第2話 皇帝、急行する

 霜烈そうれつが来るまでの間、濤佳とうか殿の執務室には気まずい空気が流れた。翔雲しょううんに着席を進められた父は、それどころではないと断った。そして、皇父こうふを差し置いて腰を下ろす訳にもいかないから、首輔さいしょうもまた立ったままだ。だからといって翔雲まで立とうとは思わないが、結果的に年長のふたりに見下ろされる格好になるのはたいそう居心地が悪かった。


 皇帝であるはずの翔雲の頭上で、父と首輔さいしょうが探り合うようなやり取りを繰り広げている。


志耀しようは、よく郷試きょうしを抜けたものでございますな。皇父こうふ殿下が根回しされていなかったとは意外でございました」

「郷試の段階では花家の系譜を提出したのであろう。それでも気付かれるべきであったし、及第できるだけの答案が出せたのも不可解ではあるが。……わしとて、実力と人品じんぴんを兼ね備えていたなら受験させぬほど狭量ではないぞ!」


 首輔さいしょうが仄めかしたのは、先帝の孫などという存在が受験したのを把握していたなら、父は落第させていただろう、ということだ。父の答えも、試験官からの報告があってしかるべきだと言ったも同然だから、翔雲は暗澹とする。とってつけたように実力不足だったからだ、と主張されても完全に信じることなどできそうにない。


 それに──首輔さいしょうの指摘によって、気付いたこともある。花志耀なる者は、すでに一度答案を提出しているのだ。


(郷試では回答したのか? だが、会試だとて最終試験ではないというのに。都で受験することに意味があったのか? 父君の縁者と会う、とか──それはそれで、父上は反逆扱いにしたがりそうだが)


 違和感を覚えて沈思する翔雲を覗き込んで、父はふと思いついた、という口振りで語り掛けてきた。


「花志耀の郷試の答案も調べねばならぬな? 不正な手段で及第したならば、関わった者も処罰せねば」

「確かに必要なこととは存じます。ですが──それ以前に、なぜ、今になってを提出したのでしょうな。その花なる者は、父上のお見立てでは会試かいしに進めるか危ういのでしょう?」


 手持ち無沙汰の間に、花志耀の糾弾の文は目に入ってしまっている。やはり、傍系の翔雲が帝位を継いだことを簒奪さんだつと呼び、父子揃って玉座を玩具にしていると言いたいようだ。

 地方の官が対処するのは気の毒になるほど、過激な内容ではあるだろう。だが、だからこそ早い段階で出したほうが、都に届くまでに大事になりそうなものなのだが。


 翔雲の指摘をもっともと認めたらしく、首輔さいしょうも首を捻った。


「……半端な時機ではございますな。殿試でんしまで進めば、陛下と対面することさえ可能でしたのに」

「まさか──三十にもならぬ年だぞ。そうそう殿試にまで残れるものか」


 三十にもならぬとう家の若者を状元じょうげんに推そうとしていた本人が、とんでもない、と言いたげに目を剥くのを見て、翔雲は頭を抱えそうになった。が、この場で口にすると父の横槍を首輔さいしょうに教えることになるので耐えた。


 父の言葉は、内容だけならば間違ってはいないから、何も知らぬ首輔さいしょうは頷いた。


「ここまで、と見定めたということならばある意味謙虚ではあるのでしょうか。……となると、皇父こうふ殿下の目を盗んで受験できた時点で、を述べようとするほうが自然、ということになりますか」

「そうだ。ちんが言おうとしていたのが、それだ」


 糾弾したいだけならば、もっと早くに機会があった。彼を害したいのであれば、もっと耐え忍んで機を窺うべきだった。


でなければならない理由があるのか……?)


 皇帝かれや父の怒りを買えば、命に関わる罪に問われかねないのだ。まさか思い付きで、ということもないだろうが。


「……受験者はすでに各々の宿に戻っておりましょう。滞在場所などいちいち申請することでもなし、捕らえるにしろ話を聞くにしろ、花志耀の身柄を押さえるのは難事かもしれませぬな」

いたずらに都を騒がせれば翔雲の威信にも関わる、か……!」


 花志耀の思惑が量り難いのを悟ってだろう、首輔さいしょうは話題を変えて呟いた。父が舌打ちで応じた通り、これもまた厄介なことではあったが──今は、掘り下げて対策を練る時間はないようだった。


「お召しに従って参上いたしました」


 涼やかな美声が、重苦しく張り詰めた空気を華やがせた。次いで、輝くばかりの美貌が夕闇に翳り始めた室内を照らす。後宮から呼び出された霜烈が、ようやく現れたのだ。


      * * *


 傷が癒えてない霜烈もまた、改めて立ったままで話をすることが許された。せめて跪礼きれいを、との主張がれられなかった父は不服げに不貞腐れ、霜烈と初めて対面する首輔さいしょうは、眩い美貌を興味深げに眺めている。実のところ、杖刑じょうけいによるやつれがなければもっと眩いのだが、首輔さいしょうには知られないほうが良い気がする。


(本来は、療養中に余計な心労はかけるべきではないのだろうが……)


 案じながらもことの経緯を説明するするうち、霜烈の痩せた頬はみるみる色を失っていった。くだんの答案に視線を落としたことで、伏せた目蓋に濃い睫毛が揺れ、震える唇からは掠れた声が零れ落ちる。


慶煕けいき王殿下の御子が……この、答案を? 花、志耀なる者が……?」

「そうだ。本来は王にもなるべき者のこと、朕としては断罪するには忍びない。そなたは、先帝の時代の後宮も知っていよう。何か、酌量すべき事情に心当たりはないか?」


 亡き兄の名を不意に、しかもこのような形で突きつけられるのはやはり辛いのだろう。皇父と首輔さいしょうの前で、その意に逆らう言葉を求めるのも横暴ではあろう。


(だが、そなたの力が必要なのだ)


 心苦しさと後ろめたさを感じながらも促すと、霜烈はきつく眉を寄せて瞑目した。苦しげな表情で翔雲たちの息を呑ませたのも一瞬のこと、すぐにその目が見開かれ、夜を裂く刃のような眼差しが、鋭く父を捉える。


「非常の時ゆえ、直言の非礼をお詫び申し上げます。──皇父こうふ殿下は、慶煕けいき王殿下のしょうと御子を庇護されたとのことですが、、花姓の者がおりませんでしたか」

「何を──」


 父が絶句したのは、宦官風情に話しかけられる非礼に怒ったからか、霜烈の眼差しを正面から受け止めてさすがに怯んだからか。あるいは──


(何を言い出すのだ……?)


 霜烈の発言を理解した者は、誰もいなかっただろう。訝しげに顔を見合わせる三者に焦れたように、霜烈は一段と声を張り上げた。


「私はつい先日、後宮で花姓の者に会いました。長公主ちょうこうしゅ様の侍女です。長公主様と同じ年ごろで、花梅馨ばいけいと名乗っておりました。秘華園ひかえんでも常にお傍に控えていたのは、出自ゆえに重用なされたのでしょうか」


 霜烈の声はいついかなる時も耳に心地良く、言葉は明瞭で聞き取りやすい。聞く者を芝居の間に取り込むような不可思議な力は、今も、父に対してさえも発揮された。父は、瞬きしながら、問われるがままに頷いたのだ。


「名は──失念したが。花氏かしには確かに娘もいる。淳鵬じゅんほう……慶煕けいき王に愛されただけのことはある賢婦人ゆえ、我が王府おうふの後宮に女官の席を与えた。娘も……同様である、はずだ」


 父の顔が強張ったのは、言葉を紡ぐうちにその重大さに気付いたからに違いない。翔雲も、もはや座って聞いてなどいられず、椅子を蹴立てて立ち上がる。


「父上……! 明婉めいえんも、侍女の出自など知らぬでしょう! 何も知らぬまま、このような考えを持つ者の妹が傍にいるなど……!」

「む──」


 父は、亡き皇子の息子を警戒はしていても、娘のことはすっかり忘れていたのだ。淳鵬皇子の娘、花志耀の妹とやらは、父も翔雲も目に入れたことくらいはあっただろうに。疑われることなく明婉めいえんに仕えながら、腹の中ではいったい何を考えていたか知れたものではない。


駙馬ふばだの状元じょうげんだのと企んでいる場合ではなかったでしょう! もっと足もとを──」

「陛下。この場で時間を浪費すべきではございません」


 霜烈の強く静かな声には、冷水を浴びせられたような気にさせる力があった。父に、いつまでも怒りと焦りをぶつけそうになっていた翔雲をして、我に返らせるほどの。とはいえ、この者も完全に冷静でいる訳ではないのは、先ほどまで青褪めていた頬が紅潮していることから、分かる。


「花志耀──兄のほうは、陽動ようどうかと存じます。答案が発覚すれば、皇父殿下や陛下の注意を引きつけられるでしょうから。何よりもまず、長公主様のご無事を確認すべきかと……!」

「うむ。朕も後宮に向かう」


 この期に及んでは、身分だの立場を気に懸ける者はいない。執務室を出る翔雲の背を、霜烈や父たちが続く気配が追ってくる。


 濤佳とうか殿を出て後宮に入るころには、辺りは完全に闇に包まれていた。

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