Secret Lily

もやし

第一話

 私の心がざらついて黒くどうしようもなくなったとき、窓の向こうからリリィが私を呼ぶ声がする。導かれて外に出ると、リリィの迎えよりも先に生暖かい九月の夜風が私を出迎えた。冷房の効いた家の玄関のドアを開けた瞬間の、私が帯びた冷たい空気を吹き流していくような風だ。優しい暑さだと思った。

 角からリリィが顔を出して手招いている。私はその静かな笑顔に縋りつくように——まさに上下も分からない暗闇の中で一点の光の方へ進むように——歩いて行く。リリィのところまでたどり着いて、そのまま止まらずに歩みを進める。


 隣にリリィを連れ添って、静かな住宅街を目的地までまっすぐに行く。時折遠くから聞こえる車のエンジン音を除けば、響くのはただ私の靴音ばかりだ。

「ねぇ、リリィ」

 話しかけた声はわずかに震えていた。泣き出しそうな声だ、と自分ながら思った。

 リリィはやさしく微笑っている。どうしたの? と聞いてくることはない。私がどうもしていないことを彼女は分かっているから。私の心を苛むのはいつも掴みどころのない、形の見えないあてのない不安だった。

 それと同じように、今一言リリィに話しかけてはみたけれど、何か続く話題があるわけでもない。……私たちの間に言葉が交わされることはあまりないし、その必要もない。

「……いや、なんでもない」


 

 こういう時、頭の中が騒めいてなにともなく家を飛び出した夜、私がいつも決まって行く場所がある。そこに向って進むにつれだんだん緑が増えて街灯も少なくなっていく。現代に生きていてはあまり感じることのない月光の明るさを、ここでは確かに感じることができる。下を見れば、はっきりと輪郭を持たないぼんやりした私の影が、私が浮いている小さな湖のように足下についてきていた。


 しばらく歩くと、一際煌々と光を放つ場所がある。コンビニだ。私の家と目的地の丁度真ん中のあたりにあって、ここで缶コーヒーを買うことが毎度のルーティーンのようなものになっている。

「行ってくるね」

 リリィに目くばせして店内に入ると、夜闇に慣れた瞳孔を貫くカラフルな光と、静寂を破る電子的な入店音が私を襲う。中に他の客はいなくて、私は最短距離でいつものコーヒーを買って店を出た。

 明るい店内にいたのはたかだか二、三分くらいだったけど、それでも私の瞳孔はもう閉じきって、再び街を見通ことができるようになるまで少しの間を要した。

「今日はいつもより大丈夫そうだ」

 車のない駐車場に立って道路の方を眺めていた私にリリィが言う。リリィはいつも私のことをわかって、時に私自身以上に私の心を分析する。

「うん。なんでだろ、今日は空気がいいからかな」

 今の季節は昼はまだまだ暑いけど、夜はだいぶ涼しくなってきて歩きやすい。それにいまはなんだか、少しだけ雨が降りそうなそんな湿気った柔らかい空気で、呼吸するたびに体の中が少しだけ温かくなっていくような感じがする。それに上を見上げるといつもより幾分か多い星が見えるような気がする。そんな私の思考を全部見通したかのようにリリィが言う。

「夜歩きにはちょうどいいね」



 コンビニを出れば私の秘密基地はすぐそこだ。いよいよ民家もほとんどなくなってきて、辺りも木々が目立つようになってくる。そんな道端の林の獣道のような脇道に入って少し歩くと柵が見えてくる。弱弱しい金網で、元の緑色よりも錆びた焦げ茶色の面積のほうが大きいくらいのボロボロ度合い。その仕切りに一ヶ所だけ大きな穴が開いている。はじめは細い針金が飛び出してちょっと危なかったけど、何度も通るうちに少しずつ処理して、今は注意せずに通っても怪我することはない。

 金網の先は高校に繋がっている。高校といっても何年か前に廃校になったところで、私の通う高校とは別のものだ。多分本当はもっとちゃんと管理されたり解体されたりされるべきなんだろうけど、なぜか何もされていなくて、こうして簡単に忍び込むことができる。

 まずグラウンドから校舎のB棟を挟んで反対側の小さな裏庭のようなところへ。そこからプールへの道とゴミ捨て場を横目に渡り廊下の下をくぐるとグラウンドの隅に出る。

 グラウンドというのはなんとも不思議で、この暗闇では端まで見通すことすら吉備氏ほどの大きな空間が町中にぽつんと広がっている。普段学校にいるときはたいてい騒がしい場所なのに、今は自分の鼓動が聞こえてくるくらいにりんと静かなのもまた不思議な気分になる。そんな透き通った世界にいるといろいろなことが頭に浮かんできて、そのたびに心臓が速く強く脈打つのを、だんと息苦しくなって透明な空気の味を分からなくなっていきながら感じている。

 ふと力を感じて立ち止まると、リリィが私の左手を掴んでいた。その温かな指先に引かれて、その熱がそこからじわりと流れ込んでいくように体じゅうを巡っていくような錯覚と共に、感じた息苦しさがにわかに和らいでいく。

 はじめに触れた人差し指と中指、それを足掛かりに手のひらへと、ゆっくりその手を握り返して、また歩き出した。



 校舎沿いにグラウンドを歩いて体育倉庫の横を抜けるとすぐそこに下足がある。私は靴を履き替えずに校舎へ足を踏み入れる。

 入口から離れると、非常灯も切れた建物内ではいくら大きな窓があると言ってもほとんど何も見えない。初めに来たときの反省で入り口近くにランプを置いた。それを右手に灯して、それでも十分暗いから足元には気を付けて廊下を歩いて行く。窓からは微かに月明りが差している。街中よりも遥かにうるさい靴音と埃っぽいから自然に浅くなる呼吸の音が狭い廊下で反射して響いている。

 廊下はまっすぐに続いている。右手側に窓、左手側に教室が並んで、所々についに使われることのなかった消火器が置いてある。一階は三年生のフロアだったらしく、教室ごとに吊り下げられたボードの数字は3-6から始まって、右の数字が一つずつ減っていっている。

 私がいつも来ているのは三年二組の教室、廊下のほとんど一番奥で二つ目の階段の横にある部屋。机が乱雑に置いてあったけど、前までである程度整理して、いくつかを残して端に積んだ。今は机と椅子が三セット、窓の近くの月の光がちょうど届くところに置いてあって、ほかに二つ机が適当に置いてある。それは例えるなら、文化祭の控え室のごちゃごちゃから余計な荷物を全部取っ払ったような感じ。ただしもちろん電気は無くて、灯りは私の持つランプひとつと窓からの月の光だけ。文化祭と喧騒とは真逆の静寂が部屋の隅々に至るまで染み透っているような気がする。

 ランプを机上に置いて一息つくと、私はまずさっき通ったドアを閉めに行く。その引き戸は相応にボロボロで固く、両手を使ってかなり力を入れないと動いてくれない。

 がらがらと大きな音を立てて扉が閉まる。そうするとこの教室と外界との繋がりは開ききったまま動かない窓だけになって、なんだか他から閉ざされているようだ。私はそれが好きだった。この四角い部屋の空気そのものがひっそりと幻想的に佇んで、窓から覗く中庭の葉擦れの音と月影がその空気を幽かに揺らし、照らす。私とリリィだけの空間。

 リリィはその窓際の椅子に静かに座って、その白い光の筋の中で私を待っている。私は誘われるようにその隣の椅子に座って窓の外の円い月を見上げる。視界の端に捉えたリリィも同じようにして、私はその横顔の月光とランプに照らされるのをぼんやりと見ている。




「あのさ、リリィ。私、怖いんだ」

「何が?」

「何かが」

 生産性のない禅問答。そういうことをすることこそが私とリリィの関係性のある理由でもあるのだろう、とも思えてくる。

 少し、何とか言葉にできるくらいに考えて、口に出した。

「わかんない。でも、分からないこと自体が怖いのかもしれない。今は特に、未来のことが」

「未来が分からない?」

「うん。何も見えないんだ。来年の受験ももちろんそうだけど、それよりももっとぼんやりした何か……」

 それは何度もこの場所で繰り返したような独白だった。いつも異なるその内容をリリィは全部受け止めて、私のクッションになってくれている。

「何かにならないといけない。何かを分からないといけない。みんなその何かが何なのかを分かっているんじゃないかって気がする。それが怖いのかもしれない……」


 私がそこで言葉を止めると、教室は再びの静寂の帳に覆われた。リリィは静かに佇んでいる。リリィが問の答えをくれることはない……彼女はいつも冷ややかに、私の話をただ聴いている。


「今の私は、なんか、何かがだめなんじゃないか? 何か小さな歯車が足りないか、間違った所に入ってたりして、それで何かが見えなくて不安になっている……」

 リリィはわずかに俯いた。

「でも、やっぱりそれと同時に、まったくそうじゃないって気もする。誰もがみんなこんな不安を抱えてて、でもそれを上手く隠し持ってて、私はそれに気づかない。私はきっと普通で、普通なりに何か頑張って生きていかなきゃいけない。そんな気もする」

「堂々巡りね」

「うん。だからこれは一日考えてどうにかなる問題じゃない。それでもいつか、長い時間をかけてどうにか答えを出さないといけないような……」


 ふと、少し強い風が吹いた。丁度窓の方向から、ざあっと木の葉の音を伴って教室内に吹き込む風。反対側に吹き抜ける道がないために私たちのところにはかなり弱くなって届いたけど、それでも私の長い髪を揺らすのにはじゅうぶんだった。反射で目を閉じると、いくつかの葉っぱが飛んできて顔と手に当たる感覚がした。

 顔にかかった髪をはらうと、入れ替わった空気のおかげか清々しい感覚がした。


 ポケットから缶コーヒーを取り出して、開ける。轟いたプルタブの音がフラッシュ・バンのように世界をホワイトアウトに染め上げて、リセットする。ぱん、と私を中心にした同心円状に虹色の波が広がるイメージ。あるいは日の下のシャボン玉の膜のようなそれが教室いっぱいに広がって、全体がその中に収まって包まれる。

 それが終わった時にはもう、リリィはいなくなっていた。まるで外側の世界に取り残されていったかのように。


「ありがとう」

 リリィ。わたしじゃないわたし。

 いつも私と一緒にいて、いつも私を救ってくれる。

 幽かに残る光の残滓に手を振った。

「またね」

 

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