三章 翠華、失せて秘華乱れる
第1話 長公主、震える
皇帝の妹、
「明婉……!」
「お、お兄様──」
妹と直に顔を合わせるのは、即位の礼に際して上京させて以来だった。だからもう一年以上の間が空いている。それでも明婉の可憐さは記憶にある通りで、ひとまずは翔雲を安心させた。
風が吹けば折れそうな華奢さは、おっとりとした風情は、絢爛な牡丹や薔薇というより野の花のもの。地位に相応しく着飾ってなお、威厳よりは儚げな風が勝る。けれど、だからこそいっそう愛しく、守りたいと思わせる──会わないうちに、妹が別人のように変わってしまったということでは、なさそうだった。
「──皆、立ったままで良い。ことの経緯を聞かせて欲しいからな」
駆け寄ってきた妹を抱き留めながら、翔雲は居合わせる
本来は、練習を見に来た
「お兄様はご政務の最中と伺いました。あの──わたくしのせいでお邪魔して、申し訳ございませんでした」
明婉のかすかに震える声は、鈴蘭の花が音を奏でることができたらかくや、という健気さだった。咎める気が起きるはずもなく、翔雲は笑顔で妹を宥めようと試みた。
「大事な妹のことだから、恐縮するには及ばない──だが、
「はい。確かにそのように、この者たちにお願いしました」
「そうか」
不安そうに答えた明婉に、翔雲は笑顔のまま、できるだけ優しく頷いた。詰問にならぬように話をしたいとは思っているのだが──やはり、疑問は尽きなかった。
「そなた、ろくに芝居を見たこともないであろう? 楽も嗜みていどで、特別に好んではいなかったと思うが。どうして突然にそのようなことを?」
「あ、の……それは。燦珠の舞が、とても綺麗でしたから……」
明婉の視線を受けて、燦珠が小さく跳ねた。相変わらず活きの良い娘である。普段の騒がしい印象とは違って、舞う姿も唄う声も優れているのは、翔雲もよく知っていることではあるのだが──
(明婉が秘華園に来て早々に、舞を見る機会があったのか? よりによって梨燦珠だけを?)
翔雲と同じ疑問を読み取ったのだろうか、霜烈も目を細めて燦珠に問い質した。
「長公主様に舞を披露したのか?」
余計なことを、という含みが聞こえたのは気のせいではあるまい。霜烈は、この間に秘華園を
「ううん! ──っと、いいえ。違います!」
その辺りの事情は当然承知しているであろう燦珠も、いつもの溌溂とした表情を強張らせて、懸命に訴えた。
「私は、ひとりで練習をしていただけで。あの、色気がないのでどうしようかと。そうしたら、いつの間にか長公主様がご覧になっていたようで。……それで」
「色気?」
何やら不思議な語が聞こえた気もしたし、霜烈は眉を寄せて首を捻ったが。とりあえず、翔雲は納得した。燦珠がいつでもどこでも舞うのは何も驚くことではない。往来ならともかく、ここは
翔雲は、改めて明婉に向き直ると、その目を覗き込み、両肩に手を乗せて言い聞かせた。
「この者は、幼少から鍛錬を積んでいるのだそうだ。簡単に真似られるものではないぞ?」
「はい。そうだろうと思います。でも、あの、やってみたい、のですが……」
頷きながらも、不安そうに視線を揺るがせながらも、明婉は主張を曲げようとはしなかった。父や兄に逆らうことのない妹にしては珍しいことだ。何より──
(やってみたい者の顔ではないぞ……?)
明婉の頬は強張って、
(……結婚させられたくないがための、口実ではないだろうな?)
妹が嘘を吐く理由に、心当たりがないでもなかったから、それ以上問い詰めることは憚られた。
* * *
よって、彼は彼女たちの困惑の表情をたっぷりと見せつけられることになった。長公主が
「先帝の御代では、公主様や皇子様がた、御子様がたが戯れに
「ああ……そうであろうな」
まさに、歌舞を披露して先帝を喜ばせた筆頭だったであろう霜烈を見ながら、翔雲は苦々しく呟いた。聞けば聞くほど、かつての後宮の風紀の乱れは
「
端整な
「ほかにも懸念はございます」
「何だ」
いかな美声でも、面倒なことを聞かされると分かり切っていれば耳にはざらついて聞こえるようだ。玉のやすりで神経を削られる思いで、翔雲は促した。
「興徳王殿下は、
「ああ……そなたには先ほどはそこまで伝えなかったな」
額を抑え、指先でこめかみを叩きながら、翔雲は考えた。父の器量の狭さのほどを。祝宴で催す芝居の筋書きを、現実と重ねて不快に感じるか否かを。結論は、考えるまでもなく明らかだった。
(……お怒りになるな)
父に逆らい、その怒りを宥める面倒に暗澹としながら、それでも翔雲は首を振った。今回の科挙に関して、父の主張は公正に欠けて受け入れがたい。どうせ断るならば、まとめて否、を突き付けるのが、早い。何といっても、帝位にあるのは彼なのだ。
「……明婉は、今回の科挙の合格者には与えない。父上にはそのように申し上げるし、明婉に望みがあるなら叶えさせる。未婚の娘の戯れで、どうせ後宮の中だけでのこと。叱りつけて禁じることでもない……!」
「御意。心強い仰せでございます」
半ばは自身に言い聞かせるように翔雲が宣言すると、霜烈は恭しく目を伏せて受け止めた。本心から安心したのかは窺い知れないが──今は気に懸けてもしかたない。
「代わりにそなたらに命じる」
「は、はい」
皇帝の視線と言葉を受けて、
「とはいえ、明婉が本心から
「え──長公主様に、ですか」
「年の近い娘のほうが、あれも気安いであろう」
無理を申し付けているのは百も承知で、燦珠が問い返すのを黙殺して、翔雲は言い張った。
「
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