第6話 燦珠、尾行する
(ほら、もしも何かあっても見つかりにくいかもしれないし!)
(……でも、
周囲の様子に気を配りながら進むうち、やがて、月とも星とも違う煌めきが木々の間に見えた。
(だからこの辺、だよね……?)
「あった!」
門を守るように左右に配置された獅子の彫刻、その片方の足もとに、見慣れた翡翠の艶が見えた。大切に、掌で包み込むように拾い上げれば、燦珠の手にとてもよく馴染む。明るいところで見ないと断言できないけれど、彼女の
(良かった! 後は、早く帰らないと……?)
「あれ……?」
たとえ闇の中でひとりきりでも、
(
燦珠は、耳には自信がある。
(秘密の恋人がいたってこと? 《
そんなことはあり得ないと、燦珠だって思っていたし、同じく深窓の姫君である
「きゃ──?」
(人を呼んでる……暇は、ないわね!)
長公主に
(私が、中にいるって分かるようにしないとね)
それでも、駆け出す前に、
空き家のはずなのになぜか封が壊されていた門を抜けて、燦珠は
「私と梅馨の父は
ここでも、門扉は完全に閉ざされていなかった。だから、中庭の様子を覗き見ることができる。手入れされていない草が敷石を押しのけて生い茂り、月光と、中のふたりが携えていたらしい灯りが、塵と埃にくすんだ風情の
「我らの無念を、
声を立てぬよう、掌で口を塞ぎながら。燦珠は漏れ聞こえたことを理解しようと必死に頭を働かせた。
(
無念とやらの内容は、想像がつく。華麟から聞いた先帝の皇子たちの末路はいずれも悲惨なものだった。父君が生きてさえいれば、帝位に就いていたのは自分だったのに、とかそんなことを言いたいのだろう。帝位を巡っての企みごとの陰惨なこと、燦珠も《
(でも、長公主様には関係ないわ!)
大声で怒鳴りつけてやりたかったのを、燦珠は自分の手に噛みついて堪えた。彼女が飛び出したところで、小娘ひとりではあの男が明婉を害することを止められそうにない。
(長公主様を、どこに連れて行く気よ……!)
暗い色の
(どこかで、もっと近づければ……!)
足音を殺して、燦珠は男の後を追った。せめて、明婉だけでも逃がせる機会を見つけられれば、と思うけれど、先ほどの悲鳴から少女の声は聞こえない。声も出せないほど怯えているのか、気を失ってしまっているなら話はもっと難しくなる。
「
ぐったりとした明婉を見下ろして、男は機嫌良く語り掛けている。浮かれているようで憎悪と嘲りが篭った声は、離れたところから聞くだけでも気分が悪くなりそうだった。でも、男の意図を探る手掛かりになるかもしれないから、燦珠は粟立つ肌を宥めて、必死に耳に神経を集中する。
「夜、ひとりで男を訪ねるなどと、はしたない真似をなさるからです。そこまでして
と、姫君には似つかわしくない単語を拾って、燦珠は一瞬だけ足を止めた。
(
皇帝の妹君が科挙の問題を欲しがる理由も、この男から受け取ろうとしていたらしい経緯も分からない。ただ──《
『燦珠。貴女は自分でここまでの道を拓いたのね……?』
『女の身でも、できるということよ。……わたくしも、見習わないと』
『もう少しで諦めるところだったの。でも、やってみなくては』
何かを隠していらっしゃるのだろう、とは思っていた。どうやら科挙に関わることではないか、とも。兄君の皇帝は、状元と結婚させられるのが嫌なのでは、と考えていたけれど、そうではなくて──もっと単純なことだったのかもしれない。
(そうよ。《
あの時の芝居は、公主役の
(長公主様。だから……?)
男装してみたいのかと、
燦珠が考えを巡らせる間に、男は明婉を抱えて楼閣に入った。閉ざされていたはずの殿舎を迷いなく進む足取りは、よほど綿密に調べたか、後宮に内通者がいるからかもしれない。後をつける燦珠の存在にはまだ気付かずに、階段を上っていくのは──明婉を
(そんなこと、させないんだから……!)
心に強く念じながら、燦珠も階段に足を掛ける。明婉だって、自分の力で道を切り拓こうとしていたのだ。その道を、志半ばで途絶えさせてなるものか。怒りと不安と緊張に、心臓は痛いほど高鳴っている。必死に考えているから、頭も痛いし目眩もしそうだ。でも──やらなくては。
燦珠が
「その子を解放してちょうだい。貴方は人違いをしています」
それでも、燦珠は役者なのだ。舞台に上がれば、肚も据わる。役になり切ることができる。
「お前──いったい、いつから……!?」
尾行されていたことに初めて気付いたのだろう、明婉を放り出し、驚愕の表情も露に身構える男に、燦珠はここ一番の
「長公主たるもの、簡単に姿を見せると思って? 代役を立てていたのよ。──わたくしこそが、本物の
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