第84話 目に見えぬ脅威

天文7年8月(1538年)

武田晴信は小山田勢の切り崩しに取り掛かっていた。

それぞれの国衆に極秘に使者を送り、こちらに付くように説得を始めていた。

朝廷と幕府が認めた正式な甲斐国主で甲斐武田の当主は、武田晴信ただ一人であることを強調して各国衆を説得していた。

板垣信方は、甲斐忍びの案内で人目に着かぬように密かに多田三八郎を訪ねていた。

「多田殿、武田晴信様に仕えるべきだ」

「信方殿、晴信殿は実の父である信虎様を追放されたではありませぬか」

「追放では無い。今川領での隠居である。しかも、今川領での隠居生活をとても楽しんでおられる。今川領で新しい妻を娶り、和歌や茶道にとお忙しいようだ」

「しかし・・・」

「それに朝廷と足利将軍家が認めている甲斐国主は、武田晴信様ただ一人。そして朝廷と足利将軍家が認め、八幡太郎義家様の弟である源義光様を祖とする甲斐源氏武田家の当主は、武田晴信様ただ一人」

「た・・確かに・・そうだが・・」

「小山田信有殿は、甲斐源氏では無い。朝廷と幕府に甲斐国主と認められていない。お分かりであろう。朝廷に認められている武田晴信様に歯向かうことは逆賊と同じであろう」

「・・・」

「多田殿、晴信様は多田殿の武勇を高く評価しておられる。今ならまだ間に合う。一度、晴信様に会ってくれんか、会うだけでいい。一度会ってくれればいい。頼む」

「・・会う程度であれば・・・」

「そうか、そうか、ここまで来たかいがあった。助かる。では、日時はまた知らせる」

板垣信方は、人に見られぬように多田三八郎の元を去っていった。



小山田信有は上機嫌であった。

初めて甲斐東半分を手にした。そのことに満足していた。

武田晴信がすぐにでも攻め返して来るかと思っていたが、攻め返してこない。

噂話では、手ひどくやられて意気消沈しているとか、関東管領様の援軍に恐れをなしたとか、噂の中には武田晴信が気鬱の病にかかって屋敷に籠ってしまったなど聞こえてくる。

所詮は噂にすぎん。どこまで本当なのかわからぬが気を付けておく必要がある。

家老の小林房実が入ってきた。

「越後上杉家真田殿から書状と贈り物が届いております」

小林房実がそう言ってまず一通の書状を渡してきた。

書状を開き目を通していく。

「なるほど・・武田の調略が始まっているようだから気をつけろとの事だ。国衆の繋ぎ止めるために贈り物を用意したから自由に使えとのことだ」

「武田からの調略でございますか」

「そうだ。有力な国衆には軒並み調略の手が伸びているそうだ。ただし、寝返ることに同意したかまではわからぬらしい。迷っているものが多いようだ」

「如何いたします」

「国衆の引き締めと気持ちを繋ぎ止めておかねばならん。黄金を配るとするか」

越後上杉家からの黄金は、まだ半分以上残っていた。

武田晴信との戦が短期で終わったこともあり、大して使う事も無かった。

「貰った黄金だ。派手に使って使って国衆を繋ぎ止める。さらにこちらから武田側の国衆を切り崩すことにするか」

「承知いたしました」

「越後上杉家からの贈り物とは?」

こちらでございます。家臣たちが何やら木箱を持ってきた。

「開けよ」

家臣たちが木箱の蓋を開ける。

そこには、黄金色に輝く‘’天下泰平‘’小判がぎっしりと敷き詰められていた。

慌てて数えさせると2千両あった。

「再び、黄金2千両とは・・・越後上杉家の財力はどれほどなのだ」

「殿、越後上杉家は我らとは比較にならないほど強大で想像がつきませんな」

「流石は大大名家だ。我ら一国衆とは違うということだ」

「上杉晴景様は1代で越後・佐渡・越中・信濃・出羽庄内をまとめ上げたお方。その力は計り知れぬということでしょう」

「ハハハ・・・房実、我ら側に付いている国衆を集めよ。上杉殿の希望通りに派手に黄金を配ってやろう。皆がどんな顔をするか楽しみだ」

「承知いたしました」

家老の小林房実は急ぎ出ていった。



甲斐国躑躅ヶ崎館

「調略が進んでいないだと」

「一度は晴信様に会う約束をした国衆や、こちらに傾きかけていた国衆が軒並み会ってくれません。どうやら、小山田信有が大量の黄金を国衆に配ったらしく、それから誰も会おうとしてくれません」

「小山田が黄金だと・・・一体どこから・・小山田の領地では黄金は出ないはずだ」

「越後上杉家のようでございます。これをご覧ください」

板垣信方が和紙にのせた1枚の黄金を差し出してきた。

その黄金には‘’天下泰平‘’と刻印されている。

「これは・・・」

「越後上杉家が独自に作っている‘’天下泰平‘‘銭と呼ばれるもので、黄金で作られたものとのとこ。さらに銀で作られた銭や銅で作られた銭も‘’天下泰平‘’と刻印して独自に作っており、越後上杉家の領内全てで広く使われており、栄銭や永楽銭に代わってこの‘’天下泰平‘’と呼ばれる銭が使われているそうです。商人たちもこの銭を使っているそうでございます」

しばらく間、武田晴信は‘’天下泰平‘’小判を手に取り考え込んでいた。

「いかん!これはまずいことになる」

突如、武田晴信は大きな声を上げた。

「一体何がまずいので・・・・」

「この銭は越後上杉家の武器だ。それもとんでもない力を持つ武器だ」

「銭が武器・・・銭で人は切れませぬが・・これが武器でございますか」

「これはどれほど広がっている」

「おそらく、甲斐東側の国衆にかなり配られたようで、すでにかなり広く使われ始めているようです。甲斐国の商人たちも使い出していると聞いております」

「やられた!・・・このままでは戦もせずに上杉晴景に甲斐は乗っ取られるぞ」

「エッ・・・な・・なぜでございます」

「この銭が越後上杉の支配する領内で広く使われているということは、利に聡い商人たちがそれを認めているということだ。そうなれば、甲斐の商人もその情報を伝え聞いているだろう。そこに‘’天下泰平‘’銭が流れ込んで来ればそれを使い出すことになる。物の売り買いがこの‘’天下泰平‘’銭無しでは成り立たなくなり、上杉晴景に首根っこを押さえられることになる」

「な・ならば・・宋銭や永楽銭以外認めぬとすれば」

「なぜか分からぬが、今の甲斐国では宋銭や永楽銭がかなり不足している状態だ。その状態でそれはとても危険な賭けだが・・それ以外無いか・・・何もぜずにいるよりはマシか、‘’天下泰平‘’銭の使用を禁止する通知を全ての国衆、領民に出せ」

板垣信方は急ぎ部屋を出ていった。

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