七章 月鏡、万事を映じて輝く

第1話 燦珠、入れ替わる

 五層の楼閣の最上階は、すでに灯りが点されていた。明婉めいえんを攫った男は、よほど周到に準備をしてきたらしい。窓から差し込む月灯りと相まって、燦珠さんじゅは男が狼狽える様をありありと見ることができた。


 男は、床に投げ出した明婉と、戸口に佇む燦珠を見比べて、呻いた。


「……馬鹿な。妹が余人を寄こさせるはずがない。この娘は間違いなく長公主だ。……お前は何者だ!?」


 男は確かに妹、と言った。では、この男は妹の手引きで後宮に忍び込んだのだろうか。見たところ、男はまだ若い。霜烈そうれつや皇帝と同じくらい──二十代の半ばだと思う。その妹ということは、ほんの少女かもしれない。燦珠の脳裏に、明婉が何かと頼っていた若い侍女の姿が浮かぶけれど──今は、深く考える暇はない。


(お姫様は、これまでたくさん見てきたもの……! 優雅に、淑やかに……!)


 香雪こうせつに、華麟かりん。亡き皇太后。人柄を見習う気にはなれないけれど、とう貴妃きひ仙娥せんがしゅう貴妃鶯佳おうかだって、立ち居振る舞いは一分の隙もなく美しかった。首を傾げる角度、わずかに笑んだ口元──あの方たちを思い出して、のだ。


「あら、わたくしと会ったこともないのにどうして分かるの? その子とわたくしと、着ているものは似たようなものなのに。いつもの格好で来たら、目立ってしょうがないでしょう?」


 深窓の姫君は、簡単に男と会ったりしない。明婉がこの男と会うのは初めてで、その機会を捕えての凶行なのだろう。


(……そうでありますように!)


 顔ではにっこりと微笑みながら、燦珠の背は冷や汗で濡れている。彼女のは、練習後の普段着でしかないのだ。しかも、走ってこの清鑑せいかん殿まで来たから、髪も乱れていることだろう。ただ、明婉のほうも同様に、侍女のような地味な格好をしているのが救いだった。


 男を刺激しないように、燦珠はじりじりと足を進める。主のいない殿舎は掃除も行き届かないのか、降り積もった埃を踏む感触は、新雪の上に足跡を残す時のようだ。まだ意識を失っているのか動く気力がないのか、倒れたまま埃にまみれている明婉が気の毒だった。


(早く、助けて差し上げないと……!)


 できるだけ無造作に、燦珠は明婉を指さした。貴人に対する無礼に躊躇う様子など、絶対に見せてはならない。


「その子は秘華園ひかえん戯子やくしゃよ。仲良くなったから引き受けてもらったの。聞いているでしょう?」


 秘華園で遊びほうけて云々とも、男は漏らしていた。燦珠たちのため、董貴妃仙娥の企みを暴くために明婉が協力してくれたのが、傍からはそう見えていたのだとしたら──戯子やくしゃのひとりとして、責任を取らなければならない。


 燦珠の声は、震えたりはしていなかったはずだった。それでも、男はまだ疑わしそうに、目を細めて彼女を睨んだ。


「そうだとしても。役者のために名乗り出るなどあり得ない。お前こそ偽者だ。時間稼ぎをしようとしているだけだ」


 男の言葉は、燦珠を追い詰めるいっぽうで、まだ希望が持てるものではあった。やはり、この男は明婉と会ったことがないのだ。だから、演技で余地がある──かも、しれない。


(皇太后様に驪珠りじゅだと信じさせるのと、いったいどちらが難しいかしら!?)


 昨年の《偽春ぎしゅんの変》でも、燦珠は難しい大役を与えられた。稀代の花旦むすめやくを、その人を知っている御方の前で演じる、という。今回は、明婉という姫君を直接は男に対しての演技だけれど、でも、人の命がかかっている。


「……まあ良い。ふたりとも黙らせてから、殺す。それなら間違いなかろう」


 ややあって男が下した決断は、ある意味では順当なものではあった。でも、もちろん頷く訳にはいかない。


「その子から離れなさい!」


 明婉に手を伸ばそうとした男に、燦珠は鋭く叫んだ。声で、その手を叩き落とすかのように。うたで鍛えた声で間近に怒鳴られて男が顔を顰めた隙に、床を蹴って明婉との距離を詰める。床に膝をついて、細い身体を抱え込む。


 そうして、明婉を抱き締めながら、今度は燦珠が男を睨め上げる。


「わたくしのお願いで巻き込んでしまったのよ。人違いで害されることなどあってはならない。貴方は──わたくしに言いたいこともあるのでしょうけど! あまり見損なうものではないわ……!」


 これで、ほんの少しだけ前に進むことができた。まだ、男の手の届く範囲ではあるけれど、明婉を確保することができた。


(あとは、目を醒ましていただければ……!)


 と、燦珠の願いが天に通じたのかのように、腕の中の温もりが身動みじろぎした。


「ん……ここ、は──?」


 弱々しく辺りを見渡し、か細く呟いた明婉の目が、燦珠を認めて大きく見開かれた。うっかり名前を呼ばれたり悲鳴を上げられたりする前に、燦珠は慌ててを紡ぐ。


怖い思いをさせてしまってごめんなさい、。こっそり後をつけてきて良かったわ。こんなことになるとは思わなくて……!」


 長公主の目を真っ直ぐに見つめて、細い身体をぎゅっと抱き締めて。言い聞かせるのは、、ということだった。聡明な方だから、これで役どころを分かっていただけるととても助かる。今、このの上では、燦珠こそが長公主で、明婉は主の我が儘で巻き込まれた可哀想な戯子やくしゃなのだ。


「わたくしに任せて。必ず、無事に帰してあげるから」


 それでも、燦珠の言葉は心からのものだった。明婉も、小さく、けれどはっきりと頷いてくれた。だから燦珠は一瞬、安心しかけたのだけれど──


「あ、の……貴方は、会試かいしに残られた才子さいしだと窺いました。殿試でんしに残れば、おに──皇帝陛下とお会いする機会もあるはずです。どうかこのようなことは止めてください……!」


 明婉は、声も身体も震わせて、男に訴え始めた。ぎりぎりで──本当にぎりぎりで、「長公主に命じられた戯子やくしゃ」の体裁は保っているけれど、これでは男の注意がこの御方に向いてしまう。


(どうして喋るのよおおお!?)


 口に出して叫ぶ訳にもいかなくて、燦珠は内心で頭を抱え、頬を引き攣らせた。


      * * *


 清鑑せいかん殿へ急ぐ翔雲しょううんたちの道を、暗闇からぱらぱらと現れた宦官たちが塞いだ。


「あ、あの──今宵は人を通さぬよう、董貴妃様からの仰せでございますが。これは、一体……?」

「何だと……?」


 翔雲たちの一行は、いまや松明たいまつを掲げた宮衛きゅうえいの宦官も引き連れた大規模なものになっていた。地にひれ伏す者たちも、炎に浮かび上がる龍袍りゅうほうが意味する、彼の正体には気付いただろう。

 皇帝に直言する非礼に震える彼らは、恐らく多くを知らされてはいない。直接の主の命に背いては、それはそれで咎められるからこうするしかないのだろう。彼らを問い詰めることの無為は承知の上で、それでも翔雲は目を剥いて叫ばずにはいられなかった。


「董貴妃が、このことを把握していたのか!? 志耀しようを引き入れたのはあの者なのか!?」


 厳に身を慎むべき立場の者が、いったい何をしているのか──疑問に答えたのは、ひどく取り乱して上擦った女の声だった。


「わ、わたくしは陛下や皇父こうふ殿下に申し上げようとしておりました! 今も、渾天こんてん宮に参じたところ、こちらにお出でだと聞かされて──まさか、これほど早くお気づきとは……」


 翔雲の前に跪いた董貴妃仙娥は、確かに急いで駆けつけはしたのだろう。髪は乱れ、春も早い時期だというのに額には汗が滲んでいるのが見て取れる。呼吸の粗さからして、彼ら同様、轎子こしを調える余裕さえなかったのかもしれない。だが無論、翔雲がその姿に哀れみを感じることはない。


「そなたも逆恨みで明婉を狙ったか? 自ら打ち明けたとて、罪を重ねた者が酌量されると思うのか!?」

「そのような──わたくしは、長公主様のためにこそ……!」

「罪人の言い訳を聞く暇はない。捕えておけ」


 宮衛きゅうえいの宦官に両腕を掴まれた仙娥は、何か訳の分からないことを甲高く喚いていた。時間を無駄にさせられた、と。まだ平伏する宦官たちを睨め下ろせば、皇帝の勘気を察してか転がるように道を開ける。──だが、翔雲が再び足を踏み出す前に、今度は軽やかな足音が背後から聞こえてきた。


よう太監たいかんはこちらにおいでですか!?」


 夜空に響く声は、仙娥のそれと違って涼やかで聞き取りやすい。翔雲が引き連れた宦官たちを掻き分けるようにして彼の前に進み出たのは、戯子やくしゃしん星晶せいしょうさい喜燕きえんだった。平伏した少女たちの背に、呼ばれた霜烈そうれつは困惑の眼差しを向けた。


「今は危急の時。陛下をお引止めする訳には行かぬ。後にしておくれ」

「分かっておりますので、端的に申し上げます」


 言ったことを即座に無視されて、霜烈は整った眉を軽く顰めた。だが、叱責の言葉が紡がれる前に、少女たちは代わる代わる訴える。


「燦珠が、清鑑せいかん殿に向かいました。あの子の翠牡丹ツイムータンを取りに来いと、手紙で呼び出されて」

「皆様、清鑑せいかん殿を目指していらっしゃるとお見受けしましたので、お伝えすべきと判断いたしました」


 霜烈の眉がいっそう寄った。またあの娘か、との思いはたぶん翔雲とも一致している。だが──もしも燦珠が明婉の傍にいてくれるなら、一抹の希望ではあるかもしれない。


「……よく伝えてくれた。暗い中だから、気を付けて帰れ。そうだ、護衛に宦官をつける」

「恐れ入ります」


 わずかに安堵の息を吐いてからの翔雲の言葉に、少女たちは大人しく恐縮してみせた。もしかしたら、同行して友人の無事を確かめたかったのかもしれないが、食い下がって時間を浪費することを恐れたのだろう。


 少女たちを帰らせた後はもはや妨げられることなく、翔雲たちは夜の道を進み──そして、清鑑せいかん殿の門に辿り着いた。本来ならば閉ざされているはずの門扉はわずかに開き、さらには翡翠で牡丹をかたどった細工がその隙間に置かれている。


「……よほどのことが起きたと存じます。梨燦珠が翠牡丹ツイムータンを放り出すのですから」


 翠牡丹ツイムータンを拾い上げて呟いた霜烈の言葉に、翔雲としても異論はない。


「明婉も花志耀もこの中にいよう。皆、心して進め」


 従えた者たちに低く命じてから──翔雲は門扉を押し開け、清鑑せいかん殿の中へ足を踏み入れた。

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