だから僕は弁理士を目指すのを辞めた
ごくごく当たり前の話になるが、自分の知らない職業に就くことは出来ない。小学生の「なりたい職業ランキング」なんてその最たる例で、Youtuberにせよ芸能人にせよプロ野球選手にせよケーキ屋さんにせよ学校の先生にせよ医者にせよ、その活躍する姿を見て憧れを抱くのであって、何をやっているのかよくわからない、あまつさえその存在を知らない職業に関して、俎上に載ることはない。唯一の例外として、「公務員」というやつが、その実態のわからないまま人生設計の中に入り込んでくるケースが知られているが、それについては「安定している職業」の代名詞として用いられているに過ぎず、「誰もが華々しい世界に立てるわけでない」、あるいは「いつまでも夢ばかり追ってはいられない」、といった強い現実志向のなれの果てであろう。僕自身は、とある強烈なモチベーションに駆られて公務員という身分を手に入れた人間なので何とも言い難いが、子供の頃の自分に「君は30近くまで学生を続けた末、公務員になるよ」と教えたとしたら、「一体何故そんなことに……」と絶句するに違いない。「働いてるだけ凄いことなんだよ」、とも教えてあげたい。
どこかの番組風に言えば、「子供のころから弁理士になりたい人0人説」ということにもなるかと思うが、弁理士という職業の知名度は、失礼ながら、著しく低い。僕自身、大学院に入るまでその存在を知らなかった。日本の国家資格の中で職務上請求が可能な「八士業」の内の一つなのだが、「士がつくそれっぽい職業」と言われたところで、弁護士と税理士と司法書士と行政書士くらいは出てきても、残りは競技クイズの愛好者でもなければ、一般人には完答できないだろう(弁理士、社会保険労務士、土地家屋調査士、海事代理士)。弁護士の資格を持っていれば弁理士と税理士と行政書士と社会保険労務士の資格登録が可能なので、殆どの士業は「弁護士」の持つ絶大な力に所掌業務の印象を吸い取られてしまっている(あくまで、吸い取られているのは外部の人間に対する印象だけで、実務の内容まで取られているわけでは決してない)。
弁理士は、特許や商標、意匠などの知的財産権に関する業務を専門に扱うことのできる国家資格である。「知的財産権専門の弁護士」みたいな感覚である。特許出願の代行も請け負うのだが、発明内容を正しく理解する必要がある都合上、出願手続きの法律的な知識だけでなく学術的な専門領域の知識が必須のため、理系の人間にこそ適性のある職業である。実際に、論文試験の科目も、理工系や情報系の問題が選択可能となっている。僕は、生物系の分野の研究室に在籍していたのだが、医学部でも薬学部でも獣医学部でもなかったため、漫然と生きているだけでは何の資格取得にも繋がらず、「博士号」の獲得が殆どメリットにならない日本社会の実情を目の当たりにして、少しだけ危機感を覚え始めていた頃に、その資格の存在を知った(博士課程1年の時だと思う)。弁理士という職業の存在を知ると同時に、その資格があると企業の法務部や特許事務所などで安定して働けるということや、弁理士試験を独学のみで突破している人が少なくないという情報にも行きついたことから、僕はすぐさま、お勧めとされる参考書や問題集をAmazonで購入することに決めた。工業所有権法逐条解説という、知的財産権に関わる人間なら必携と言われている(たぶん、弁護士にとっての六法全書みたいな感じの)本があるのだが、僕が買おうとしていた時点で、第16版の販売から五年以上が経過しており、「第17版が近々発売されるに違いないから待った方が良い」という話が出ていたにも関わらず、思い立った日に一万円以上払って即決で購入した。その他の参考書含め、四万円近くの出費となったが、こういうことは勢いが大事なのである。あまりにも勢いだけで購入したものだから、Amazonのワンクリック購入でダブルクリックでもしていたのか、翌日、大学の研究室には箱詰めにされた大量の書籍が二セット届いた。僕は、ネットで購入した充電用ケーブルが明らかな初期不良で初日に断線しても、「気を取り直して別のものを改めて買う」というタイプの人間で、返品という選択肢を検討すらしないのだが、さすがにこの時ばかりは一箱そのまま返品措置を行った。……今から思えば、自分が飽き性なのはわかり切った話なのだし、二箱とも送り返してしまえばよかった。
とはいえ、参考書を読み始めてみると、思っていたより楽しかった。特許というもの自体、何となくのイメージでしか知らなかったので、自分の固定観念が覆される感覚があった。例えば、特許法の規定において、「発明」は、「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」とされていることから、「永久機関」を作り上げたと主張する申請は(自然法則に反しているので「発明」と認められず)絶対に特許査定されることがない、など、面白い話も転がっていた。
そんな風に、最初のうちはスムーズに読み進めていたが、法的な手続き絡みの話が本番になってくると雲行きが怪しくなってきた。何の嫌がらせか、「審査」と「審判」という似たような名称で全く異なる段階の請求内容があり、それぞれ、何日以内に行わなければならないという規定が異なっていたりして、「混同して間違えた人間を試験で篩い落とす」ためだけに存在しているのではないかと疑いたくなった。実際に特許を出願した経験さえあれば、一連の流れの中で、「ああ、あれのことね」とわかると思うし、授業のような形式で先生役の人間に口頭で解説してもらえば、もう少し頭に入ったのかもしれないが、知りもしない机上の手続きの仕組みについてただ覚えろと言われても、難しかった。読んでいる瞬間は理解できるのだが、知識としては全く身につかない、という感覚だ。
それでも二週間くらいはまじめに取り組んでいたと思う。特許法に関する参考書は何とか読み終えたが、それ以外に実用新案と意匠と商標に関する本があって、さらに、PCT国際出願に関する専門の本まで残っていた。工業所有権法逐条解説は箱から取り出してさえいない。端的に、「あ、これは独学では絶対に無理だな」と悟った。
だから僕は弁理士を目指すのを辞めた。
と、ここで通常ならば話は終わるのだが、弁理士資格の取得には裏技が残されていた。何と、「特許庁の審査官または審判官として通算7年以上審査または審判の事務に従事した者」は、弁理士資格が得られるのである。つまり、特許庁に就職して、特許審査官になれば、キャリアの過程で自然と弁理士になれるチャンスがあるというからくりだ。実際に、資格取得後に退職して特許事務所などに勤める例もあるのだという。特許庁に就職する最もわかりやすい方法は、現在の国家公務員総合職試験、当時の国家公務員I種試験を突破し、官庁訪問で特許庁に赴くことであった。
なるほど。
僕は、博士課程三年の年に、就職活動の一環として、まさにその通りのことを成し遂げた。そして、特許庁の二次面接であえなく落とされた。面接を担当していた「入庁二年目の若手職員、話を聞く限り自分よりも年下の薬剤師資格を持つ女」に「自身の研究内容について教えてください」と言われて、その時に取り組んでいた研究の内容を詳細に語っていたら、「それだけ楽しそうに研究の話ができるなら、研究職に就いた方が絶対いいと思う」みたいな理不尽な内容をタメ口で告げられたことだけを未だに覚えている。
こうして僕の、「弁理士資格をとりたい」という(冷静に考えると薄っぺらい)夢は、完全に潰えた。
特許庁でない現在の職場に就職した後、六年目くらいに先輩職員がいきなり「仕事を辞める」と言い出した。僕が、「次の就職先は決まってるんですか」と尋ねたら、「数年前に弁理士試験に合格して以来、いつ辞めようかずっと迷っていたけど、ようやく、条件の良い特許事務所が見つかった」みたいな返答があって度肝を抜かれた。僕が成し遂げられなかった「独学での弁理士資格取得」を悠々と勝ち得た人間がこんな身近にいたなんて、夢にも思わなかった。彼が「仕事を辞める」という選択にとらなければ、全く気付かずに暮らしていたことだろう。
さらに後になって、自分の仕事内容に関連して特許出願を行うという想定外の事態が生じ、(先述の先輩職員の行ったところと全く別の)特許事務所とやりとりすることになった。ちょっとした手続きの事務手数料や書類作成料で、数万円、数十万円の費用が発生し、「やはり、弁理士も儲かっているんだろうな」と羨ましく思いつつも、特許出願の願書に記載された「明細書」の常軌を逸したとしか言えない独特の記述方法やわかりにくい請求項の内容を見るにつけ、「これを書いて申請する側(特許事務所の弁理士)にも、読んで審査する側(特許庁の審査官)にも、僕は到底なり得ないな」と確信するに至ったのであった。
余談だが、三年くらいの月日を経て、僕の関わった「発明」は無事に特許査定を受けた。僕と弁理士を巡る因縁の物語はたぶん、これにて完結、という運びになると思う。続編も、まあ、なくて良いかな。
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