香り立つ津波
結騎 了
#365日ショートショート 267
黒い津波が押し寄せている。
それは思いのほか、鼻に残る良い香りだった。よくよく見ると濃い茶色にも見えるが、ゆっくり観察している暇はなかった。ビルの谷間から、家屋の隙間から。全てを飲み込むそれは、あっという間に男に迫っていた。
「ああ、こんなので終わってしまうのか」
圧し寄せる波の音を聞きながら、男は諦念の笑みを浮かべた。
「仕方がないわよ」。すぐそばに立っていた女が、ぽんと男の肩を叩く。「最近は急な展開ばかりだったもの。私たちも随分と振り回されたわ。なにかに焦っていたのかしら。いつかこんな事態になるだろうって、思ってはいたけど」
「うん、呆気なかったね」
ふと、辺りにほとばしる電流。雷ではない。ビルから、家屋から、小物から、地面から。鈍い電流がぱちんと音を立てては消え、波に飲まれていった。
あらゆる装飾も、あらゆる言葉も。伏せられた数々の線も。黒い波に沈んでいく。
「さようなら」
「ええ、さようなら」
顔に水気を感じながら、男と女は挨拶を交わした。
「まさか、作家先生がパソコンに珈琲をこぼして、それで終幕とはね」
男の最期の台詞は、ついに文字にならなかった。
香り立つ津波 結騎 了 @slinky_dog_s11
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