第56話 密やかなる策謀

躑躅ヶ崎館の一室。

武田信虎の嫡男である太郎は、書物を目にしながら書き物をしていた。

「太郎様」

「板垣か、如何した」

「信虎様から孫子の書を回収しろとの命でございます」

「間も無く写経が終わるゆえしばらく待つが良い」

「写経?」

太郎が写経をする姿を見た事がないため、思わず覗き込むと孫子を書き写していた。

「太郎様・・・」

「写経じゃ、孫子という経文を書き写している・・・写経だ」

「なるほど・・・確かに写経でございます」

しばらく板垣信方が待っていると甘利虎泰と飯富虎昌もやってきて一緒に待つことになった。そして半刻ほどして書き写しが終わった。

「持っていって良いぞ」

太郎が孫子の書を差し出してくる。板垣信方が孫子の書を受けった。

「父上は、この太郎の物言いが気に入らないようだ」

「我らの力がいたらぬために、このようになり申し訳ございません」

板垣信方の言葉に他の二人も一緒に頭を下げる。

「父上に、関東管領様よりも北条と今川と手を結んだ方が良いと言ったら激怒された。時代は移り変わり関東は北条、東海は今川の力が上がっていく。だが、父上は聞く耳を持ってくれぬ」

太郎は、現在8歳でありながら家臣たちから常に周囲の大名たちの動きを聞き、自分なりに情勢を分析していた。そして、孫子をふまえて自分なりの考えを父信虎に伝えるたびに激怒されていた。

「我らも、太郎様のお考えが正しいと思っており、信虎様に進言いたしましたらお怒りを買ってしまいました」

「もはや、父上に何を言っても聞いてはくれまい。何か理由をつけて廃嫡されるかもしれんな」

太郎は、読み書きを覚えると他の何よりも孫子の書に興味を持ち、孫子の書にのめり込んでいた。今では孫子の書を完全に覚えている。孫子の書や孫子の書き写しを持って行かれても問題なかった。

そして、孫子の書を基本に置いた考えを父信虎に述べると、その度に激怒されるため太郎からしたら何故怒るのか理解できない。

孫子の軍略からしたら当然の話をしているのに、父信虎が怒りをあらわにすることが理解できなかった。

同盟なんぞ、その時々のお互いの都合で結ぶもの。

情勢が変われば新たな同盟を結べばいいだけだ。

利用価値のない同盟や相手にこだわる理由が理解できなかった。

「家臣の多くは、太郎様こそ武田家の次期当主であり、源氏を継ぐ者と思っております。太郎様の軍略と知恵が武田家に必要なのです。弱気になってはいけません」

「そうか、すまん」

軍略の話となると大人顔負けの軍略を披露するのに、家臣たちに思わず‘’すまん‘’と言ってしまう姿はまだ8歳の子供そのもの。そんな姿に三人は、何とかして太郎を盛り立てようと心に誓っていた。



飯富虎昌の屋敷に甘利虎泰と板垣信方が集まっていた。

「信虎様が太郎様を毛嫌いする姿勢はひどい」

甘利虎泰の言葉に頷く二人。

「どうにかできんのか・・・太郎様こそ我ら武田家の希望」

「甘利殿、板垣殿・・・情勢によっては我らで太郎様を担ぎ上げねばならんかもしれんな」

「な・・何だと・・しかし、それは・・」

「そ・・そうだ・・謀反と言われるぞ」

「我らは武田のために動くのだ。それに、いますぐでは無い。太郎様の元服を待ち、最も騒乱の少ない手段を考えて動かねばらん。それまでは、悟られぬようにしながら仲間を増やしていく必要がある。もしも、信虎様が本気で太郎様の廃嫡を選択肢の一つとして考えているなら、太郎様の元服を早めて動くことも考える必要がある」

「飯富殿、太郎様の元服を早めるのか」

「板垣殿、あくまでも一つの考えだ。できたら十五で元服が良いが、十二や十三の歳で元服の例もある」

「確かにそうではあるが・・・」

「我らは沈みゆく関東管領家と心中する訳にはいかぬ。何としても生き残って行かねばならん。そのためには、太郎様のお力が必要だ。お二人とも腹を括れ、そして我らで策を練らねばならんのだ・・・未来のために」

甘利虎泰と板垣信方はしばらく目を瞑り考え込む。

「承知した」

板垣信方の言葉に甘利虎泰も

「承知した」

三人の合意を元に、甲斐の国で密やかに信虎追放への策謀が組まれ始めていた。

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