だから僕は将棋を辞めた
「中学生の頃、毎週日曜日に千駄ヶ谷の将棋会館に通って将棋を指していた時期がある」と言うと、まるで将棋の強豪みたいだが、僕は「アマチュア6級」で辞めたので、まるでお話になっていない。アマチュアの六段が奨励会5級とか6級に相当し、奨励会四段からがプロという世界において、アマチュアの6級である。どれくらいの強さかというと、「駒の動かし方がわかるだけの素人相手になら、平手で絶対に負けない」と自称している。将棋の戦法や囲いも、言われれば大体どんな形かわかるが、自分では指せない。「棒銀戦法」と「矢倉囲い」しか使えない。自分の指した将棋の棋譜を覚えるなどもってのほか、「4二銀」などと符合を言われても、升目を数えないとどのあたりに何を指されたのかわからない。詰将棋も、5手詰めより長くなると解けた試しがない。頭の中だけで3手以上先を考えることが出来ないのだ。
暗記は比較的苦手でないのだが、言語化出来ないものを覚えることは苦手だ。言葉になっているものであれば、頭の中や口で何度も呪文みたいに繰り返していれば、そのうち頭に定着するのだが、絵や図形、立体など、名状しがたいものが含まれると、途端に覚え方がわからなくなる。抽象化とか空間把握とかはIQテストで重要な概念という話を聞いたことがあるので、要するにIQが低いのだと思っている。
将棋は、二人零和有限確定完全情報ゲームであり、運の介在する余地がなく、実力で勝負が決まる。後に少し傾倒するポケモン対戦や麻雀で、「運負け」をしたことを嘆いている人間が、「運で負けるのが嫌なら将棋や囲碁をすればよい」と揶揄されることをよく見てきたが、まさしくその通りであって、僕は逆に、「実力が低い時に勝てる要素が一切ない」ことが苦痛になって、将棋を諦めた人間である。小学生の低学年相手に駒落ちでぼろ負けした上、「6三銀の時、桂を5五に打つ手がありましたね」みたいに、終局後、僕が当然覚えていない局面について一言アドバイスをもらうようなことは、本当に堪える。
もちろん、級位者ならではの、「勉強すればするほど強くなる」ことを実感できる、一番楽しい時期を味わってもいる。未だに覚えているのは、羽生善治(実在の人物であって尊敬しているのだが、あまりにも縁遠い存在であるため、将棋棋士の方々を敬称略で記載する無礼をお許しいただきたい)がタイトルにも使われていたようなスーパーファミコンの将棋ソフトのCPUとの対戦で、始めた当初は一番弱い設定でもぼろ負けしていたのに、ある時急に、60手くらいで完封できるようになった経験だ。しかも、似たような局面で繰り返し再現性のある悪手を指すことに気づいたりもして、「こいつこんなに弱かったんだ」と確信でき、自分自身、一皮むけたような気がした。最終的に、二番目に弱い設定のCPUには勝てた記憶がないので、将棋指しとしては、成功体験が少なすぎるままに、辞めたのだと言える。
ただ、将棋を指すことは早々に辞めたのだが、プロ棋士の対局を見ることに関しては今でも続いている。特に、ニコニコ動画あたりの動画配信サイトでプロ棋士の重要な対局が長時間配信され始めたり、電王戦のようなコンピューターとプロが対局するようなイベントが組まれたりした頃から、「観る将」(観る将棋ファン)という言葉もどんどん広がってきて、僕みたいに自分で指さない将棋ファンも珍しくなくなってきた。藤井聡太が登場し、一般人にも伝わるような将棋ブームがやってきたことは、素直にうれしかった。直近の話だと、ABEMAの早指しの非公式のトーナメント棋戦は死ぬほど面白い。「サバンナの高橋より古参のにわか将棋ファン」みたいな感じである。
僕が一番好きな将棋棋士は木村一基なのだが、2019年、豊島将之に挑戦し、七度目にして歴代最年長で初タイトルの王位を獲得したことは、本当にもう、自分のことのように嬉しかった。正直、当該の王位戦が二連敗して始まった時点で、並行世界が100個あったら、そのうち90個くらいの世界線ではタイトル奪取に失敗していると思っているので、僕は「最高の世界線に来られた」僕自身の幸運に対しても心から感謝している。この後の一年間は、どんな不条理に襲われても、「でも僕は今、木村一基がタイトル獲得できた世界線にいるからな」という寛大な心で許すことが出来た。翌年、藤井聡太に4連敗して失冠したことは僕のメンタル的には痛恨だった。木村一基本人は百折不撓でも、僕はすぐ折れるのだ。
ともあれ、自分に全く才能がなくて、自分で指すことを完全に辞めてしまっても、まだまだ将棋というコンテンツは楽しめるので、今では「6級」であることは笑い話になっている。ちなみに、娘には将棋の英才教育をほどこすことで、女流棋士にでもなれはしないかと画策し、3歳の誕生日までにどうぶつ将棋や、子供向けにコマに動かし方の書いてある将棋セットをプレゼントしてみたりしたのだが、そのいずれも興味を惹くことは出来ず、娘はキッズYOU TUBERに夢中の一般的な「最近の子供」になった。蛙の子は蛙である。
将棋セットは今や誰にも顧みられることなく、物置部屋の隅で埃を被っている。指さなくなった僕の将棋熱は、それでも形を変えて、熾火のようにまだまだ燻り続けている。
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