六章 怨讐の花、開きて毒を撒く
第1話 皇帝、糾弾される
科挙の
(調査が進めば、父上も
推した者が実は不正を犯していたとなれば、さすがに父も小言を控えてくださるだろう。香雪への寵愛も、
(そろそろ、有望な答案も上がって来るころか)
会試の答案は、一連の調査によってかえって不正の余地がないと確認された印刷局にて複写されている。採点を担当する官たちは、合格に値する答案を拾い上げて翔雲のもとに届けてくれることだろう。皇帝臨席の最終試験、
筆の運びも軽やかに、奏上一通の処理を終えた時──だが、翔雲の手元に影が差した。顔を上げれば、緋色の
「陛下──至急のご報告がございます」
「……何ごとだ」
この者も、会試の採点に当たっていたひとりである。そして、この硬い声は良い報せとは思えない。事実、無駄を省いて端的に応えた
「会試の答案に、陛下を
衝撃と怒りを呑み込むためにひと呼吸置いてから、翔雲は寛大な皇帝として、あるべき反応をした。
「……まずは内容を見せよ。罰を恐れず直言する
先帝の治世は、官や民の信や忠誠を得られるものでは決してなかった。継いだばかりの翔雲も同様の目で見られても、おかしくはないのだ。
(予想できたことのはずだ。いちいち咎めるのは狭量というもの……!)
「御目に入れるべきほどの内容はございませぬ。ただ……その、受験者の名を、お知らせせぬ訳には行かぬと存じましたので」
珍しく言い淀む気配を見せた
(内容よりも書いた者が問題だと? だが、なぜ名が分かったのだ)
受験者の名が分かるのは、採点が終わった後のはず。まだ着手したばかりの段階では、記名の欄は固く
「臣の独断で
父との
「それに──これほどの不敬な放言、あまりにも不審ゆえ、
言いながら、
(なるほど、内容以前に形式の不備にあたるのか……)
紙面をたぐる間に目に入った
「は……?」
その文字の並びを見た翔雲は、思わず間の抜けた声を漏らしていた。何度見ても、その荘重かつ尊貴な文字の並びは変わらない。
受験者本人の名は、
祖父は、先帝
疑問と混乱に満ちた翔雲の眼差しを受けて、
「
「知っている。が、御子はいらっしゃらなかったのではないのか。いや、姫君が西域に嫁がれたのだったか? だが、少なくとも、男児はいないはず。そして、なぜ花姓なのだ?」
先帝に男の孫がいたなら、その者に帝位が回っていたはずだ。さらには、栄和国の皇室の姓は「花」ではない。
(糾弾のために
「それは──」
「なぜ
翔雲の問いに応じようとした
老齢の身で走って駆けつけたのだろうか、息は弾み、肩は大きく上下している。だが、息子を教導せねば、の一心だろう、声にも言葉にも揺るぎはなく、堂々としたものだった。
「
「父上……お耳が早くていらっしゃいますな」
(父上のお耳に入れば……それは、面倒なことになるな……)
父の手に握りしめられているのは、翔雲の手にあるものと同じ答案に違いない。印刷したものか手書きでの複写かは知らないが、採点官の中に
「花志耀は、母ともども
「父上にとっては……甥の子にあたりますか。近しい親族を皇室から追い出しておきながら、後見と強弁なさいますか」
(
「庶人に落とさねばとても引き取れぬ。
「ごもっともです」
翔雲の相槌に、納得の色が欠片もなかったのは聞こえてしまっただろう。理不尽な非難だったのか、あるいは後ろめたさを暴かれたのか──いずれにしても、父の頬に朱が上った。
「実父の淳鵬も納得の上でのことだ。不自由はさせていなかったというのに、このような──」
父は、まだ何か弁明なり憤りなりを並べようとしていたのかもしれない。だが、翔雲は聞きたくはなかった。この短い間に、父に幻滅する場面が多すぎた。これ以上はもうたくさんだ、という気分だった。
「
声高く命じると、控えた宦官が小走りに動くのとほぼ同時に父が不満の声を上げた。
「待て。なぜ宦官風情に意見を仰ぐ。
「父上はその者を殺せと仰るでしょう。だが、聞けば不満を抱くのも道理。私は、諫言を退ける暗君にはなりたくはありません。何か──策がないか、関りがない者にはどう見えるかを、知りたいのです」
父と
(前回の偽物とは話が違う。正真正銘の、血族ではないか! 我が子を手にかけた、先帝の同類に堕ちる気はないぞ!)
自身よりも帝位に近い者を始末する──その考えへの不安と恐怖は、昨年の変の締めくくりに
だから、あの者に頼ろうと思いついたのだ。関りがない者、などというのは真っ赤な嘘で、霜烈にとっては兄の子の話なのだから。
(死なせたくは、ないだろう……!?)
何か良い案を出してくれるのではないか、と。藁にも縋りたい思いだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます