第7話 貴妃、憔悴する
(終わった。終わってしまう。わたくしも、
今日は科挙の二次試験である
仙娥の甥は、その中のひとりであるはずだった。最終試験──皇帝臨席の
興徳王は有力な
(どうして、こんなことになっているの……!?)
後宮のすぐ外、
あの日──仙娥が長公主
『董
『そのようなはずはございません。何か──誰かの陰謀でしょう』
その時の仙娥は、心の底から陥れられたのだと信じていた。長公主や貴妃たちどころか、皇帝までもが悪意を持って彼女に罪を押し付けようとしているのだと。周囲の誰もが一斉に彼女を責め立てて辱めるなんて、それ以外に考えられなかった。
そう──
『行末の字を拾うと、董建徳の姓名が読み取れるようになっていた。採点の官に、誰の答案かを示そうとしたのではないかと考えられる』
『偶然でございます。絶対にあり得ないこととは断じられません』
『万が一にも満たぬ可能性であろうが、慎重になるべきではあろうな』
仙娥の抗弁は、彼女自身でも苦しいものだと分かっていた。応じる皇帝も、うんざりとした声音を隠さなかった。でも、仙娥だってその時初めて知ったことだったのだ。実家からは、甥の及第は間違いないから興徳王に売り込むように、としか聞いていなかった。
それは、明婉に釣り合う若さでの及第は、非常に難しいとは承知していたけれど。だから──何かあるかもしれないとは、漠然とは思っていた、だろうか。いや、でも、露見した時のことなんて考える必要があるとは思わないではないか。興徳王の口振りは、甥を駙馬として認めていたも同然だった。
衣擦れの音が、皇帝が顔を巡らし、その場の者すべてに声を聞かせようとしたのだと教えていた。実家の不正を、わざわざほかの者たちにも伝えようというのだ。やはり、彼女を辱めようという意図に違いなかった。
『本人の筆跡と照合させるし、採点に当たった官と董家の関りも調査せねば。無論、一日や二日で終わることではないから、董建徳の今回の会試の受験は禁じることとする』
『そんな──』
『疑いが残る状況での及第など、本人も望まぬであろう。父上の御目に留まる詩文の才があるのだから、次の機会にて万全を期せば良い』
次の機会などないと、皇帝は言外に告げていた。調査の結果、不正が確定すれば、董家は当然罪を問われる。そうでなくても、ここまで皇帝に悪印象を持たれては、及第させてもらえるはずがない。
彼女はまだ貴妃として
(あれくらいのことで……!)
仙娥を
(陛下は、梨燦珠の言葉にも耳を傾けるかしら。
恐ろしい可能性に気付いて、仙娥は震えた。冬の寒さはすでに過ぎ去っているはずなのに、氷を肌に押し当てられたよう。でも、すぐに嫌な汗が噴き出してくる。
先帝は、
『燦珠が教えてくれました』
あの茶番で仙娥を追い詰めたのは、梨燦珠の差し金だったのだ。疑いを受けている身でありながら、同輩を扇動して長公主を利用したのだ。
「許せないわ……!」
「あ、あの仙娥様」
声高く叫んだ瞬間──おずおずと呼び掛けられて、仙娥は跪く侍女を睨め下ろした。
「何なの!?」
事態を知った侍女たちは、おろおろとするばかりで使い物にならない。口を開けば、これからどうなるのかと自身を案じる言葉ばかり強請ろうとして図々しい。くだらないことで彼女を煩わせようというなら容赦しない、と──語気荒く問い質すと、その侍女は悲鳴のような声で訴えた。
「長公主様から、遣いがおいででございます」
* * *
それでも、侍女は侍女で、小娘に過ぎない。なのに、梅馨は仙娥の顔を見るなりくすりと笑った。
「ひどい顔色ですね、董貴妃」
「……長公主様が、わたくしに何の御用でしょうか」
貴人に繋がる者が、主の威を借りるのはよくあることだ。特に今の仙娥は、縋れるならどんな相手にも喜んでひれ伏すだろう。でも、あからさまに嘲られる非礼に丁重に応えるには、かなりの忍耐が必要だった。彼女が奥歯を噛み締めたのには気付いたのかどうか、梅馨はにこやかに続ける。
「明婉様は、貴女の手腕に感心していらっしゃいます。
素直な称賛だと受け取るには、梅馨の言葉には棘があった。
「何がおっしゃりたいのでしょうか」
この期に及んで、董家に降嫁したい、だなんて言い出すはずがない。だいたい、長公主に
「董家の力を見込んで、明婉様のたっての願いごとがあります。首尾良くいけば、陛下や皇父殿下への執り成しもあるはず」
──いや、皇帝もその父も、妹や娘には甘い、だろうか。兄妹の気の置けないやり取りを思い出して、仙娥は少しだけ警戒を緩める。もちろん、ほんの少しだけ。明婉に嵌められたことを、簡単に忘れることなどできなかった。
「わたくしを頼られる理由が分かりませんわ。長公主様は、
あるいは、あの女たちが抱える
仙娥の探る視線を、梅馨は軽く笑って受け流した。
「貴女の企みを、明婉様はご不快に思っていらっしゃいます。あの方にも、やりたいことがありましたのに、とても邪魔でしたから」
「何ですって……?」
梅馨の口振りは、仙娥の行いを悪事と断じて糾弾しているのとは、また違うようだった。むしろ、声を潜めて顔を寄せる仕草は、共犯者に対するものでは、なんて思ってしまう。
「だから挽回の機会をやろう、ということです。──これを見せれば、信じられるでしょうか。父君様にも兄君様にも言えないことを、明婉様も企んでいらっしゃったのです」
訝しむ仙娥を宥めるように、梅馨は絹に包まれた小さな包みを取り出した。開けば、中からはとろりとした翠の艶が現れる。
「……なんだ。貴女だったの……?」
翡翠の花の精緻な細工を目の当たりにして、仙娥は思わず笑っていた。今、持ち主の手を離れている
(長公主様がやらせていたのね。
これさえなければ、仙娥は香雪を追い落とす企みを巡らせたりはしなかった。少なくとも、今は。何だか分からない貴人の気まぐれによって破滅させられた、という理不尽な想いをまったく抱くことはできない。でも──いっぽうで、確かにこれは何よりの証拠だった。明婉が、見た目通りの内気な姫君ではないということの。
(大人しい顔をして、役者で、しかも策士でもいらっしゃる。父君や兄君に言えない、いったい何を企んでいらっしゃるの?)
なるほど、挽回の機会というのは嘘ではないらしい。このようにあからさまに怪しい命令に従うのは、窮地に陥った者だけだろう。まさに今の仙娥のような。
(……望むところよ。黙って位を剥奪されるよりは、よほど……!)
後ろ暗い願いを叶えてやれば、明婉に大きな貸しを作れる。もしもなかったことにしようとするなら、この弱みで脅してやれる。仙娥と董家にとっては、起死回生の切り札にもなるかもしれない。
仙娥の表情に浮かんだ決意を読み取ったのか、梅馨は嬉しそうに笑みを深めた。
「お陰で面倒なことになったと、お分かりいただけましたか? 今もまだ、これはものの役に立ちません。董家の財と権で、どうにかしてくれますね……?」
「承知したとお伝えください。必ず、ご期待に応えてみせますわ……!」
仙娥の命に従う侍女も宦官もいくらでもいる。
密約の証のように手渡された
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