第2話 父子、言い争う

「は──?」


 間の抜けた声を上げて絶句した翔雲しょううんを前に、父、興徳王こうとくおうは笑みを深めて続けた。


「詩と論文を幾つか献じさせたが、なかなかのものであった」


 息子である彼も滅多に見ない上機嫌だと、浮き立つ声の調子で分かる。息子を驚かせたから、だけではないだろう。父は、心から名案を披露しているつもりなのだ。だが、翔雲が同意することなどできそうにない。


「年ごろも、まだ三十にならぬとか。明婉めいえんとの釣り合いも良かろう」

「お待ちください、父上」


 父を遮る非礼は承知で、翔雲は思わず立ち上がった。同じ目線では父に逆らうことなどできそうになかったからだ。何だ、と言いたげに眉を上げた父を見下ろす格好で、どうにか口を動かす。


「その者はまだ郷試きょうしに及第しただけの段階なのでしょう? 会試かいしに、殿試でんしも控えておりますのに、どうして今から状元じょうげんなどと──」

会試かいしの答案は礼部れいぶにて審査するであろう。この後宮の目と鼻の先、皇宮の外城がいじょうで、な。なんじが足を運んだとしてもなんの不思議もない」

「それは、そうですが」


 父の言うことは、ひとつひとつは正しい。翔雲にも、答案の出来を判断するだけの学識はある。自らの目で受験者の答案を見たいという思いも、確かにあった。先帝は芝居に耽溺して最終試験の殿試に出席することさえなかったから、皇帝の熱意を見せるのは官への良い刺激にもなるはず。


(だが……父上は、何と仰った?)


 何かがおかしい、と。眉を寄せる息子を立たせたままで、父は悠然と座っている。無作法も気に留めぬほど機嫌が良いのか、それとも子供の駄々のようなものと見くびられているのか。


「皇帝自らが答案に目を通して状元候補を拾い上げた例を見せれば、世の学徒はますます励もう。今後の科挙にも人材が集まるというものだ」

「答案の名は封がされているはずです。出自によって採点が斟酌しんしゃくされることがないように」

「誰がどのような答案を出したかは公にはならぬ。人が知るのは掲示された合格者の名だけだ」


 とにかく──父の悪びれぬもの言いは、ついに翔雲の漠然とした違和感に形を与えた。

 皇帝の父に取り入った者に、状元と長公主の夫という名誉を与えよ、と命じているのだ。彼の治世における最初の科挙、その主席の合格者を、個人の贔屓で決めようというのだ。翔雲に対してだけでなく、すべての受験者に対する侮辱にほかならない企みだった。


「それは不正というものです! 科挙において、答案以外で合否が決まるなどあってはなりませぬ」


 怒りに任せて腕で宙をぐと、ほうの袖が茶器を倒した。零れた茶を避けて立ち上がった父を間近に睨んで、いっそ懇願するように訴える。


「父上からこのようなことを聞かされるとは不本意極まりないこと。これ以上は何も仰らないでくださいますよう。仮にその者が殿試に進んだとして、予断を持ちたくはありませんからな!」


 公正であれ、清廉であれと彼に命じたのはほかならぬ父なのだ。国を傾け官の心を離れさせた、先帝のてつを踏まぬように、と。こうも堂々と不正を勧めるとは信じがたく受け入れがたい。だが──父のほうこそ、息子の反抗が心外とでも言いたげに目を剥いた。


「汝のためでもあると、言ったであろう! 《偽春ぎしゅんの変》で何も学ばなかったのか。汝の立場は盤石ではない。帝位を狙うのが瑞海王ずいかいおうひとりだなどと、思い違いはしておらぬであろうな」

「無論、わきまえております。帝位に就き得るのが私ひとりではないことも、先帝の風を懐かしむ者が多いことも!」


 昨年の陰謀で味わった衝撃と苦々しさを思い出して、翔雲は渋々ながら頷いた。あの時は、あからさまな偽者の皇子をとして扱おうとする者があまりに多かった。利害や野心によって、真実はいとも容易く捻じ曲げられるのだと思い知らされた。


(だからといって、同様に不正に手を染めて良いはずは──)


 翔雲の内心の不服を読み取ったのだろう、父の眼光の鋭さが増した。


「分かっているようには、見えぬ」


 低く険しい声もまた、言葉で不肖の息子の性根を叩き直そうという気配が窺えた。これまでの人生で骨身に染みた父への畏怖と敬意が、翔雲の気勢を削ぐ。自分こそが正しいと確信していても、つい、言い訳めいたことを口にしてしまう。


「父上のご厚恩も、決して忘れてはおりませぬ。数多いる皇族の中から抜きん出るように育てていただいたこと、常に感謝しております」

「ならばなぜ、秘華園ひかえんを野放しにする? 栄えある進士しんしに与える祝宴に、どうして卑しい戯子やくしゃどもを招き入れるのだ」

「十分な理由があってのことです」


 父から目を逸らす口実として、翔雲は卓上に倒れた茶器を手ずから直した。部屋の隅で恐懼きょうくする体の宦官に目で片付けるように命じながら、頭の中で反論をまとめる。


(秘華園のことがお耳に入っていたか。だからこそのこの当たりの強さ、か?)


 かつての翔雲自身を思えば、そして、先帝の長い御代の間に父が溜めた鬱屈を思えば無理もないことだ。だが、この件に関しては彼には後ろめたいことは何もない。


「秘華園は、私の感情はどうあれ皇帝の所有物です。先帝が長く後宮に隠していた秘宝を外朝がいちょうに披露すれば、列席者はそれこそ名誉に思いましょう。聞けば、従来は礼部れいぶが市井の妓楼ぎろうはかって伶人楽師芸妓げいぎを雇い入れていたとか。そのような関係は、どうせ収賄の温床になるに決まっております。決めたろくを与える戯子やくしゃのほうが、よほど清廉というものです」


 滔々と述べながら──だが、翔雲はふと不安を覚えた。どうして父は遮らぬのか、と。秘華園への擁護も息子の反論も、聞きたいものではないだろうに。父の表情はいまだ冷ややかで納得の欠片も見えず、静かに怒気を溜めているようにさえ思える。


(……まるで泳がされている、ような? まさか……)


 父の沈黙を不気味に思いながらも、翔雲は続けた。


「……今回は遊興ではなく、科挙に連なる公事でございます。妃嬪ひひんたちも争うことなく戯子やくしゃを監督しておりますし──」

「汝が祝宴の余興にそこまで考えを割くとは信じがたいことだ。……いったい誰に吹き込まれた?」

「吹き込まれた、などと──」


 穏やかに、けれど鋭く問われて、気付く。


 彼が今述べたのは、人から聞いたことだった。自分自身の考えであるかのように迷いなく語れたのは、の声があまりにも美しく耳に心地良く、かつ言葉を紡ぐ速さも抑揚も間の取り方も、まことに巧みだったからだ。奏上を聞くというよりは、妙なる楽の調べのように耳も心も吸い寄せられる。そのような美声を操るのは──


「あるいはどこで、と問うべきか。ねやで囁かれたのではあるまいな」

「あり得ませぬ!」


 翔雲の脳裏に浮かびかけた顔と名前は、しかし一段と厳しさを増した父の詰問によって霧消した。彼が閨で語らう相手は香雪こうせつだけ。愛する貴妃きひをあらぬ疑いから守ろうと翔雲も声を荒げた。だが、父の続く声はさらに大きく、怒りと苛立ちに満ちて、落雷のようですらあった。


宦官かんがん鐘鼓司しょうこし太監たいかんに抜擢したと、わしの耳にも届いておるぞ。蟒服ぼうふくを与えて着飾らせて、たいそうな寵愛振りだと!」


 常の翔雲ならば、慌てて弁明の言葉を探していただろう。だが、今は違う。父の怒りに火を注ぎかねないとは分かっていても、溜息が漏れるのを止められない。


「……何を仰っているのですか」


 かなり不躾に聞き返したのは、呆れ返って気が抜けたからだ。だが、父は開き直りとでも思ったのかもしれない。唇がわななきひげが震え、握った拳が振り上げられる。


「汝が後宮の華美に目が眩むことはないであろうと信じていたものを。よりによって宦官などに惑わされるとは情けない……!」

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