第27話
翌日、英治は鼻歌を歌いながら、その日3回目の掃除機掛けをしていた。
掃除はもともと嫌いじゃないが、今日の掃除は特に楽しい。
これからある楽しいイベントのせいだろうか。
陽は傾き始めている。
――夕方には行くと言っていたからそろそろ来るかな。
そんなことを思っていると、インターホンのチャイムが鳴った。
相手は分かっていたので、英治は玄関に直行してドアを開けた。
「かえでちゃん、いらっしゃい……」
意外だったのはその相手の恰好だった。
いつもはポニーテールかお団子でまとめている髪は下ろされていて、毛先がアイロンで巻かれたようにくるんとなっている。
ブラウンが基調となっているメイクも今日はピンクがアクセントになっていた。
服装も春らしいピンクのワンピースに紺のカーディガンで、普段のかっちりしたパンツスーツとは全く違う印象だった。
「……入っていい?」
英治が何も言わないので、楓は恥ずかしそうに英治に尋ねた。
「……あ、うん!どうぞ!!」
英治は我に返って楓を部屋に招き入れた。
「……かえでちゃん、可愛い。いつもはキレイだけど、今日は可愛い。そういえばかえでちゃんの私服初めて見た」
英治は素直な感想を楓に伝えた。
「……英治が泊まりに来い、っていうから仕方ないじゃない。スーツで来ると色々面倒だし」
楓は引き続き恥ずかしそうに英治から目を逸らしながら答えた。
英治があの時、楓にごほうびとしてお願いしたこと。
――かえでちゃんと朝まで一緒にいたいな。
楓はいつも仕事帰りに来て、事が済むと帰ってしまう。
英治はそれにいつも寂しさを感じていたのだ。
「かえでちゃん、晩御飯食べたいものある?何か頼もうかと思ってるけど」
英治はスマホを見ながら楓に尋ねた。
荷物を置き終わった楓は英治の目の前ににゅっとエコバッグを差し出した。
「ん?これなに?」
英治はスマホをスウェットのポケットに入れてそのエコバッグを受け取った。
中にはタッパーが二つ入っている。
小さい方にはキノコのマリネ、大きい方には煮込みハンバーグ。
「え、これ、かえでちゃんが作ってきてくれたの!?」
「……別に英治のためじゃないから。お弁当用にと思ったら作りすぎただけ」
――このハンバーグお弁当には入らなそうだけど。
英治はそう思ったが、その言葉は胸に仕舞ってくすっと笑った。
ハンバーグは英治の拳くらいはあるように見える。
「こないだ晩御飯ごちそうになったし、そのお礼。ご飯とお味噌汁は英治が準備して」
こないだ……英治が初めて味噌汁を作った日のことだった。
英治にしてみれば「ごちそう」というほどの大したものではなかったが、楓の律義さなのだろう。
「うん、分かった!ありがと、かえでちゃん」
ごちゃごちゃ言うよりも素直に受け取っておこう、英治はにっこり笑った。
炊飯器のセットと味噌汁の準備を終え、英治はテーブルについてキッチンで楓が仕上げをするところを眺めていた。
いつかかえでちゃんのこんな姿を当たり前に見られるといいな――そんなことを考えながら。
そのためにはクリアしなければいけないことがいくつもある。
「準備できたよ、英治お皿出してくれる?」
これからのことをぼんやり考えていたら楓に声を掛けられた。
「はーい!」
英治は立ち上がってお皿を取り出し、盛り付けをし始めた。
「いただきまーす!」
「いただきます」
夕食を始めたところで、英治ははたと思い出した。
「あ、そうだ、かえでちゃん、お酒飲む?前好きって言ってたスパークリングの日本酒買っといたんだけど」
「え、ホント!?飲みたい!」
楓はお酒には目が無い。
楓のテンションが一気に上がるのを見て英治も嬉しくなった。
用意しておいた甲斐があるというものだ。
「オッケー、ちょっと待ってね」
英治は立ち上がり、冷蔵庫から緑色の瓶を取り出し、小さめのグラス2つを器用に片手で持ってテーブルに戻ってきた。
そのグラスの一つを楓の前に、もう一つを適当にテーブルに置いた。
瓶を開けて楓のグラスに注ぐ、しゅわしゅわと上品な音を立てて泡がはじけていく。
「あれ、英治は飲まないの?」
楓のグラスに注いだ後すぐ瓶の口を閉めるのを見て楓は尋ねた。
「後にする。せっかくのかえでちゃんの料理、まずはシラフで味わいたいから」
英治はそう言ってにっこり笑った。
「別にそんな大したもんじゃないわよ」
楓はそう言いながら、英治に遠慮せずにグラスに口を付けた。
英治は席についてまずキノコのマリネに箸をつけた。
エリンギとシメジの食感と醤油と酢の味が口の中に広がる。
そしてハンバーグだ。箸を入れるとホロっとほぐれる。
口に入れるとトマトの酸味と肉の旨味が感じる。
「美味しい……」
英治が食べる一部始終を見ていた楓はニヤけが止まらなかった。
昨日のラジオでリスナーが「食べているところを見ているだけで幸せ」と言っていた意味が良く分かる。
大きな口を開けて頬張る姿、それをよく噛んで味わって、そのおいしさに恍惚とした笑顔を浮かべる。
その姿を特等席で眺めていられることに楓はつい優越感を覚えた。
「かえでちゃん、おかわりある?」
英治の言葉を聞いて楓は耳を疑った。
皿を見ると英治はあっという間にこぶし大のハンバーグ2つを平らげていた。
「……あるけど……英治……太るよ?」
呆れたような楓の言葉に英治は一瞬逡巡したが、すぐに笑顔を作った。
「かえでちゃんのご飯で太るなら、俺一生デブでもいい」
そんなことを満面の笑みで言われてしまうと何と言っていいか分からない。
「……バカ。あと3つあるけど、食べるのは1つにして。残りは冷蔵庫入れとくから」
「やったー!!」
そのひとつもキレイに平らげて、英治は満足そうにお腹をさすった。
「はぁー、美味しかった……幸せ……」
「口に合ったなら良かった」
「かえでちゃんありがと、また作ってね」
「調子に乗らないの。今日はあくまでお礼だから」
「ちぇー」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「4月だけど夜は冷えるね」
英治はそう言って毛布をムササビのように広げてベッドに座っていた楓を後ろから抱きしめた。
お互いまだ裸のままだった。
ふと楓が英治の方に向き直り、英治の胸やお腹を触り始めた。
あんなにたくさん食べたのに、お腹は板のように6つに割れている。
「な、なに、かえでちゃん……くすぐったい……」
「ん-……抱き心地は前の方が良かったな、と思って」
楓はいたずらっぽく言って笑った。
「前」というのはダイエット前ということだろう。
英治は口を尖らせた。
「かえでちゃん、ひどい……」
「ごめん、カッコいいよ、英治」
「むぅ……」
カッコいいと言われて、不機嫌の置き場を失くした英治は楓を強く抱きしめた。
「俺が頑張れたのはかえでちゃんのお陰だよ」
「英治……」
「かえでちゃん、だいすき」
私も……と言いかけて、楓は口をつぐんだ。
でも何かは伝えたかった。
楓は英治の頭に手を伸ばして髪を二回三回と撫でた。
「英治、よく頑張ったね」
楓は満面の笑みで、英治を見つめながら言った。
その破壊力はただ「好き」と伝えるよりも英治には暴力的だったようだ。
「……かえでちゃん……」
英治はもう一度楓を強く抱きしめた。
そして楓の耳元でこう囁いた――。
「もう一回したくなっちゃった、いい?」
「え!?」
楓の返事を待たず、英治は楓を抱きしめたままベッドに倒れこんだ。
「ちょ、っと……英治!?」
「だって、かえでちゃん可愛いんだもん、もう我慢できない」
「ちょ、英治、やめっ……」
口でそう言いつつ、楓はほぼ無抵抗で英治のやりたい放題になっていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日、楓はほとんど眠れなかった。
終わった後そのまま果てるように英治は眠ってしまった。
――楓を強く抱きしめながら。
英治の息遣いが耳元で聞こえて、とても落ち着いてはいられなかった。
「かえでちゃん、あんまり眠れなかった?枕違うと眠れないタイプ?」
一方の英治は朝までぐっすりだった。
あまり顔色の良くない楓を見て心配そうな顔をしていた。
「……英治のバカ」
「え!?俺のせい?イビキでもかいてた?寝言?歯ぎしり?」
――そのどれも違う。むしろ天使のような寝顔というのはこのことかというくらい、静かでキレイな顔をして寝ていた。
そんなことは恥ずかしくてとても言えなかったので、楓は悪態をつくほかなかった。
「バーカ、バーカ、バーカ!!もう泊まりに来ない!!」
「えぇ、かえでちゃん、そんな小学生みたいなこと言わないで……俺が悪いなら直すから!!」
そんなやり取りをしながら、楓は急にほっとしていた。
――あぁ、いつもの日常が戻ってきた気がする。
「……英治はそのままでいい」
「え?何?どういうこと?」
「……ナイショ」
「えぇー!かえでちゃん、教えてよぅ!!」
世間から見たら歪なのは分かっている、誰に言うことも出来ない。
でも今はもう少しこうやって他愛もない時間を楽しみたい。
楓はそんなことを思っていた。
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最後までお読み頂きありがとうございます!!!
第一部完結です。
現在続編執筆中ですので、ある程度書き溜まったらまた投稿します。
30代おっさんアイドルがどん底から復活する話 則本珠季 @noritama1120
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