第6話 燦珠、城壁に立つ
後宮を取り囲む城壁に築かれた石段を上る
翡翠の花の花弁の裏には、
あの方の人柄をよく表した、力強くも端整な筆跡が自分の名を綴るのを見たり触ったりするたびに、よりいっそうの誇らしさを感じる。だから、見上げるほどの石段を上りながらも、燦珠の足取りは軽かった。
(
数多ある宦官の
ほかの子たちの名は、さすがに皇帝直筆ではないのだけれど、
悪用される余地がなくなるのは歓迎すべきことだし、いっぽうでは
(長公主様ともお揃いだし)
父君の
と、一陣の風が吹いて、燦珠の
「風が強い。足もとに気を付けるのだぞ」
「うん……!」
捻った足首は完治しているし、幸いに、頂上はすぐそこだった。燦珠は足に力を込めて石段を駆け上がり、霜烈とほぼ同時に城壁の上に辿り着いた。
「わ、綺麗──」
眼下に広がる絶景に、燦珠は感嘆の声を漏らした。
城壁の外側に広がるのは、
さらに遠くに目をやれば、
城壁から身を乗り出す燦珠とは裏腹に、霜烈は少々気落ちした風の顔をしている。
「市街の先までは、さすがに見えないか……」
「こういうのは、気持ちが大事だと思うの。だから良いんじゃないかしら?」
彼が、城壁に上る許可をもらった理由も、燦珠を誘った理由も想像がついている。慰めるべく、燦珠は霜烈を見上げ──ついでに、陽光の下でいっそう眩しい美貌に目を細める。
「そなたを無駄に付き合わせてしまった。すまなかった」
「ううん。こんなとこまで上れるなんて、滅多にないもの。それに、ほかの人じゃ駄目だったんでしょう?」
今日は、
(でも、天子様はやっぱり優しい方だったわ……)
彼らが追放される西方とは、すなわち
歩哨の兵は、城壁の遥か彼方、豆粒のように小さく見える距離にいる。それでも人の耳を憚って、燦珠は小声で霜烈に囁く。
「良かったけど──心配は心配、よね? お見送りの人がいるって伝えられれば良かったのに。……まあ、でも、あの人たちは知らないんだけど」
霜烈が、後宮の西の城壁に上ろうと思い立ったのは、彼らを見送り、無事を祈る想いがあったからに違いない。名乗ることはできなくても、花兄妹は霜烈の甥と姪なのだから。皇帝や明婉と同様、死なせたくないと思っていたはずなのだ。
そして、その想いを理解できて、かつ身軽について行くことができるのは燦珠しかいない。
(言いたいことがあるなら、言えば良いのに?)
首を傾げて見つめていると──霜烈は、目を伏せた。溜息に似た調子で、整った唇が美しい、けれど苦しげな声を紡ぎ出す。
「……
聞き慣れない名前は、遠く離れてしまった人たちのことだと想像がついたから、燦珠は黙って頷いた。「
「桂霄は、
霜烈の指が、城壁の石材に強く立てられる。白く変じた爪が剥がれてしまうのではないかと、心配になるほどだった。
「あの答案を見て、しかも長公主様を狙ったと聞いた時には、もう助からないだろうと思いかけた。興徳王殿下のお怒りはもちろんのこと、陛下のご寛容をもってしても許されぬだろう、と」
「……うん。あの人たちのためにも、急いでくれたのね……?」
皇帝たちがいち早く
「そうだ。長公主様が害されることはあってはならなかったから」
小さく頷いてから──霜烈は、燦珠に真っ直ぐに向き直った。と思うと、その場に跪き、深く頭を垂れる。
「だからそなたには感謝している。どのようにして伝えれば良いかも分からないほどに」
「……え?」
初めてのことでは、ないのだけれど。年上の男の人を跪かせる格好に狼狽えて、燦珠は慌てて左右を見渡した。吹きさらしの城壁の上に、好奇の目で見てくるような人影はいない。それでも居心地が悪いから、彼女のほうでも膝をついて、霜烈の顔を覗き込む。
「今、それを言うの? お見送りの日に? 後日で良くない?」
「ほかに言える場所はない。秘華園の
「
「……もう入れたくない」
「なんで!? この前は良かったのに!」
非難と驚きを込めて燦珠が叫ぶと、霜烈はなぜかひどく恨みがましい、じっとりとした目で彼女を睨んだ。
「この前の《
「……どういうこと?」
しばらくの間、風の音だけが耳に届いた。舞い上がる砂塵に時々目を瞬かせながら、燦珠は霜烈の顔をまじまじと見続けた。綺麗な人は、どんな表情でもとても見ごたえがあるものだから。じっくりと答えを待つのも苦ではない。
(どういうこと、なの?)
目を見開いて。何か言いたげに口元に力を込めたかと思うと、溜息を零す。何かしらの憤りによってか頬が赤く染まって──その熱を振り払うかのように首を振って。色々な顔を見せてくれた後、霜烈は眉を顰めると、どこか拗ねたような口調で、言った。
「何とも思っていないなら、良い。とにかく──礼が言いたかった。まだ価値を認めてくれるなら、
「
今の沈黙は何だったのかは腑に落ちないまま、それでも願ってもない申し出に燦珠は目を輝かせた。大人しくしていなかったことで反故になったと思っていたいくらでも、が実現するなんて嬉し過ぎる。
「じゃあ、一緒に
「演技。演技か」
苦笑しながら立ち上がる霜烈を追って、燦珠もぴょんと飛ぶように直立した。やっぱり、見上げる姿勢のほうがしっくりと来る。
「ええ。見せてもらうだけではもったいないもの。楊太監や
「そなたの糧になれるなら光栄なこと。──では、そろそろ降りるか。風邪をひいてはいけない」
「ええ!」
どうやら霜烈は了承してくれたようだ、と思うと燦珠の足取りはいっそう軽くなる。踊るように石段を降りながら、彼女の頭はどの演目を強請るかでいっぱいだ。
(悲恋──よりは明るいお話のほうが良いかしら。《
頭上から降り注ぐ陽光は眩しく、風が運ぶ新緑の香りは芳しい。何もかもが輝き生気に満ちる夏が近づいている。燦珠の人生もまた、眩しい季節を迎えているに違いないと思えた。
* * *
「花旦綺羅演戯」、第二部は今話にて完結です。新しいキャラクターに新たな陰謀、また、進展した関係も描けました。ご意見ご感想など、お気軽にお寄せいただけると嬉しいです。
明日以降、「桃夭」の題で独立した短編として投稿していた番外編三話を順次公開します。異国に嫁いだ梅馨たちの姉・霜烈の姪の姫君のエピソードです。すでに読んでいただいた方もいらっしゃるかと思いますが、本編の後に掲載すべきエピソードだと思うのでご容赦ください。
そのほかにも第二部の後日談・番外編の執筆予定はあるのですが、公募の〆切り等のため、おそらく10月以降の公開になるのではないかと思います。今しばらくお待ちくださいますようお願いいたします。
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