武蔵野のルーツは安曇野(^-^) 💐
上月くるを
武蔵野のルーツは安曇野(^-^) 💐
あ、象のはな子ちゃんだ~!!
ほんと、かわいいね~。(*'▽')
JR吉祥寺駅前北口広場の象の銅像に、ふたりの孫が大はしゃぎで駆け寄って行く。
秋の武蔵野の日ざしを一身に受けた銅像は、やさしげな目を細めて迎えてくれた。
このあと向かうことになっている三鷹の森ジブリ美術館と共に、そろって動物好きな小学生の孫たちが、初めての武蔵野行きで楽しみにして来た対象のひとつだった。
🚌
地名に同じ「野」がつく信州・安曇野市と東京・武蔵野市は友好都市として親密に交流しており、かつて市役所の外郭団体の理事を務めていたイチコも訪問している。
はな子の像に夢中の孫たちを見守りながら、車体に安曇野市のロゴと市章が入ったバスの車内で教育委員会顧問の郷土史家が話してくれた興味深い史実を思い出した。
――これから向かう武蔵野は、じつは安曇野の縄文の岐れなんですよ、みなさん。
車内がいっせいにどよめいたのは、現代人の意識には東京中心文化が刷りこまれていて、まさか自分たちの地方が本家だったなどとは思ってもみなかったからだろう。
じっさい鉄路の中央東線、高速中央道、下の道と呼ばれる国道、みんな撚り合わせ束にして東京へ向かっているので、イチコ自身、そう言われてもピンと来なかった。
だが、元博物館長の郷土史家によれば、氷河期を乗り越えて住み着いた縄文人は、まず安全が担保される高地(内陸中部)に居を定め、徐々に東上していったとか。
そう説明されれば、たしかに理に適う選択であることが納得され、ちょっと都会に感じていた引け目に喝を入れられたように感じて、座席の背を伸ばしたものだった。
昭和の終わりごろというから、ずいぶん古い話になるが、たまたま武蔵野市の職員に安曇野市出身者がいて、そのご縁で姉妹都市提携が結ばれたという経緯も聞いた。
時代の変遷で多少は変容したようだが、現在も両市の友好関係にはゆるぎがない。
そんなゆかりの武蔵野市に孫たちを伴うことは、現世代の務めかも知れなかった。
🐘
象のはな子には悲しい伝説がある……といっても初代・はな子の時代だが、太平洋戦争末期、空襲に備え上野動物園の猛獣や象が薬殺されたり餓死させられたりした。
はな子たち3頭の象は最後まで毒入りの餌を食べず、困った飼育員が水も断つと、瘦せ衰えた3頭はかつて子どもたちに喜んでもらった芸を自らして見せた……。💧
この悲劇についてイチコは仕事関連のあるものに記録しているのだが、あまりにも酷い現実を幼い目に見せることがためらわれて、孫たちにはいまだに告げていない。
🌃
2代目・はな子(公募で日本名が決定)がもう1頭の象のインディラと共にインドから恩賜上野動物園に送られて来たのは、昭和24年(1949)秋のことだった。
戦後の子どもたちを慰めるため、2頭の象は日本各地を巡り移動動物園を開いた。
都内近郊をまわっていたはな子に、武蔵野市・三鷹市の両市民から声がかかった。
1954年3月5日、2代目・はな子は上野動物園から井の頭自然文化園に移され、2016年5月26日に亡くなる(享年69)まで市民や来園者に愛された。
お別れの会では3000人近い市民が花を手向け、特設展が開かれた。毎年の命日には多くの市民が献花に訪れ、2017年、吉祥寺駅前北口広場に銅像が完成した。
🐦
そんな歴史を孫たちに話して聞かせながら、イチコは駐車場から車を発進させる。
これから向かうのは、自然文化園&三鷹の森ジブリ美術館がある井の頭恩賜公園。
石神井公園の三宝寺池や善福寺池と共に「武蔵野三大湧水池」として知られる井の頭池周辺は「日本さくら名所100選」の地だが、この季節は紅葉が美しいだろう。
ナビに従って運転しながらイチコは、自分の経験や知識を孫たちに伝えていこう、それが明るい青写真を残してやれない世代の、せめてもの役割だろうと考えている。
武蔵野のルーツは安曇野(^-^) 💐 上月くるを @kurutan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます