炎症の女

和泉眞弓

炎症の女

 あかねの夕映えが幅広にわたる。びまんとは。女が小さく言い、おそるおそる肺に息を入れると、わずかにひゅうと鳴る。イラクサの葉をなにかの胞子がゆする。湿地におちれば、ぶつりぶつりと一斉にいのちを生む。肌にはりつけば、女の産毛の根をけばだたせる。女は弾かれたように指を立て烈しく擦りたくなるが、ざくろの爛れを思いがまんする。びまんとは。また女が小さく言う。体重の反動をつま先の小さな面積で踏みとどめる、烈しい不満足にはもう慣れている。とどまり続けることができれば、それは形を変えやがて崩壊してゆくと知っている。ひとしく乗った脂肪が微熱を帯びると、境界が鈍くなり女はやっと息を吐く。


 昼光が刺さる。女はサングラスを手放せない。びまん性のナイフ、そうつぶやいてみる。少し気に入る。同時に、だれともわかちあえないとわかる。車が横をすり抜け、弾かれたように女が跳ねる。身のこなしのあまりのぎこちなさに運転手が目をみはる。女の耳から鼓動と血潮の音が退くと、入れかわりに混沌とした塊に圧される。チクチク、でこぼこ、けたたましさ、それらが渾然となり神経に障る。女はなじみのよい音を繰り返し唱えることで、注意の水路をつくり、対抗する。アーユルヴェーダ、アーユルヴェーダ。泉の湧く響きが心地よい。アーユルヴェーダ、アーユルヴェーダ、語感がとめどなく流れだし、意識は一本の滝にまとまる。みずからつくりだした連続の地は脅威を遠ざけて、かりそめの安心の場になる。気を緩めれば隙から刺される。内から湧く、倦怠を煮返したかのようなあのなんとも嫌な気へのそなえもおこたれない。アーユルヴェーダ、アーユルヴェーダ、寄せて返す波に似て繰り返すその声は、内外の不快につられて大きくなる。女の詠唱は加速する。肥満した女の周りを迂回して、目を合わせないようにひとが流れる。やがて女は丘の上の白くて四角い建物にたどりつく。日陰となり、空調の効いた待合に入ると、女は詠唱をやめる。

 待合でちいさな子どもがキイーと鋭い奇声を放つ。やめなさい、母親のヒステリックかつ切迫した声が響く。水路はまだ塞がっていない。女は椅子の上で景色を揺らし、感覚器を内に向けかえて、アーユルヴェーダ、アーユルヴェーダとまたぞろ唱え始める。繰り返し、揺り返し、もろもろが混ざりあうと、かたちはとけて拡散していく。IQが高い……受け切ってしまうから……女の母親がむかし、先生とここで話していた言葉がふつりふつりと思い出される。積木を積んでいただろうか。かたちのあるものは安心で、かたちのあるものは痛い。幼いころから食べられるのは脂質と炭水化物でできたやわらかいもの。空調の風があたる。脂肪からむやみに灼熱が生まれかけまわる。「肥満はいろんなリスクを上げるからね、体質もあるけど生活習慣を」むかしなじみの先生の念仏をいつもどおりに聞き終えて、やる気の出るお薬と鈍くなるお薬と眠くなるお薬をもらうまでがセットだ。女は自販機で甘い缶コーヒーを買うと、すぐさま鈍くなるお薬のほうを飲み下す。横に貼られたポスターが「ありのままのあなたでいい」という。だれが許可するものだろうか。喉に冷たいものが通ると、みぞおちで拡がり消えてゆく。びまんとは。女が小さく言う。女は知っている。もう少しすれば、ものごとの輪郭がうまいぐあいにぼやけてくれる。


 朝露が結ぶ。ツタウルシの葉先が刺々しくつやめく。ひややかな靄にふれるやいなや肌にばら模様が浮きあがる。焦燥が体温を上げ、考えは喧騒になり焦点を結ばない。チューニング前のオーケストラ。意識はびまんとなる。セロトニンの足らない下肢は骨をぞわつかせ不協和を擦る。草原のあらゆる虫が跳ね、菌類は風に無数の胞子を放つ。息がつまる。ながらえるだけでひどく疲労する。沈澱し、なにもひりだせない、声すら出ない。女は蛹のように横たわる。がさごそと内側がなにやら騒がしい。外側には胞子が降りつもる。かつてないほど肌が粟立ち毛根が柱のようになる。血液に乗った脂肪細胞が脳をひりつかせ、いらだたせる。うつが殊にひどい。一秒がじりじりと長く、鉛のからだが重い。脳にもなにかつめられたように考えられず、指先が動かない。呼吸さえ意志が要る。

 横たわるうち、女の体表に異変があらわれた。おびただしい柱状の突起が伸びて弧を描き、びまん状にシダ類が生えだした。ふしぎに痛みはない。女はいらだちにかたちを与えられ、むしろよろこんだ。かくならば、と女は数年ぶりに、胸いっぱい思いきり息を吸い込んだ。ひゅうと大きな音がして、胞子は肺の房のそのまた奥まで届き、粒は瞬く間に増殖して苔むすと、女の肺胞をいっぱいにした。意識がほどけかける。女は、アーユルヴェーダの名のもとに、ようやっと意識をまとめあげると、肺の中、はちきれそうなまでに殖えた粒を最期の力をふりしぼり、アーユルヴェーダと唱えつつ勢いよく吐き出す。すると女の口からめりめりと芽がのび、わらわら房が繁茂して、目にも鮮やかな赤い花が開いた。曼珠沙華。そりかえった花弁、長くのびた雄蕊が炎のごとくゆらめき、まっすぐな日差しをいっぱいに受けた。日差しを受けると、奥底からよろこびが湧いた。昼光も、朝露も、あかね色も、もう女を脅かさなかった。うちそとの不協和は霧消してしまった。なにともたたかわずたたずまう。生まれてはじめて、女は和した。

 花茎の根元では鎮痛のくすりが刻々と生まれている。女は揺籃の心地で麻痺すると、大地にびまんする。土が盛り上がると、一斉に茎がのびゆく。咲く花は熱い風に吹かれちりぢりに舞う。百の赤い蝶が空へとはばたく。

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炎症の女 和泉眞弓 @izumimayumi

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