六章 怨讐の花、開きて毒を撒く

第1話 皇帝、糾弾される

 外朝がいちょう濤佳とうか殿にて政務を執る翔雲しょううんは上機嫌だった。時刻は午後を過ぎ、間もなく後宮に戻って香雪こうせつと語らうことができるから──だけではない。


 科挙の会試かいしはつつがなく行われ、とう家の疑わしい受験者も締め出すことができた。父は不満げではあったが、これで妹を利権ありきの相手に嫁がせずに済む。正当に採点した進士しんしの中に、明婉と釣り合う年回りの者がいれば良し、たとえ今回はいなくても、いずれ優秀な若者を選んでやれば良い。


(調査が進めば、父上もとう貴妃きひを廃するのに納得してくださるはず。これで後宮も穏やかになろう)


 推した者が実は不正を犯していたとなれば、さすがに父も小言を控えてくださるだろう。香雪への寵愛も、霜烈そうれつの重用も、秘華園ひかえん戯子やくしゃを外朝で用いることも。……まあ、完全に黙ってはくれないかもしれないが、なだめやすくはなるはずだ。


(そろそろ、有望な答案も上がって来るころか)


 会試の答案は、一連の調査によってかえって不正の余地がないと確認された印刷局にて複写されている。採点を担当する官たちは、合格に値する答案を拾い上げて翔雲のもとに届けてくれることだろう。皇帝臨席の最終試験、殿試でんしに備えて、これぞという受験者の名前は覚えておきたいところだった。


 筆の運びも軽やかに、奏上一通の処理を終えた時──だが、翔雲の手元に影が差した。顔を上げれば、緋色のほうを纏った首輔さいしょうが跪いていた。その背後に、転がるように追いかけてきた宦官が平伏するのを見れば、あるべき手順を略して駆けつけたように見える。


「陛下──至急のご報告がございます」

「……何ごとだ」


 この者も、会試の採点に当たっていたひとりである。そして、この硬い声は良い報せとは思えない。事実、無駄を省いて端的に応えた首輔さいしょうの言葉は、翔雲の胸を刺した。


「会試の答案に、陛下を誹謗ひぼうするものがございました」


 衝撃と怒りを呑み込むためにひと呼吸置いてから、翔雲は寛大な皇帝として、あるべき反応をした。


「……まずは内容を見せよ。罰を恐れず直言する硬骨こうこつの士ではないのか。正当な批判であれば、ちんは甘受する」


 先帝の治世は、官や民の信や忠誠を得られるものでは決してなかった。継いだばかりの翔雲も同様の目で見られても、おかしくはないのだ。


(予想できたことのはずだ。いちいち咎めるのは狭量というもの……!)


 首輔さいしょうが小さく頷いたのを見れば、彼の応えは意に適っていたようだった。父に対する時とは別の意味で、この厳格かつ老獪な高官の相手をするのには緊張を強いられる。


「御目に入れるべきほどの内容はございませぬ。ただ……その、受験者の名を、お知らせせぬ訳には行かぬと存じましたので」


 珍しく言い淀む気配を見せた首輔さいしょうに、翔雲は眉を寄せた。せっかくくんとしての覚悟を見せたというのに、誹謗の内容とやらはどうでも良いと言いたげに見える。


(内容よりも書いた者が問題だと? だが、なぜ名が分かったのだ)


 受験者の名が分かるのは、採点が終わった後のはず。まだ着手したばかりの段階では、記名の欄は固くのりで封じられたままのはずだ。


「臣の独断で糊名こめいを剥がしました。落第確定の答案でございましたから採点には影響ございません」


 父とのいさかいを思い出して、翔雲の表情は険しくなっていたのだろう。首輔さいしょうは、この点については即座に説明を加える。


「それに──これほどの不敬な放言、あまりにも不審ゆえ、あらためぬことこそ罰に値すると判断いたしました。……臣が読み上げるには憚りがありますゆえ、御自おんみずらお確かめくださいますように」


 言いながら、首輔さいしょうは膝で進み、翔雲に一幅の書簡を手渡した。


(なるほど、内容以前に形式の不備にあたるのか……)


 一瞥いちべつしただけで、科挙において厳守を求められる書式が整っていないのが分かる。韻はもちろん、貴人への敬意を表す擡頭たいとう避諱ひきも無視した──確かに非礼と不遜を極めた書ではある。首輔さいしょうが読みたがらないのも当然であった。


 紙面をたぐる間に目に入った簒奪さんだつ、の字に唇を噛みつつ──翔雲は答案の冒頭に辿り着く。祖父の代からの出自と、受験者の姓名を記す欄だ。首輔さいしょうの顔色からして、よほどの高官か貴顕の縁者だろうとは、想像がついていたが──


「は……?」


 その文字の並びを見た翔雲は、思わず間の抜けた声を漏らしていた。何度見ても、その荘重かつ尊貴な文字の並びは変わらない。


 受験者本人の名は、志耀しよう。庶人である。これは良い。科挙とは万人に門戸を開いているものなのだから。問題は、父祖の欄だ。


 祖父は、先帝文宗ぶんそう。父は、その子慶煕けいき淳鵬じゅんほう。貴顕も貴顕、紛うことなき皇族の一員だ。それも、かなり帝位に近い。──無論、花志耀なる者の主張が正しければ、ということになるが。


 疑問と混乱に満ちた翔雲の眼差しを受けて、首輔さいしょうが口を開く。


慶煕けいき王殿下は、確かに文宗様の第三子でいらっしゃいました」

「知っている。が、御子はいらっしゃらなかったのではないのか。いや、姫君が西域に嫁がれたのだったか? だが、少なくとも、男児はいないはず。そして、なぜ花姓なのだ?」


 先帝に男の孫がいたなら、その者に帝位が回っていたはずだ。さらには、栄和国の皇室の姓は「花」では


(糾弾のために僭称せんしょうしたのか? あるいは、落胤らくいんがいたということか? ならば、俺は──)


 首輔さいしょうが現れた理由は、今や明らかだった。この、皇族をどう処理すべきか、というものだ。急ぎ、かつ慎重に扱う必要があるのは、容易に理解できる。《偽春ぎしゅんの変》の記憶もまだ新しいというのに、翔雲の帝位の正統性を脅かす存在が名乗り出たのだから。


「それは──」

「なぜわしを通さず直に翔雲の耳に入れた。僭越であるぞ」


 翔雲の問いに応じようとした首輔さいしょうの声は、厳しく険しい叱責によって遮られた。文官の長に対しても遠慮なく叱りつけるその声の主は──翔雲の父、興徳こうとく王だ。

 老齢の身で走って駆けつけたのだろうか、息は弾み、肩は大きく上下している。だが、息子を教導せねば、の一心だろう、声にも言葉にも揺るぎはなく、堂々としたものだった。


花氏かしは淳鵬のしょうであった。かの者の死に際して、難を逃れるために皇室から除籍されておったのだ。さすがに国姓こくせいを名乗るほどの忘恩ではなかったか」

「父上……お耳が早くていらっしゃいますな」


 首輔さいしょうの小さな溜息を聞きながら、翔雲は急いで対処すべき理由がもうひとつあったのにようやく気付いた。


(父上のお耳に入れば……それは、面倒なことになるな……)


父の手に握りしめられているのは、翔雲の手にあるものと同じ答案に違いない。印刷したものか手書きでの複写かは知らないが、採点官の中に皇父こうふに注進する者がいたのだろう。事実、父は額を押さえる翔雲の目前に大股で進み出ると、得意げに胸を張った。隠し事をしようとした子を見つけた時の表情だ。


「花志耀は、母ともどもわしが後見していたのだ。外朝にもそれを弁えている官がいたということだ。首輔さいしょうは、知った上で無視したようだが」

「父上にとっては……甥の子にあたりますか。近しい親族を皇室から追い出しておきながら、後見と強弁なさいますか」


 首輔さいしょうを睨め下ろしての父の当てこすりには構わず、翔雲は声を尖らせた。父は、花志耀なる者の出自を明快に解説してはくれたが、彼の胸に新たな疑問──というよりは疑惑を呼び起こしていた。


慶煕けいき王殿下は、先帝に背いて死を賜ったようなもの。ご存命であれば、官の推挙を受けていたのでは……?)


 慶煕けいき王は、先帝への呪詛の疑いを心外として自害したと聞く。すなわち先帝にとって耳の痛いことを言った、ということに相違ない。悲劇的な最期を遂げた皇子の子もまた、世間の支持を集めてもおかしくなかっただろう。後見と言いつつ、父は我が子の邪魔になり得る存在を手元で監視していたのではないだろうか。


「庶人に落とさねばとても引き取れぬ。大兄たいけいは我が子にすら容赦しなかったのだぞ。それほどの危険を冒せるものか……!」

「ごもっともです」


 翔雲の相槌に、納得の色が欠片もなかったのは聞こえてしまっただろう。理不尽な非難だったのか、あるいは後ろめたさを暴かれたのか──いずれにしても、父の頬に朱が上った。


「実父の淳鵬も納得の上でのことだ。不自由はさせていなかったというのに、このような──」


 父は、まだ何か弁明なり憤りなりを並べようとしていたのかもしれない。だが、翔雲は聞きたくはなかった。この短い間に、父に幻滅する場面が多すぎた。これ以上はもうたくさんだ、という気分だった。


よう太監たいかんを、ここへ。あの者の意見が聞きたい」


 声高く命じると、控えた宦官が小走りに動くのとほぼ同時に父が不満の声を上げた。


「待て。なぜ宦官風情に意見を仰ぐ。なんじは、あの宦官にまだ執心しておるのか!?」

「父上はその者を殺せと仰るでしょう。だが、聞けば不満を抱くのも道理。私は、諫言を退ける暗君にはなりたくはありません。何か──策がないか、関りがない者にはどう見えるかを、知りたいのです」


 父と首輔さいしょうとを等しく睨みながら、翔雲は宣言した。父の介入を面倒がっただけで、首輔さいしょうも似たようなことを進言してくるのは分かっている。恐らくは、それが賢いやり方だということも、理解できる。だが──


(前回の偽物とは話が違う。正真正銘の、血族ではないか! 我が子を手にかけた、先帝の同類に堕ちる気はないぞ!)


 自身よりも帝位に近い者を始末する──その考えへの不安と恐怖は、昨年の変の締めくくりに霜烈そうれつによって味わわされた。

 だから、あの者に頼ろうと思いついたのだ。関りがない者、などというのは真っ赤な嘘で、霜烈にとっては兄の子の話なのだから。


(死なせたくは、ないだろう……!?)


 何か良い案を出してくれるのではないか、と。藁にも縋りたい思いだった。

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