第4話 燦珠、恥じらう
その後、
『お父様にもお兄様にも、たくさん叱られたの。当然のことなのだけれど。でも──助かったのは
必死の表情で語った明婉は、ご自身のせいで燦珠を巻き込んでしまったと気に病んでいたらしい。燦珠のほうでは、
すべては良いように収まるはずで──だから、燦珠自身は《
* * *
秘華園の練習場のひとつにて、
「今ごろ始まってるんでしょうね……
椅子に掛けて、足をぷらぷらとさせて。行き場をなくしてあり余ったやる気と体力を持て余す燦珠を、傍らに佇む霜烈が呆れたように見下ろしてくる。
「怪我人なのだから仕方あるまい。曲に合わせて踊るなら、手の動きだけにしておきなさい」
「はあい」
あの夜、
(もう治ってるんじゃないかと、思うんだけど……)
日常生活を送る分には、もうほとんど痛みはない。多少の痛みなら我慢して踊れる、とも思う。
でも、無理せずいったん完治させろ、が
「……玲雀の舞も綺麗だもの。喜燕と共演できて嬉しいでしょうし」
燦珠に代わって牡丹精を演じることになったのは、玲雀だ。足の怪我から復帰してすぐに
(出られないのは仕方ないけど……でも、袖でも良いから見たかったなあ)
着替えの手伝いでもできれば、と思ったのだけれど。痛みが出た時に手当や休憩ができるとも限らないから、ということで却下されていた。
なお、霜烈も秘華園に留まっているのは、燦珠を見張るためだけではない。彼も、傷が癒えてない弱った身体で冷水に入ったことで、熱がぶり返していたのだ。体調が万全でない者が公の儀式の場にお呼びでないことは、たとえ
(
燦珠としては、ひとりで留守番にならなくて良かったいっぽう、霜烈の心中が思い遣られてならない。
祝宴を見られなかった者同士で愚痴でも言い合おうか、とも思うのだけれど、かえって無念さが募るだろうか。霜烈の表情を窺いながら、そっと、唇を尖らせてみる。
「
科挙の合格者を祝う筋書きを、まさに現実の同じ祝宴で演じるのだ。観客であるはずの
「次の科挙は二年後だな。また《
燦珠と同じく外朝の方角を見上げながら、霜烈の言葉はやけに悲観的だ。それは、芝居なんて偉い人や
(良いほうに変わっているかもしれないじゃない……!)
先のことを憂えるよりも、二年間で何ができるかを考えたほうが楽しいはずだ。明るい未来も思い浮かべて欲しくて、燦珠はあえてはしゃいだ声を上げる。
「……二年後には公主役ができるようになってると良いわ!
「そうだな」
少々のわざとらしさには気付かれなかったのか、燦珠のことだから本心から言っていると思われたのか。彼女を見下ろす霜烈の眼差しが、少し笑んだ。
外朝からは、夜風に乗って微かに楽器の調べが聞こえてくる。星を貫くような鋭い
(
同じ時に同輩たちが演じていると思うと、意識がそちらに向かってしまう。せっかく広い練習場を独占できるのに、練習どころではなかった。
首を伸ばすようにして、そわそわと音楽の聞こえる方角を窺って身体を揺らしていると──遠慮がちに、声がかけられる。
「──唄って、みるか?」
「え?」
この場にいるのは、燦珠のほかには霜烈だけ。声の主も考えるまでもない。それでも、いったい何を提案されたのかすぐには分からなくて、燦珠は目を瞬かせた。
「公主役の詞は覚えているであろう。この距離ならば聞こえないし、星晶たちへの非礼にもならぬだろう」
他人の役の
だから、《
「……楊太監も、一緒にってこと!?」
思わず叫ぶと、霜烈はなぜかふいとそっぽを向いて早口に言った。
「無理にとは言わない。私の
大人しくしていろ、と言われたのに従わなかったのを、霜烈は彼の
「ううん! 唄いたい! ぜひ! お願い!」
燦珠が絶句したのは、嬉し過ぎて固まっていたからだというのに。やっぱり止めた、なんて言われないように、食らいつくように身を乗り出すと、霜烈は嬉しそうに微笑んで燦珠の傍らに膝をついた。
「では──」
この場面で先に唄い出すのは、探花のほうだ。皇帝に献上する花を探しに訪れた庭園で、思いがけず秘められた花──公主と出会った驚きと喜びが紡がれる。
我要選摘最美的花 もっとも美しい花を摘むのが我が務め
没想到那就是君女 それが主君の姫君だとはどうして想像できようか
知道必須翻身離開 すぐに顔を背けるべきと分かっていても
但我怎么敢不要你 貴女を求めずにはいられない
喩えようもなく美しい微笑が、耳を蕩かすような美しい声が、心からとしか思えない賛美を伝えてくれる。芳絶との演技で感じたぎこちなさは何だったのかと思うほどだった。霜烈は、やっぱり容姿や声だけでなく演技力も卓越している。
(お姫様がこんな想いを向けられたら──それは、恥じらうわね)
いつかの姸玉の助言が改めて腑に落ちて、燦珠はそっと目を伏せた。
綺麗な顔は正面から見たい、だなんて言っている場合ではない。身分にも関わらず姿を見られてしまったことへの戸惑い、想いにどう応えれば良いか分からないという不安を、出会いの喜びが上回る。それをあからさまに表現するのも怖いけれど──それでも伝えたい。それらの想いが混ざり合って、恥じらいの表現に集約されるのだ。
普段着だからとか、伴奏は微かにしか聞こえないとか、そんなことはどうでも良かった。《
花被選摘給交某人 花とは誰かに摘まれる定め
没法希望自己選摘 相手を自分で選ぶことなんてできないのに
知道必須翻身離開 すぐに顔を背けるべきと分かっていても
但我怎么敢不要你 貴方を求めずにはいられない
燦珠の手が、温かいものに包まれる。霜烈の手だ。顔を見られた羞恥に逃げようとする公主を引き留めて、探花はさらに愛を囁くのだ。古今の詩を引用したうえで、さらに美しく離れがたいと。才子の学識を目の当たりにして公主はいっそう想いを深め、やがて真っ直ぐに向き合うことができるのだ。
(
唄いながら、視線を絡ませては逸らして。取り合った手は、時に逃れようとわなないて、けれど優しく繋ぎ止められて。想いを乗せて
ふたりして作り上げる世界は、この上なく濃密で美しいものだ。誰ひとりとして観客がいなくても、あるいはだからこそ貴重で贅沢な時間。
この一幕を知っているのは、燦珠と霜烈だけなのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます