ホワイトムーブ

草森ゆき

ホワイトムーブ

 曇天のような女だった。というのも髪のせいだった。真っ黒な髪は明らかに染めたことがなく、自動的に撓んでいる緩やかなカーブが雨待ちの雲のようで、今まで大量の黒髪を見たはずの私だけれど妙な驚きを持ってしまった。予約表を見る。堀内司。ともすると男性名にも思えるが、目の前に立っているのは紛れもなく女性だった。

「堀内様、カットとヘアカラーで承っておりますが、お間違いないですか?」

「はい、よろしくお願いします」

 いやに透明な声だった。堀内さんは肩にかかる黒髪を鬱陶しそうに払い、ショートにしてください、と微笑みながら言った。


 担当は誰でもいいとのことで、手の空いていた私がついた。真山です、と名乗りながら、鏡越しに視線を合わせた。ケープを巻き、後ろへ流した髪を撫でつつ、どのくらい短くしましょうか、とできるだけ事務的に聞いた。堀内さんは目を細めた。

「ああ、おまかせとか、できますか?」

 できなくはなかったが珍しい申し出だった。私の働く美容室は、どちらかといえばこだわりのある客が多い。

 灰色の雲のような艶を眺めつつ、

「素敵な毛並みなので、ボブでもいいかと思うんですが」

 正直に答えると笑い声が上がった。

「毛並みて! そんなん、初めて言われたわあ」

 関西弁にちょっとどきりとした。ここは東京、までは行かないが都心に遠くはない都道府県で、頻繁に聞く方言ではない。

 堀内さんは含み笑いをしながら、ほなそれで、と軽やかに言った。色はこれで、と見せてきたスマホには、芸能人かアーティストか、誰かはわからないが目鼻立ちの整った男性の画像が表示されていた。


 カットもヘアカラーも、滞りなく終えた。堀内さんは満足そうに笑い、スマホを渡してきた。撮って欲しいとのことで、一枚撮影すると一緒に撮ってくれと頼まれた。

「次もお願いしたいんですけど、私、人の顔覚えられないんです。だからお願いします」

 普段なら断っているのだけれど、というか写真に残るなんて耐えられないのだけど、映ってしまった。私と堀内さんはまるで友達のように寄り添っていて、ボブにしたばかりの長かった髪が、何故だかとても寂しかった。


 堀内さんは常連さんになった。私の手柄と言うほどでもなかったが、店長は喜び褒めてくれた。本当は辞めようと思っていた。アパートから遠いし、サービス残業が多過ぎるし、売れなかったトリートメントを買わされるし、正直死ねよと思っていた。

 でも一変した。髭をおしゃれだろーとか言いながら伸ばすヤリチンの店長も、似合っててかっこいいと言い始める店長の枕も、それらをつまらなさそうに見ている後輩も、絶妙な相槌で受け流す先輩も、相変わらずどうでもいいんだけれども堀内さんに会うにはここにいるしかなかった。ヤリチンはお客さんのアドレスをしれっと聞くが私にそんな度胸はない。そもそも私は女で堀内さんも女で、私は今まで女性に興味が湧いたことなどなかったために余計に困っていた。

 あの曇天ぶりがいけなかった。晴れか雨かはっきりしていれば、ここまで気になってはいなかった。髪を短くしようが染めようが、曇り空の佇まいが変わらない。彼女はあれからボブを保ち、ストロベリーカラーを保ち、そのためにここに訪れていた。

 私は彼女の髪を保ち続けた。時折会話をし、案外近場に住んでいるらしいことやら都心のショップで働いているらしいことやら、初めに見せてくれた写真の男性は憧れのバンドのドラムらしいことやら、堀内さんに関する情報を一方的に溜め続けていった。

 情報は底にいくにつれて湿気っていった。新しく積もうが水分が染み込んで、どうしてこんなことになっているんだろうと歯噛みした。連絡先を聞いて食事に行きたいと言ってみればいいだけなのだ。それで、客と店員以上の付き合いなど求めていないのだとわかってしまえば、仕舞いだ。時々ふっと溢れる関西訛りが可愛いなとか、まつ毛がほとんど自前で長いんだなとか、髪の手入れが苦手なのかなとか、笑うときに目からゆっくり細まる癖があるんだなとか、毛並みも綺麗だけど爪も綺麗なんだなとか覚えて覚えて湿気って湿気って、どうにか溜め込み口を噤み続けていた。


 一年くらいで堀内さんは来なくなった。突然ではない。引っ越すので遠くなり、もう通えないとのことだった。

 その電話は、私が受けた。偶々だったが運命的な何かを感じるには充分だった。

 だったが、勘違いだとすぐに悟った。

 堀内さんは残念そうな息を吐き、この店を本当に気に入っていたこと、私の深くは立ち入ってこない雰囲気が好きだったこと、生活が落ち着いた時には必ず来ること、それらを晴れやかな声で置いて電話を切った。

 私は雨天の女だった。傘も持たない濡れ鼠の存在で、踏み込んで掴んで濡らしてしまう、それを延々危惧して堀内さんに踏み込めなかった。だからこれで終わりだった。終わりにしようと思った。詰め込んで溜め込んで湿気った堀内さんの断片に、蓋をした。


 店には残り続けた。いつの間にやら副店長などという位置になり、あちこちに手を出し過ぎてクレームばかりのヤリチン店長の尻ぬぐいをし続けるうちに、斜め上の信用を獲得していたらしかった。

「店長の下半身、いつごろ去勢するんですか」

「しねえよ!」

 このような悪態を叩いても許される立場になった。助かった。特に店長には文句しかなく、本当に死ねよと一日に十回ほど思っていた。

 だからある日、このヤリチンに「真山、オレの嫁にならない?」と存外真剣な声で言われて、初めて「死ねよ」と口に出した。

 でも、受けた。ヤリチンはまったくどうでも良かったが、悪態を聞き流してもらえるし何よりこの店にずっといられるのだと考えた瞬間に受けていた。いつか彼女が来るかもしれない。でも多分来ない。だからと言って探しにいくとか待ち続けるとか、雨に打たれながら停滞する梅雨前線にはなりたくなくてつまり、私は、店長の嫁であれば居続ける理由として妥当だと、思い切り自分に寄った理由で結婚を決めた。ヤリチンクソ店長にここまで全部言った。クソ店長は笑って流してから、堀内さんて妙な色気のあった子でしょ、と意外な審美眼で返してきた。

 私は初めて人に堀内さんの話を聞かせた。店長はずっと店にいるのだから、見てはいたらしかった。真山にしては珍しいなと思ってたよ。ほらお前仏頂面だけど堀内さんが来ると嬉しそうでさ。店の外でも遊んでんのかと思ってた。違うかったのか。オレと一緒にすんなとか言うなよ、いやその通りだけどさあ、オレ、連絡先書いた紙を真正面から突き返してきたの真山だけでさ、三年以上保ったのも真山だけでさ、だからってわけじゃないけど堀内さん、探してえなら協力するけど、どうする。

 一日考えさせてもらった。ベッドに潜り込んで毛布までかぶり、きつく目を閉じて堀内さんを、彼女から得たいろんな情報の断片を、久しぶりに引き摺り出した。それらは湿気ってなどいなかった。一人で抱え込んで勝手に腐らせていただけで、結局心持ちなのだと理解した。癪にも程があるがクソ店長のおかげだった。記憶の中で堀内さんは相変わらず曇天だった。晴れにも雨にも、なんなら雪にも嵐にも何にでもなれる美しさだった。私は彼女の原石みたいな雰囲気が好きだったのだ。まっさらな原石。まっしろな波。波打った黒髪の束が夢とか希望とか私の理想だとかを映し込んで、そのまま突き付けていたのだった。

 堀内さんを探さなかった。私はクソ店長の名字になって、ヤリチンクソ野郎がさっさと働けと遠慮なく罵倒する立場になった。なぜか名物夫婦のやっている面白い美容室という扱いになってしまい、結果的には賑わった。


 彼女がふらりとやってきたのは、一面分厚く雲のかかった日の、閉店間際の時間だった。

「ああ、真山さん! 久しぶりやなあ、覚えてますか?」

 堀内さんは晴れ間のように笑っていた。真っ黒な髪は長く、肩甲骨を完全に隠すほど伸びていた。落ち着いた色合いのワンピースがよく似合っており、可愛かった。でも、別人に思うほど、纏う雰囲気が変わっていた。

「……もちろん、覚えてますよ。堀内さん」

 なんとか微笑みながら言うと、透明な笑い声が聞こえた。

「もう堀内ちゃうんよ、真山さんも、真山じゃないんやろ?」

 記事で見てん、と続けながら、堀内さんは鞄から雑誌を取り出した。クソ旦那が取材を受けた美容雑誌だった。表紙では華やかな芸能人が笑っていた。

 飛び入りやけど、カットええかな。もちろんいいですよ。肩につくくらいまで、切ってまおうかなあ。後ろで縛れるくらいはどうですか。ああ、そうしてもらうわ、ほんまにいつもすごいなあ。何がですか?

「初めて切ってもろた時から、ちょうどええところを指してくれるんよ。黒でも白でもないところを、似合うっていうてくれる感じ。でもその通りにしてもろたら、なんかまっさらな気分になるねん。私、真山さんのことめっちゃ好きやったんやなあ。ほら、これ見てや。一緒に撮った写真、スマホ変えても絶対移してもろてんねん。懐かしいなあ……私も真山さんも、あんまり変わってへんね、いつもまっさらな気分でこの写真も見てるんよ……会いに来れてよかった」


 いつの間にか堀内さんは帰っていた。かろうじて、仕上がりに満足そうな笑顔だけは、覚えていた。いや覚えていないのかもしれない。いつ見せてもらった帰り際の笑顔なのか、わからない。私の中に溜めたままの堀内さんが、堀内さんの断片が、じりじりと焦げ付く臭いしか、わからない。

 ふらりと足を踏み出し、閉店の札を下げた。こんな時に限ってクソ旦那はおらず、でもいたところで私にどうしろというのか、どうすればいいのか、わからないまま床に膝をついて手を伸ばした。

 私の切り刻んだ彼女の髪がそこにはあった。店舗の白い照明を一身に浴び、波打っていた。掴めるだけ掴んだところで、うう、と声が漏れた。どうしようもない話で、終わった話で、私が選んだ話だったけど、うずくまって息を殺した。息を殺して泣いていた。

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