第74話 信濃守護

天文6年4月上旬(1537年)

信濃府中、信濃林城。

小笠原長棟は一人部屋の中で思案していた。

周辺の状況の動きが早すぎる。目まぐるしく動いている。

甲斐国で武田信虎が息子の晴信に国を追われ、その晴信が仇敵と甲相駿三国同盟を結んだと思ったら、甲斐の有力国衆小山田氏が反乱。武田晴信は甲斐半国を失う。

諏訪・佐久の国衆もいつの間にか越後上杉に臣従している。

気がつけば信濃国三分の二は越後上杉の支配下となっている。

圧倒的な武力、圧倒的な財力、恐ろしいほどの力。

いまだ信濃府中に攻め寄せる気配は無い。

いや、もうすでに攻められているに等しいかもしれん。

北信濃から大量の品々が交易で流れ込んできている。越後上杉の使う‘’天下泰平‘’と呼ばれる銭も一緒に流れ込んでくる。

民衆も家臣達も銭の便利さに惹きつけられ、気がつけば越後上杉の‘’天下泰平‘’銭がなければ成り立たなくなっていた。

日々の生活の中に‘’天下泰平‘’銭が根付いてしまい、この銭無しでは日々の生活や交易が成り立たなくなっている。

刀や弓矢ではなく、知らない間に銭で攻め込まれていた。銭でどんどん攻められていたのだ。

気がつくのが遅すぎた。

もはや越後上杉との関係は切ることができない。

無理矢理断ち切れば、たちまち領内は干上がることになる。

現状でさえ、少なからず領民の不満が出てきている。越後上杉の支配下の村々は新田開発や河川改修などの恩恵を受け、収穫が大幅に増えている。越後上杉の領民でない自分たちはその恩恵にあずかれない。そんな不満が聞こえ始めている。

このままでは、そう遠くないうちに一揆や反乱が起こるかもしれん。

「・・隣のことは良くなって見えるものだ・・・」

自嘲とも言えることを呟きながら、取り止めもなく考えていた時に家臣から声がかかった。

「殿、村上義清様がお見えです」

「来たか。通せ」

暫くすると部屋に村上義清が入ってきて小笠原長棟の前に座った。

「お久しぶりでございます」

「久しいな、義清」

「少しお痩せになりましたか」

「まあ、色々悩むことが多くてな。お主はそう壮健そうではないか」

「今日は相談したいことがあるとお聞きしましたが」

「儂は隠居しようと思う。隠居にあたり信濃守護を上杉晴景様にお譲りしたい。取次をお願いしたい」

「えっ!・・・本気でございますか」

「本気だ。すでに弟や子供には話して承知している。上杉晴景様なら領民や家臣達に酷い真似はなさるまい。義清、お主も上杉晴景様に臣従してから、領地もかなり繁栄してきているではないか」

「晴景様は、厳しい面もありますが家臣や領民を大切にされるお方。新田開発や河川工事は飢饉対策でもあると聞いております。領民達のために各地に多くの食糧備蓄をされております」

「先を見据えて手を打っているという訳か、儂にはそこまでのことはできん。そこまでの力は無い。せいぜい、先祖伝来の弓矢を教えるか小笠原流礼儀作法を教える程度よ」

自嘲するように口元に笑いを浮かべる。

「承知いたしました。小笠原家の領地は安堵して頂けるように晴景様にかけ合います。この村上義清にお任せください」

「よろしくお願い致す」

小笠原長棟は深々と頭を下げた。


越後府中

上杉晴景は今日も弟の虎千代と囲碁を打っている。

虎千代が林泉寺に行かない日は、ほぼ虎千代に捕まり囲碁をやることになる。

本当に負けず嫌いというか、負けると必ず再戦となる。

今日も朝早くから虎千代に捕まり再戦となっていた。

親父殿は虎千代と馬が合わないらしく、虎千代に関することは自分に丸投げ状態だ。

そのためか、志乃もお藤殿も自分と虎千代が囲碁や将棋をしていても何も言わない。

ただし、虎千代が学問をしっかり学んでいる限りではあるが。

学問をサボっている事が知れた時は、二人の厳しい視線に周囲の温度が急激に下がったような錯覚をした事がある。

将棋は、もはや勝てないから虎千代がどうしてもと言わない限りやらない。

兄の面子として、簡単に負ける訳には行かない。

囲碁はどうにか互角の戦いができている。

「晴景様」

「どうした」

「村上義清殿が至急お伝えしたことがあるとお見えです」

「わかった。通せ」

囲碁を一旦やめて、村上義清を待つ。

暫くすると村上義清が入ってきた。

「お忙しいところ申し訳ございません」

「かまわんよ。ちょうど手も空いて虎千代と囲碁を指していたところだ。それで何が起きた」

「信濃守護小笠原長棟様が隠居され、信濃守護を晴景様にお譲りしたいとのことでございます」

「何・・・どうしてだ」

「どうやら、信濃の上杉家領地での繁栄ぶりとそれを知った自領での領民の不満の高まり。それと目まぐるしく変わる周辺情勢から小勢力では対応できないとの判断かと思われます」

「なるほど」

確かにここ1年の変動は激しいものがある。先行き不安と言う訳か。

「さらに‘’天下泰平‘’銭の浸透も大きな要因のようです。天下泰平銭がなければ越後との交易が成り立たず。越後との交易ができなければ、もはや成り立たないところまで来ているようです」

「そこまで浸透しているのか」

「晴景様、どうか、信濃小笠原家を領地安堵の上、家臣の一員としてお加えくださいますようにお願いいたします」

村上義清が頭を下げている。村上義清は、元々信濃守護たる小笠原家に仕えていたため小笠原家を助けたいのだろう。村上義清の顔を立ててやるしかあるまい。

「わかった。小笠原家の領地を安堵の上、家臣の一員として加わることを認めよう」

「ありがとうございます」

村上義清は何度も頭を下げ礼を言うと急ぎ信濃へと帰っていった。

暫くして、木曽も越後上杉家に臣従を申し出てきたため、これを認めた。

これにより、信濃国は完全に越後上杉家の支配下に入ることになった。

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