第86話 風林火山‘’壱‘’

天文7年10月中旬(1538年)

甲斐国東側の小山田信有の支配する地域は、越後上杉家の指導で徐々に領地開発が始まっていた。

山間の土地が多いため、斜面を利用しての田畑が徐々に整備されていく。

甲府盆地のように暴れ川が無いためその分領地開発はやり易い。

ただし土砂崩れが起きないように注意が必要になる。

甲斐西側の甲府盆地の方は釜無川(現在の富士川)と言う暴れ川がある。

釜無川はよく氾濫を越すために甲斐国の悩みの種でもあり、領主たちはその治水にかなり苦労していたらしい。

小山田信有は、領地開発と同時に武田晴信との戦いに備え、要衝となる場所に砦を築き、重要な城の強化に着手していた。

武田晴信が‘’天下泰平‘’銭の使用を禁止にしたが、商人たちはそんな通達は無視していた。

通達に従って儲け損ったらその分を武田家が補填してくれる訳でも無い。

甲斐東側に、甲斐西側からも多くの商人がやってくる。

信濃国や上野国からも商人がやって来てかなりの賑わいとなっている。

多くの露天が立ち並び多くの品々が並ぶ。

その多くが越後から持ち込まれ、青苧の反物、陶器がよく売れている。

「この青苧の反物はいい品だな」

「当然さ、越後で作られた逸品だ」

「近頃、甲府じゃこんないい品は手に入らん」

「旦那は、甲斐の西から来たのかい」

「ああ、東側で色々といい品が手に入ると聞いたから来てみたのさ」

「武田晴信様がこの‘’天下泰平‘’銭を使うなと通達を出されたが」

「そんなこと守る商人はいないよ、便利で儲かるならみんな使うさ。商人は儲けが全てだ。それを守って儲け損ったら誰が補填してくれんだい。自分たちの丸損だろ」

「そりゃそうだ」

「もし、それで罪に問われる様なら、商人は全部他国に行っちまうさ」

男はそう言って青苧の反物や陶器を買い込んで行った。



躑躅ヶ崎館

武田晴信はとても厳しい表情をしている。

越後上杉の‘’天下泰平‘’銭の使用を禁止したが、商人達は表向きは従うふりをして裏では使っていると噂されていた。

商人以外の領民の中にも徐々に広まり始めていると言われている。

「晴信様、多くの商人達が小山田の支配する甲斐東側に出向いて、商いをしているそうでございます」

「クソッ・・・止めることはできんのか」

「いっそ、関所を築いて越後上杉の‘’天下泰平‘’銭の持ち込みを禁止して、関所で取り上げる事にしてはいかがでしょう」

「信方、それでは商人や領民の不満が高まる事になる」

「ですが、このままでは同じこと。ならば一時的に関所を築き越後上杉の銭の流入を止め、戦力を整え攻め込む、もしくは関所を作るのでは無く、すぐさま小山田領に攻め込み小山田を討つしかありません」

武田晴信は、部屋の壁側に置かれた自らが決めた旗印の‘’疾如風徐如林侵掠如火不動如山‘’の文字をしばらく見つめていた。

はやきこと風のごとく・・しずかなること林のごとく・・侵掠しんりゃくすること火のごとく・・動かざること山のごとく・・か・・・」

武田晴信は目を瞑り、自らの旗印に書かれた文字を呟いていた。

「晴信様・・」

武田晴信はゆっくりと目を開ける。

「信方」

「ハッ」

「時間をかければますますこちらが不利になる。敵は小山田では無い。本当の敵は越後上杉家の上杉晴景だ。小山田は上杉晴景にいい様に踊らされているにすぎん。小山田は上杉晴景にとっては単なる駒だ。敵は我らの数倍もの石高を誇る。武田、今川、北条を合わせたよりも強大な相手。かなりの精鋭揃いと言われている。その上、今まで聞いたことも無い銭を使った戦を仕掛けてくる。厄介この上ない相手だ。だが、このまま引き下がるわけにはいかん。富田郷左衛門と山本勘助を呼べ」

「ハッ、直ちに」

「それには及びませぬ、既にここに来ております」

声と同時に富田郷左衛門が入ってくる。少し遅れて、山本勘助がゆっくりと入って来た。

富田郷左衛門と山本勘助は武田晴信の前に座った。

「三人ともよく聞け。このまま時間をかけて待っていれば、我らは武田は、上杉晴景の銭を使った戦の前に戦わずして敗れてしまう事になる。ならば、動くしかあるまい」

「どう動かれます」

「勘助、上野国を経由した小山田と越後上杉との人や物の往来、援軍の侵入を阻止したうえで小山田を討たねばならん。少なくとも越後上杉との人や物の往来だけでも阻止すれば、小山田を潰すのも時間の問題となる」

「ならば、信濃国佐久との国境を牽制したうえで、上野国との街道を抑え、甲斐北部の小山田側の国衆を個別に撃破。上野国を経由した越後上杉と小山田の連絡通路を遮断せねばなりません。それも敵に備える時間を与えずに一気に攻めるしかございません」

「そうだ、まさに我が旗印にある‘’疾きこと風のごとく・・侵掠すること火のごとく‘’攻めねばならん。信方、勘助、小山田に知られぬように直ちに戦の準備にかかれ」

「「ハッ、承知いたしました」」

「富田郷左衛門。配下の忍びを動員せよ!軍勢の出発に合わせ、小山田領内に火を放ち、噂を流す事にする。この武田晴信が自ら軍勢を率いて、小山田信有の首を狙ってすぐにでも攻めてくるとな!」

「承知いたしました」

慌ただしく戦の準備が始まった。


甲斐国甲府の造り酒屋甲州屋。

越後上杉家軒猿衆が甲斐国に置く情報収集のための忍者屋敷。

店の主人は甲斐国内に張り巡らした草からの情報に目を通していた。

「武田晴信が小山田を討つために兵を上げる準備に入ったか。このことを至急晴景様に伝えよ」

店の主人の命を受けた一人の男は頷くと闇に溶け込むように消えていった。

男が消えた後に店の主人は、草からの報告をすぐさま火にくべて燃やしてしまった。

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