第2話 燦珠、月に向かって飛ぶ

「このようなことは止めてください。を解放して差し上げてください!」


 燦珠さんじゅが目を剥いているのにも構わず、明婉めいえんは彼女の腕をしっかりと握り締めて縋りながら、男に訴えた。《女駙馬ニューフーマ》で教えた発声を思い出してくださったのかどうか、まだ震えてはいるものの、いつもの儚くか細い調子ではない。


長公主ちょうこうしゅ様の答案を、貴方のものとする──印刷局で紛れ込ませる手はずだったと。つまり、会試かいしに残ったのは志耀しよう、貴方の名ではないですか! ふいにするなんて、もったいない! 長公主様の執り成しがあれば、改めて解答を出すことが叶うかも……!」


 彼女自身が明婉の役を演じるだけではない、明婉戯子やくしゃの燦珠を演じるというを男に納得させなければならなくなってしまった。しかも打ち合わせも一切なしで、互いの台詞に即興で合わせなければならない。一気に話が難しく、ややこしくなった。


 燦珠にとっても、明婉がぶっちゃけた内容についていくのはたいへん神経を削られることだった。


(そ、そうだったんだ……)


 思い詰めた様子の陰で、明婉が企んでいたこと。男の名。長公主──つまり、今は燦珠だ! ──に執り成しができるか否かについて。


 燦珠を助けようとして言ってくださっているのは分かるし、実際、助かるはずではあった。にあたって、情報が多いに越したことはない。ただ──あまりにも大それているし入り組んでいるし、迂闊に言質を与えて良いかも分からない。


、そうでしょう? そのように、お兄様に言ってくださいますね……!?」

「え、ええ」


 だから、突然に台詞を振られて、燦珠は不覚にも口ごもってしまった。姫君の明婉が咄嗟の演技をこなしてくださっているのに、情けない。


(私だって、やってやるわよ……!)


 明婉を抱える腕に力を込めながら、燦珠は次の台詞を紡ぐ。明婉の兄君、皇帝のことを踏まえて、男の言動を思い出せば、言うべきことはおのずと定まった。


は、とても寛大で慈悲深い御方です。貴方が文宗様の血を引いているならなおのこと。近しい血族を、決しておろそかにはなさらないでしょう」


 燦珠としても、心から請け合えることだった。皇帝は、《偽春ぎしゅんの変》の後、霜烈そうれつの命を奪わないでくれた。それどころか、失った身分を埋め合わせるかのように、数々の特権を与えてくれた。


(あの方の立場を脅かすかもしれないと、分かっていらっしゃったでしょうに……!)


 花志耀とかいうらしいこの男がどう思っていようと、あの御方は優しい人だ。非礼を恐れず言うなら、身内に甘い、普通の人でもあるのだろう。先帝の血を引くと語ったのが嘘でないなら、きっと話を聞いてくれる余地はある。──というか、そういうことにしないと、この場を切り抜けられそうにない。


 花志耀がしばし沈黙したのは、ふたりの訴えを吟味してくれているのだと思いたかった。でも、やがて低く嘲る笑い声が彼の唇から漏れて、小娘の言葉などまるで届いていないと突き付けられる。


「長公主だか役者だか知らないが──いや、どちらでも、か? 女とは愚かで浅はかなものだな……!」


 どちらがなのかはもはやどうでも良いのか、花志耀は燦珠と明婉を交互に睨んだ。


「安易に殿試などと口にするな! 会試はおろか、郷試きょうしでさえもどれほどの難関か知らぬのか? 取り巻きにおだてられたのを真に受けて──小娘の答案が、本当に評価されたとでも思ったか? 大方、採点の官に私の出自を知る者がいたのだろう。皇室に配慮して通しただけだ!」


 燦珠の腕の中で、明婉の身体が滑り落ちた。力が抜けて、床にへたり込んだようだ。


「……そんな」


 ぽつりとひび割れた呟きが零れる。命を狙われる恐怖にはまだ抗えても、努力を否定されては耐えられないのだ。燦珠にも、その思いは分かる。


(きっと、私がよう太監たいかんの贔屓で、って言われるようなものだもの)


 俯いて震えて──泣き始めてしまったのかもしれない明婉を抱き締めて、これは良くない、と燦珠は思う。萎れた野の花の風情が哀れなのはもちろんのこと、答案をけなされて落ち込むなんて、長公主だと思われてしまう。ここは、彼女のほうに注意を向けさせなければ。


「わ、わたくしは、わたくしの答案を信じているわ! とても──頑張ったもの……!」

「努力でどうにかなる話ではないのだ」


 とはいえ、科挙の答案のことなど燦珠には何ひとつ分からない。だから、張り上げた声とは裏腹に内容はひどくふんわりとして、花志耀の嘲笑を買ってしまう。小娘を教え諭すのは愉しいのか、歪んだ笑みを浮かべた唇が、滔々と語る。


「内情はどうあれ、会試に残れただけでも奇跡のような僥倖であった。だから、無駄にする訳にはいかぬのだ! 殿試で、興徳こうとく王の世子せいしに対峙するなど考慮に値しない。不確実に過ぎる。あの父子に思い知らせるためには、手が届くところで満足せねば──つまり、お前で!」


 皇帝を狙いたかった、と吐露されて燦珠の心臓が冷える。そして次に、妹君が害されれば皇帝がどれほど悲しむだろう、と考えて震える。それに、何より──この男は、聞き捨てならないことを口にした。


「わたくしは、妥協で狙われたの……!?」

「そうだ。恨むなら玉座を盗んだ父や兄を恨め」


 やっと燦珠だけを相手に定めて、花志耀はにっこりと嗤った。標的を怯えさせ絶望させることができたと思ったなら、勘違いも甚だしい。


「やる前から諦めるなんて、小さな男ね……!」


 鋭く吐き捨てるように罵ると、花志耀は目を丸くした。その間抜けな顔でも収まらなくて、燦珠は憤りを込めて相手を睨んだ。腕の中に抱えた明婉にも、聞こえるように。


「わたくしは、難しいと知っていても挑んだわ。だって、女だてらにの。言い訳をして本当の目的から目を背けるなんて──貴方は役者以下よ!」


 これは、台詞だ。でも、真実のはずだ。燦珠たちの演技を褒めてくれた時の明婉は、あんなにも目を輝かせていたのだから。女でもできる、ということがこの方に一歩を踏み出す勇気を与えたのだと、今なら分かる。明婉は、あの時会試かいしに答案を忍ばせる決意を固めたのだ。


さん──っと、あの、長公主、さま……?」


 かつて自身が述べた言葉だと、気付いたのかどうか。明婉の声は少しだけ張りを取り戻した。身体もしたのは、良いことだけれど──同時に、悪いことも起きる。


「小娘に、何が分かる……!」


 激昂して掴みかかる花志耀の手から逃れるべく、燦珠は明婉を抱えたまま転がった。一応は成功したけれど、階段からは遠ざかってしまった。今や彼女たちは月が輝く窓を背にして抱き合う格好だ。楼閣から降りるには、立ちはだかる男をどうにかしなければならない。


 しかも、幸か不幸か、階下からは人声や松明たいまつの灯りが届き始めている。この大がかりな雰囲気は、燦珠を探してのことではないだろう。長公主の不在が発覚して、皇帝が捜索隊を編成した、とかそういうことではないかと思う。


(早い、けど……!)


 迅速な対応自体は、さすがの手腕だ。でも、この場にいる燦珠と明婉に利するかは分からない。なぜか清鑑せいかん殿の門が開いていることを不審に思ったとして、楼閣の上階に灯りがついていることに気付いてくれるかどうか。気付いたとして、兵なりが踏み込んでくるまでに、どれだけかかるだろう。


 花志耀は、剣呑さと獰猛さを剥き出しにして、燦珠たちに手を伸ばそうとしているのに。


「時間がない。無駄話も終わりだ」

「近づかないで!」


 せめて、地上の者たちに存在を誇示しようと、燦珠は腹の底から声を張り上げた。役者の大声を間近に浴びては、鞭で叩かれたようにも感じただろう、花志耀が顔を顰めて怯んだ。でも、ほんの一瞬だけだ。絞め殺そうというのか、突き落とそうというのか──花志耀と燦珠たちを隔てるのはたったの数歩だけ、こちらには逃げ場なんてない。


(私が先にやられれば……長公主様は、助かるかな!?)


 明婉の番が来る前に、人が上がって来てくれれば。燦珠だって、まだまだ唄って踊って、演じたかったけれど。年下のお姫様が生き延びるほうが、きっと正しい。明婉を背に庇って、燦珠が身をもって盾になろうとした時──


「燦珠! そこにいるのか!?」


 地上から、美しく澄んだ声が響いた。焦り、上擦ってはいても、こんな状況でも、瞬時に人の耳を惹きつける──霜烈そうれつの声だ。


「《月翔花ユエシャンフア》だ! 翔向月亮──月に向かって跳べ! 思い切り!」


 秘華園ひかえんの外から届けてくれたうたのことは、もちろんよく覚えている。月に向かって跳べば、愛する人のもとに届くのではないか、という──確かに今も、夜空には月が皓々こうこうと輝いている。


「跳べば、良いのね……?」


 月に目を細めて呟くと、演じるどころではなくなったのだろう、明婉が不安げに囁いた。


「燦珠。あの」

「大丈夫。前にもやったことがあるんです。あの人は助けてくれます」


 でも、燦珠にはもはや不安も恐怖もない。だから心から微笑んで告げることができる。霜烈なら、何とかしてくれるのだろう。


「……分かったわ」


 確信が伝わったのか、明婉の震えが止まり、細い首が小さく頷く。それを確かめて、燦珠はお姫様の白く細い手を握った。


「一、二、三で跳びましょう。はい! 一、二──」

「え、ええ」


 彼女たちの動きを察した花志耀が、前のめりになって迫って来る。でも、もう遅い。手を取り合ったまま、燦珠と明婉は助走を始めている。


「──三!」


 叫ぶと同時に、燦珠たちは思い切り窓枠を蹴って宙に跳び出した。花志耀の手が、虚しく空を掴む気配だけが背中に伝わる。目に映るのはどこまでも暗い夜空と、そこに散らばる星──そして、鏡のように丸く、欠けることなく輝く月。跳んで、飛んで、空を翔けて。本当に月に跳び込むことができそうな気がした。

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