
「米1粒、銭1文の重みですか」
「そうだ。米1粒を得るのにどれほどの時間と手間がかかり、銭1文を得るのにどれどの汗を流さねばならぬのか、それを理解できないから欲望のままに権力闘争に明け暮れるのだ」
「それは止められないのですか」
「難しいだろうな。人は欲深い生きものだ。だが、欲があるから生きていける部分もある。ならば、我らの領内ぐらいは無益な争いの無い平和な世にしたいな」
「兄上、この虎千代もいつか役に立たせてください」
「期待しているぞ」
後ろから晴景の名を呼ぶ声がして振り向くと直江実綱がいた。
「実綱、どうした」
「はっ・・・真田幸綱から報告が届きました」
「何か起きたのか」
「北条氏綱殿が病でお亡くなりになり、北条氏康殿が北条家を継いだそうでございます」
「北条家が代替わりか」
「さらに武田晴信が上総国にいる様です」
「上総国だと」
「上総国に甲斐武田の傍流で真理谷武田と名乗る一族がいるそうです。真理谷武田の支援名目で北条氏綱殿の後押しで上総国に渡り、瞬く間に上総国と安房国を支配したそうでございます」
「北条も何でまた後押しなんぞしたんだ。武田晴信の怖さを分かってなかったのか」
「わずか三百の手勢だったそうで、三百でここまでやるとは思わなかったのでしょう。ただ、少々目障りになってきた様で、代替わりを機に上総国と安房国に攻め込むつもりの様です」
「武田晴信が上総国と安房国を手に入れてどれほどの月日が経った」
「約七ヶ月ほどの様です」
「北条は、武田晴信に時間を与えすぎだ」
「時間を与えすぎとは・・・」
「北条が攻め込むために、間違いなく水軍を使うことになる。水軍を使い陸上で戦う足軽達を送るのだ。そのことは、武田晴信のことだ分かっているだろう。ならば、準備万端待ち構えているはずだ。この先、北条に介入をさせないために、北条の水軍を殲滅するつもりであろう」
「北条水軍に勝つでは無く・・・北条水軍を殲滅ですか」
「単に勝つだけなら北条の水軍は残ることになり、この先も背後を脅かすだろう。そうさせないためには、北条の水軍を二度と立ち上がれない様にするため、殲滅することを考えるはずだ。儂ならそうする。北条にこちらの水軍の恐ろしさを植え付け、二度と水軍で攻めようなどと考えない様にさせる」
「ですが流石にむざむざとやられるわけは・・・」
「甘いぞ実綱。武田晴信はそんな甘い相手では無い。北条はそのことを分かってない。このままでは、北条は手痛い代償を払うことになるぞ」
天文10年9月中旬(1541年)
北条氏康は怒りを露わにしていた。
里見の海賊衆が北条家の領地である相模沿岸を荒らしていたためだ。
特に、相模国三浦郡(現在の三浦半島)は里見の海賊衆にかなり荒らされ、領民達が身の安全のために北条と里見の両家に年貢を納める様になっていた。このことが北条氏康の怒りの火に油を注ぐ結果となっていた。
「我が北条家の領地を荒らし、さらに勝手に年貢を取りたてるとは・・・盛昌、武田晴信殿は何と言っておる」
「武田晴信殿と真理谷信隆殿に里見の海賊衆を取り締まるように申し入れておりますが、分かったと言うばかりで動こうといたしません。何度言っても、のらりくらりと言い訳ばかり。時間がかかる、海賊衆の足が早く捕まえられん、海賊衆のねぐらを探しているなどを繰り返すばかりでございます」
大道寺盛昌は、祖父北条早雲の頃からの重臣である。
「氏康様。奴らは許し難き連中。武田晴信は氏綱様から受けた恩を仇で返すとは、許し難き振る舞い。まとめて成敗すべきと思います」
重臣北条家の御由緒六家の一人で、北条早雲と共に駿河に下向し、北条早雲と共に北条家を作り上げてきた一人が大道寺盛昌であった。
「当然だ。ここまで舐めた真似をされ、そのままにしていたら北条の名折れである。直ちに北条家の水軍を総動員して奴らを叩き潰すぞ」
「承知いたしました」
「この機会に安房国・上総国を切り取ってくれよう。よいか、安房国・上総国の海賊衆らしい奴らは一人も逃すな。徹底的に叩き潰せ。少しでも疑わしい奴は全て切って捨てろ。さらに、里見の海賊衆の船は残らず沈めよ。そして、武田晴信・里見義堯の首をとって参れ。奴らの首を取ったものには城を一つくれてやるぞ。関東の覇者は我ら北条である。我らこそが関東を握るのだ。その邪魔をするものは、誰であろうと叩き潰すのみだ。ただちに触れを出せ。戦の準備をしろ」
北条氏康の命を受け軍勢の準備が始まった。
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