第5話 長公主、翠牡丹を得る
今回の
ほかに、目立った合格者でいえば、
(実際、迂闊に殿方に姿を見せてはいるのだけれど……)
身分に相応しからぬことをしでかしたという自覚のある明婉は、内心で首を傾げてはいる。とはいえ、娘にして妹たるもの、父や兄の意向には逆らわないものだ。ふたりとも、彼女を思ってくれているのだとは、理解していることでもあるし。
「まあ、そういう訳でそなたの縁談は当分保留となった。心を落ち着ける必要があるだろうとは、誰の目にも明らかだろうからな」
「お心遣いありがとうございます、お兄様」
なので、多忙な政務の合間を縫って見舞ってくれた兄に、明婉は大人しく感謝を述べた。こういう時に茶菓を出してくれるのが、
「結婚は──いつでも、どなたがお相手でも構いませんでしたの。本当に。でも、梅馨のことを思うと、今は喜べそうにないですから……」
明婉は何も知らなかった。ずっと傍に控えてくれていた侍女が近しい親族であったことも。年を経ても褪せぬ美貌と教養を尊敬していた彼女の母、
(もしも
花夫人は王の側室で、梅馨も兄の
傍系の兄が即位するのを見て、花兄妹は胸に無念の火を燻らせていた。そこに、明婉の縁談が油を注いだ。不正じみた手段で状元を仕立てるということ、皇帝の父の権力を振りかざしてそれを行うということ、いずれもあのふたりには許し難いと思えたのだ。
(しかも、わたくしがあんなことを思いついたから。
燦珠の
捕らえられた梅馨は、明婉が知る由もなかった計画の全容を語ったのだという。
『母は、
忠実な侍女が上手くやってくれたのだろう、だなんてふんわりとした認識でいてはならなかったのだ。梅馨は、最初から
明婉が梅馨や志耀に謝ることは、もうできない。彼女の思いつきさえなければ、彼らが罪を犯すこともなかったはずなのに。
『今は──明婉様がご無事で良かったと、思います。あの
梅馨がそう語ったというのは、本当だろうか。兄の優しい嘘ではないのかどうか、明婉に確かめる術はない。梅馨とは、もう会えない。
それに、彼女が責を負うのは梅馨に対してだけではない。
兄の寵妃への濡れ衣も、
「反省を示すためにも、しばらく謹慎したほうが良いと思っております。慶事などは、とても」
「謹慎など。そなたは何が悪かったか、もう十分に分かっているであろう?」
俯く明婉に、兄の苦笑交じりの呟きが落ちてくる。
(お兄様は、妹に甘くていらっしゃる……)
今回の件の何もかもについて、明婉は父と兄にたっぷりと叱られていた。そもそも、こっそりと答案を採点して欲しい、というところからして大それた願いなのだ、と。
女が出過ぎた真似をするものではない、という父の言い分は、覚悟していたからまだ良かった。けれど、兄からの叱責のほうが明婉には堪えた。権力ある者はそれを濫用してはならない。明婉の答案によって合否が別れた者もいるかもしれない。受験者の生涯を懸けた努力を何だと思っているのか、と──返す言葉が、ひとつも見つからなかったから。
「だって。皇室の名誉にも関わることになってしまいましたから」
ささやかだったつもりの願いが引き起こした影響の大きさを思って、明婉は改めて縮こまる。
今回の件をどこまで記録に残すかについては、兄や父や高官の間でも意見が分かれたらしい。つまり、後宮への男の侵入を許し、長公主が危うく害されるところであった、と公表すれば醜聞になる。いっぽうで、事実を隠せば
父は、事実を秘して、花志耀は
いっぽうの兄は、狭量な皇帝と評されることこそが耐え難いと主張したという。治世の最初の科挙で、受験者の言論を封じるような真似をしては、今後の統治に支障が出かねない、と。
「そなたの名誉にも関わることであろう。世間の邪推を招きかねないこと、すまなく思っている」
「当然の報いで、正しいことですわ。お気になさいませんように」
兄の主張にこそ理があると明婉も思うし、高官たちが兄を支持してくれたのは喜ぶべきことだ。花志耀が彼女に何かしらの狼藉を働いたのでは、なんて噂されるのは甘受しなくてはならない。董貴妃や花兄妹と違って、皇帝の妹という身分では罰せられるということはないのだから。
「……そなたが喜びそうな報せがふたつある」
「まあ、何でしょうか」
自分がしでかしたこと、これから梅馨たちに起きることを思って、明婉の心は沈んだままだった。だから兄の言葉への相槌も素っ気ないものになってしまったのだけれど。優しい兄は咎めることなく、悪戯っぽく微笑んだ。
「ひとつ目だ。そなたの
「──え」
今の明婉の気分を上向かせる贈り物なんて、あるはずがないと思ったのに。今、兄は何と言ったのだろう。目を見開いた明婉に、兄は笑みを深めると、噛んで含めるように言い聞かせる。
「そなたは自力で
「お兄様。それは、では……わたくし──」
それ以上、言葉を紡ぐことができなくて唇を震わせていると、兄は明婉の頭をそっと撫でた。小さな子供にするかのように。
「よくやったな」
「……っ、はい。ありがとう、ございます……!」
兄の手の温もりも、かけられた労いの言葉も、ただでさえいいっぱいいっぱいだった明婉の心の
「そしてこれは、ふたつ目だ。そなたのために、造らせた」
慌てて掌をどければ、目の前には翡翠の牡丹が差し伸べられている。本物の花のように精緻な彫刻は、確かに燦珠たちが持っているものと同じに見える。でも、これは明婉などが持ってはいけないものだ。
「あの、
董貴妃
「だが、そなたは『
でも──狼狽える明婉を前に、兄は楽しそうに笑うだけ。どこか、悪戯を成功させて喜ぶ気配さえ感じられた。
「……あれだって。燦珠のお陰です。何も知らなかったのに、咄嗟の機転であんなことができるなんて」
もしも燦珠が来てくれなかったら、明婉はあっさりと殺されていたはず。そしてその罪によって、花志耀も梅馨も死を賜っていたはず。あの眩しくて強い娘は、たくさんの命を救ってくれた。それに比べれば、明婉に誇れることなどあるようには思えないのに。
「父上は眉を顰められるだろうが、
「はい。それは──光栄ですわ」
兄の話の繋がりが見えなくて、明婉は曖昧に相槌を打つ。燦珠たちの演技がまた見られるのは嬉しいこと。兄と
明婉の疑問を感じ取ったのだろう、兄はやや声を潜めて、内緒話のように囁いた。
「歌舞を楽しみながらのやり取りは、余人に聞かれることもない。身分も年齢も、男女の別も関係なく──そなたも、遠慮する必要はないのだ」
「あ──」
芝居を楽しむ席にかこつけて、政治について意見を述べて良い。若いから女だからと咎められることはなく、兄も話を聞いてくれる。そう言われているのだとようやく理解して、明婉は頬が熱くなるのを感じた。口元も緩んで、自然に笑みを形作るのが、分かる。
「そのためにも芝居好きの長公主、との評判を築いておいてもらいたいのだが。不服ではない、よな……?」
そこまで聞けば、もはや断る理由は何もなかった。燦珠ともお揃いの、とろりとした艶が美しい翡翠の花。
「そのようなこと、あり得ませんわ……! これは、わたくしの何よりの宝物になりましょう。わたくしが、自分の力で掴みとったものなのですもの……!」
兄の手から
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